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20・彼岸花について

【彼岸花について】  交際が始まって数週間が経ち、空はすっかり秋めいてきた。  零との関係は、全体的な空気が交際前より甘やかでゆったりとしたものになり、お互い立て込んでいないときにセックスをするほか、大きく変わったことはない。  二人で過ごす穏やかな時間が、僕にとってとても愛おしく、尊いものになった。  仕事は吉浦さんと大津さんの三人組でこなすものが増えた。相変わらず一筋縄ではいかない仕事が多かったが、二人から色々教わりながら少しづつ打ち解けていくのを感じて居心地がよかった。  仕事帰り、スーパーの袋を両手に提げて帰路につく。  夕日の光が建物の間から筋になって伸びている。眩しく輝くアスファルトの上を、浅い川でも渡るような気持ちで歩いた。  ふと、荒れた空き地に咲く彼岸花が目に留まる。繊細な紙細工のようでいて、意外に肉厚な花びらは瑞々しく、触れた指先を凛としたまま押し返す。縁起が悪いと言われるけれど、僕はこの花が一番好きだ。  自生しているようで誰かが手入れをした痕跡もなかったので、零へのお土産に一本手折らせてもらった。 「ただいま」 「おかえり」  玄関まで出迎えてくれた零が、僕の手にある赤い花を見て目を瞬かせた。 「彼岸花だ」 「うん、好きなんだ。野生だったみたいだから一本頂いちゃった」 「俺も好き。そっか、もうそんな季節か」  花を活けた一輪挿しが一つテーブルに載るだけで、ほんの少し、空間が爽やかな水気を含んだ気がする。その瞬間がなんだか新鮮だった。 「人間って脆いな」  夕食後、なんとなくダイニングテーブルに座ったままくつろいでいると、一輪挿しを見つめた零がぽつりと呟いた。 「……どうして?」 「彼岸花って縁起悪いから持ち帰るなとか言われるだろ。でも調べても、縁起が悪いとされる明確な所以みたいなものは出てこないんだ。それなのに、縁起が悪いからっていう一般的な目線だけで、俺は彼岸花を部屋に活けようと考えたことすらなかった。今でも、このまま飾っていていいのか落ち着かない。好きな花を飾るなんておかしなことじゃないのに」 「俺は本来、一般目線からはないもののように、幽霊のように扱われるものを追及したい質だ。そう自称する人間ですら根拠のない迷信に縛られるんだと思うと、自我とか価値観って本当に脆いなと思って」  細く白い指が花弁をつついて、彼岸花は存在を示すように揺れた。 「……あの男や、乾に関してもそうだ。ナギのこと、ティーンズだから自分より大人な存在に憧れてるだけとか、俺はセックスに依存してるビッチだからろくな生き方できないとか言われて、根拠もなくその言葉を受け入れて信じてた」 「洗脳だね」 「うん。特殊な技術も知識も使わない、人の弱みにつけこんだだけの一番身近な、洗脳だ」  揺れる花を眺めながら、自然な気持ちで言葉が滑り出る。 「洗脳から逃れるにはどうしたらいいんだろう」 「知るしかないと思う。表面上どんなにまともに、豊かに生きてきたとしても、今の自分に疑問を抱いているなら、自分を縛る要因を知って、自分の本来の望みを知り、望みを実現できる場所に逃れるしかない。簡単なことじゃないだろうけど」  零が唇を彼岸花に当てた。口づけのようで少し嫉妬してしまう。 「植物からすれば手折られるのも迷惑だろう。この国の彼岸花じゃ種も作らないし。けど俺はこの花とお前に感謝するよ。生まれた頃からの洗脳より、自分の本心の方が大事だって気づいたから」  翌朝は時間通りに目が覚めた。僕の携帯のアラームで起きた零は眠そうにしながら、鼻先をうなじに擦りつけてくる。  最近は零の部屋で寝起きするようになった。この部屋の方がベッドが大きいからだ。  仕事の時間までには余裕があったので、布団にくるまったまま二人でうとうとしていると、携帯を確認した零が「ん?」と眉をひそめた。 「どうしたの」 「ナギ、このメアド見覚えあったりする?」  零に見せられたのはメール管理アプリの画面で、「匿名」という名前の下に、知らないメールアドレスが記されていた。 「ないけど」 「だよね。フリーメールっぽいし」 「なにそれ、迷惑メール?」  一応取材依頼らしいけどと答えながら、零の表情は不審の色が濃くなっていく。 「怖いし放っておいてもいいと思うよ」 「ん、作家名義の俺に用があるなら乾にも話行ってるだろうし、確認してみる」  浅黒男からの嫌がらせかとも思ったが、零は「あいつならこんな回りくどいことしないと思う」と否定した。  外出の際には十分気をつけるように言い含めて、僕は仕事に出かけた。  その日から、零が強ばった表情でメールを確認するところを度々見かけるようになった。どうしたのかと尋ねても、大したことはないとはぐらかされる。雨雲のような不安が胸の内に広がっていった。

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