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22・凪についてII 前編
【凪について II】
窓の外は色褪せた曇り空で、数週間後には桜が咲くことも、高校を卒業することも、どこか信じきれないような気持ちでいた。
夕暮れの台所に食器を洗う音だけが薄寂しく響く。「お風呂以外は冷水を使って」と母に言いつけられているから、指先が痺れて痛い。こんな生活を、両親が離婚した中学生のときから続けている。
ふと、進路指導の先生の呆れた顔を思い出した。
『月江。将来の夢とか目標とか、なんもないのか』
結局質問には答えられないまま、進学も就職もしなかった。こんな僕は将来どんな大人になるんだろう。ちゃんとした大人になれるんだろうか。
(これでよかったのかな)
何度同じ考えを巡らせようが、答えは出なかった。
隣の部屋から母の笑い声が聞こえてきた。楽しそうだけれど、脈絡のない不自然な歓声。背筋が寒くなる。
友人と通話でもしているのだろう……気づかない振りで音楽プレーヤーの音量を上げた。
「私を不安にさせないでね」と、物心ついた頃から言われていた。
「あなたはちゃんと学校に通って、就職して、安定した人生を送るの。そしたら私も安心できるわ」
その度、「うん」と返事をした。そうでなければ母の機嫌を損ない、一日を穏やかに過ごせなくなってしまうから。
僕らのやり取りを、父はなんとも言えない表情で眺めていた。
母と父はよく、些細なことで喧嘩した。口論が激しくなってくると母はたまらなくなったというように泣き出す。そんな母に父は苛立ち、抑えきれない怒りを言葉にしてぶつけた。
母は泣き続ける。僕は二人の様子を見ていたくなくて、母に寄り添い慰めた。もう言い争う必要はないと父に伝えるためでもあった。
でも今思えばそれは、父にとって一種の疎外だったのかもしれない。
ある日、口論が激しくなったとき、父が母を殴った。母は大げさに転がってタンスにぶつかり、大声で泣いた。
「私もうあなたと別れたい……別れたい!」
「つきあいきれん、勝手にしろ!」
父は啖呵をきり、しばらく家を開けた。
残された母は僕を抱きしめ、しくしくと泣きながら言った。
「あなたは私を見捨てないわよね」
「うん」
そう言うしかなかった。
次の日、父に誘われて二人で車に乗った。
車内オーディオは一曲も演奏することなく、僕らは一言も会話しなかった。あまりに静かなドライブだった。
見覚えのない道まで走ったとき、あてもなく運転を続ける父がぽつりと話を切り出した。
「俺と母さんは離婚することになると思う。お前、どっちについて行きたい」
「……」
母の、見捨てないわよねという言葉が頭の中で反響する。母を見捨てる訳にはいかない。それは僕の意思なのか。
「だよな」
父は全てを理解したとでも言いたげにため息をついた。
「お前、母さんと仲良いもんな。息子だからな、そうだろうと思ったよ」
父がなにを言いたいのか僕にはよく分からなかった。
「別にお前たちに迷惑をかけたい訳じゃない。俺が一人で出て行くよ。だが今後は、お前が中学を出るまで金銭的に援助するだけだ。分かったな」
「……うん」
そう言うしかなかった。
父が出て行くと、母は色々な男の人と恋仲になって、生活費の工面をしてもらうようになった。
とはいえ最低限の養育費は父から支給されていたから、母はそれを僕の進学費用として貯めておき、捕まえた男に対し、「元旦那に捨てられた哀れなシングルマザー」を装って金をせがんだ。
相手がどんな人間であろうと、生活を助けてもらう以上僕もその男たちの機嫌を損ねないよう言いつけられた。
以前にも増して家に居場所がなくなり、せめて母の期待を裏切らないために成績は維持しておきたいと、放課後ぎりぎりまで学校で勉強した後、図書館の自習スペースを使って夜の八時くらいまで帰らないでいるというのが日課になった。
学校で楽しく遊ぶ気もしなくなり、勉強ばかりしている僕を、同級生のほとんどは嫌味な奴だと疎んじた。
そんな風に、たまに嫌がらせをされたりして、中学を卒業して高校に入った。
どうせ家にいてもやることがないので休みの日はバイトをしていた。母はいつもお金がないと言いながら、高い化粧品や見栄えのいいブランド品を買い揃えたり、魅力的な女性を保つためのお金は惜しまなかったのだ。しかし老いには勝てず、新しく男を捕まえることは難しくなったようだった。
母の浪費癖のおかげで、学費を払って二人食い繋ぐのがやっとで、たまに家の電気が止まった。鮭の缶詰はランプにも食料にもなって便利だということを知った。
僕が高校二年にあがった頃、母が怪しげなサプリにハマった。「お肌が若々しくなる上に痩せられるって、お友達が教えてくれたの」と嬉しそうに語ったが、そのお友達が誰なのかは頑なに教えてくれなかった。
サプリと呼んでいる粉薬を飲んだ後の母は、しばらく妙に機嫌が良くなる代わりに、いつも以上に話が通じなかった。明らかに不審だったが、恋人が作りづらくなって金銭的にも安定感のなくなった生活に苛立つ母が、少しでも落ち着いて過ごしてくれることに、内心ほっとする自分がいたのも事実だった。
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