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第11話 友哉
もう一口、水を飲んだ。
そういえば名前も聞いていない。
こんなに朝早くに、
帰りたくないと言っていた場所に帰ったのだろうか。
昨日、いらないと言われた封筒を、
それでも一応、持っておくように言ったのは自分の方だ。
一度出したものを引っ込めるなんてこと
俺の人生ではあり得ないし、
封筒にしまった時点であれはもう俺のモノじゃない。
だからその金が戻ってこなくても、それにはなんら関心は無かったが・・・
「ふぅ・・慣れないことはするもんじゃない」
妙な経験だった。
まぁもう、会うこともないだろう。
自分の人生の中であんなこと、
・・・それはあんな風に悪飲みしたことや深夜の駅のホームにいたことや、
そこでまるで捨てられた犬みたいな男に出会うことなんかの全てが・・・
もう二度と起こることはない。
あれは本当に、
なんというか様々な要素が偶発的に絡み合って出来上がった、
一晩限りのよほど珍しい出来事だったのだ。
ーーピンポー・・・ンーー
すると玄関のチャイムが鳴った。
土曜日のこんな時間。いったい誰だろうか。
「ふぅ・・」
それは落胆ではなく、
気持ちを切り替えるって意味での深い深呼吸だった。
まだ気怠さの残る身体を持ち上げるようにして立ち上がり、
モニターを眺めれば
そこには・・・
「ーーおにーさーん・・」
モニター越しに手を振る、その子犬がドアップで映っていた。
ーーー・・・
エントランスホールに入るためのロックを解除すると
そのまま玄関へ向かう。
鍵を開けてしばらく、人差し指を唇に当ててどうしたものかと考える。
そうしてなんとなくリビングには戻らずに、
そのまま玄関先でソイツが上がって来るのを待つことにした。
しばらくすると
コンコンっとノックがあってから勢いよく玄関の扉があくと、
俺に気づいたそいつがニコリと笑う。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「・・いや。もう起きてた」
戻ってきたソイツに返事をしながらまた、人差し指を唇に当てる。
「そっか、じゃ良かった」
言いながらバタバタと靴を脱いで、自然にその靴を揃えるのを眺める。
「コンビニ近くて便利だね」
買い物袋をぶら下げて、ソイツはまるで当然のように
開きっぱなしになっていたリビングのドアをそのまま進むと、
キッチンへ入った。
どこか少し慌てて、必然的にその男を追いかける形になりながら、
「お前いったい・・・」
後ろから声をかける。
「朝飯つくろうかと思って」
「え?」
「一晩泊めてもらったお礼」
袋の中身をキッチンに並べながら、
「でも冷蔵庫なんもないからさ~。あ、お金はちゃんと返すからね」
気づけばソイツは昨日、俺があげた・・・彼曰く「貸した」だが。
コートを着ていた。
肩幅の辺りの布が少しもたついていて、
それは彼には少しサイズが大きいようだった。
「朝からキムチだって別にいいんだけどさー。でもせっかくだから」
言いながらせわしなく動いて、
まるでこのテリトリーがもうこの男のモノなのかと思うほど、
それは自然な振る舞いだ。
「フレンチトースト好き?」
「え?・・ああ」
「良かった!ちょっと待ってて」
また、ニッコリ笑ってダイニングまで戻ると、
着ていたコートを脱いで椅子の背もたれに丁寧にかけた。
「座ってていいよ?」
追いかけるようにして着いていく俺にそう言って、
「それとも手伝う?」
どこか小悪魔のように笑うソイツに俺はまた、
なんだかアタフタしてしまう。
なんというか、彼の言動の全てが俺には予想の範囲外なのだ。
「いや。俺は」
「おにーさん料理できないんでしょ~。キッチンのキレイさが異常だもん」
図星を突かれてまた戸惑う。
「出来ないんじゃなくてしないんだよ」
「はいはい。別にいいけど。座って待っててよ」
笑って言うソイツに釣られてようやく力が抜けたのか、
俺も思わずふっと笑った。
「あはっ。おにーさん、笑うと可愛いよね」
その言葉に少し照れる。
「っはぁ?何言ってんだよ」
「あ、怒っても可愛い」
「ふざけんな」
からかいながらキッチンへ向かおうとするソイツに、
おいと声をかけて引き留めた。
「おにーさんじゃねぇ」
「え?」
「成瀬友哉だ」
一人っ子の俺は、
コイツにおにーさんと呼ばれることに違和感があった。
遅い自己紹介をすると
ソイツはいままでで一番、顔をくしゃっとして笑って
「じゃあともちゃんだね」
なれなれしくそう言われて、それなのにイヤな気はしない。
「はぁ?お前よりずっと年上だろーが。敬え」
「オレは春澤那津」
「お前、俺の話し聞いてる?」
ハルサワナツ・・と、頭の中でソイツの名前を繰り返す。
「いいじゃん。細かいこと言ってると嫌われるよ」
「誰にだよ」
ナツとはいったい、どんな字を書くのだろうかと思った。
キッチンへ向かう、
どちらかといえば華奢な部類に入る背中をなんとなく眺める。
一晩泊めてやった子犬の名前を知った。
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