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第5章 真実 19

これまで共有していた空間に、もう一ノ瀬は居ない。 追いかけなかったのは、それをしたところで何も出来ないことを知っていたから。 『無駄な時間だと言われた。……本当にそうかもしれないな』 一ノ瀬の言葉が脳内で反響し、痛いほど心を締め付ける。 二人で過ごした時間までも“無駄”だと言われたようで、ただただ、悔しくて、惨めで、哀しかった。 これでもう、二度と会うことはないのだろう。 所詮、その程度の関係だったのだ。 長い時間そこに留まった後、虚脱感に苛まれながら帰路につく。 マンションのエントランス前に着いた途端、僅かな明かりに照らされて佇む人影を見て、ハッと息を呑んだ。 「どうしてここにいるんだ」 そこにいたのは、今、最も会いたくない――会ってはいけない人物だった。 「もう2ヶ月も顔見てないし、千尋兄、ちゃんとご飯食べてるかなって、心配で……。でも、お母さんが行ったら駄目だっていうから……黙って来ちゃった」 気まずそうに俯く亜矢の手の先に、パンパンに詰まった買い物袋が見えた。 「――今日は帰れよ」 横を通り過ぎながら言うと、軽く袖を掴まれ引き止められる。 「僕、帰らない」 「もう遅いんだから、帰れって! 子供が出歩いていい時間じゃ――」 「だったら、泊めて」 その言葉に、思わず振り向いて亜矢の顔を凝視した。 「お前、自分が何を言ってるか、解ってる?」 そう聞いておきながら、こいつの言葉に他意はないのは自分でも解っていた。 不意に、トンと胸元に圧がかかる。 縋るように胸に顔を埋めて寄りかかる亜矢の口から、静かな声が漏れた。 「ずっと、千尋兄のことばかり考えてた……。好きなんだ。千尋兄のことが」 震えるようにか細く紡がれるその言葉は、まるで傷口を抉る刃物のようだった。 「……は?――お前、俺に何されてもそう言えんの?好きだって」 残酷な問いだと自分でも思う。頭の片隅で、否定してほしいと強く願った。――それなのに。 「うん。千尋兄になら、僕、何をされてもいい……」 大きな瞳に見つめられ、右手に小さな手が触れた。 一ノ瀬のそれとは対照的な、温かい手。 熱を帯びた眼差しも、直球な言葉も、触れる体温も、すべてあいつとは違う。 そんなことは、最初から解りきったことなのに。 俺はこれまで何をやっていたのだろう。 脳内で一ノ瀬の身体に触れているうちに、その心までも許されたと思い込んでいたのだ。 だから、あれだけ、あいつの中に踏み込まないと決めていたのに、過ちを犯してしまった。 もっと時間をかけて歩み寄れば、ずっと傍で支えることもできたはずだったのに。 自分で、その未来を壊してしまった。「友人」にすら、なれないまま……。

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