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16・愚か者について ※R18
【愚か者について】
帰りの電車に揺られながら、脳内で何度も神和さんの話を反芻していた。
神の器にされる人間、巫、半陰陽、子ども、子どもを搾取する親。
(杏李ちゃん)
この構図は変えようがないのだろうか。被害者側が痛みを自覚する前から始まる搾取を、どう告発すればいいのだろう。
(無力だ)
太陽はすでに傾き始め、窓から差し込む西日で車内は蜂蜜色に染められる。空中に舞う埃がきらきら光ってきれいだった。
最寄り駅で降り、家に着いて玄関扉を開ける。
思えば、あのときの僕は完全に油断していた。まだ夜じゃないから零しかいないはずだと、そう思い込んでいた。
「おっ、従兄弟くんおかえりぃ」
浅黒男がいた。
ソファ越しにひらひらと手を振る男の引き締まった身体の下で、衣服の肌けた零の白い身体がうつ伏せにねじ伏せられている。
僕は即座に現実と自分を切り離そうとした。
「おら、従兄弟くんのお帰りだぞー」
浅黒男は零の腕を持ち上げ、人形劇のように手を振る仕草を強要する。ゆっくりと顔を上げた零と目が合う。
「ナギぃ、おかえりぃー」
へらっと笑う、暗い目は焦点が定まっていない。明らかに正気ではなかった。
「丁度いい、こいつ今アヘってて面白いから見てなよ。従兄弟くんもこうやって使ってやりゃいいんだぜ」
浅黒男はいやらしいにやけ顔を浮かべたまま、零の太ももを掴んで強く後ろに引き、のしかかるように腰を打ちつけ始めた。
「あッ、やっ、ぁあんッ、ちんちん、おくっ……擦ってるぅ……っ!」
聞いたこともない甘い叫び声をあげながら零が身体を震わせ、快楽を追求するように胸を逸らせて、下半身を浅黒男に擦りつける。発情期の雌猫みたいな動きだ。
僕はソファの横に屈んで、零の頬を数度軽く叩いた。自分の頬からこぼれ落ちた雫が汗ではなく涙だったと、このとき初めて気がついた。
「レイ、僕だよ、ナギ。ねえ聞こえてる?」
「んぅ? きこえてるよぉ、ナギぃ」
「おいおいやめてやれよ。せっかく楽しんでんだから」
僕に対しての呆れや嘲りの篭った表情で、浅黒男は零の上半身に絡みつき、そのまま太い腕で喉を締めた。零が全身で敏感に反応する。
「んっ、ぁうう……ッ、や、イっちゃ、」
「いい締めつけ……あークるクるっ、出すぞ零」
「あ、やあっ、やだッ、中キてる……せいえきどぷどぷ、んぁううぅッ……!」
激しく腰を振っていた浅黒男が一際強く零の尻に下半身を打ちつけ、尻周りの筋肉を痙攣させたかと思うと、男の下で喘いでいた零も大きく身体を波打たせながら縋るようにソファの布地に爪を立てる。
なけなしの対抗心で僕はその手を握り込み、柔らかな髪を掴んで強引に目を合わせた。潤んだ暗い目が動揺を隠しきれず揺れた気がした。
「あ、ナギっ……んぅうッ、」
「おい淫乱、出されてすぐ締めてんなよ」
尻を手のひらで打つ鋭い音が響き、零が女性のような高い悲鳴をあげて肩を震わせる。
身体の芯がかっと熱くなるような衝動。
浅黒男を睨みつけ、罵声を浴びせようと口を開いた瞬間、
「う、おぇえええッ!」
喉元まで込み上げてくる感覚に耐えきれずフローリングに吐いた。サーカスの道化を笑うような、無遠慮で下品な笑い声が反響し、酸味のある悪臭が鼻をつく。
不快感に顔をしかめてやっと頭の中が冷たくなった。違和感はいくつもある。零の態度と、ソファ隣に設置されたローテーブルの上の、少しだけ水が残ったグラス二つ。
結露跡で水溜りができているから、氷が溶けたものだろう。だとすると飲み切ったのは氷が溶ける前。触れてもさほど冷たくない。数十分以上は前か。
背後で零が嬌声をあげる。浅黒男が犬のように腰を振っていた。まだ続けるつもりらしい。二人の行為は無視してさらに辺りを見渡す。
ソファ周辺に脱ぎ捨てられた服……零がよく着ているゆったりとしたワイドパンツ、浅黒男のものだろう悪趣味な柄シャツとダメージジーンズ。迷わずジーンズを手に取り、ポケットを漁った。
十センチにも満たない小さなジップつきの袋がでてきた。中には色とりどりのラムネのようなものが五粒入っていて、動物をあしらった可愛らしいマークがついたものもある。
「……」
二粒取り出してグラスの水に溶かしたものを口に含む。ジーンズを持ち、浅黒男の後ろに回り込んだ。
そしてそのまま、ジーンズで浅黒男の首を絞めあげる。
「うが、っあ!?」
男はもがき、気道を確保するためか無様に喉元を掻いた。構わず後ろに引きずり倒す。
「あ、んぁあっ」
陰茎が抜けたためか零が鼻にかかった喘ぎを洩らすのが、浅黒男の様と対照的で面白く思うと同時に、猛烈な怒りが混ざり合って頭がおかしくなりそうだ。
ソファから転がり落ちた男の、打ち上げられた魚さながら開いた口に自分の唇を押し当て、口移しの要領でラムネを溶かした水を流し込む。剃った後の顎髭がちくちくとして痛い。セカンドキスも零とがよかったな、と考える自分の呑気さを自嘲する。
喉を締めたまま相手の鼻をつまみ、飲み込んだのを確認してから解放した。
「がはっ、うえっほ……てめえ、なにしやがる」
「美味しそうなラムネですねぇ。僕、昔ラムネを水に溶かして遊んでたんですよ。アニメで、貧しい兄弟が空腹を紛らわせるためにお菓子を水に溶かすシーンがあって、真似してみたんです。味は飲んでもらった通り、あんまり美味しくなかったですね」
浅黒男は青ざめ、次の瞬間には口に指を入れてえづき始めた。吐き出そうとしているらしい。
「どうして吐くんですか? ただのラムネ水ですよ」
浅黒男が吐いている隙に、三粒残ったラムネのうち一つをテレビの裏、もう一つを階段下の植木鉢に向かって投げておく。
次に零を抱き抱えて、すぐに庇える位置に避難させた。男の吐瀉物が床に滴る汚い音がする。零が「吐いたー」と言って子どものようにはしゃいだ。
「吐くってことはただのラムネじゃないんですよね。口外されたくなかったら二度と僕らの前に現れないでください。あなたのお仲間さんたちにもそう伝えてください」
「この、クソガキッ」
胸ぐらを掴んできた相手の鼻先に、ラムネが一粒残った袋を突きつける。
「殴りますか? いいですよ、罪が重くなるだけです」
浅黒男は怒りで顔を真っ赤にしながら拳を震わせていたが、悪態を吐きながら衣服を着直して玄関に向かった。室外機の横にシャベルがあったのを思い出したので、リビングの掃き出し窓から回収して男の後を追う。
靴を履いた浅黒男が僕を振り返り、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「おいクソガキ、あのビッチはお前みてぇな箱入り坊ちゃんの手には負えねぇからな。あいつは誰にでも股開くんだ、擦り寄られても勘違いすんなよ」
頭の血管が切れそうなほど熱くなって、気づいた時にはシャベルで浅黒男の股間を打っていた。重くて柔らかい肉の感触が伝わる。
情けない犬のような悲鳴をあげて、浅黒男は玄関扉に身体を強かぶつけた。僕を見る目が恐怖に染まっていく。
「お前レイのこと好きだったんだろ」
僕自身、想像していた以上の暗い声に、男が息を呑むのがわかる。
「それであんなもの使ったんだろ。自分の力だけでレイを振り向かせる努力もしないまま手に入れて、独占するために。くだらない……そんなに自分に自信がないか。自信のなさを埋めたいがために法を犯すほど知性も理性も、道徳もないか。なにもないよお前。空っぽだな」
再度シャベルを振りかざしたときには、浅黒男は玄関扉を開けて逃げ出していた。「もうしません、ごめんなさい、許して」と誰に向けたものかよく分からない懇願が薄闇に虚しく消える。
殺してやりたい気持ちが渦巻いていたが、あの程度の人間を殺して裁かれるなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。
踵を返して零の元に向かった。
「あれぇ、あいつ帰ったの。物足りねぇ」
零は頬を膨らませて、ぐでっとフローリングの上に転がった。
水を注いで手渡したが、動きがぎこちなくすぐに零すので、上体を支えてゆっくりと飲ませる。
後は、なにをすべきかわからないまま、ただ隣に座って柔らかな髪の頭を撫でた。
「んへへぇ」
零が笑う。
「どうしたの」
「最近お前とけんか?してたからぁ。いっしょにいれんの嬉しい」
「……」
「ナギ、泣いてんの」
「ごめん、レイ……ごめん」
「謝んなよ、ナギ悪くない」
抱きしめた零の身体はそこかしこに痣があって、僕は暴走した浅黒男への憎しみが、自分自身を刺し殺しそうな激情に襲われた。
心が痛い。僕より彼が傷ついている事実を変えられなくて痛い。
待つともなくそのときは訪れた。上機嫌に揺れていた零の脚が徐々に止まり、暗い目の焦点が合うにつれて、表情は絶望の色が濃くなっていく。
「……え、あ? 俺、嘘だ、あんな」
上体を起こし、震える手で顔を覆った零は、僕と目が合った途端びくりと肩を震わせた。
「ナギ、違う、ごめんなさい、違うんだ」
「レイ、落ち着いて」
零は頭を掻きむしって数回荒く深呼吸すると、突然笑い始めた。
「あははっ……見ただろ、男にケツ掘られて善がって、あれが俺だよ。幻滅したでしょ。もういいよ俺のことなんて放っておいてお前は」
「君から望んだ行為じゃない、薬物を飲まされたんだ!」
肩を強く掴んで目を合わせる。濡れた暗い目が揺れた。
「薬、物?」
「そう、これ。警察に言われたくなかったら二度と来るなって脅した」
ジップつきの袋を呆然と見ていた零は、喉の奥でカエルが潰れたような声を出して、トイレに駆け込んだ。
「げぇッ、ぉえ……っかは、」
足をばたつかせるばかりで一向に吐く気配がないところを見ると、彼は吐くのが下手らしい。
ごめんと断って舌の奥を指で押さえてやると、一度身体を跳ねさせてから吐いた。
「ぉえええぇっ……げほ、っは、げぇえっ……」
零は泣きながら、何度も何度も便器の中に吐いた。
零に水を飲ませ、吐くのを手伝いながら、部屋の片付けのことを考える。
(嘔吐物の掃除と、ソファカバーは替えてしまいたい。零をお風呂にいれて、)
いつも通りが崩れる感触が一度に襲ってきて、また涙が零 れた。
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