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9・孤独 ※R18
【孤独】
「驚いた」
休日やることもなく、ソファでだらけながら動画SNSを眺めていると、仕事部屋から出てきた零が放心した様子で隣に座った。手には携帯端末を握っている。
「漫画家さんと話してたの」
「うん、とりあえずチャットで。相手曰く、原作が解釈違いとは一言も言ってないらしくて、向こうも驚いてた」
「え、それって乾さんの伝え方で誤解が生まれたってこと?」
「そうなる。ただ、社長の娘……未澄 さんは基本救いのある終わり方が好きだから、俺の作品で主人公格二人が絶望しながら死んだのがショックだったらしい」
「死んだんだ……」
「だからあくまで原作を踏まえたうえで、もしも二人がもっと心を通わせていたらこんな道もあったかもしれない、って風に描きたかったって」
「レイはどう、それで納得いった?」
「粗筋聞かせてもらったけど、正直面白いと思った。それぞれの心情も丁寧に読み解いてくれてるし、大丈夫そう」
零が大きく息をついた。心からの安堵のようで、僕も自分のことみたいに嬉しくなる。
「構想練れたらまた確認してくれるって。こんなことなら初めから直接連絡するんだった」
「レイの作品理解してくれそうな人でよかった。僕も読んでみたいな」
「いいけど、暗いし面白くないと思う」
「作者がそんなこと言っちゃだめだよ。読んでくれてる人もいるのに」
軽く叱ると零は、それもそうか、と思ったより素直に受け入れた。
零と未澄さんの話し合いが順調に進み始め、僕もこれまで通りの生活を続けようと努めていたある日、例のスーパーで人当たりのいい笑顔を浮かべた乾と出くわした。
「やあ。零がコミカライズの許可出したってね」
「そうみたいですね」
「そう邪険にしないでよー。あんなに上手くいくとは思わなかったな、君の存在は想像以上に大きいらしい」
乾の細く歪んだ、濁った色の瞳に嫌悪感を覚える。人を実験動物のように扱う態度がおぞましい。
「でもなんかつまんねぇな。愛があれば人は変われるみたいなの、陳腐すぎると思わない? 人を頼んなきゃ変われないのかよ。……忠告しといてあげる。そういう弱い奴って根っこの部分は変われないよ。君がどんなに尽くしても全部無駄になる。吸い尽くされる前に逃げた方がいいよ」
黙って睨み続ける僕に「じゃあまたね」と残し、乾は去っていった。
もうあのスーパーには行かないでおこうか。
(要するに乾さんは、僕がレイと一緒にいても意味はないって言いたいのか)
そんなことはない、はずだ。
だって、零は僕のエゴを受け入れようとしてくれた。自分のエゴを僕に向けてくれた。
(でも僕はレイのことをなにも知らないし、それはレイからしても同じだ)
根拠のない虚しさが胸中を満たすのに、そう時間はかからなかった。
「ただいま」
家に帰って声をかけても返事はない。代わりに、リビングの方で話し声がする。
「はやく帰れよ下手くそ」
「いいだろあと一発くらい。最近お前付き合い悪ぃし」
「気分じゃないんだって……んっ、」
誰か来ているのだろうか。不思議に思いながら覗き込むと、ソファに手をつき、衣服が乱れた零の後ろから、細身ながらほどよく筋肉の引き締まった男が覆い被さっている様が視界に入って、思わずビニール袋を落とした。
その音に驚き、振り返った零の顔が歪む。
「おい待て、外に出せっ」
「いきなりすげぇ締めつけ……まだガバマンじゃなかったんだ、あー出る出るっ」
男の腰ががくがくと揺れ、毛深い太ももに押し潰された白く滑らかな尻たぶが、柔らかな弾力を見せつけてくる。
「ぁ、っ……くぅ……っん」
背中から腰をいやらしく波打たせ、悶える細い首に男の指が這い上がって締め上げる。途端、一際甘く零の喉が啼き、びくびくと肩を震わせながらその場にへたり込んだ。
柔らかな尻たぶの間から引きずり出された、グロテスクな黒々とした肉棒が、強欲に反り返って零の後頭部を舐め回す。
僕は口を開いたままなにも言うことが出来ずに、その場に立ち尽くしていた。
「ふぃー。ん、あの子どちらさん」
「い、従兄弟、だよ」
「従兄弟? へぇ、似てないけど可愛い顔してんじゃん。おう兄ちゃんもっとこっち来いよ」
興味津々なようすで寄ってこようとした男の足首を、零が強く掴んだ。
「汚い手で触んな」
「汚いもなにももう食ってんだろ? 3Pしようや」
「あいつはそういうのじゃない」
「へ、手出してないの、お前が? うっそぉ」
大げさに驚いた声を出し、僕のことをじろじろと観察すると、男は顎に手を当て、ははーんと分かったような顔をして見せた。
「なるほど、最近男食ってねぇのはあの坊主にご執心だからか。あの子いくつよ、まだティーンズじゃね? お前そういう趣味だったの」
零が鬱陶しそうに眉根を寄せて舌打ちする。
「やめとけって。お前にプラトニックな生き方なんかできねぇよ。てめえで一番分かってんだろ。しかも相手はちんちくりんのチェリーくんときた……どうせノンケだろ。絶対上手くいかねぇやつじゃん」
品のない大声で笑い、勝手も分かってんだから大人しく俺にしときゃいーのに、と乱雑に頭を撫で回す男の手を、零は払いのけた。
「お前は一番ないな」
「はぁ〜? 芦港センセの私生活の自堕落さ容認してやれる奴多くねぇぞ。夜中喚くし、家事片付けしねぇし、ってそれは俺も一緒だけどな」
「締め切り近いって言ってんのに毎晩襲ってくるKYクソチンポとか嫌だ」
「だめって言われるとヤりたくなるってあるじゃん。分かってよ」
馴れ馴れしく零の肩に浅黒い腕を回し、噛み癖のある薄い唇に、生き物じみた肉厚な舌を押しつける様がとても不快だ。
乾ききった口を無理矢理動かし、僕はなんとか言葉を紡ぐ。
「お邪魔、しました」
男の身体に絡め取られた零が、なにか言いたげな表情をこちらに向け、諦めたように俯いたのが印象に残った。
食材を冷蔵庫に入れずに出てきてしまった。
でも戻る気にはなれなかった。
放心したまま行くあてもなく歩いていると、零と初めて会った駅の近くのベンチが目に入って、なんとなく腰を下ろす。
どうしてこんなに辛いんだろう。
部屋の壁越しに情事を聞いてしまったときとは違う、自分でも戸惑うほどの濁った感情に支配される。
(僕は彼になにを求めているんだ)
居候と家主、ただそれだけの関係のはずだ。それなのに、
(僕は彼を独占したがっている)
辛かった。苦しかった。恥ずかしかった。
この感情が究極のエゴであることを知った。
ベンチで考えごとをした後は、またあてどなくゾンビのように歩いて、気づいたら海辺にいた。
真夏の夕暮れは絵の具をぶち撒けたような激しい色をしていて、遠くの方でカップルや家族連れが遊んでいる。余計に孤独感が深まるけど、今の心情にはおあつらえ向きな気がした。
梅雨どき、零とこの浜辺に来たことを思い出す。
今日は晴天だから叫べない。
零は孤独なひとだ。あんな声で叫ぶひとが孤独じゃない訳がない。
僕はその孤独に同調し、愛し、寄り添いたいと思った。
人を救うには覚悟がいる、と言った、ピアスの先輩の言葉が蘇る。
自分と同じものを見ているものは存在しない、と言った、零の孤独を想う。
そして今日の乾の言葉は、零を孤独から引きずり出すことはできないと言っているようだった。
それは違うとか、きっとできるとか、大それたことは僕には言えない。
(でも、嫌だ)
そんなの嫌だと、子どものように心が喚く。
じゃあどうすればいい。
逃げ続ける罪人の身で、なんの決定権も持たない僕ごときが、どうやって彼の孤独を払える?
(無力だ……)
「おかえり」
家に帰ると、ソファに座った零が、振り返らないまま言った。
シャワーを浴びた後なのか、ラフにシャツを羽織った肩越しにタバコの煙が揺れるのが見える。
「……ただいま」
自分でも驚くほど覇気のない声になってしまったことに情けなさを感じた。
落としたままだったビニール袋から冷蔵庫に食材を移し、夕食の支度を始める。いつもより遅くなってしまった。
ご飯の準備ができて二人で食卓を囲むまで、どちらもなにも言わなかった。
「軽蔑した?」
ゴーヤチャンプルのゴーヤを転がしながら零が尋ねる。
「なにを?」
「さっきの」
抽象的な言葉から、零に絡みつく男の姿が蘇り、複雑な気持ちになった。
「別に、今さらだから」
「つまり前から軽蔑してたってこと?」
茶化すような言い方に反して、後ろ向きな発言に面食らうが、こういうときの零が大抵ひどく弱っているということを、僕は彼との生活の中で心得ていた。
「恋人でもない人とせ、セックスすることは、理解はできないかな」
「そう」
沈黙が降りる。
なにか話すべきかと考えているうちに、零が口を開いた。
「あいつと俺は似てるんだ、と思う。生身で人とぶつかるのが怖くて、表面的な関係に逃げてる。傷の舐め合いだ」
「仲良いの」
そんな健全な感情じゃない、と力なく首が横に振られる。
「ただのセフレの内の一人だったんだ。気づいたら家に入り浸るようになって、都合の良いチンコとして使ってたんだけど、段々自己主張激しくなって」
「仕事の邪魔してきたり、俺が他の男連れてきたら、そいつの前で俺とヤってるとこ見せつけたり、鬱陶しくなって追い出した」
醜い独占欲。
ふと、そんな言葉が頭に浮かぶ。
あの男と僕の欲の、どこに差があると言えるのだろう。
「僕はレイのなにになれる」
皿の上のゴーヤが滑って回転する。
「わからない。し、それは俺が決めることじゃない」
零の言葉は正しいと思った。要求に合わせるだけなら、僕でなくてもいいからだ。
僕自身の理想を追求する、エゴを実現する……。
「僕は君のことが知りたい。そのうえで、一緒にいたい」
零が顔をあげた。暗い色の瞳で探るように、試すように僕を見る。
「それは憐れみ? 惰性? もしその程度の覚悟なんだったら、俺は一緒にすらいたくない」
その疑問に対する答えが見つかっていないことを見透かしたらしく、零はあの諦めた表情で目を伏せた。
「お前まだ若いから、俺程度で色々知った気になっちゃだめだよ」
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