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21・夜光虫
【夜光虫】
秋になったとは言えまだ日は長く、夕日の強い輝きは地面に熱気を纏わせる。
仕事帰り、電車を降りて改札を出ると、近くのベンチで見覚えのある二人の人物が話しているのを見つけた。零と青海さんだった。
「では、僕はこれで」
青海さんはこちらに気がつくと零に短く言い残し、会釈をして僕の横を通り過ぎていった。
「お帰り」
浮かない気持ちで立ち止まった僕の頭を、零が撫でてくれる。
「なんの話してたの」
「……仕事の話。嫉妬するなよ」
茶化すような態度が気に食わない。けれど、手に絡められた温度の低い指の感触が気恥ずかしくて、言及する気にはならなかった。
互いに歩幅を合わせ、琥珀色の街を家に向かって歩く。どこからか金木犀の香りが鼻を掠めた。
「俺、お前のことなにも知らないな」
「どうしたの突然」
「いや、ちょっと思うところがあって」
暗い目が顔を覗き込んでくる。なぜか真っ直ぐ見つめ返すことができなくて、視線を落としてしまう。
「関心ないとかではないから」
「知ってるよ」
家の前の道に差しかかってふと海を見たとき、思わず声をあげた。波打ち際が赤く濁っていたからだ。
「な、なにあれ。公害?」
「……」
零は僕の様子を眺めて悪戯っぽく笑うと、「夜になったら海岸に行こう」と言った。
夜、僕らは浜辺にいた。
波の縁が、星を散らしたように青白く光りながら重なり合っていく。零がふざけて投げ込んだ貝殻がとぷんとあげた水柱もまた、ちらちらと燐光を放った。
「なにこれ、すごい。どうなってるの」
僕は呆然として、浮かんでは消える光の筋を目で追うことしかできなかった。
「夜光虫だよ。昼間見た赤いのはプランクトンの群れだ。そいつらが夜こうして光る」
と零が答える。
手を繋ぎ飛沫をあげながら、二人でざぶざぶと波の間を歩いた。足元を光が取り巻いている。
「お前、俺に隠してることあるよな」
零が尋ねる。喉が締まってひりつくような感触がした。
「隠そうとして隠したつもりじゃなかった。ただ、怖くて」
繋いだ手が震える。こんなときに限って海は穏やかで、零の気配や声をすぐ傍に感じてしまうのだ。
「なにが怖いの」
「君から拒絶されるのが」
「どういう風に」
歩みが止まる。二人を波の音だけが包む。
心の中で必死に自分を奮い立てた。零には全てを知ってほしい。それは本心だ。でも……言わなければ、このまま僕らはずっと穏やかな生活を続けられるんじゃないか?
僕は臆病で、意気地なしで、それゆえに罪を犯した。醜悪な僕の本性を知った零は今までと変わらず接してくれるだろうか? 愛想を尽かされ、これからは他人だと冷たく突き放されたりはしないだろうか?
血の気が引いて痺れた唇を開こうとして、ひゅうと情けない息が漏れただけだった。身体の震えが寒さを錯覚させる。
腰に回った零の腕を振りほどこうとする間もなく、顎を捕らえられ、かさついた柔らかな唇が重なるのを感じた。ぬるりと生き物じみた舌が熱くて、冷えきった身体が目の前の人間を求めて震えている。
「んっ、む、ふ」
「……」
零は黙ったまま初めてのキスのときみたいに、唾液を喉奥まで流し込んできた。
熱い、温かい、命を吹き込まれているみたいだ。
僕は泣いた。なにがなんだか分からず、ただ切なくて、零が愛おしくて泣いた。
やっと口が解放され、零の暗い目を至近距離で見つめる。涙を流しながら、言葉を絞り出した。
「僕は人を、殺した」
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