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第5章 真実 16

「あ、千尋ーお疲れー」 「蓮見さん、お久しぶりですー」 休日、多くの客で騒わう居酒屋。その個室の一つに入ると同時に、四方から声をかけられる。 今日は所属していた大学の研究室の同窓会で、久しぶりの面子が集まっていた。 「蓮見、何そのでかい荷物。仕事帰り?」 「ああ、昨日から泊まりでつくばに標本取りに。悪い、明日までに文献読んでおきたいから、今日は早めに出るわ」 「そっか。研究職の人間は忙しいなー」 後輩が頼んでくれたビールを飲みながら、少し離れた席で賑やかな連中をぼんやり眺める。 「そういえば今日のニュースで知ったけど、笠原商事、一ノ瀬グループの傘下に入るんだって?すごいじゃん」 向かいのテーブル席での会話が、急に耳に入ってきた。“一ノ瀬”。その単語に思わず聞き耳を立てる。 「ワイドショーで話が大きくなってるけど、そんなんじゃないってば。うちの一部門を一ノ瀬にお願いするだけです。ただの業務提携」 次々に投げかけられる質問を制止して、詩織が面倒くさそうに言った。 笠原詩織。 同じ研究室に所属していた2歳年下の彼女は、笠原商事の令嬢だ。 品を感じる整った容姿を持ちながらも、嫌味のないさっぱりとした性格なので、誰からも好かれていた。 「そういえば、一ノ瀬(向こう)にうちらと歳の近い一人息子いたよね?イケメンって噂の」 「詩織、そのうちお見合いの話あるかもよ」 「ふふっ、それはないよー。良い家柄なんて、他にもいっぱいあるし。それに、もしそうであったとしても、私には荷が重すぎて無理。ごく普通に恋愛結婚して、好きな仕事して、のんびり暮らしたいなー」 「はは、詩織らしい。確かに、お前が社長夫人になって、家で大人しく料理作って待ってるの、俺想像できないわ」 「詩織、よく鞄ひとつで地方に土いじりに行ってたもんね。お嬢様という自覚、欠片もない」 「もー、地質調査って言ってよ。まぁ、親にはいい顔されなかったけどね」 馴染みのメンバーの懐かしいやり取りと笑い声が聞こえてくる。 見合いか。一ノ瀬もいつか、そういうことをする日がくるのだろうか。 良家の慣習や常識なんざ、俺には分からない。知りたくもない。あいつが誰かのものになる。そのことを考えるだけで、黒い感情が全身を包み込む。 たとえ、妹のように思っている詩織が相手だったとしても、きっと心から祝福はできないだろう。 ――って、馬鹿じゃないのか。あいつとどうなりたいというんだ、俺は。 「千尋、ちょっといい?」 いつの間にか隣に来ていた詩織の声に、ビクリと肩が揺れた。 「どうしたの?そんなにびっくりしちゃって」 「……いや、考え事してた。何?」 「(いつき)おじさんがね、今度の講演、絶対に来い、だって。千尋に言っとけって」 詩織とは、高校時代に同じ委員会で知り合ってから親しかった。 高3の夏、詩織の誘いで彼女の伯父――笠原樹氏が室長を務める研究グループのシンポジウムを聞きに行った。元々理学部志望ではあったが、そこで感銘を受けた俺は、地球環境科学の分野に進むことを決めた。 それから、何度か詩織に連れられて笠原氏の家を訪れているうちに、何故かは解らないが彼にいたく気に入られ、研究の話を深く聞く度にさらに心酔してしまい、研究職を志すまでになった。 そして幸運なことに、この春、彼の所属する研究所に就職することが出来たのだ。 「行くに決まってるだろ。お前の伯父さん、今は俺の上司だぞ。まぁ、そうでなくても行くけど。ずっと前から予定は抑えてる」 「ふふ。千尋って、ほんと、樹おじさん好きよね。あの人も千尋のことになるとうるさいんだもん。相思相愛だね」 「変な言い方するな」 ニコニコと笑う詩織の肩を軽く小突いて、ぬるくなったビールを流し込む。ふとある事を思いつき、詩織に訊ねた。 「詩織。講演会のチケット、まだ余りあるか室長に聞いてもらえるか?大学主催だから、うちの総務に頼んでも分からないと思うし、お前からの方が早いから」 「うん、直ぐに聞いてみるね。誰かと一緒に行くの?」 「ああ」 一ノ瀬を誘ってみよう。 室長の講演の内容は、俺が開いていた専門書の中で、彼が唯一、興味を示した分野だった。 以前、研究に没頭している俺が好きだと言った。羨ましいとも。 確かに、進路はどうにも出来ないことだったのだろう。しかし、今は学ぶ形も多様にある。好きな事を心の中に閉じ込めている必要はないんじゃないか。もっとその先を求めてもいいのではないか。 俺と同じように、この講演がきっかけになってくれたなら。 一ノ瀬が、ソトの世界に出てくれたなら……。

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