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第5章 真実 06

木曜日の午後。あの男は必ず図書館に居た。 毎日そこに来ているのかもしれないが、俺はこの曜日以外に会うことはしなかった。 一種の線引きのつもりだった。 名前も知らなければ会話もしない。 それでも、俺たちは書棚に囲まれた部屋のようなその空間を共有していた。    * * * 3月中旬。 俺はスパニッシュバルのテラス席で、夜風にあたりながらぼうっとカヴァを口に含んでいた。 こんなにのんびりとした時間は久しぶりだった。ようやく、就職先に提出する研究論文の作成が終わり、ここ数ヶ月の疲れがどっと出る。 バルの向かいの川沿いに連なる桜並木は、まだ蕾が多いというのに既にライトアップされていた。ちらほら咲いている花をぼんやりと眺めていると「何、黄昏れてんだよ」と声をかけられる。 「込山(こみやま)」 「お疲れー」 込山は1歳年下だが、大学のバレーサークルで一緒になってから親しくなり、俺が院に進んで、込山が就職してからも、度々二人で会う間柄だった。独りで労いの酒を飲んでもつまらないので、急遽誘ったのだ。 「こんなに早く来るとは思わなかった。直帰?」 「そ、営業帰り。大好きな千尋サンのお誘いなので飛んできましたー。ご馳走になります、センパイ」 「何だよその棒読み。こういう時だけ後輩ヅラすんな」 サングリアを店員に頼みながら、込山が「そういえばさ」と話を切り出す。 「千尋、一ノ瀬と仲良いの?」 「イチノセ?……誰?」 「一ノ瀬結月だよ。え、お前ら知り合いじゃなかったの?」 「は?」 「この前、本借りに行った時に見かけたんだよね。お前らが一緒のとこ。あんな所に二人だけで居るから、てっきり……」 あいつ、「イチノセユヅキ」って言うのか。思いがけず本名を知ってしまった。それにしても、だいぶ中性的な名前だ。まぁ、いかにも男っていう感じよりは、雰囲気に合っているんだろうが……。 「別に知り合いじゃないし、話してもいない」 それは事実だが、何度も会っているとは言わなかった。何となく、あいつがそこに居ることを知られたくなかった。 「そっか。一ノ瀬が誰かの近くに居るのが珍しかったからさ」 「ふぅん。というか込山、知ってんの?その、イチノセって奴」 「一ノ瀬グループの現社長の息子。四橋大経済学部の3年。俺らの世代じゃ、結構有名だぞ。相当優秀で、次期社長候補って噂だし」 「ああ、あの一ノ瀬か」 不動産、製薬、金融……旧財閥並みに複数の事業を手掛けていて、会社の成長度ランキングでも常に上位。言わずと知れた大企業だ。 どこか上品な雰囲気があると思ってはいたが、そこの社長子息だったとは。

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