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24・幽霊について 前編

【幽霊について】  マグカップの中の純粋な白は円く切り取られて、家を出た明け方、空に浮かんでいた満月を思い出す。  家に帰ってから零が作ってくれたホットミルクだったけど、話しているうちに冷めてしまった。  ソファに隣り合って座った零は、詰めていた息を長く静かに吐き出して、「なるほど」と呟いた。 「でもそれは殺人じゃない」 「同じだよ!」  思った以上の荒々しい語気に自分自身怯えてしまう。 「……同じだ。僕は親の命より、僕自身の平穏な日常を選んだ、見殺しにしたんだ。お母さんが死んで初めて、自分の本心に気づいて愕然とした。母親への愛なんてまやかしだったんだ。その証拠に、弔うこともしないで逃げ続けてる」 「母親が死んだ事実を受け入れられなかっただけじゃないのか」  ありったけの力を込めて零を睨む。それなのにどうして、卑劣な罪人を前にしたこの暗い目は、今日の波のように穏やかなのだろう。やるせない気持ちになって冷めたミルクを一口飲んだ。 「お前のしたことが法的に見てなんらかの罪に問われるとしても、俺からすれば大したことじゃない。お前が理性を失った殺人鬼でもなければ、欲に目が眩んだ愚か者でもないことはさっきの話ではっきりしたから。愚かなのは母親の方だろ、出どころのわからない薬を家族に相談しないで飲み続けたんだから」 「……」 「ナギが罪人になりたがる理由はなに、目を背けたいのは本当に母親の死か?」 「それを訊いてどうしたいの。僕になにを望んでるの」  刺々しい言葉に対しても、零は表情ひとつ変えなかった。ゆっくりと瞬きをして、「別に、好奇心」とだけ言う。 「君のそういうところが嫌いだ」 「あっそ」  気分を害したようすで寝室に向かう彼を呼び止めることはできなかった。八方塞がりの現状があまりに息苦しく、頭を掻きむしってもろくな考えが浮かばない。そもそもなにについて考えるべきなのか。 「……もう寝よう」  なるべく普段通りに歯を磨いて、服を着替え、自室の布団に潜り込む。目が冴えて中々寝つけなかったが、ラジオのノイズを聞いているうち、いつの間にか眠りに落ちた。 「なんでお前がいるんだ」  会社の休憩室で、タバコを咥えた吉浦さんが呆れたように眉根を寄せる。 「日付間違えた?」 「そういうわけでは」  大津さんの言葉を否定しながら、ここにたどり着いた経緯を思い返して憂鬱な気持ちになった。本来であれば今日は休日なのだが、朝から零は目も合わせてくれず、口もきいてくれなかったので、居心地が悪くて外を歩いているうちに気づいたら出勤していた。 「恋人と喧嘩しました」 「いや普通にあるだろそれくらい。メンタル絹ごし豆腐か」  吉浦さんの容赦ない突っ込みに心を痛めていると休憩室の扉が開き、入ってきた専務が「あれー、芦港君今日出勤日だっけ」と首を傾げた。 「傷心旅行らしいっす」 「別れてはいません」 「なんかよく分からないけど、今日の仕事二人は少ないかもと思ってたから丁度よかった。暇なら一緒に行ってきてくれない?」  断る理由もなかったので、大津さんの運転する車に乗りながら仕事の概要を説明してもらった。 「昼過ぎに出発なんて変わってますね。「地ならし」ってなにするんですか」  メール文面を見ながら質問した僕を、助手席の吉浦さんがちらりと振り返って、言った。 「心霊スポットの調査だよ」  現場に着く頃には、沈もうとする太陽が未練がましく山の稜線を輝かせていた。県境の山の中、人が訪れない道は荒れ、ひび割れたアスファルトが所々盛り上がっている。 「とあるテレビ局からの依頼で、最近話題の心霊スポットを来年の夏あたりに特集したいから、どれくらい危険なのか調べてほしいとのことだ。要するに毒味だな」  吉浦さんの声に被さるように、生い茂った木々が唸りをあげて枝を揺らした。枯れ葉が頬に当たり、飛び上がった僕を見て大津さんが豪快に笑う。  目の前にはコンクリート造りの廃病院が建っていた。壁は薄汚れて蔦が這い、見るからに訪問者を拒絶している。 「本当にここ入るんですか。出るんじゃ」 「出てくれた方がテレビ的には好都合だろ」 「……」  躊躇いもなく突き進む吉浦さんについていくほか選択肢は与えられなかった。吉浦さんを先頭に、僕、後に大津さんが続く。事前に会社から支給された三つの小型ライトが辺りを照らすたび、良からぬものが見えはしないか心配になってしまう。  一階のエントランスを抜け、階段に差しかかったとき、 「だれ」  闇の中から問いかけられて心臓が縮みあがった。声のした方へ大津さんが向けたライトが、パーカーのフードを目深に被った、十代半ばくらいの少年を照らし出す。 「おっさんたちなにしてんの。肝試し? 危ないよ」 「そっちこそ、ガキ一人で命知らずってもんだろ」  煽りともとれる吉浦さんの言葉に少年は鼻を鳴らし、「俺は何回も来てるし構造も知り尽くしてんだよ」と不敵な態度で答える。 「いるよなこういう思い上がったイタいガキ」 「き、君構造知ってるなら案内してくれない? 僕たちちょっと調べ物があって」  吉浦さんの呟きを遮って少年に呼びかけると、少年は「えー、どうしよっかなー」と白々しく迷うそぶりを見せながら、答えた。 「五千円くれるならいいよ」 「結局金かよ」  少年へのお代は経費で落とすことにして、僕らはおそらく頼りになるであろう案内人を確保した。 「この病院は三年前に閉鎖したんだ。それから心霊スポットって騒がれるようになって……実際、見たって噂もいっぱいあるんだよ」 「閉鎖したの、結構最近なのにぼろぼろなんですね」 「建物って人間いないとすぐダメになるからなー」  先頭に立って歩きながら、少年は病院にまつわる怪談をいくつか教えてくれた。よくあるような話でも、場所が場所なので怖さが倍増する。正直今すぐやめてほしい。  吉浦さんは怪訝そうに目を細めた。 「廃業してからの短期間でそこまで噂が広まるもんか?」 「界隈じゃ有名だよここ。おっさんたち知らないで来たの」  少年が涼しげにあしらう。 「どうして何回も来てるの」  ふと疑問に思って問いかけた。しばらく間があって、子ども用だろうか、小さなベッドがいくつも並ぶ病室に入ったとき、少年が口を開く。 「入院してたんだよ、ここに。……せっかくだから、昔話聞いてくれない?」  部屋の奥、窓際のベッドを軽く撫でて腰かけた彼の前で、僕らは顔を見合わせた。反対意見はないようだったので、僕は少年の向かいのベッドに、大津さんは床に、吉浦さんは壁にもたれ、それぞれ腰を落ち着ける。  昔話が始まった。 「見てのとおり、ここは小児科病棟だ。俺は小学校にあがったばっかりで、それなのに喘息がひどくなって入院することになった。楽しみにしてた学校生活が台無しになったこととか、友達と会えないこととかで、正直苛立ってた。俺と同じような理由でここに入院してた子どもが他にも何人かいた」 「その中でも一人、特に気の合う奴がいた。病院暮らしって退屈だからさ、そいつと色々暇つぶししてたんだよ。しょうもないことから、大人に怒られるようなことまで、色々」  少年と友達は同じ喘息持ちで、そのこともあってどちらが先に退院できるか競い、励まし合うライバルだったという。 「だけどしばらくして、聞いちゃったんだ。看護師とそいつが、もうすぐ退院できるって話してるの」 「俺は焦った。ガキなりに真剣勝負だったんだ、負けたらやっぱ悔しい。それに、退院したらそいつとはもう会えないかもって、変に不安になって。手紙送るとか、やりようはあったのにな」  少年が小さく息を吐いた。陽はすっかり沈み、ガラスの割れた窓から忍び込む光は薄青く部屋を満たす。 「だから馬鹿なことを考えた。夜、消灯時間をすぎてから、そいつに言ったんだ。『もうすぐ退院だってな。逆転チャンスとして、庭で追いかけっこして勝った方を最終的な勝者にしよう』って。二人で病室を抜け出すことはしょっちゅうだったから、そいつはすぐ話に乗った」 「俺は細工してたんだ。そいつがいつも持ってる手提げ鞄に、発作抑える薬を入れてたの知ってて、こっそり抜き取った」 「子どもだからさ、追いかけっこだけでもそれなりに楽しいわけよ。三回勝負って話だったのに、何回もラストチャンスって言って。だけどそいつがもう限界になって、喉ヒューヒュー鳴らして倒れ込んだ」 「焦らなかったわけじゃない、俺も喘息の辛さはよく知ってたから。だけどそれ以上になんというか、やってやったって気分だった。足元に転がったそいつを見下ろしながら『どうだ、苦しいか』とか言ってやったりして。俺より先に退院してもお前は俺より下だ、って示せたとでも思ったのかな……はっきり言って気持ちよかったんだよ」  少年は乾いた笑いを漏らし、疲れ果て固まってしまったような、不自然に穏やかな表情を浮かべて続ける。 「すっかり勝った気分で、手提げ鞄に伸ばしたそいつの震える手を、爪先でつついたりもした。そのうち、呼吸音が小さくなってることに気づいた。汗ばむほど熱かったはずのそいつの体温が、冷えきってるのにも。それでやっと自分がなにをしてしまったのか分かった」 「ほとんど無理やり薬を飲ませて、泣きそうになりながらナースステーションに走った。死ぬほど怒られると思ったけど、大人たちは俺なんか目もくれずそいつを運んでいった」 「命に別状はなかったって。けど多分、退院の話は見送りになって、そいつは大部屋から一人部屋に移った。俺は生きた心地がしないまま、そいつより先に退院した。さよならも言えないまま」  一息に話終えて、少年はしばらく黙っていた。泣いているのかと思ったが、突然強い声で「これは罰なんだ」と言った。 「俺の中であいつは一度死んだ。命がじゃないよ、あいつと俺の間の、友情とか愛情とか、そういう人間の関係にとって大切ななにかが死んだ」 「その幽霊に俺は取り憑かれてるんだ。あいつが俺を忘れてたとしても俺は忘れられない。自分が作り出した幽霊と一緒に、罪も一生背負っていくんだ」  その言葉は少年が自分に言い聞かせるためのものだったのだろうが、人ごととは思えなかった。  僕も取り憑かれている。根拠もなくそう感じて、血が冷えていく心地がした。恐ろしく、そして悲しかった。

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