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5・正義について

【正義について】  あんな口づけをしておいて、風呂をあがってから寝るまで零は普段通りだった。  ファーストキスを奪われた僕は動揺して、菜箸やおたまを取り落としたり、野菜を焦げつかせたり、晩ごはんの用意すらままならなかったというのに。  ベッドに潜り込んで携帯を開くと、明日の仕事の連絡が入っていた。簡単な清掃手伝いらしい。先輩たちの名前はなかった。  目を瞑れば零の唇の感触を思い出す。噛み癖があるのか少し鉄の味のする、切なくなるような人肌の弾力。彼の視線はやましさを見透かすようで落ち着かない。股間が熱を持ち始めるが、寝不足で頭が痛い方が問題だと心の中で言い聞かせて、強引に眠りについた。  バイト三日目。  アパート住みの人からの、部屋を片付けてほしいという依頼だった。片づけに身が入らず気づけばゴミ部屋になってしまったとのことだ。僕よりバイト歴の長い、ピアスをたくさんつけた先輩に、清掃業者より安いから「便利屋」に頼む人もいるのだと教えてもらった。  零の家を片付けた身からすると仕事自体は大したことはなく、暇な頭で杏李ちゃんのことを考えてしまう。あの後どうなったのだろう。 「依頼主さん、身だしなみに気遣ってるっぽいイケメンだったのに、ここまでゴミだらけにするって……ヤバイですね」  依頼主が外出中なのをいいことに、僕と同時期にバイトに入ったらしい茶髪の女の子が引き気味に笑った。  ピアスの先輩はしばらく黙っていたが、「普段真面目な人でも」と、ゆっくり言葉を選びながら話し始めた。 「真面目で、丁寧に生活する人でも、仕事とかが忙しくて疲れると、びっくりするほど生活できなくなったりするもんなんだ」  茶髪の子はよくわからなかったのか、へぇ、とだけ返した。  零は未だに片づけができない。彼の寝室や仕事用の部屋はこまめに掃除に入らないと、数週間で足の踏み場もなくなってしまう。 「それって、僕らが今片づけても、またこうなっちゃうかもってことですよね。根本的な問題を解決したほうがよくないですか」  こんな生活を続けるのはあまりに不憫だ。ピアスの先輩は僕の言葉に軽く首を振った。 「俺らにはそこまで踏み込む権限も時間もない」  半日かけて、いらないものの処分はほとんど完了したが、床の清掃まではできなかった。それでも依頼主はとても感激した様子で、人数分の飲み物を用意してくれた。 「女の子もいたのにこんなことさせて悪いね」  茶髪の子はさっき引いていたのが嘘みたいに明るい笑顔で、「大丈夫ですよぉ〜!また困ったら依頼してください!」とガッツポーズを取った。  仕事後は現地解散だったが、ピアスの先輩とはしばらく帰り道が同じだった。 「あのな」  心地よい低音に独特の間を挟み、ピアスの先輩が僕に話かける。 「さっきの話の続きだが、少なくともあの会社で仕事するときは他人に同情しすぎないほうがいい」  杏李ちゃんの姿が脳裏をよぎった。あの子を救う提案に消極的だった先輩たちへの怒りと、穏やかな声で突き放した、ピアスの先輩の言葉に対しての反抗心がない混ぜになって顔が強ばる。 「どうしてですか?」 「呑まれるから」  強い風が雲を連れてきて夕陽を遮った。周囲がにわかに暗くなる。  影の落ちた先輩の顔から表情は読み取れず、寒気がした。 「キリがないんだ。あの会社にも、来る案件にも、モラルってもんがない。人の闇にいちいち反応しているとお前も戻れなくなるぞ」 「いちいち、って……」 「人を救うには覚悟がいる。責任もつきまとう。俺らに与えられた能力も、時間も限りがある。一人救いきれるかもわからないのに、全ての闇を解決することはできない」  質量を持った言葉のひとつひとつが、僕の価値観を打ち砕く。 『みんなが正義感を持っていれば悲しいことは起こりません』 『人という字は支え合ってできています』 『誠心誠意向き合えば必ずわかりあえます』  どこかで見聞きした美しい言葉の数々。  信じてこそいなかったが、どこかで、そうあればいいと思っていた。  今はそうでなくても、僕が頑張れば、いつか実現すると思っていた。 「……きれいなだけでは生きられない」  俯いたまま立ち止まった僕の肩を、先輩が優しく叩いて去っていった。  僕はしばらく、そこから動くことができなかった。 「沈んでる」  カーペットに寝転がりながら携帯に文字を打ち込んでいた零が、ソファに座ってぼんやりとテレビを流し見ていた僕の顔を、下から覗き込んで言った。夕食どきも零の話題に相槌を打つばかりでまともに喋った覚えがない。バイトは来週まで休みだ。 「レイはさ、この世界がもっと優しく、みんなが仲良く生きられれば良いと思う?」  意外にも、「そうなら楽だろうね」と返事があった。 「そのために正義感とか共感性とかを大事にして生きてきたのに、理想の世界があまりに遠いと知ってしまったら、……それからどうやって生きればいいんだろう」 「人によってはそれでも理想を追求すると思うけど、そうだなぁ」  零は身体を起こしてソファにあがると、僕に全体重を預けて寄りかかった。僕は倒され、零の抱き枕のようになる。 「あのさ、殺人って悪だと思うじゃん?」 「ん?うん」  当然だ。罪のない人を殺すことは許されない。 「ところが状況によっては殺人は正義になる。例えば戦争、革命、迫害だってそうだ。理想を持ち遂行することが、同じ理想を掲げる人々にとっての「正義」であり、それを邪魔するものは皆「悪」になる。「悪」にだってもちろん「正義」はあるのに、殺されてしまえばそれを主張することもできない。そして勝ったほうの「正義」にバイアスがかかる。そんなことを何度も繰り返して今の人間がある」 「そんな……そんなの正義じゃない!」 「ははははは!」  なにがおかしいのか、零は腹を抱えて笑い転げた。脇腹に肘が押しつけられて痛い。 「そう否定してやるなよ。いつの時代も人間は必死なんだ。ふふ、自分の命を生きるのに、必死」 「だって、狭すぎるよ。自分たちさえ良ければ良いって言うの」 「極端に言えばそうなるね。逆に自分以外の理想をどう実現する?」 「だからそれは、お互い共感して、思いやりを持って、みんなにとって良い世界に」 「ふーん。仮にお前の共感性が超人レベルだったとして、ペットの犬猫も幸せでないなら理想の世界じゃない、とデモが起こったらどうする?」 「それは……犬や猫の気持ちになって」  言い終わる前に頭を鷲掴みにされ、髪を引っ張って無理矢理目を合わせられる。 「思い上がるなよ。例えば人間の、色を見るための錐体細胞(すいたいさいぼう)は基本的に三種類ある。対して犬猫は二つ。鳥は四つで、人間には見えない紫外線も見える。世界の見え方から違うのに、なにを根拠に「相手の気持ちになって」いると言える?」 「色弱でリンゴが赤く見えない人間だっている。情報として学ぶ以外にお前がその人間の視界を知る手段はない。それでさえ不十分だ。……身体的、精神的、種族的違い、その他数えきれないほどの条件の分岐の中で、自分と同じものを見ているものは存在しない。つまり自分の理想は自分だけのもので、それが存在の数だけある。「相手の気持ちになって」いると思うこと、それ自体が(おご)りだ」  口元には笑みを浮かべながら、暗い目は笑っていない。星ひとつない宇宙に、一人放り出されるような暗闇……。 「正義も共感も上っ面だけの幻想でしかない。お前をお前たらしめるものはお前の理想、エゴだけだ」 「っ、……ひく、ぅあ……あ……!」  嘘だ。嘘だと言ってほしい。そんなに孤独な世界で、孤独なことにも気づかないで、今まで生きてきたなんて。  溢れる涙が止められず嗚咽する僕を、零が強く抱いてくれた。  意外なほど甘く、少し埃っぽいうなじの匂い。こんなに近くにいるのに僕も君も独りぼっちなのだ。 「レイ、レイぃ……僕ら、同じ言葉でっ、話せてる?」 「うん、母国語で間違いないと思うけど」 「そうじゃなくて、レイのさっきの話とか僕、ちゃんと理解できてるかなぁ」 「……少なくとも、ナギが泣いた分だけ伝わってると、俺は思うよ」  低く優しい声音の囁きと、柔らかい体温が心地よくてまた涙が出たが、少しずつ落ち着いてきた。  重なった心臓の、鼓動が二つ、ずれたり、隣あったりしながら、同じ時を共有していることを実感させてくれる。 「ん?」  ふと零が後ろを振り返った。その拍子に彼の胸の突起が僕の胸板に押しつけられて、妙に気恥ずかしくなる。 「お前なに勃ってんの」 「えっ?!」  驚いて頭を持ち上げ、股間を見ると、控えめだが確かな膨らみが零の太ももを押しあげていた。 「あっは。童貞ナギくん男に抱きしめられて興奮してんのー」 「ちちち違っ、緊張した後安心したから……」  面白がった零に膝で膨らみを擦られ、変な声が出そうになる。なんとか理由をつけて逃げようと必死に言い訳を探す。 「お、おしっこ漏れるから!やめて!」 「漏れたとして精液だろ」 「それも嫌っ、だけど!本当、漏れるから、降りてっ」  零の胸板を押しのけ、ソファからずり落として、その隙にトイレに逃げ込む。零の軽快な笑いが聞こえた。惨めだ。 「ま、俺も締め切りあるから相手できないんだけどさ。オナニー頑張ってね童貞くん」  軽くトイレの戸を叩く音、それから仕事部屋の扉が開き、閉まる音がした。  悔しさ紛れに小用を済ませトイレを出ようとして、戸に掛けられた鏡の中の真っ赤な自分と目が合い、余計に腹が立った。  その日ベッドの中で、零の乳首に吸いつく妄想をしながら達したことは、死んでもバレたくない。

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