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最終章 萌芽 10

最寄り駅から徒歩7分の高層マンション。改札を出ると、遠くにそれが見えた。 何度も通った、マンションへの道を歩く。僅か半年しか経っていないというのに、この景色を見るだけで懐かしさが心に流れ込んでくる。 駅前にある見慣れたファストフード店。こういった店には入ったことがないと結月さんが言うから、ハンバーガーをテイクアウトして帰ったら、子供みたいに嬉しそうにそれを頬張っていたっけ。 交差点の側のドラッグストアには、結月さんが夜中に高熱を出した時に薬を買いに走った。心配しすぎた僕が神霜さんに電話しようとするのを、彼は慌てて制止して。その時の恥ずかしそうな顔は、少し可愛かったなぁ。 結局、風邪をもらってしまった僕に、彼が初めてお粥を作ってくれた。綺麗な指に小さな火傷の跡があるのを見て、罪悪感のせいでまた熱が上がってしまって―― 大通りから一本中にある、マンションのエントランスへと続く路地に入る。 初めて、そして唯一、結月さんと手を繋いで歩いた道。 移動は基本的に車。一緒に出掛ける先も、いつでも仕事に戻れるようにと、都内が中心だった。加えて、あまり人目のつかない屋内ばかり。だから手を繋ぐシチュエーション自体があまり無かったけれど、大企業の社長子息である彼の立場を考えると、男の僕が簡単にお願いできることではなかった。 それでも、その憧れはずっと心の中にあって、知らず知らずのうちに、寄り添う男女のカップルを目で追ってしまっていたのだろう。ある日、大学の授業で遅くなった僕を駅まで迎えに来てくれた彼が、この道に入ってすぐに、そっと手を握ってくれた。 ベッドの上で手を絡める感覚とはまた違う、甘酸っぱく、幸せな気持ちに心が満たされて、たった100メートルほどの距離でも、その時間は永遠のようだった。 結月さんと一緒に暮らした2年間の思い出に包まれて、胸がキュッと締めつけられる。 そしてエントランスが近づくにつれて、緊張に鼓動が早くなった。 カードキーはあの夜、此処を出たときに置いてきた。もしまだ持っていたとしても、使える保証はないけれど。 結月さんがまだ居ますように、と祈るように深呼吸をして、インターホンのチャイムを鳴らす。 「――はい」 少し経って聞こえてきたのは、若い女の人の声だった。 「どちら様ですか?……もしもし?」 ――まさか、笠原家の……? 薄暗い寝室で、結月さんに身を委ねていた女性の姿がフラッシュバックして、心臓がゴトリと音を立てる。 あの時、結月さんは彼女のことを恋人ではないと言った。でも、帰り際、彼を見つめていたその人の瞳は、僕のそれと似ていたような気がする。 あの頃の本当の関係は知らないままだった。だから、今、二人が付き合っている可能性だって……―― 「もしかして間違いかしら?」 無言になる僕を不審に思ってか、インターホン越しに女性が声を掛けた。 「私、最近ここに越してきたの」 「え……」 僕は直ぐに女性に謝罪をして、エントランスを出た。 嘘をついているような様子ではなかった。一瞬、彼女の背後で、子供たちの賑やかな声が聞こえたから。 ほっとすると同時に、寂しい気持ちが込み上げてくる。 密かな期待を持っていた。結月さんは此処で、僕が帰ってくるのを待ってくれているのではないかと。 ――やっぱり僕なんか、要らなかったんだ。 じわりじわりと心の中を支配してくる自虐的な思いを振り払って、僕はもう一つの場所へと足を向けた。

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