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8・エゴについて

【エゴについて】 「おはよう」  目蓋が腫れた眠そうな顔のまま、零が言った。 「おはよう」  携帯のアラームを止め、挨拶を返す。そういえば昨日一緒に寝たのだった。後味の悪い夢のせいか、身体がぐったりと重い。  珍しく二度寝しなかった零と一階に降り、珍しく揃って朝食を食べる。零は昨日の晩御飯を食べるとのことだったので、準備は一人分でよかった。 「今日は仕事だけど、なるべく早く帰るから待っててね」  クローゼットに押し込まれ腐敗した零を想像して、背中に悪寒が走った。帰ってきたら彼がいないなんて嫌だ。  零はなにも言わず小さく頷いた。  出かける支度を済ませて玄関に向かったところで、これまた珍しく見送りに来てくれた零を振り返る。 「あのさ。レイは病院信用してないみたいだけど、やっぱり今度一緒に行かない?不安なとき、気持ちを落ち着かせる薬とかもあるから」  嫌だ、と言われるかと思ったが、意外にも「考えとく」と返事があった。  指定された集合場所に向かいながら、どうして病院に行くことを勧めたりしたんだろう、と考えた。  零は頑固だし、理解の浅さに甘える人間が嫌いな性分らしい。下手なことを言って怒らせてしまったら、あの家から追い出されていたかもしれない。 (それでもいいと思ったのか)  自分が住むところに困ったとしても、零に生きていてほしいと思ったのか。  この感情が、精神疾患者に対する一般的な憐れみなのか、僕自身の零に対する個人的な執着なのかはわからなかった。  ただ、零にもっと零らしく、束縛なく生きていてほしいと思っただけだ。 (そうか、これが僕の理想であり、エゴなのか)  そして零は僕のエゴに理解を示してくれた。受け入れる可能性を伝えてくれた。  じわじわと嬉しい実感が湧いてくる。初めて零と本音で、向き合って話せた気がした。  バイトの内容は迷子犬探しで、根気のいる業務だったが幸いすぐに見つかり、実務は五時間程度で済んだ。それでもフルタイムで働くのと同じくらいの給料だからありがたい。  帰りがてら、食材を調達しにスーパーへ向かう。家から電車で二駅ほど先にある街が穴場だった。  夏場の三時過ぎは釜の中のような茹だり具合で、日向と日陰のコントラストに目が眩む。こんな暑さだと蝉すら鳴かない。  日射しを避けながらなんとか店内に逃げ込むと、火照った身体が冷房の効いた空気に包まれ癒されていった。久しぶりに息が吸えた気持ちだ。 (冷やし中華食べたいな)  途中、コンビニののぼり旗が出ていたから影響された。零は好きだろうか。  冷麺、キュウリ、トマト、卵はまだあったはずだ。  最後にハムを手に取ったとき、声をかけられた。 「あれ、凪くんじゃない?偶然〜」  一瞬零の声と聞き間違えそうな、でも正反対な性質の声。零のお兄さんの乾だ。 「今日は、乾さん。今日もお仕事ですか」 「そうなの。出張みたいな感じでさー。このスーパー安くていいね」  愛想笑いを返す。昨夜の零のことは話す気になれなかった。 「君も聞いてたよね、コミカライズの件。社長がものすごい子煩悩だからさ、株上げといたほうが後々あいつにとっても得だと思うんだ。でしょ?」 「あー、えっと、そういう考え方もありますよね。はは」  ただしそれは乾の個人的な意見に過ぎないだろう、と思ったが言わないでおく。 「そうそう。それで俺の人脈増えたらあいつにも営業の機会作ってやれるし、いいこと尽くしじゃん。という訳で今回はあいつのわがままにつき合ってる場合じゃないんだよね。……あいつ、君に随分懐いてるみたいだね。月江凪(ツキエナギ)くん」 「……え、」  背中に氷水をかけられたような、いや、流し込まれるような不快な感覚。  身体中から汗が噴き出しているのに、口は乾ききってうまく動かない。 「誰、のことですか。僕は藤本、」 「偽名ってのは最初から知ってたよ。言い慣れてるかどうかって割と口調で分かるんだよねー。ねぇ、君のお母さん死んじゃったよ?帰ってあげなくていいの?」  濁った色の眼差しをいやらしく歪め、乾が僕の耳元で囁く。周りに聞かれていないか気が気でなかったが、幸いまだ混む時間ではない。 「……どこまで知ってるんですか」 「そんなに怖い顔しないでよ〜。ちょっとしたツテがあってさ、色々面白い話聞かせてもらうんだよね。それとなくぼかして話せば作家さんの刺激作りにもなるし便利なんだよ」 「君は今家出少年扱いだよね。君が去ってしばらくして、元々精神が不安定だった母親は衰弱死した。事件性が薄いとのことで、警察は君の捜索自体は大々的には行っていない。でも本当に事件性はないんだろうか」 「なにが言いたい」 「精神が不安定で衰弱死するほどの人が、まともに自分の世話ができるかな?家の中は一般的な孤独死の現場より、全然片付いていたそうだ。母親の遺体があった部屋だけ何日も暴れたように荒れていた。君が面倒見てたんじゃないの?そして……世話が嫌になって殺しちゃった?」 「!」  乾を突き飛ばして逃げようとしたが、思いの外力の強い手に、逆に腕を掴まれてしまう。 「俺の目的は、あの現実見えてないわがまま王子ちゃまを従順にさせることだ。兄だから気にかけてやれ、って言われたって共倒れはごめんだからね。凪くんに恨みはないけど使えるものは使わせてもらうよ」 「……」 「あっはは良いねその目、プライド高い犬みたいで服従させたくなるよ。じゃあ手始めに、許可出さないんだったら凪くん警察に突き出しちゃうよ、って言っといてもらえる?そうなったら多分、今みたいに一緒には居られなくなるね」  よろしくね、と人当たりのいい笑顔で手を振り、乾は去っていった。  僕の腹の中では煮えたぎる悔しさと、ヘドロのような不安が渦巻いていた。  家に帰ると、ソファで寝ていた零が目を擦りながら上体を起こした。 「おかえり」 「ただいま」  零の姿を見て切なくなる自分に首を傾げつつ、夕食の支度をする。その間何度も、乾の濁った色の目が脳裏によぎって腹が立った。 「元気ない?」 「ううん、大丈夫」  大丈夫という言葉は元気のない心当たりがあるからこそ出るものだと、理屈では分かっていてもそう言わざるを得なかった。  大丈夫、まだ大丈夫だ。  大丈夫だと思い込まないと叫び出してしまいそうなほど、僕は混乱していた。  警察が僕を探すことに熱を入れていないのは幸運だった。厄介なのは乾だ。 (あいつさえいなければ、僕を知るものはいなくなる?)  いや、だめだ。そもそも乾は僕のことを人づてに聞いたらしいし、罪を塗り重ねたって問題が解決するどころか、足を絡め取られるだけだ。潮時なのだろうか。自身の犯した罪を背負い、「死」に向き合うときなのか。 「ナギ!」  鋭い声で我に返り、キュウリを押さえる指が出血していることに気がつく。包丁で傷つけてしまったらしい。いつの間にか横に立っていた零にごめん、と言って、血がついてしまったキュウリはゴミ箱に捨てる。 「やっぱ変だよお前。もしかして乾になにか言われた?あいつ出張でしばらくこの辺に泊まるって、さっきメッセージがあった」 「……後で話す」  食卓はお通夜のような空気で、せっかくの冷やし中華もあまり味がしなかった。  夕食後、沈黙に耐えかねたのか零がつけたテレビも、リモコンですぐに消して、ごめんと口にする。何度も謝る自分が情けなかった。 「乾がしつこい。『今日スーパーで凪くんに会ったよ。彼なんか言ってた?』って」 「零がコミカライズの件許可しないなら、僕のこと警察に言う、って、言われた」 「家出のこと?なんであいつが知ってるんだ。別に俺は困らないけど、俺が誘拐罪で捕まってあいつに利があるとも思えない」  零が口元を手で覆って考え始めた。 「ナギは地元に帰りたくないんだよな。その割に、お前が探されてる様子もない。行方不明届すら出てないんじゃないの。親はどうした」 「僕を探すような親はいない」 「ふぅん」  思ってたより厄介そうだなと呟いて、零はソファにもたれかかり、タバコに火をつけた。僕は申し訳なくなった。 「なんでそんな縮こまってんの。俺厄介な話好きだよ」 「僕がいなければレイがこんなに煩わされることはなかった」 「お前がいなかったら、俺は今ここにいないかもな」  顔をあげて零を見ると、いつもの暗い目は夏の闇夜のような、しっとりとした暖かさを内包していた。 「何回も思ったんだ。俺が生きてることが自分にとっても、周りにとっても害になってるって。お前がいなかったら思い直すこともなかった」 「なにもしてないよ」 「俺の痛みに気づいてくれた」  そういうものだろうか。零に生きていてほしいと思ったのは、ただの僕のエゴなのに。 「エゴに勝てるものはエゴしかない」  と、零は悪戯っぽく笑った。  揺らぎながら昇る煙を眺め、決心した。全てを話す勇気はまだないけど、零には真実を聞いてもらいたい。 「僕は罪を犯した」 「なんの?」 「それが……、わからないんだ」  首を傾げられた。当然の反応だ。僕も訳がわからない。 「それは乾が警察に言ったら、ナギが罪に問われるようなことなの」 「多分」  零は腑に落ちない表情で頭を掻きながら、なるほどと呟いた。 「覚えてるのは……暗い部屋で、ひどい臭いだった。蝿が飛んでて、痩せた手足、僕、僕は怖くなって」  冷や汗が噴き出て舌がうまく回らない。ソファに隣あって座っていた零が頭を撫でて、抱きしめてくれた。 「気になるけどゆっくりでいいよ」 「……ごめん」 「とはいえ乾は相当ご機嫌斜めみたいだな。あいつの脅しが本気かはわからないけど、何かしら落とし所をつけるべきか」 「レイってBL小説家だったんだね」 「あれ、言うの忘れてたかな。作風は異端の部類みたいで、一部の人たちが追ってくれてるって感じだけど」  タバコを深く吸い込みながら、零は不快さを隠しもせずに眉根を寄せた。 「コミカライズ自体が嫌な訳じゃない。ただ、一般にウケるようなBL作品しか好まない漫画家なら、俺の小説を理解できるとは思えない。それならわざわざ俺の作品をコミカライズしなくたっていいだろ……どんなに泥臭くても作品は作品だ。生半可な理解で描いてほしくない」  零の意見は真っ当だと思う。そして、零の作品を犠牲にして世渡りをする乾のやり方は横暴ではないかとも思う。 「乾さんってレイの担当編集さんなの?変えてもらったほうがよくない?」 「相談したこともあるんだけどな。兄弟だし勝手が分かっていいだろって……あいつ表向きの評価は高いから、俺と違って」  自嘲気味の乾いた笑いを洩らし、零はまた少し黙ってなにやら考えているようだった。 「例の漫画家と話してみるよ。あの小説で書きたかったことを伝えてみる。その上で、作品の雰囲気壊されるような話にされなければ許可も出せるし。俺の思想が理解されるとは思わないけど、なにもしないよりマシだ」 「うん」  ふと、どうして零がこんなに頑張ってくれるのか気になった。彼が警察に捕まることに抵抗がないなら、僕のことなんて放っておいてもいいはずだ。  疑問を口にすると、零は面白くなさそうに唇を尖らせた。 「それが俺のエゴってだけだよ」

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