25 / 27
25・幽霊について 後編
少年は虚な表情をしたまま、「バイトがあるから」と先に帰って行った。僕らも車に戻り、簡単な間取り図に危険箇所、心霊現象の有無などの調査結果を書き込んでいった。少年に案内してもらったことで、仕事は予定より早く終わった。
「結局、お化けはいませんでしたね」
帰りの車内で、内心ほっとしながら助手席の吉浦さんに話を振るが、返事がない。呼びかけると、曖昧な相槌が返ってきた。
「出るとすればもう少し後だ」
「え?」
はっと息を呑む気配がした。吉浦さんは鋭い音を立てて自分の両頬を打つと、普段と変わらぬ表情で振り返る。
「悪い、半分寝てた。あの病院に心霊の類はいない、例の怪談はほとんどあのガキの作り話だ。広めたのもあいつだろうな」
「どうしてそんなことを?」
「終わらせたくなかった、どんな形であれ誰かに自分の罪を知って欲しかったんじゃないか」
「苦しいだけじゃないですか」
「ああ。自分から苦しみに行ってる。そして無意識に苦しみを病院に溜め込んでいる……あのガキの想いが強すぎて、噂が本当になりかけてる」
「それ、って」
「今にあそこは本物の心霊スポットになるだろうよ。建物全体、特にあの小児科の大部屋が呪具のようになってるからな」
言葉が出てこなかった。全身に鳥肌が立つ。
僕の反応を見て吉浦さんはやってしまったとばかりに眉を下げ、
「喋りすぎた。忘れてくれ」
前に向き直ったきり口をつぐんでしまった。
会社に着くまで、原曲の面影を失った大津さんの鼻歌だけが、唯一車の中を賑わせていた。
会社から駅までの帰り道、ぼんやりと少年の話を思い返していた。彼はあのまま、過去の罪に苛まれ自分を罰し続けるのだろうか。償いに終わりはないのだろうか。
気づくと、脇道に入り込んだのか、迷ってしまった。
(困ったな……)
携帯をポケットWi-Fiに繋げて地図を検索し、次に顔をあげると、目の前の暗い路地裏にぼんやりと立つ人影が見える。
見覚えのない女性。いや、見覚えがないはずはない。だってあれは、
「凪」
お母さん。
次の瞬間駆け出していた。耳鳴りがすると思ったのは、自分が叫んでいたからだと気づくのにしばらくかかり、その頃には息も絶え絶えで一歩も歩けなくなっていた。
近くにあった神社の石段に座り手で顔を覆う。怖くて目を開くことができなかった。
「凪くん?」
どこか間延びした、強制的に人を眠らせる麻酔のような声音で呼び掛けられ、恐る恐る目を開く。そこにいたのは母ではなく、青海さんだった。よりにもよって、僕の罪を意識させるような人物だ。
「どうしたんですか、こんなところで」
「道に迷ってしまって」
なんとかそれだけ言った。
青海さんは相変わらず人の良い笑みを浮かべ「なるほど」と頷くと、僕の目前に手を差し出してきた。
「なんですか」
「迷ったんでしょう? 駅まで送りますよ」
ありがたい申し出なのに、どこか子ども扱いしてくるような態度が気に食わなくて、差し出された手を押しのけ立ち上がった。まだ脚は震えていたが。
「青海さんはどうしてこんなところに?」
「実は、叫びながら走ってる凪くんが見えたので追ってきました」
「……わざわざありがとうございます」
わざわざ、を強調したのはもちろん皮肉だ。恩人への態度ではないけれど、どうもこの人に対しては薄気味悪さが先立ってしまう。
「なにを叫んでたんですか」
丁度こんなふうに、何気ない言葉の中で探りを入れてくるから。
「退魔の呪文です」
「へぇ、面白そう」
引かせようと思ったのに逆に食いつかれてしまった。でも、退魔というのもあながち嘘ではない。内心では母の亡霊に怯えたままだった。
「人じゃないものが見えるって言ったら笑いますか」
「どんなものですか」
「例えば、もう死んでしまった人だとか」
返事がなく、悩んでいるのかと思って顔を上げると、真っすぐこちらを見つめられていたから思わず叫びそうになった。感情の読めない真顔が怖い。
「未練、かもしれませんね」
「未練……」
「相手の、凪くんの、どちらの未練かは定かじゃないですが、縁のない人じゃないでしょう。思い残したことがたくさんあって、だから具現化してしまうのかも。ただ、囚われるのが良いこととは言い切れません。どこかで後悔や過去の情を断ち切ることも、生きている、前に進む人たちには必要だと思います」
「占い師ですか?」
「違います」
暗い路地を抜けた先は見覚えのある大通りで、煌々とした駅の明かりは、昔馴染みの友人に出迎えられたような安心感があった。
「では、僕はここで」
そう言って青海さんはにこにこと微笑みながら、改札の外で手を降る。なにかもっと話さなければと口を開いたとき、ホームの方から電車が到着するアナウンスが聞こえ、結局簡単なお礼の言葉しか出てこなかった。
電車に乗り込み、墨を流し込んだような夜の街を窓越しに眺める。
(未練)
青海さんの言葉を借りるとすれば、僕の前に現れた母の亡霊は僕自身の未練が生み出した事になる。それは、あの廃病院にいた少年が抱えた想いととても似ている。彼も僕も、誰かに対する未練から逃れることができずに取り憑かれているのだ。
どうしてそんなことをしてしまう? 苦しいだけなのに。誰も救われないのに。
(忘れたくない)
痛みを伴う過去は僕の全てを知っている。愚かさも醜さも弱さも全て。それすら失くしてしまったら、僕は本当に空っぽになってしまう。僕を生きる意味を失ってしまう。
(だから、これはエゴなんだ)
どうしようもなく泣きたいのに、口元は変に笑っていた。どこまでも自分都合な思考に呆れ以外の感情が湧かなかった。
家に着いた頃には夜の十時になっていて、気まずさと申し訳なさが入り混じった気持ちで「ただいま」と声をかける。肉を焼く香ばしい匂いが外にまで漂っていた。
「おかえり」
相変わらずの仏頂面ではあったものの、台所に立った零は短く言葉を返してくれた。僕の帰りが遅かったから、自分でご飯を用意するところだったようだ。フライパンの中で肉だけの炒め物が踊っている。
「昨日はごめん」
「いや。俺も無神経だったし」
会話が途切れる。こんな定型的な切り出し方ではだめだと肌で感じた。零との距離が遠い。
「罪人になりたがるっていう君の言葉、図星だったんだと思う」
「……」
「もう少しでわかる気がするんだ。でもまだ整理できてない、自分がぐちゃぐちゃなままで……、レイにはちゃんと話したいから待っててくれるかな」
「いいけど」
目は合わせてくれなくても、それが彼なりの許容の態度であることは僕にもわかったし、少し気持ちが軽くなった。
夕食後、自室の布団に潜る。零と同じ部屋で寝たかったが、嫌な顔をされて悲しくなり、すごすごと退散するしかなかった。
瞼の裏の有機的な模様を見つめながら思考を巡らせる。
僕を僕たらしめるエゴ……自我、自我が育つ前の子ども、空っぽの器、器に欲望を詰め込む大人、幽霊、幽霊を作り出す未練、後悔、僕を形づくった過去の痛み。
無関係のように思えた数々の出来事が、脳の中で混ざり合い僕という存在の糧になる。今までも、これからもそうやって生きていく、そんな簡単なことをどうして忘れたつもりでいたんだろう。孤独と言い切るにはあまりに膨大な世界との繋がり。
(死ぬのが怖い)
自分の中に、小さな灯火のように芽生えた強い気持ちを抱きながら、いつの間にか眠りに落ちた。
ともだちにシェアしよう!