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7・歪んだ死を想うこと

【歪んだ死を想うこと】  零との何気ない休日、安いスーパー巡り、流し見するテレビの雑音と風変わりなバイト。僕はなるべく丁寧に日々を過ごした。丁寧に生きる時間を愛しく思った。  仕事内容の豊富さにも慣れてきたある日、専務が僕の肩を叩いた。 「今日の仕事は骨が折れるかもだけど、いい経験になるよ。頑張ってね」  八重歯の社員さんと、物静かなバイトの先輩との三人で車に乗り、都市部のアパートに向かう。  相当な築年数らしく、剥がれかかった塗装が黒ずんで、お化け屋敷のようだった。 「今回の現場は色んな意味でクセェと思うけど、何があっても余計なことは言わんように」  社員さんが僕らに作業着らしきものを手渡しながら言った。バイトの先輩はなにかを察したのか、なぜかにやにや笑っていた。  フードつきの白い合羽のような服が上下一式、手袋とゴーグル、マスク。清掃業務とは聞いていたが、ここまで重装備にする必要はあるのだろうか。  全員が作業着を着たことを確認し、社員さんが先頭に立って依頼主である大家さんに挨拶に行く。 「ご苦労さん。臭いと見た目さえどうにかなればいいよ」  大家さんは小太りした中年の男性で、額の汗をしきりにハンカチで拭っていた。目元は忙しなく泳ぎ、さっさと終わらせてほしいと思っているようだ。清掃現場であるアパート二階、一番奥の部屋の鍵を開けると、早々に管理人室に引っ込んでしまう。  アパートに近づいたときから違和感には気づいていた。形容しがたい、酸味を帯びたような腐敗臭が鼻の粘膜にへばりつく気がする。これが社員さんの言っていた「クセェ」だろうか。 「へ、へへ。君こういう仕事初めて?腰抜かすなよ」  それまであまり喋らなかったバイトの先輩が急に活き活きしはじめた。社員さんが扉を開ける。 なんの変哲もない部屋だった。少し家具が少なくて、すっきりしすぎているくらいで、清掃の必要すら感じなかった。一画を除いては。  奥まった六畳ほどの和室にクローゼットがあって、蝿がたかっていた。  中にはシャツやシーツが丁寧に掛けられているほか、なにも入っていなかったが、「なにか」があったことを示すように底板がどす黒い液体で染まり、所々で白く小さな芋虫のようなもの(多分蛆虫だろう)が蠢いている。液体はクローゼットから滴り、畳まで染み込んでいた。これが臭いの原因だろうか。 「……」 「こりゃクローゼットと畳は処分だな。意外と部屋ん中きれいで助かったぜ」  異様な光景の前で放心した僕をよそに、社員さんの呑気な声が聞こえる。  僕とバイトの先輩の二人でクローゼットを解体する間、社員さんは大家さんと見積もり相談をするために部屋を出て行った。換気はしないようにと言い置いて。 「テンション上がるよな。平和ボケした奴らを尻目に俺たちはこんな仕事やってるんだ。へへ」  先輩の声は小さくて、バールで木材を引き剥がす音に簡単に紛れてしまうから、聞き取るのに苦労した。 「この液体、なんなんですかね」 「は?見てわかんないかな。血とか脂だよ、人間の」  人間。  確かに、犬や猫くらいの体格ではここまでの大きさの染みにはならないかもしれない。実感が湧くと、じわじわと居た堪れなくなってくる。 「なにしてんの」 「黙祷です。人が亡くなってること知らなかったので」  人に対する供養としては一番ふさわしいと思ったのだが、先輩は変な表情を浮かべて僕を見ただけだった。  社員さんが戻ってきて、「お、クローゼット解体終わったか。悪いね」と言いながら染みのついた畳を持ち上げた。床板まで液体が染みてしまっている。黒くて小さな蛆の蛹がぱらぱらとこぼれ落ちた。 「このまま運びますか」 「いや、畳って意外とカッターとかで切れるんよ」  社員さんはビニールシートの上で手際良く畳を切り分け、袋に入れた。  昼過ぎにやって来るパッカー車に引き渡すため、解体したクローゼットと畳を一緒に外に運び出し終わると、昼休憩を挟もうと提案があった。  一旦作業着を脱ぎ、コンビニで各自昼食を調達する。  タバコを吸うからと、社員さんが気を遣って僕らから離れてくれたおかげで、必然的にバイトの先輩と二人きりになった。 「君さ、グロいのとかいけるタイプ?俺めっちゃ好きなんだよね。特にこういう特殊清掃系の仕事だとそういう現場多くてさ。前回とか頭皮ごと髪が残ってて……」  あまり興味がなかったので曖昧に相槌を打つうちに、今日の現場の違和感に気がついた。 「あの現場って、部屋の持ち主の方がクローゼットの中で亡くなられてたってことですか。狭い場所お好きな方だったんですかね」  先輩は意味ありげな笑みを浮かべながら、大げさにため息をついた。 「これだから素人は。クローゼット内で孤独死とか不自然すぎるだろ。あれはな、死体遺棄現場だよ」 「死体遺棄……」 「蛆の蛹が結構落ちてたから、死後数週間は経ってただろうに、あの部屋には生活感がなかった。なにかの理由で死体をクローゼットに押し込んでトンズラこいたのさ。大家も気味悪そうにしてたしな」  その後も先輩は、死体遺棄するにしても直に突っ込むのは素人だ、どうせなら布団圧縮袋に入れれば腐臭も抑えられたかも、など語っていたが、僕はうわの空だった。頭の中で何度も同じ光景が繰り返されていたからだ。  暗い部屋。飛び交う蝿。骨のような四肢。  その後の業務のことは簡単にしか覚えていない。床板の染みを洗剤をかけてこそげ取り、部屋全体に薬品を吹きつけてまわった。  家具などの撤去は大家さん側で処理するとのことで、僕らの仕事は終わった。  家に帰っても鼻の奥に臭いが残っていて、服に染みついていないか気になった。家主に指摘されるのも具合が悪いので、すぐに服を脱いで洗濯機を回す。  零は仕事部屋に篭っていたのか、家の中はしんとしていて、僕の行動を訝しむ者はだれもいなかった。  なんとなく人恋しくてテレビをつけると、ニュース番組でさっきの仕事現場が映し出される。  「アパートで死体遺棄•男女関係のもつれか」とテロップがついていた。アナウンサーが冷静な口調で事件内容を読み上げる。 『××市のアパートで、三十代女性のものとみられる遺体がクローゼットの中から見つかりました。警察は交際関係でトラブルがあったとみて、この部屋に住む三十代男性の行方を追っています……』  詳細に入る前にテレビを消した。  それからはいつも通り、夕飯時に出てきた零と何気ない会話を交わして過ごし、シャワーを浴びて、ベッドに入った。明日は休みだ。  寝つくまで、今日の現場の景色を何度も思い返していた。  暗い部屋にいる。カーテンは閉め切って、陽の光が遮断されている。淀んだ空気の中にすえた臭いが混ざり合う。 『はあ……はあ……はあっ……』  汗の臭いに惹かれるのか、蝿が動きの邪魔をする。鬱陶しいと思いながらも必死に、目の前の「なにか」を大きな袋に入れ、チャックを閉めて掃除機で空気を抜いていった。  ひしゃげていく「なにか」。  そいつが突然、落ち窪んだ眼球をぐるりとまわしてこちらを睨みつけた。 『お前のせいだ』 「うわぁあッ」  自分の声で意識が目覚め、跳ね起きたことに気がつく。背中がじっとりと濡れていた。そろそろ梅雨が明けるから、扇風機を置くべきかもしれない。  携帯を確認するとあと数分で七時になろうという時刻だった。寝坊だ。慌てて部屋を出る。  階段を降りるとき、濃いタバコの匂いがすることに気がついた。テレビ前のソファで零がだらけている。口元には火のついたタバコが咥えられていて、ゆらゆらと筋のような煙が昇っていく。  彼がこの時間に起きているのは珍しい。 「ごめんレイ、寝坊した。すぐご飯作る」 「ん、大丈夫。寝られなかっただけ」  どこか上の空といった調子で、タバコの先端が上下に揺れる。見ている側としては灰が落ちて火傷しないか心配になる。 「お前、今日一日は藤本な」 「ん?」 「藤本って名乗れ」  突然の命令の理由を訊く間もなくインターホンが鳴り、零が乱雑に髪を掻き乱しながら玄関に向かう。 「くっさ!お前まだタバコ吸ってんの、いい加減やめろよ」  零によく似た声が聞こえる。ただ、妙な明瞭さのあるその響きは、零の声が持つ気怠く甘い包容力を感じさせない。  よく言えば意志が強い、悪く言えば横暴なくらい足音を踏み鳴らし、オフィスカジュアルな服装の男性が一人リビングに現れた。零がげんなりした顔で後ろから戻ってくる。 「え、誰この子ー。お前の新しい恋人?」 「あー……うんうん、そう」 「こいっ、」  顔が熱くなったが、零の視線からは「話を合わせろ」と読み取ることができた。この男性に詮索されたくないのかもしれない。  慣れた様子でダイニングチェアに腰かけた男性に、軽くお辞儀をする。 「初めまして。ろ、……藤本凪です」 「ふーん、凪くんね。俺は芦港乾(ロコウケン)。こいつの兄」  お兄さんがいたのか。確かに、親族なら僕が零の従兄弟でないことはすぐにバレてしまう。それにしても、僕は零の家族構成も経歴もまともに聞いたことがなかった。少しショックだ。 「なるほど、部屋片付いてると思ったら、彼ピくんのために頑張ったわけね。やっぱやろうと思えばできんじゃん。え、まさか彼氏にやらせたんじゃないよな」 「……」  零が明らかに不快そうにタバコを深く吸い込んでも、お兄さんのマシンガントークは止まらない。  重い空気をなんとかしたくて必死に頭を回す。 「えっと、レイ朝食まだだよね。お兄さんも食べます?」 「作ってくれんの?凪くんやっさしー、これから仕事なんだけど、どうせ近く寄るなら零の様子見てこいって親父に言われてさ。メシ作る暇もないのよ」 「コンビニ弁当でも食ってろよ」  吐き捨てるような零の言葉に、お兄さんは軽い笑い声をあげた。そして次の瞬間には凍てつくような笑顔で、濁った色の眼差しで、零を睨んだ。 「お前ほんっと生意気だな。それが家族に気にかけてもらってる態度?この家だってじーちゃんたちの別荘、親父が譲り受けたのを貸してもらってること忘れんなよ。いい歳こいて自立すらできてねーのに調子乗りすぎ」  黙ってしまったまま零はお兄さんの斜め向かいに座る。一触即発な空気に冷や汗をかきながら僕は朝食の準備に取りかかった。 「そうそう。社長の娘さんが漫画家でさ、うちの会社でも何冊か単行本出してるけど……。去年完結したお前のシリーズものあるじゃん、あれをコミカライズしたいって言ってんだよね」 「どんな作風なの」 「ふっつーのBL漫画家。原作が解釈違いだから主人公カップルをくっつけてハッピーエンドにしたい!って意気込んでんだって。あれ終わり方暗かったし丁度いいじゃん、ご息女の担当も面白そうって言ってるし許可してやれよ」 「いや、そもそも俺はあの二人を恋人として書いてな、」 「あのさ、うちはBLレーベルなわけ。たまたまお前の作風が編集長のお眼鏡にかなったってだけで、売り出す側としてはレーベルの方針に合わせる気のないお前みたいな作家は扱いにくいし、ウザいんだよ。好きなもの書きたいってんならまず売れろよ」 「あ、あのー。チャーハンできました。余り物使ってるので具材変ですが」  わざと空気を読まずに、二人の前にチャーハンを置く。お兄さんはぱっと人のいい笑顔に変わり、「ありがと〜」と言って食べはじめた。零は俯いたまま、黙ってもそもそと口に運んだ。 「相変わらず陰気な奴」  零への興味を失ったようすで、お兄さんは僕に話しかけてきた。彼が食べ終わるまで、僕は当たり障りのない返答をし続けた。 「ごちそうさまぁ、久しぶりに手料理食ったわ。んじゃそろそろお暇しますかね」  玄関に向かい、手提げ鞄を持ち上げた背中を零が呼び止める。 「俺、許可しないから。勝手にやりやがったらお前も社長の娘も訴える」 「……あっそ。頑固なだけでやって行けると思ってる馬鹿はそのうちのたれ死ぬよ」  また来るから、と言い残して、扉が後ろ手に閉められた。直後、零が頭を掻きむしってその場に崩れ落ちる。 「っうぅう……!クソ、クソが……!!」  背中をさすろうとして振り払われ、なにか声をかけるべきか悩んでいるうちに、零はすっくと立ち上がると、ふらついた足取りで二階の部屋に戻っていった。  彼が篭ってしまうと、異様に静かで落ち着かないまま、休日が終わっていく。  夕方買い出しに行って、夕食を作り零を呼んでも返事はなかった。  一人の夕食を済ませて寝る支度を整え、もう一度零の部屋の扉をノックする。 「レイ、僕もう寝るね。おやすみ」  やはり返事はなかった。  自室に入る前に物置から扇風機を運び出し、ベッドの脇に設置する。明日は仕事だ。  電気を消すと鼻の奥にあの腐敗臭が蘇る。軽く頭を振って布団に潜り込んだ。 ……暗い部屋。 ……飛び交う蝿。 ……睨みつける眼差し。 「わぁああッ」  また飛び起きた。  時刻は深夜の二時。  じっとりと吹き出した汗が扇風機の風に冷やされて、寒気がする。  動悸を落ち着かせるため深呼吸を繰り返していると、扉の向こうでがたごととなにかを動かす音がした。 (泥棒、じゃないだろうな)  念のため、細く開けた扉の隙間から覗いてみると、色素の薄い髪が夜の闇の中で揺れていた。 「レイ?」  声をかけると動きが止まる。 「ナギ、起きてたの」 「嫌な夢見て。探しもの?」 「ちょっとね。明日でいいや」  泣いていたのか、声が潤んでいる。  持っていたものをぐいっと物置に押し込んで、零は踵を返し部屋に戻ろうとした。  開きっぱなしの物置を覗くと、物の配置は扇風機を出したときとあまり変わっていない。  ただ、さっき零が押し込んだ手前側の位置に、元々は奥にしまい込んであったはずの七輪が置かれていた。 「レイ」  声をかけると、相手の肩が少し震えた。 「なに」 「僕の部屋で寝ない?」 「なんで」 「最近夢見悪くて、一人だと心細いから」  嘘ではなかった。  ただそれ以上に、こうでも言って引き留めないと、零が取り返しのつかないことをしそうで怖かった。 「小学生かよ」  はは、と力なく笑いながら、彼は僕の部屋に入ってきた。  二人でベッドに寝転ぶとさすがに窮屈だし、暑い。それでも零の体温を感じていたくて、自分より背の高い彼の頭の上に、自分の顎がくるようにして抱きしめた。 「暑苦しい」 「ごめん」  Tシャツの隙間から鎖骨付近に息がかかってくすぐったい。今更ながら変な緊張で逆に目が冴えてしまいそうだ。  零が鼻をすする。ぱたぱたとささやかな水音が聞こえる。泣いているらしい。 「七輪出してた」 「うん?」 さっきの行動のことだろうか。 「練炭見つからなかった」 「うん」  こんなに泣いているのだから、バーベキューなんてお気楽な予定があった訳ではなさそうだ。  泣き声に嗚咽が混じって聞きとりづらい。耳を寄せてなんとか言葉を拾う。 「死のうと思ってた」 「……そっか」  浅い息で泣き続ける頭を撫で、強く抱きしめる。 「俺、俺……乾が言う通り、未だに自立もできてないし、家事もろくにできないし、今の仕事なくなったら多分、まともな仕事できないゴミ野郎だと思う。でも俺らしくいたいだけなんだ。自分勝手なのはわかってるけど、それだけなんだ」 「うん」 「悪いことかな」 「悪くないと思う。人として、いや生き物として当然の気持ちだよ」  少し呼吸が落ち着いてきたようだ。  開け放した窓から軽やかな虫の鳴き声が流れ入ってくる。 「……なんで俺が死ななきゃいけないの」  ぽつりと呟いて、彼は眠った。  ほのかに甘く、寂しい零の匂いを感じながら、ただ色の薄い柔らかな髪を撫で続けた。  また、夢を見た。  今度は僕は廊下にいて、背中を押しつけ必死に背後の扉を閉ざしながら、つんざくような悲鳴から逃れようと耳を塞いでいた。  死なないで、死なないで、死なないで。  ただそれだけを願っていた。

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