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14・飼い殺される天使たち 前編

【飼い殺される天使たち】  いつの間にか眠っていたらしい。マットレスが沈みこむ感覚で意識が浮上したが、昨日遅くまで起きていたせいで目を開ける気にはならなかった。  部屋の中で人が動く気配がする。青海さんはこれから仕事なのだろうか。ほどなくしてシャワーを浴びる音が聞こえてくる。  またしばらく人が動き回る気配がすると思ったら、背後でマットレスが沈み、人肌の温かさが空気に混じってうなじを撫でた。  耳元に息がかかるのがくすぐったい。身体が緊張する。 「もしも、警察に行くのなら君の地元で。なるべく早いほうがいいよ」  本当に微かな呟きが聞こえたかと思うと、マットレスは軽く弾んで形を取り戻し、扉が開く音を最後に、気配は消えた。 「……!?」  思わず跳ね起きた。眠気は吹き飛んでしまった。何回か深呼吸を繰り返す。 (警察って、言った)  彼は最初から僕のことを知っていた?  呆然とした気持ちのまま立ち上がると、デスクの上に書き置きがあった。 『仕事に行ってきます。話せて楽しかった。部屋には12時まで居られます』  壁にかかった時計は九時半を指している。そろそろ零の活動時間だろうか。朝食を作ってあげないと。  チェックアウトを済ませ、来たときと同じように電車に乗って家の最寄り駅に着いた。  ミンミンゼミが懸命に鳴いている。朝の冷涼な空気が徐々に温められていくのを感じた。  鍵を開け、深呼吸をして扉を開く。家の中はしんとしていて、仕事部屋をノックしても返事はない。軽く中を覗いたが、誰もいなかった。少し物が散乱している。 (まだ寝てる?)  二階にあがって、呼びかけながら零の部屋の扉を叩く。 「……ナギ?」 「うん。帰るの遅くなってごめんね、ご飯今から作る」  無事を確認したので一階に降りて、朝食の準備に取りかかっていると、零が降りてきて浴室に向かった。ふらついているのが少し心配だった。  食事の準備ができたころ、零がお風呂からあがって二人でダイニングテーブルに着き、ぎこちないほど日常的に手を合わせて食べ始める。  ふと、シャツの襟元からのぞく零の首筋が痛々しく変色していることに気づく。彼が麻紐を使って自慰しても、こんな跡にはなっていなかった。まるで、太く無骨な指に締め上げられたような。  僕の表情が(かげ)ったのに気づいたのか、零がシャツの第一ボタンを閉めた。 「どこに行ってたの」 「……コンビニ」  嘘は言っていないのに微かな罪悪感が胸を刺す。それでも青海さんのこと、彼の最後の言葉に関しても、話すつもりはなかった。  なにか言いたげな顔をして、零はそのままなにも言わずに目線を落とした。お互いに踏み込むことのできない距離感が正直心地悪い。  大きな動きはなく、その日も終わっていった。  イヤホンで耳を塞ぎながら、電車の座席から伝わる振動に身を委ねる。吉浦さんから連絡があったため、会社のある都市部に向かう途中だった。  メッセージには、『見積もりの詳細や事後報告のこと含め話を聞くために、神和さんに会社の会議室まで来てもらうことになった』、と書いてあった。  指定された部屋に着くと、すでに大津さんがいて、スクワットをしながら顔を僕の方へ向ける。 「おうっ」 「今日は大津さん。早いですね」  椅子に座ってしばらく経ってから吉浦さんが到着した。僕は挨拶をしてから、話を聞き出す流れについて確認しようとした。が、途中で扉がノックされる。 「今日は。神和と申しますが、会議室はこちらで間違いないですか」  吉浦さんが扉を開け、神和さんを迎え入れる。 四人とも椅子に座って、見積もりの話が進み、報告書の内容に関することに話題が移った。僕は吉浦さんの横顔を見つめた。真相を聞き出すチャンスだが、結局どう聞き出すのか聞けていなかった。  なかなか話が切り出されない。  気まずい沈黙の中、壁かけ時計の音だけが虚しく響く。 (もしかしてなにも思いついてない……!?)  軽い絶望を覚えた瞬間、扉がノックされ、専務が顔を出した。 「やあ。進んでる?」 「あ、」  吉浦さんが気まずそうに口を開くが、言葉が出てこない様子で目を泳がせている。 「なにからご説明するべきか悩んでいて」  僕はとっさに助け舟を出した。神和さんに無計画を勘づかれることだけは避けたい。  専務は状況を察した様子で頷いた。 「なるほど。色々入り組んでいたからね」  専務は扉のそばのパイプ椅子を持って僕らの近くに立ち、神和さんに自己紹介して名刺を手渡した。それから椅子に座った。 「今回の仕事の概要は私も聞き及んでおります。お屋敷にいた人物には干渉せず忘れ物を取りに行ってほしい、というご依頼でしたね。しかしこちらとしては、依頼主様が意図的に隠された箇所が、法に触れないものであるという確証が欲しくてですね。知らなかったとしても犯罪行為に加担したとなれば会社の体裁が悪くなってしまうし。少々変わった案件も扱う仕事なのでその辺審査が厳しくて、怪しいところがあると面倒なほど言及されたりもするんですよねぇ」  向かいに座った僕は、神和さんの表情が硬くなったのを見逃さなかった。緊張で手に汗が滲む。 「いえ、もしね、神和様のご実家に他人に踏み入られたくない事情がおありでしたら、一部誤魔化すことは難しくないんですよ。世間ってのも、秘匿された事実には食いつくものです。多少偽ってなんでもないように見せた方が、審査の目も欺けると思います。なので一度真実を伺った上で、どこを報告書に記入しないでおくか、話し合うのはいかがでしょうか」 「……そう、ですね」  か細いが、神和さん本人から承諾の返事が聞けて、胸を撫でおろした。怪しまれて訴えられるような最悪の展開は避けられたようだ。  専務はにっこり笑って、「それでは、後は彼らに任せますので」と言い、出て行く前に僕を呼んだ。 「これ、さっき借りたやつ」  そして、黒いボールペンを僕のシャツの襟に引っかけると、椅子を元の位置に戻して去っていった。もちろん専務にボールペンなど貸した覚えはなかったが、とりあえず手に持って席に戻る。  血の気の戻った吉浦さんが、軽く咳払いをして話し始めた。 「前置きが長くなってしまってすみません。神和さんの主観で構いませんので、詳細を聞かせていただければこちらとしても協力しやすいです」  神和さんはしばらく、黙って強く手を握っていた。震える唇から音が漏れる。 「……あの家っ、おかしいんです。え、私がおかしいんですか?」

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