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2・零について

【零について】  零は、僕が十数年間で出会ったどんな人間とも違っていた。逃げる前周りにいた大人たちに零の話をしたら、間違いなく警戒され、縁を切れと言われるだろう。だけど不思議と、そんな大人たちよりも零の方が近しく、人間らしく思えた。  零は堕落していた。  わざと身体を壊すようなめちゃくちゃな量の酒、タバコを楽しむこともあったし、荷造り用の麻紐で首を絞めながら自慰するのを目撃したこともある(本人は僕に見られても軽く笑っただけだった)。  生き辛そうな人だなと思っていたが、なにより大変そうなのは、不定期に零を襲う憂鬱感だった。助けてやりたいと思っても、僕はそれが起こる原因も対処法も、すべてがわからないので、ただ見守ることしかできない。  憂鬱状態に陥いると零はなにに対しても不快感を示す。僕に八つ当たりするのはまだ気力がある方で、朝から飲まず食わずでほぼ寝室から出てこない日もあった。  病院に行くことを提案したが、「面倒臭いし薬漬けにされるだけ」と一蹴された。医者は信用していないらしい。 「こんなだから、まともな生活なんかとっくに諦めたよ。俺の脳みそ面白がってくれる仕事があってよかった」  自嘲なのか本気なのか、零はけらけら笑って言った。  ある日、零は打ち合わせに出かけてから夜遅くまで帰ってこなかった。SNSアプリで送ったいつ帰るのかというメッセージには、日付が変わる前に既読がついたが、返信はなかった。  仕方がないのでラップをかけた晩ごはんを冷蔵庫にしまっていると、玄関扉の開く音がした。 「おかえり」 「ただいまぁ」  出迎えようと廊下に顔を出してまずぎょっとしたのは、零が自分より少し体格の大きい男性に肩を貸しながら入ってきたことだ。この人は人間を持ち帰る癖でもあるのだろうか。 「隣駅のバーで居合わせて、一緒に飲んでたら潰れちゃった。弱かったみたい」 「そ、そう。ソファに寝てもらおうか」 「俺の部屋で寝かせるからいいよ」  そのときは、初対面の人をちゃんとしたベッドで寝かせてあげるなんて親切だなと思っていた。  が、シャワーを浴びた零が当然のように二階の自室に向かったのには目を疑った。 (初対面の人と同じベッド……? 男同士だしあり得る、のかな。いや、まだ同じベッドと決まった訳じゃない。床で寝るのかもしれないし)  リビングのソファより自室の床を選ぶ意味がよくわからなかったが、居候の身で家主の行動にケチをつけるのもどうかと思ったので、あまり気にしないようにしながら零の部屋の隣に()てがわれた自分の部屋に引っ込み、ベッドに潜り込んだ。  まどろみが降りてきたころ、壁の向こうから妙な音が聞こえることに気がついた。  ギシ、ギシリとベッドの木枠が軋む音。  ……やっぱり大して酔ってなかったな。  ……ふふ、気づいてないとでも思った? 演技下手なんだよ。  ……そんなにがっつくなって。んっ、ローションならそこに……。  ……ガキ? ああ、従兄弟だよ。大丈夫。別に隠してないし。  木枠の軋みが激しくなり、あっ、やぁ、といった甘い嬌声が鼓膜に絡みつく。  訳がわからなかった。  家主が男同士でセックスしている。未成年が寝ている部屋の真隣で、たまたまバーで会っただけの他人と、身体を重ねている。  そしてその家主の卑猥な姿体を脳裏に描き、あろうことか僕は、勃起している。  恥ずかしさとも、怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が喉を塞いで、結局朝方まで眠れなかった。  次の日、僕としては相当な寝坊をして、昼頃にリビングへ降りると、零が昨夜の晩ごはんを食べながら「おはよう」と言った。  まともに彼の顔を見られないままあの人は、と尋ねると、朝方帰ったと返事があった。 「……あのさ、レイ」 「ん?」 「ごめんだけど、聞こえちゃったんだ。昨日君とあの人が……その、セッ……」 「ああ、セックスのこと?」  まったく恥じる様子もなく放たれた言葉に、顔が熱くなるのを感じる。 「なっ、なんで、あんな、初対面の……! 僕もいるのに!」  しどろもどろになる僕に、零は心底怪訝そうに首を傾げた。 「初対面の相手とヤることがなにか問題? ナギがいることに関しては、俺がホテル嫌いだから家に連れ込んでるだけで、お前が来る前からこうだったからどうしようもない。耳栓でも買ってやろうか」  愕然とした。  零の言い分は正論そのもので、僕が居候である以上、彼のやり方に納得できないなら僕が出ていくほかないのだ。  僕が苦言を呈せば零も爛れた人間関係を見直してくれると、なぜか思い込んでいた。  ダイニングテーブルを挟んで零の向かいに座ったまま僕が黙ってしまったので、零は彼なりに気を遣ったのか、食べかけの味噌汁を勧めてきた。食べきれなかっただけかもしれない。  ……それが今から一ヶ月と少し前の出来事。ある程度零の生活を把握した今では、動揺していた当時の自分がもはや懐かしい。彼は今でも元気に他人を連れ込んではセックスしている。 「レイってさ、どういうとき人とえっ、エッチなことするの」 「んー……? いい感じの社交性といい感じの絶望感が心臓あたりで化学反応起こしてるとき」 「ごめん、よくわからなかった」  零は携帯に仕事関係の文章を入力する手を休め、少し考えた。 「自分が死に向かってるって信じたくないときかな」  それは少しわかる気がした。

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