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第8話 那津

「ありがと。お風呂気持ち良かった」 「ああ」 ソファで 缶ビールをグラスに注がずに飲んでるおにーさんの隣りに座る。 一瞬、思考が働いた。 「一口ちょーだい」 言いながら答えを待たずに、 おにーさんの手元のビールを その手のひらごと引っ張ってぐいっと飲んだ。 「冷えてるヤツ冷蔵庫にあるよ」 坦々とそう言われて、 あ・・大丈夫そうだ・・・なんてことをぼんやりと頭ん中で思う。 人間も動物みたいな部分を持ってる。 見えないカンカクみたいなもので、 相手を自分のテリトリーに入れてもいいかどうかを判断している。 ・・・たぶん。 明らかに手厳しそうなおにーさんが 間接的とはいえ、 自分の唇が触れたモノにオレの唇が触れることを許してくれたってことは きっと、嫌われてはいないってことだ。 ・・・なんて、すべてはオレの勝手な解釈なのだけど・・・ 「おにーさんまだ飲む?」 手のひらを握ったまま、おまけに唇を缶にくっつけたままで聞いてみる。 「ん~・・お前が飲み足りないなら一杯だけ付き合うよ」 これはおにーさんの優しさだなと思った。 きっと本当は、もう飲みたい気分なわけじゃないだろう。 「じゃ一杯だけ付き合って」 けれどもオレは、その言葉に甘えることにする。 だって、スーツ姿よりもずっと可愛くなったおにーさんを、 もうちょっとだけ眺めていたいのだ。 ようやく手を離すと、 カウンター越しに見えていた、そのキッチンのナカに入る。 ちょっとドキドキしていた。 実は、料理はちょっとだけ好きなのだ。 というか、家事全般がわりと好きなのだった。 だからよその家のキッチンという場所は、 興味がそそられる、ちょっとだけテンションが上がる場所だったりする。 「はぁ?」 思わず声が出た。 そこはキレイというより殺風景といった方が合っている。 普通ならありそうなキッチンを取り巻く細かいモノたち、 たとえば洗い終わった皿とか布巾とかコショウや砂糖とかといった調味料とか、 流しにはスポンジだったり使いかけのキッチン洗剤があって然るべきなのに、 そういった「キッチンらしいものたち」が何一つないのだ。 まるで生活感ってモノが感じられない。 キレイに片づけられているのではなく、 それは片付けの必要のない状態なのだった。 なんとも不思議な気分になりながら立派な紺色の冷蔵庫の扉を開けたら 「・・・なんもはいってねぇ」 大きさと反比例して、中にはビールとキムチしか入っていなかった。 空白だらけの冷蔵庫のナカは、 上から3段目の棚に数本のビールが並んでいて、 2段目の中央辺り、 それはまるで選ばれし乙女のように、 キムチのパックがひとつだけ置かれている。 その景色はどこか虚しさを感じるくらいに整然としていた。 缶ビールを2本取り出して、 そのままキッチンをぐるりと見まわす。 コンロは使われた形跡はなく、 かろうじてそこにあるケトルとコーヒーメーカーだけが、 普段も使われているといった存在の空気を醸し出している。 もはやモデルルームなのかと思うほどだ。 おにーさんは女がいないのかな、なんてことを思った。 リビングに戻ると、冷えた缶ビールを手渡す。 サンキュと言って、おにーさんはそれを受け取った。 「おにーさん彼女いないの?」 まるで当たり前みたいにおにーさんの隣に座ると、 今度はオレも缶のままでビールを飲んだ。 いつもはグラスになんて淹れない。 きっと、おにーさんもそうなんだろう。 さっき、グラスを用意してくれたのは オレをちゃんとお客さん扱いしてくれたってことだ。 「なんだよいきなり」 新しくオレが持ってきたビールの缶を開けながら、 明らかに不機嫌な声が響く。 「だってキッチンすげー綺麗だし。冷蔵庫、ビールしかないんだもん」 「なに、腹へってんの?」 質問とはちがう返答が来て、 そう言われてみると今日はまだ一食も食べてなかったことを思い出して、 急に腹が減ってきた気がした。 「そういえば、今日は昼から飲んでばっかでなんも食ってないや」 「俺んちなんもねーぞ」 関心がないのか察しがいいのか、 昼から飲んでたことには一切触れずにそう言われた。 「ん、いーよ。食べないことはよくあるし」 ぐびぐびっとビールを飲んだ。

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