98 / 126

第5章 真実 15

あの日、仕事が忙しいから、と姉に言った言葉は嘘ではなかった。 初めは亜矢と意識的に会わないようにしていたが、仕事と学会の論文制作で、慌ただしく日々が過ぎ、気がつけばあれから2ヶ月が過ぎていた。 木曜日。いつものようにその場所を訪れると、一ノ瀬は窓辺に佇んでいた。もう外は真っ暗になっていて風景を見ている様子でもない。何をしているのかと思いながら後ろ姿に声をかけると、それに答えるように彼がゆっくりと振り返った。 「ああ、蓮見か。今日は早いんだな」 そう言った一ノ瀬の顔を見てギョッとする。 いつも色白な肌だが、今日は異様と思えるほど青白かった。心なしか頬がこけたように見える。 「何だよその顔……大丈夫か?」 焦って一ノ瀬に近づいた瞬間、右肩に重みを感じた。 「悪い……肩、貸してくれ」 肩口に顔を埋めるように寄りかかった一ノ瀬の口から、これまで聞いたことのない弱々しい声が漏れる。 首筋に感じる滑らかな髪の質感と、石鹸のような清潔感のある薫りに、ドクリと心臓が跳ね上がった。 「一ノ瀬?どうした、気分悪いのか」 その体勢のまま、冷静さを装って俺は聞いた。 自ら他人に触れるなど、これまでの一ノ瀬の言動からは想像もできないことだ。動揺しつつも、このありえない状況に本気で心配になる。 「……ああ。ここのところ、ちゃんと眠れていなくて」 「とりあえず座れ。気分悪いのにそんなところに突っ立ってるから……」 「風に当たってたんだよ」 「じゃあここに椅子持ってきてやるから。ちょっと待ってろ」 ポンポンと背中を軽く叩く。離れてゆく温もりが名残惜しいが、これ以上は理性を保つ自信がなかった。 窓際に椅子を運び、彼をそこに座らせてから、気を紛らわせるように自動販売機のあるロビーへ向かう。ミネラルウォーターを買って戻り、それを一ノ瀬に渡すと「ありがとう」と力なく言って素直に受け取った。 「何かあったのか?」 彼はその問いには答えず黙って下を向いた。 話したくないのなら、深入りしない。それ以上は何も聞かず、一ノ瀬の近くに座って、鞄からパソコンを取り出した。 「――自分の存在意義って、どうしたら解るんだろうな」 暫くして、ポツリと呟くように一ノ瀬が言った。 「何それ。哲学の本でも読んでんの?」 「いや……」 口を噤むその表情を見て、家のことで何かあったのだろう、と直感した。 身内の話になると、決まって声色が冷たかった。 まだ成人して間もない一人の男に、何をそんなに背負わせるものがあるというのだ。彼をこのような状態にしてしまう俺の知らない環境が、どうしようもなく腹立たしい。 「存在意義なんて、そんなことを知っている人間はほんの僅かしかいないだろ。誰に何を言われたのか知らんが、くだらない。お前ってほんと、繊細なお坊ちゃんだな」 努めて明るい声でそう返す。一ノ瀬の横顔を見るとまだ表情が硬いままだった。 普段だと直ぐに何か言い返してくるのに。小さく溜息をついて、俯く一ノ瀬に話しかけた。 「たった一人でも、そいつを必要とする人間が居るのなら、それだけで意義や価値があるんじゃないか。  一ノ瀬にも絶対に現れるよ。お前がいるだけで、どうしようもなく幸せだと感じるような、そんな奴」 一呼吸置いて、はっきりと言葉を繋げた。 「少なくとも俺は、お前に出会えて良かったと思ってるから」 一ノ瀬がさっと顔を上げる。眉が開いて、ぽかんとした緩い表情をしていた。 「……あんた、よくそんな恥ずかしいこと言えるな」 いつものようにそう毒づいた後、「そんなこと、人に言われたのは初めてだ」と、儚げに目を細めた。 それは曇りのない素朴な微笑みで、初めて見るその顔に、何故か苦しく思えるほどの愛おしさが胸を突き上げてきた。 一ノ瀬がソトの世界に出られたなら、こんな笑顔をもっと見ることができるのだろうか。 もしそれが叶うのなら、どんなに嬉しいだろう。 『ソトに連れ出したいよ。お前を』 いつだったかそう漏らしてしまった言葉が、仄かな光となって、心の中でゆらゆらと灯り続けた。

ともだちにシェアしよう!