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最終章 萌芽 08

「あんなにも憎んでいた……のに、それでも僕、千尋兄にもう一度会ってしまったら、きっとまた好きになってしまうと思っていたんだ。でも……」 「――出逢ったんだな。これ以上他にないくらい、好きな人に」 口を噤んだ亜矢の言葉を繋ぐように、俺はそう呟いた。静かに頷くのを見て、ひとつ小さく息を吐く。 「一ノ瀬結月、だろ」 ぱっと顔を上げた亜矢と視線がかち合う。 明らかに当惑した面持ちで俺を見つめ、次には顔をくしゃりと歪ませた。 「でも……僕はもう、捨てられて……」 亜矢にとって、何故、俺が名前を知っているかなんて、どうでもいいのだろう。それ以上に、その“単語”を聞くだけで、抑えきれない愛しさが溢れ出てくるから。 解っていたことなのに、亜矢の恋心が嫌というほど見えて、それに嫉妬心を抱く自分の往生際の悪さに、ほとほと呆れる。 『人形』という残酷な言葉を、最も愛していたであろう人間に言われたのに、それでも亜矢は「会いたい」と何度も泣いたのだ。 ただひたすら、一ノ瀬を想って……。 「会いに行かないのか?」 俺の問いに、亜矢は勢いよく首を左右に振り、涙を散らせた。 「僕はっ、結月さんのことが、忘れられなかった……!酷いことをされても、嫌いにすらなれなかった……  会ったらきっと幻滅される……だって僕は、こんなに浅ましい人間なんだから――」 「それ以上言うな……っ!」 思わず声を荒げ、目の前の両肩を掴む。 「違うだろっ?!忘れられないほどあいつが大切だったってことだろ!……とは違うんだよ」 はらはらと頬に落ちる綺麗な涙を、もう見たくはなかった。ずっと言えなかった言葉を、遂に口にした。 「あいつはまだ、お前のことを愛している」 潤んだ大きな瞳が、波打つように一瞬で揺れる。 「あいつは……一ノ瀬は、好きなことすら諦めるような奴だった。欲も持たずに、人と関わることも自ら断ち切って。一生このまま、自分一人で生きていく、とでもいうように」 図書館で最後に別れた時の、壊れそうな後ろ姿が脳裏を掠めた。 「そんなあいつが、人を愛した。唯一と言っていい……お前だけなんだよ」 身を屈め、覗き込むように視線を合わせる。涙の膜が張った瞳はまるでガラスのようで、その心の内側さえも透かして見えてしまうほどだった。 「会いたいんだろ?一ノ瀬に。 あいつのことをまだ想っているのなら、逃げるな」 そうでなければ、このままずっと囚われる。 行き場のない恋情に。俺と同じように。 細い肩から手を離して、静かに背を向ける。そのまま扉の方へ歩みを進めると、後ろから小さく名前を呼ばれた。 「千尋兄のときとは違うって……僕は思ってないよ。  僕の初恋は、千尋兄――貴方だった」 背中から響く、透き通るように儚げな声。 ――今更、後悔したって遅いのに。どうしてこんなにも、もう一度抱き締めたいと思ってしまうのだろう。 衝動を抑え込むように拳を固く握り、部屋をあとにする。 その時不意に、棚に飾ってあった家族写真が目の端に映った。 高校の制服に身を包んだ亜矢の姿。幸せそうに微笑むあどけない顔。 まるで似てはいない。あいつには。 ああ、本当に何をやっていたのだろう。 それでも、あの時ほど恋焦がれることは、もう二度と、ないに違いない――

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