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6・雨音
【雨音】
休日の早朝に聞く雨の音は好きだった。白いレースのカーテンで包まれるように、パタパタと屋根を打つ雨粒が柔らかく外界を遮断してくれる。
こういうとき布団にくるまり直してふかふかの枕に鼻を押しつけると、言いようのない温かなまどろみが降りてきて、意識が薄くなる……。
しかし二度寝する訳にはいかない。
いくら零の起床時刻にばらつきがあろうと、居候であるからには時間通りに朝食を提供したいし、他の家事もきちんとこなしたかった。相当な厄介者であるはずの僕を置いてくれている家主に、感謝を示したかったのだ。
朝六時に起床し、軽く身支度を整えて料理に取りかかる。昨日作った味噌汁が残っているから和食にしよう。
フライパンで鮭の切り身を香ばしく焼き終え、ダイニングテーブルに並べていると、二階からドン、という音がした。
少し聞き覚えがある。零が暴れている音だ。彼は情緒が不安定で、たまに癇癪を起こして暴れる。「うるさいかもだけど気にしないで」と言われてはいたが、やっぱり少し心配で、丁度食事の支度もできたので様子を見に行くことにした。
音で刺激しない程度のノックをして、扉の外から「レイ、ご飯できたよ」と声をかける。
「っうぅうううーー……!!」
獣のようなうめき声、続いてドン、ドンとなにかにぶつかる音が響く。相当錯乱しているのかもしれない。
「開けるね」
扉を開けて初めて、もの悲しいクラシック音楽らしき旋律が、部屋の中を満たしていたことに気づいた。耳から心臓を震わせる泣きたくなるような音色だ。
一瞬、この音楽が彼の正気を奪っているのではと思ったが、零の感性は素直だから、好まない音楽を自分の手で再生したとは考えづらかった。
「ぅあああああっっ!」
零がうめく。本人から止められていたこともあって、零の癇癪を間近に見たのは初めてだった。曰く、「近寄ると危ない」と。
目の当たりにするとその激しさに驚いた。うつ伏せで枕を強く握りながら、いらいらと彷徨う脚がベッド横の本棚を蹴る。ドンドンという音の正体はこれだった。さらには自分で頭を殴りはじめたので、僕はさすがに焦ってしまった。
「レイ、」
軽く肩に触れただけで激しく振り払われ、危うく目元を引っ掻かれそうになる。確かに危ない。
この数ヶ月間で零は何度か暴れていたが、血が出るような怪我はしていなかったので、しばらく様子を見ながら落ち着くのを待つことにした。数十分ほど激しく暴れるうちに少しずつ呼吸が規則的になり、そのまま疲れて眠ったらしい。
僕はゆっくりとベッドに座って、寝ている零の背中に自分の背中が少し触れるようにした。今はそばにいるべきだと思った。
特にすることがなく、ベッドサイドテーブルに置いてあった文庫本を手に取る。お気に入りの本なのか相当くたびれていた。内容は抽象的で難しかったが、僕はそれまでそういう系統の小説を読んだことがなかったので、意外と面白く読み進めた。
それなりに時間が経って、零が身動 ぎしながら手で僕の背中に触れた。
「いるよ」
寂しいのかと思って返事をする。安心したように手の力が抜けた。
穏やかな寝息が聞こえてきたのでひとまずは大丈夫そうだった。タオルを持ってきて零の涙や鼻水を拭いてやり、食事にラップをかけるため一階に戻る。
零が起きてきたのは夕方頃だった。
腫れた目を気まずそうに伏せて、かすかに「おはよう」と口にする。
「おはよう」
のろのろとダイニングテーブルに着いた零の前に、温めなおした朝食を置く。食欲がないのか味噌汁をすすっただけだった。
「お前、部屋入ってきただろ」
「うん。起こしに行ったら暴れてたから」
零はしばらく黙ってもそもそとワカメを噛んでいた。言葉を探しているのかもしれない。
「やめとけって言ったのに」
「ごめんね」
「……俺お前のこと叩いた?」
「ううん、大丈夫」
振り払われただけで怪我もしていないので正直に答えると、零は僕を見つめて真偽を探った後、安心したように小さくため息をついた。
「ナギ精神病の経験でもあるの」
「特に覚えはないけど」
「対処が適切すぎた。少なくとも俺にとっては」
「そうかな」
自分が零だったらどうしてほしいか考えただけなので、少し困惑してしまう。
「お前が適切な対処とか、知ってると思った俺がバカだった」と、零は疲れたように笑ったが、どことなく嬉しそうな、穏やかな笑みに見えた。
「今日一緒に寝てくれない?」
「えっ」
「溜まってんなら隣で抜いていいから」
「抜かないよ!」
眠そうに目を伏せる零がなんだかとてもか弱く見えて、断る気にはなれなかった。
味噌汁だけを食べた零はまたのろのろと二階に戻り、部屋に篭ってしまったようだ。僕は夜になるまで変にドキドキしていた。
寝る前にシャワーを浴び、意を決して零の部屋の扉をノックして中に入る。零はベッドに寝ていたが、僕が近寄ると薄く目を開けた。
「ん」
「あ、ありがと」
零が開けてくれた場所に潜り込むとほんのりと温かい。……このまま妙なことになったりしないよな。
心配をよそに、部屋の中にはただ雨音が満ちていた。眠気を誘う規則的なような、不規則なようなリズム。
「んひっ!?」
突然首元に腕をまわして抱きつかれたので、変な声が出てしまった。かすかな身体の震えで零が笑っているのがわかる。
「俺さ、こんなだから家族とも分かり合えなかったんだよ」
耳元に眠そうな声が落ちた。落ち込んだ犬の悲鳴のようで胸が切なくなる。
「この国って家族神話みたいなのあるじゃん。親孝行とかなんたら……、なんかバカらしくなって。俺を理解する気もない奴らに孝行って言ったって。俺んち金だけはあったから、イカレた振りして……実際イカレてたのかもしれないけど。それで、別荘扱いだったこの家に押し込められたんだ。高校卒業するまでは仕送りがあったからそこそこ快適だった」
「ネグレクトじゃないか」
「いいんだよ。変に期待し続けるよりマシ」
「俺は頭がおかしいらしい」と肩を揺らして笑い、零は眠りについた。
雨音が僕らを包み続けていた。
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