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23・凪についてII 後編

「お母さん、晩ご飯できたよ」  洗い物を終えて夕飯を作って、部屋の外から母に声をかける。返事はない。さっきまで上機嫌に鼻歌なんか歌っていたのに。  妙な胸騒ぎを覚え、扉を少しだけ開けて覗き込んだ。母の部屋は荒れて酷い状態だったが、許可なく入ったり、片付けをしようものならしつこく文句を言われるから、覗いたのですら久しぶりだ。  ローテーブルに肘をついて項垂れる後ろ姿が見える。開封された薬の残骸が散らばっている。異常なくらいの沈黙の中で、母は徐に顔を上げ鞄を漁り、粉薬の袋をいくつも手に掴んだかと思うと片っ端から封を切って口に流し入れた。  しばらく放心したように天井を見上げて、そして、楽しんでいるのか、悲しんでいるのか怒っているのか分からない表情で意味の通らないことを喚き、踊り狂い始めた。股から液体が滴る。失禁しているのだと気づいた途端、身体中の血が凍った。 「お母さん!」  思わず部屋に入り、母にすがりつく。すごい力で振り払われ、声をかけず部屋に入ったことを要領を得ない言葉で罵られた。 「お母さん、救急車呼ぼう、病院に行こうよ、死んじゃうよ」  僕の訴えを聞いた一瞬動きが止まり、その姿に一縷の希望をかけて手を差し伸べた。が、 「言わないで! だれにも、呼んじゃだめ!」  半分泣いているような声で喚きながら、母は刃の出たカッターナイフを振りかざした。すんでで避けたので切りつけられはしなかったが、絶望感に視界が霞んだ。  暴れ狂う母に手がつけられず、部屋の外に逃げた。  震える肩を抱えながら、身体を押しつけて背後の扉を閉ざし、母が落ち着くのを待つしかなかった。 (死なないで、死なないで、死なないで)  訳もわからずそう願っていた。  気がつくと、辺りは妙に静かだった。自分が死んだのかと思ったが、屋外から聞こえる気の抜けたカラスの鳴き声と、骨に沁みる寒さの現実感で、まだ生きていることを理解した。  廊下の飾り棚に乗った時計は深夜の四時を指し、僕が数時間気を失っていたらしいことを証明する。  怠い身体に鞭打って、もう一度扉の隙間から部屋の中を覗く。 「……お母さん?」  母は荒れた部屋のベッドの上、布団も被らずうつ伏せに横たわっていた。  白い月明かりが身体の輪郭をなぞり、暗闇から霜のように浮かび上がって、一つの彫刻作品になる。 「風邪ひくよ」  自分の中のひどく穏やかな気持ちを感じながら、厚手の毛布を被せようと母の身体を仰向けた瞬間、全て理解してしまった。  母は目と口を開いたまま、だらしなく舌を垂らしていた。頬が痩せこけ、肌は血など通っていないように青白く、冷たい。紛れもなく死んだ人間のそれだった。  僕は呼吸ができなくなって、しばらく喉を押さえてもがいた。泣きながらトイレに駆け込んで吐いた。  やっと息ができるようになり、便器にもたれかかって、止まろうとする頭を必死に動かした。  母が死んだ。  なのに、僕はまだ生きている。母と共に死ぬと思っていた自分が生きながらえている。空虚感と焦燥感……これまでの生活が、僕の人生そのものが、丸ごと腕の中から滑り落ちてしまった。 「僕は今までなにをしてきたんだろう」  わからなかった。なにも。  これからのことを考えようとして、考えることさえできなくなっていることに気づき、思考をやめた。  もう疲れた。全てやめてしまおう。  生きるのもやめたかったけれど、死に場所くらいは自分の意思で選びたかった。  家の中に残っていたわずかな現金だけを持って、白みかけた街の中を、駅に向かって歩いた。

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