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最終章 萌芽 05
喫茶店を出た後、彼を駅まで見送った。
「色々と話してしまったけれど、最後に、これだけは言わせて欲しい」
別れ際、俺に向き直った彼は、微笑みながら言葉を紡いだ。
「君は、ふたりに愛されて生まれてきた。これは揺るぎない事実だ。そうでないと、こんなに美しい名前は名付けない。それを忘れないで」
『結月さん』
まるで、直ぐ側で呼ばれたかのように、少し高めの透明感のある声が、鮮明に思い出された。
人が最初に忘れる記憶は「声」だという。
忘れられるわけがない。あんなにも、名前を呼んでくれた愛しい声を。
もう一度聞きたい、なんて、そんな願いが叶うことなど、絶対にないのに――
彼と別れたその足で、俺は真っ直ぐに祖母の元へと向かった。
「結月さんっ! 貴方、詩織さんに一体何を言ったのですか……?!」
昨晩、詩織の様子がおかしいことに気づいたのだろう。既に笠原家の方から話が耳に入っていたようで、祖母は俺の姿を見るなり激怒した。
俺はそれに怯むことなく、ただ淡々と婚約解消の申し出をした。
いつもは自分に恐れの目を向けている男の泰然とした態度に、ようやく事の異変を感じたのか、祖母は溜息をついた後、暫く考え込んでいた。
「貴方には失望しました。もう、貴方は一ノ瀬に必要ない」
「お母さん!それはどういう……」
「絶縁です。貴方のことはもう家族とは思わない。会社 の仕事も一切しなくていい。この屋敷から、直ぐに出て行きなさい」
傍に居た父が狼狽えるのも構わず、祖母は重々しい口調で諭すように言った。
「絶縁って……!それはあんまりでは……」
「父さん、いいんです。今日は、私もそれをお願いしに来た」
声を荒げて祖母に詰め寄る父を静かに制止すると、彼は信じられないというような顔をしてから、哀しげに眉尻を下げた。
この人がこんなにも表情を崩しているのは初めて見る。意外に思いながらも、自分の事を心底心配している様子が見て取れて、少し胸が傷んだ。
もう一度祖母を見据えると、再び鋭い眼差しが向けられた。
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