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3・凪について

【凪について】  子どものときには周りの大人がスーパーヒーローに見えるものだ。僕も、両親の言うことは絶対で、両親の意見はいつも正しくて、両親は僕の悩みをすべて解決してくれると信じていた。  いつ、なぜそんな盲信が完成したのかはわからない。でも確かに僕は彼らを信じ、愛していた。……もう過去のことだけれど。  今の話をしよう。僕は家主の零ができないほとんどの家事を担当した。掃除、洗濯、料理、ゴミの分別、ゴミ出し。  そのうち、零には金銭感覚も欠けていることがわかったので、家計簿をつけ、無理のない節制計画を立てて貯金を増やすのも僕の役目になった。大体実家でもやっていたことだったので、苦労はなかった。  家事だけをやって居候させてもらうのもなんとなく居心地が悪く、余計な心配ごとを考えてしまうから、週三日くらいでバイトをしようと思い立った。  面倒な書類審査や本人確認の必要のない、ゆるい雰囲気の仕事を探していると、ネット求人で「便利屋」という仕事を見つけた。依頼さえあればどんな仕事も引き受ける、面白いことばかりで飽きのこない職場、とコピーがついていた。  確かにほどよく忙しく、日々新しい経験ができるなら、将来について考え不安になることも少なくなりそうだ。履歴書はネット上で情報を入力するだけで良いらしく、零の電話番号を借り、本名など少しだけ情報を偽って応募した。  軽い電話面接の後都合の良い日を聞かれ、あっさりと採用が決定した。  職場はビルのテナントを借りた、少人数体制の会社のようだった。専務取締役は初日から僕を歓迎してくれた。 「いやぁ若い男の子が入ってくれて心強い。初めは簡単な仕事からまわすから、気張りすぎないでいいよ」  初仕事は「子守り」だった。ただ、同じ仕事に配属された社員らしき先輩二人が真剣な面持ちで話していたところを見ると、仕事は「子守り」だけではなかったのかもしれない。  先輩の車で向かったのは、母と五歳くらいの少女が二人で暮らすアパートの一室。出迎えてくれた母親は優しく穏やかそうな美人だったが、顔には疲れが見えた。  先輩たちがリビングで母親と話をしている間、僕は子ども部屋で少女と話していた。 「こんにちは。お名前なんていうの?」 「……杏李(アンリ)」  初めは恥ずかしそうにしていた杏李ちゃんだったが、僕くらいの年齢の相手と遊べるのは新鮮らしく、お気に入りのおもちゃを見せてもらったりしているうちに、少しずつ打ち解けてきた。  杏李ちゃんのおままごと遊びにつきあっているとき、スカートから覗く脚に、いくつか痛々しいミミズ腫れがあることに気がついた。 「杏李ちゃん、これどうしたの」 「ママがぶった」  一瞬、血の気が引いた。あの優しそうな母親が?  僕の表情を見てなにかを察したのか、杏李ちゃんはおもちゃの皿を投げ出して、必死に弁明をはじめる。 「でもね、杏李がわるいの。お皿わっちゃったから。ママいそがしいのに、かたづけなくちゃって……あとね、ママおっきい音にがてだから、こわがらせちゃった」 「大きい音が苦手?」 「うん。パパがね、こわいひとだったの。おっきな声でママのことたたくの。杏李こわくて、ここに隠れて泣いてた」  杏李ちゃんは子ども部屋のタンスを指差した。 「……そっか」  それ以上杏李ちゃんにかける言葉は見つからず、初日の「子守り」は終わった。 「どうだった? 初仕事」  帰りの車で、運転している先輩が僕に尋ねた。 「……なんというか、その」  杏李ちゃんの怪我について言うべきか迷ったが、母親から直接話を聞いていた先輩たちなら、僕より深く事情を理解しているかもしれない。少しでも状況が良くなることを願って、言葉を絞り出した。 「あの家では、家庭内暴力があった……、ある、ようです」  声が震えた。事実として認識すると恐ろしさが込みあげる。  もう一人の助手席に座っていた先輩が、思っていたよりあっさりと頷いた。 「らしいな。別居中の父親が母親にDVしていて、未だにあのアパート周辺をうろついているらしい。子どもに危害が及ばないか心配だから、どうにかして追い払ってほしいと。あれ、お前その話聞こえてたのか」 「あ、いや母親じゃなくて、杏李ちゃん……子どもの方です」 先輩二人が、声をそろえて「え、」と言った。 「な、なに、どゆこと?」 「つまり、あの依頼主の母親が子どもに対してDVをしてるってことか?」 「そうなると、思います」  僕の話を聞いて、先輩たちは少し黙った後、 「それは盲点だったな、思ったよりややこしそうだ」 「だな、でもお手柄だ芦港。こういうことを知っとくと調査がしやすい。気づいたことがあれば言ってくれな」  初仕事の内容の重さで、初日から褒められたことを素直に喜んでいいのかは複雑だった。  家に帰ると、零も仕事が一段落したのか、丁度仕事部屋から出てきたところだった。 「おかえり。ってひどい顔、仕事キツかった?」 「ん、ちょっとね。嫌なこと思い出しちゃった」  晩ごはんを食べるか尋ねると、軽食でいいから自分で作るとのことだったので、その言葉に甘えて僕はシャワーを浴びてすぐ寝ることにした。  明日も同じ現場だ。食欲は少しも湧いてこなかった。  バイト二日目。  僕は初日と同じく「子守り」担当だった。今日は母親が仕事なため、先輩たちはアパート周辺を父親がうろついていないか見張ることになった。  杏李ちゃんは、ママがお仕事中は一人だから退屈だとこぼした。 「幼稚園には行かないの?」 「パパがいなくなってから、ママがもう行くなって。パパに会っちゃったらあぶないから」 「……杏李ちゃんはさ、パパのこと好きだった?」  杏李ちゃんは言葉に詰まっていた。僕はその感覚を知っていた。 「大丈夫。ママには言わないよ。僕と杏李ちゃんだけの秘密」  人差し指を唇に当てて見せると、杏李ちゃんはほっとした表情で、ぽつぽつと話始めた。 「杏李ね、ほんとはパパのこときらいじゃないよ。パパやさしかった。ゆうえんちとか、どうぶつえんとかいっしょに行ったの。絵じょうずっていってくれた。おにんぎょうさん買ってくれた」 「ママはおべんきょうばっかりなの。「だいじなこと」だからがんばるけど、ほんとはママとゆうえんち行きたい。おままごともしたい。……パパもいたらうれしいな」  杏李ちゃんが眠そうに目を擦りはじめたので、ブランケットを渡して寝かしつけた。  ぼんやりと部屋を見渡すと、おもちゃ箱の横の棚に幼児向けの教材がぎっしり詰まっているのが目に留まった。  さらに横へ視線を向けると、オレンジ色を基調にした可愛らしい勉強机の前にコルクボードがあって、数枚のクレヨン画が飾ってある。母と子らしい人物が笑ってご飯を食べている絵。公園で遊んでいる絵。仲良く寝ている絵……。  黄色をたくさん使った穏やかで楽しげな絵ばかりだ。ふと、ボードの隅のほうに折り畳まれた状態で貼られた紙があるのに気がついた。  慎重にテープを剥がして開いてみる。遊園地だろうか、ジェットコースターやコーヒーカップらしきものが見える。やはり黄色を使った楽しげな絵。しかし他の絵とは様子が違った。三人描かれていたようだが、そのうちの一人が青色で雑に塗りつぶされ、黄色と混ざって緑っぽくなっている。紙はところどころ、雨に濡れた跡のように波打っていた。  絵を元通りに折り畳み、テープで貼り直したところで、玄関のほうで物音がした。母親が帰ってきたようだ。 「お疲れ様です。お邪魔しています」 「ああ、ご苦労様です。お仲間さんは外を見てくれてるんですってね」  儚い笑顔。この人が杏李ちゃんを痛めつけているとは、傷を見るまで思いつきもしなかっただろう。 「杏李は?」 「ぐっすり寝ています」  声や顔が不自然でないか、変な汗が背中を伝った。  母親が子ども部屋に入って行くのを見て心臓が止まりそうになりながら、慌てて着いて部屋に入る。 「あら、ほんと。能天気な寝顔」  そう言って我が子を覗き込む表情は、慈愛に満ちた母そのものだった。 「……」 「この子には私みたいな苦労をしないで育ってほしいんです。ろくでもない旦那を持ったり、学歴で蔑まれたりしないように。……だからたまに熱くなって、厳しくしすぎてしまって。杏李は恨んでないかしら」  声を震わせながら、優しく頭を撫でる。その仕草、声、表情。窓から差し込む橙色の夕陽の光もすべて、この空間を完璧なものにしていた。完璧な、優しい聖母を飾るための、道具になっていた。 「ええ、きっと」  きっと杏李ちゃんはあなたを恨んではいないでしょう。あなたを愛しているでしょう。……杏李ちゃんに自我が生まれないうちは、永遠に。  「子守り」の時間が終わって、先輩たちと合流し、帰るために車に乗り込んだが、先輩はなかなか車を発進させなかった。  こころなしか、空気も淀んでいる気がする。  ややあって、助手席の先輩が口を開いた。 「芦港、悪いがこの後時間いいか? お前も昨日より表情硬いし、なにかわかったんだろ。情報交換しとこうぜ」 「はい。僕は大丈夫です」  元々バイトにしては時給が高く(その時点で怪しかったのかもしれないが)、多少の残業くらいは気にならなかった。零が持たせてくれたポケットWi-Fiと携帯端末で、SNSから零に遅くなる旨の連絡を送る。  満場一致で情報交換に時間を使うことになり、先輩たちは気を利かせてくれたのか、ファーストフードを奢ると言ってくれた。  食費が浮くのは素直に嬉しいのでお言葉に甘え、各々頼んだ品を乗せたトレイを持って席に着き、会議を始める。 「まずな、俺らは父親が来ないか見張ってただろ。そしたら見せてもらった顔写真の男がいてよ」 「いや、軽く尾けようとしただけなんだ……もちろん怪しまれないように二手に別れて」  「そしたらこの間抜けが」と、助手席の先輩……吉浦さんが、もう一人の先輩を顎で指した。 「珍しい蝶々見つけたってデケェ声で俺を呼びやがったんだよ。たまげたね」 「だってカラスアゲハって都会では珍しいんだよ……」 「いやあいつ結構見るぞ」 「うそぉ、環境が違うんかな」 「話が逸れた」  吉浦さんが咳払いし、本題に移る。 「どうやらあの母親は今までにも俺たちみたいな「便利屋」に、父親を追い払わせようとしてたみたいなんだ。父親はそれを知っていたから、俺たちに気づいたらむしろ向こうから声をかけて来てな」 「バレちゃったもんは仕方ないから、ファミレスで腰据えて話したのよ」  この人たち食ってばかりいるなと思ったが、黙って続きを聞いた。 「んでまたこの間抜けが」  吉浦さんが頭を抱えながら、呆れの感情を込めに込めた溜め息を吐く。 「ド直球に『あなたの奥さんがあなたからDV被害を受けてると聞いたので調査してます!』って……」 「えっ」 「結果的に進展したんだからいいだろー」  先輩の不用心っぷりには驚いたが、それで調査が進んだというのが気になった。 「あのな、俺らが初め母親から聞いたのは、夫と同居してる間ずっとDVを受けていたって感じの報告だったんだ。でも父親は、口論が激しくなってつい手が出たことが数回あった、って言ったんだ」 「ま、女性に暴力はどうかと思うけどな」  車の先輩……大津さんがハンバーガーを頬張りながら正論を言ったが無視された。 「口論の理由は娘の教育方針だったみたいだ。母親はスパルタ教育的で、父親はそれに反対していたらしい。口論のときの痣を理由に別居が成立したが、父親は娘と離れたくはなかったらしい。それで未だにアパート周辺をうろうろしている。母親が離婚を切り出さないのは多分……生活費を請求できるからだろうな」 「でもさ、正直片方ずつから言い分だけ聞いたって、公平な判断できないじゃん?父親が完全な悪者じゃないなら初めの「父親を追い払う」って依頼の遂行も難しいし、どうしようもなくなったってわけ」  吉浦さんの話は、杏李ちゃんの状況にとても沿うものだった。父親を嫌ってはいない杏李ちゃん、幼児に遊びより勉強を優先させる母親、塗りつぶされた絵の人物、聖母子像のような完璧な部屋の風景……。 「僕は、」  喉がカラカラになっていたことに気づき、オレンジジュースを一含み飲んでから口を開いた。 「僕は杏李ちゃんの気持ちを優先したいです。杏李ちゃんは父親を怖いと言っていましたが、本心では嫌っていなかったし、やさしいと言っていました。父親を怖いと思うよう、母親に誘導されていたんだと思います。本当にDVをする父親だったなら、杏李ちゃんにも手をあげていたはず。父親が「正しい」かは分かりませんが、少なくとも杏李ちゃんにとっては「父親」なんです」  不幸なのは両親の不仲。母親の洗脳。  いじらしい子どもの心は、弱い立場の親を味方する。例え純粋な弱さではなくても。 「警察か児童相談所に連絡しませんか」 「へ?」  先輩二人の間の抜けた声が揃う。 「杏李ちゃんの痣の写真を撮って、然るべき場所に見せれば虐待が認められて少なくとも杏李ちゃんの身体的安全は確保できるし、杏李ちゃんの意見を尊重して仲介してくれるんじゃないでしょうか」  それしかないじゃないか。  このまま部外者の僕らや、あの家族だけで探りを入れ合い続けたところで、杏李ちゃんの願いは叶わないどころか、痣は増えるばかりだ。 「おい芦港、」 「なんで賛成してくれないんですか。見捨てるんですか。傷つけ続けられる子どもがいても、たかが子どもの命なんですか。人の命は尊いものなんじゃないんですか、ねぇ!?」 「落ち着け!」  大津さんの強烈なビンタを食らって初めて、自分がオレンジジュースのカップを潰れるほど握りしめていたことに気がついた。  橙色の液体がテーブルを滑り、ぼた、ぼたりと無遠慮な音を立てて滴っていく。  肩で息をしながら顔を上げると、周りの客と目が合い、さっと逸らされる。相当目立っていたようだ。 「……帰るぞ」  トレイに乗ったナプキンで適当にジュースを拭き取り、吉浦さんが僕を無理矢理立たせた。  車に戻っても、僕は放心していた。頭に酸素が回っていなかったのかもしれない。  すっかり黒に染まった街並みを、白や赤や橙の光が横滑りしながら飾りつけていく。クリスマスのイルミネーションみたいだ。 「明日も同じ仕事が入ってたが、芦港、お前は外す。相性が悪い」  吉浦さんが助手席から静かに告げた。大津さんは黙っていた。  言いたいことがたくさんあった。一言でも話せば涙が溢れてしまいそうで、会社に送り届けてもらってから家に帰るまで、なにも言えなかった。

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