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第16話 那津

「行ってらっしゃい」 「ああ。行って来る」 玄関で、 ピカピカの革靴を履いて立ち上がった、スーツ姿のともちゃんに手を振る。 ともちゃんが控えめに手を挙げて背を向けて出て行ってしまって、 けれどもパタリと扉が閉まるまではそこに居るのが平日、 ともちゃんが仕事に行く日のオレのルーティーンだ。 扉が閉まるとなんとなくそこで一呼吸する。 一日の最初のひとつの節目って感じで。 それからリビングに戻って携帯で音楽を ちょっとうるさいくらいの音量でかけると、 ともちゃんと一緒に食べたお皿やグラスを洗う。 奥では洗濯機が終了の音楽を鳴らしたのがかすかに聞こえた。 洗濯物を干して掃除機をかけ終わってから、 もう一度キッチンでゆっくり、今度は自分一人分のコーヒーを淹れる。 最近はともちゃんも、インスタントコーヒーはあまり飲まなくなっている。 もともとともちゃん家にはコーヒーメーカーがあって、 だからオレが粉を買ってきたのだ。 ダイニングテーブルの方ではなく、いつも寝ているソファに腰掛けて 美味しそうな白い湯気をたたせてるコーヒーを口に含む。 「はぁ・・美味し」 コーヒーの持つ癒し効果ってホントすごいなどと思いながら、 ほわっと独り、笑った。 毎日ほとんど同じ時間に朝食を食べ終えて、 ほとんど同じ時間に仕事に行くともちゃんを見送ったあと、 掃除と洗濯を終えて、 テレビも付けずに独りまったりする午前中のこの時間は、 なんていうかすっごく贅沢な時間だなと感じている。 これは、ともちゃんと暮らすようになってはじめて、 味わうようになった時間だった。 なんとなくゆっくりと、ココから見える部屋の全体を見まわす。 ともちゃんの家にはカレンダーが無い。 でも、三日だけと言われたあの日から、 すでに2週間がたっていることをオレは知ってる。 そしてきっと、知っているのはオレだけではないだろう。 頭のいいともちゃんが、そんなことを忘れるわけがないのだから。 絶対にわかっていて、オレに言わないでいるのだ。 けれども少なくとも今日、さっきともちゃんを送り出すまで ともちゃんからは何も言われなかったし、 オレについてはもちろん、行く当てもないから 出て行けって言われるまでしらばっくれていようと決めていて、 これからも自分からそのことに触れるつもりはない。 「・・いつ言われるかな」 いつか来るその日を想う。 それを言われたならそのときは 行く当てがあってもなくても、すぐに出て行こうと決めている。 だって少なくとも今日まで、 オレはとてもいい環境でいい状態で、 本当に心地よくこの部屋に住まわせてもらったのだから。 そして、出来ればそれがずっと先だと良いな、なんてことも思う。 だってこの部屋は ・・・っていうかともちゃんのそばに居ることは。 「かなり居心地いんだよなぁ・・・」 ふぅっとアツい湯気に息を吹きかけてからもう一口、コーヒーを飲む。 付き合ってるわけじゃないし、そもそもノンケのともちゃんとは エッチどころかたった一度のキスだってしたこともないけれど、 オレはともちゃんといるとどこか落ち着く。 余計なことはいちいち詮索しないし、 かといってこちらに無関心というわけでもない。 現にいまコーヒーの入っている手元のマグカップは、 ともちゃんが昨日、オレにといってくれたものだった。 ーーえ?オレにくれんの?ーー ーー貰いものだーー 「ふふ・・」 そのときのともちゃんの表情を、ともちゃんの全体を思い出すと、 どうしたって顔がニンマリしちゃう。 出会ってたった2週間しか一緒にいないけど オレは随分、ともちゃんのことに詳しくなってきてると思っている。 例えばともちゃんはけっこう照れ屋さんだ。 上品な空気をまといながらも口は悪いそのワケは、 きっと照れ屋さんだからなんだってオレは勝手に思ってる。 ともちゃんは照れると身体のどっかを触るクセがあって、 昨日、仕事から帰って紙袋ごとこのマグカップをくれたとき、 ともちゃんはあのキレイで長い指先で、自分の耳たぶを弄ってた。 そういうともちゃんのわかりやすさを知っていること。 そうして、それを間近で見れているってだけで、 ここ最近のオレはとっても満たされた気分になる。 両手で包むようにしてそのマグカップを抱えて、 ・・・もうしばらくはココに居られるかな・・・ なんて、ゆらゆらと揺れるその液体を眺めながら思った。

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