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4・休日
【休日】
翌日は休みになった。クビになるのかなと思ったが、仕事をくださいと言える気分ではなかった。
初めて零のセックスを盗み聞いてしまったときくらい眠れなくて、眠れないまま、いつも通りの朝六時に起きた。
いつも通りに顔を洗い、歯を磨いて、目玉焼きを乗せたトーストの横にベーコンを並べ、インスタントのコーンスープを添えた簡単な朝食を作って、零を起こしに行ったが、いつも通りに起きてこなかったので、一人で食べた。
昼前に起きてきた零は「おはよう」と言おうとして、僕の顔を見て目を見開いた。
「蜂の駆除でもしてきたの……?」
それくらい、僕の目蓋は腫れていた。ベッドにいる間中涙が止まらなかった。
「仕事合ってないんじゃない?ナギ一人くらい養えるから家事するだけでいいよ」
冷めたトーストを齧りながら零が心配してくれたが、大丈夫と返事をした。声に覇気は皆無だった。
しばらく黙って遅い昼食を摂っていた零は突然、良いことを思いついたと手を叩いた。
「海に行こうよ」
「海?」
「うん、前言ってただろ」
この家から海は窓から見えるほど近い。けれど、生活に慣れるのに必死で、未だに出かけたことはなかった。
「まだ夏前だよ。寒くない?」
「泳がずに浜辺歩こ、ほら準備準備」
零に急かされ、不服ながらも服を着替える。簡単なTシャツとスキニーパンツ、薄手のパーカーを上から羽織る。このパーカーはここに来る前から着ていたものだ。大きめのフードがついているから、腫れた目蓋も隠せるかもしれない。
「行こっか」
零も自室から出てきた。オーバーサイズのワイシャツにラフなジーンズという簡単な組み合わせでも、零が着ると様になる。広めに開いた襟元から覗く鎖骨が、あどけなさと艶めかしさを両立させている。
スリッパ型のサンダルをつっかけて道路を横切って行く。郊外のこの街はほどよく車が少なくて、僕は気に入っていた。空を覆う厚い雨雲で梅雨の訪れを知る。
「雨降りそう」
「降水確率低かったのに」
道路脇に取り付けられた階段を降りて砂浜に立つと、視界の端から端まで水平線が横たわった。初めて間近に見る海は、大きな海洋生物のような沈んだ灰色をしていた。
「どう、海」
「なんか怖い」
「ふふっ、ふふふ」
なにがツボに入ったのか、零は散々けらけらと笑うと、海めがけて駆け出した。
サンダルに砂が入るのが心地悪いが、仕方なくついて行く。
「見てー、ヒトデ」
干からびたヒトデの死骸を零に手渡された。形は可愛らしいが、裏面の触手の痕跡は結構グロテスクだった。
「ビーチグラス見つけたらちょうだい」
「好きなの?」
「まあね」
気恥ずかしさを隠してか、猫の口元のように唇を曲げるのがおかしくて、今日初めて笑いが漏れた。
「笑った」
柔らかい微笑みを浮かべて、零が僕の頬を両手で揉む。砂でザラザラだ。目前に迫った彼の端正な目元に見つめられると、なぜか心臓が脈打ってうるさい。
「昔、潮干狩りで浅瀬歩いてたら海藻が足に絡まって、なかなか外れなくてさ。潮が満ちて少しずつ水位があがるし、空も曇ってきて」
サンダルを洗う波を眺めながら零が呟く。
「……帰るときなのかと思った」
「帰れないかと思った、じゃなくて?」
嘲笑うような目線。
「どうだろうね」
鼻の頭を冷たい雫が打った。雨だ。
そこそこの強さで海面を叩く雨粒によって、灰色の海はいよいよ異界の様相になった。
「海に向かって叫ぶみたいなの、はたから見たら結構不審だよな」
「うん。ちょっとやってみたいけど」
「今ならできるよ」
悪戯っぽく目を細めた彼の、冷たく柔らかい腕に絡めとられる。
薄皮を重ね合った互いの腕の動脈が、緩やかな温かみを通して彼と自分の存在を確かにする。
「雨で誰にも聞こえない」
本当だろうか。彼が言うなら本当な気がした。
華奢な胸いっぱいに空気を溜め、零は叫んだ。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
細い喉から絞り出され裏返った、行き場のない叫びが、雨粒に遮られ、波の怪物に飲み込まれて消える。
「ぁぁぁぁぁああああああああああーーーーーーーーーーーーー……!!」
それでも叫ぶ。意味を持たない感情の咆哮。
涙が出てきた。僕らはなにをしているんだろう。ただ生きているだけで、どうしてこんな気持ちにならないといけないんだろう。
惨めだ。惨めだ。惨めだ……惨めだ!
「うぁああああああああああああああああああああっっっ!!!!」
僕も叫んだ。獣みたいに、一声に全てを込める思いで吼 えた。
二人で、喉が枯れるまで叫んだ。
家に帰る頃にはびしょ濡れで砂にまみれ、声も掠れたひどい有り様だった。それでも、今朝の鬱屈した気持ちは少し晴れたように思う。
二人分の服を洗濯機で洗っていると、下着のままの零が、上半身は裸のままの僕に後ろから抱きついてきた。
「ちょっ、」
「一緒に風呂はいろー」
耳を疑った。男同士とはいえ、この人はどうしてこう他人との距離が近いのだろう。
恥ずかしさから抵抗し引き剥がそうとするほど、零は強く抱きついてくるうえに、肩甲骨のあたりに慎ましく主張する二つの突起が触れ……。
僕は折れた。大人しく従わないともっととんでもないことになる気がした。
「ナギ直毛だよな。いいな」
床屋気分なのか、上機嫌に僕の頭を洗いながら、零がしみじみとした調子で言った。
「レイのあれは天然?」
「うん、ワックスつけないと結構暴れる」
零の髪は猫っ毛で、色素が薄かった。面白みのない髪質の持ち主としてはその方がかっこよく見えるが、零はストレートが羨ましいようだ。
髪と身体を洗い終わると、湯船に浸かった零が、当然のように僕を呼び寄せ、なぜか向かい合った状態で膝の上に乗せられた。とても気まずい。
「腫れ、引いてきたね」
細く白い指が目蓋を撫でる。確かに目が開けやすくなった。
「今日はありがと」
「んーん、俺が行きたかっただけ。どんな仕事だったの?」
言葉に詰まる。
「……子守り、のような」
「ふぅん?」
子守りであんなに弱るかと、零の視線が探りを入れてくる。心がざわつき、視線から逃れようと顔を逸らせた。
「なんでそんなに気になるの」
「好奇心」
零の無邪気さは時に残酷だ。知的探究心を満たすためなら道徳など無視できるのがこの人なのだ。そのことを理解していないとたまに、零がおぞましい異形に見えそうで怖かった。
こうなった零は中々解放してくれない。諦め、口を開いた。
「む、……」
「む?」
「昔の、ぼ、僕が、いたんだ」
言った瞬間、血の気が引いて一気に寒くなった。歯の根があわず、身体が震える。
凍えて死んでしまうと思ったとき、零が僕を抱きしめ、唇を奪われた。
「んっ、」
震える歯の間に熱い舌がぬるりと侵入し、逃げかけた僕の舌を捕らえて無理矢理唾液を流し込む。
「んむっ!んんっ…」
驚いて湯を叩いた手を拘束された。もう片手で鼻をつまんで上を向かされて、どろりとした唾液が食道をゆっくりと伝っていく感覚を味わわされる。ごきゅっと喉が鳴り、思わず嚥下してしまった。苦しい。
ようやく口と鼻を解放されて、僕は激しく咳き込んだ。
「げほっ!ぅえ、っほ……!なに、し」
「ふふっ、ふふふ」
睨みつけた相手は、初めて出会ったときと同じ、どこまでも暗い死ぬ月の目をしていた。
「俺さ、お前結構好きだから。簡単に死ぬなよ」
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