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最終話・月の葬式
【月の葬式】
僕は廊下にいた。あの日の、底冷えのする寒さと深く青い闇の中、膝を抱えて背後の扉を閉ざしている。
「お前のせいだ」
声が聞こえて顔を上げると、目の前に少年が立っていた。薄ら笑いを浮かべた目元はどす黒い隈ができて、とても不気味だ。
「そうだね」
虚をつかれたとでも言いたげに、少年が目を見開く。
「認めるの」
「君の言う通りだから。結局、僕は自分だけを愛していたんだ」
「嘘を吐くな」
吐き捨て、憎らしげに顔を歪めた少年の細い腕が、僕の首元に伸びたかと思うと、その貧弱な身体からは想像もできないほどの怪力で締め上げられる。
「お前の言う自分って、なに?」
答えに詰まった。訝しむように見下ろしてくる表情が、なんだか懐かしい。
「僕は、」
少年が言葉を待っている。
「僕は自分がないと思ってた、自我のない空っぽな人間だって。でも違ったんだ。自分でそう思い込んで、他人から愛をもらうことに必死になって、愛される人格を演じていただけだった。家族に対してすら……家族愛は絶対的なものだから、僕がお母さんを愛して、お母さんも僕を愛して、そうしてさえいれば僕は”いらない子”じゃないって」
首を絞める手が緩む。
「利用していた。そうでもしなければなんのために生まれてきたのかわからなかった」
言葉を継いだ相手の目を見つめて、僕は頷いた。
「そう」
「お前はその生き方に納得したか? 取り返しがつかなくなったとは思わないか?」
少年の真意は掴みづらかったけれど、それは母が死んでから、いやもっと以前から僕が求めていた答えのような気がした。
「大切なことを見落とした」
「なにを」
「本当の僕」
隈のひどい目元が細められる。
身動ぎすらしないけれど、少年は僕の独白を聴いていた。最後の答えとしてふさわしいか品定めているようにも見えた。
「そうだ、だから」
絡まり合ってどうしようもなくなった思考の糸が少しずつ綻んでいく。最後の糸が解けたとき、記憶の奥底に眠った「自分」という核に触れた、そんな気がした。
「僕を空っぽだと決めつけたのも、ありのままでは愛を向けられないと思い込んだのも、全部僕だった。本当の僕は、もうずっと昔に心の奥に押し込んで、守ったつもりになって、そのまま忘れて、朽ちてしまったんだ」
少年の頬を涙が伝った。ひとつ、またひとつと零れる滴を見ているうちに、僕は自分が泣いていることに気がついた。
手を伸ばすと、少年は胸の中に飛び込んでくる。空気のような質量のない感触に、ああこの子は幽霊なのだと悟った。
「君のことはちゃんと弔うから。ごめんね、僕」
抱きしめた次の瞬間、少年は消えていた。
翌日、仕事からの帰り道でまた母の亡霊を見た。人通りが失せ、建物の影に沈んだ薄青い歩道で、「それ」は僕を見つけると静かに後をついてきた。
音のしない歩み。冷気だけを感じる異質な気配に鳥肌が立たなかったと言えば嘘になるが、心は落ち着いていた。
「お母さん」
後にいるはずの亡霊に声をかける。
「僕はお母さんを愛してた。でも、愛したつもりになっていただけかもしれない。僕もお母さんも孤独で、二人きりの家族で、それなら愛しあうしかないじゃないか。理論的に、合理的に、僕らはお互いを愛していたんだ」
体温を奪う呼気だけを背後に感じる。凍えて震えた息を吐きながら、ひたすらに言葉を探した。
本当の僕が抱え続けた言葉。ずっと言えなかった言葉。
「死んでほしくなかった。同じくらい、もう終わらせたかった。そんなことを考えたからお母さんは死んでしまったのかもしれない。僕が殺したも同然なんだ。本当に愛していたなら警察も救急車も呼ぶべきだった」
「僕がお母さんを幽霊にしてしまったのはさ、言い残したことがあるからなんだ」
振り返ったとき、そこにはただ、さっきまで歩いてきた薄青い道が続いているだけだった。
「助けられなくてごめん」
堰を切ったように涙が溢れて、最後の方は嗚咽に紛れた。これで本当にお別れなんだ。僕は一人になった。でも、独りじゃない。
(レイに話そう)
今までのこともこれからのことも全部話そう。携帯電話を取り出してメッセージを打ち込もうとしたとき、海の見える堤防にさしかかった。
『海に行こうよ』
そう送信した。
零が待ち合わせ場所に着く頃に、空はすっかり紫がかり、海は色を失って蠢く黒曜石のようになった。この海を怖いと、そして美しいと感じる、今の僕なら彼の隣にいられる。そう確信できた。
「話があるんだ」
静寂が続きを促す。
「一度地元に戻るよ」
「え、」
目を見開いた零が何度か口を開閉し、掠れた声で「なんで」と尋ねた。
「逃げ続けてもなにも変えられないって気づいたから。せめてやり残したことを片付けて、それから自由に生きようと思う」
「もしかしたら、死体遺棄罪か、なにか罪に問われるかもしれないけど、全部終わらせたらまた君のところに帰ってきたいと思ってる。……罪人の僕でもレイは待っててくれるかな」
「法律的に罪かどうかなんて、俺にとってはどうでもいい」
間髪入れない返答に思わず笑ってしまう。
そろって砂浜に降り立つ。
もうすぐ冬が来る。鋭く澄んだ空気を星の光が透過し、木枯しが水気の抜けた葉を巻きあげた。
黒光りする波に近づいた零は、おもむろにサンダルを脱ぎ捨て、誘うように腕を伸ばす。僕も慌てて靴と靴下を脱ぎ、異質なくらい闇に浮かびあがった白い手のひらをとった。
「海藻が足に絡まった話しただろ」
繋いだ手の先から聞こえる、妙に軽く弾んだ声に相槌を打つ。「帰るときなのかと思った話?」
「そう。海に還るなんて陳腐だって、一蹴した時期もあったけど、あながち間違ってないんだろう。俺は生きてる状態がイレギュラーだと思ってる。生じゃないものたちが集まって生きものになって、生を演じてる。演じ終わったら生じゃない状態に戻ってバラバラになって、蒸発したり土に滲みたり……生きてるときも生きてないときも旅をして、海に戻る」
二人分の足元を、歩いた跡ごと波が洗うので、海水の冷たさが心を落ち着かせてくれる。零もそれを望んでいたのかもしれない。俯いたまま、爪先で逃げ遅れた波の一部を蹴っている。
「この世界は幽霊だらけで、いっそうるさいくらいだ。寂しく思う必要なんかない」
「寂しいの?」
「……」
「ごめん」
拗ねられるかと思ったが、零は案外素直に身を寄せると、ずずっと鼻を啜った。
「お母さんが、」
波のさざめきが音を攫ってしまうから、一度言葉を飲み込んで、今度はしっかり力を込めて声に出した。
「お母さんが死んだことを認めたくなかった」
零が無言の相槌を打つ。
「お母さんは僕の世界で、僕のすべてだった。お母さんのために生きて、死ぬんだと思ってた。そうでなければ僕の人生に意味はない……そう思ってた」
「お母さんが死んで、なのに僕は生きていて、頭が真っ白になった。母が僕の命の刻限じゃなかったのなら、今までの人生はなんだったんだろう、僕はなにを信じて生きてきたんだろう、って」
自分でももうなにを話しているのかわからなかった。伝えなければ、ただその一心で言葉を紡いだ。
「初めは、”お母さんが社会に終わらせられる”前に、後を追うべきだと……次に君に出会って、欲が出た。今からでも自分の人生を生きられるんじゃないかって、思ってしまった」
「そうだ、謝らなくちゃいけない。君が僕をペット扱いしてたのかって怒ったけど、僕も人のことは言えないんだ。レイにお母さんを重ねて依存してたんだから」
「今は?」
夜の海岸で見る零の顔は表情が読み取れなくて、知らない人みたいだ。それなのになぜかとても懐かしく感じる。前にも、こうして誰かと向き合ったような、錯覚を思い出す。
僕が生まれるずっとずっと昔。光を感じる目がなかったときの、そばにいるだれかの気配。
「今は、君と生きたい」
波風にあおられて見上げると、どこまでも深い青の中に、ぽつりと輝く月があった。
それは欠けていたけれど、家を出た日のように僕を苛むことはなく、むしろ見守るようだった。
「弔いを済ませてくるよ。お母さんと、昔の僕の」
愛した者が幽霊にならないようにと、未練を絶って送り出す、究極のエゴ。
そうだ。葬式は、死者よりもむしろ生者のために執り行うのだ。
今となっては単純すぎる道理に、あのときはなぜか気づけなかった。他人に言われるがまま母の死を受け入れ、弔わされることに反発しか抱かなかった。
できるだけ明るい声を出そう。これは門出だ。過去に別れを告げて新しく進むための。
「行ってきます」
ゆっくりと零が頷く。
「ここで待ってる」
遠くの丘に立った灯台が、真っすぐな光の筋を僕らの足元に投げた。
〈了〉
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