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第17話 那津
コーヒーを飲む優雅な時間が過ぎると、
ペラリとした財布と携帯だけが入った、
小さいショルダーバックを斜めにかける。
「行ってきまーす」
玄関先でスニーカーを履きながら誰もいない部屋に声をかけて、
ともちゃんから預かってるスペアキーで玄関の鍵を閉めた。
今日はいまからバイトだ。
とはいえ、バイトは夕方の早い時間に終わるので、
ともちゃんが帰って来るよりはずいぶん前に家には帰れるだろう。
だから終わったらスーパーに寄ろうと決めている。
ともちゃん家に居着いてわかったことがあって、
オレは家事全般が好きな方だと思ってたけど、
なかでも料理が一番好きみたい。
たとえば今日のようにバイトのある日は仕事が終わって、
ともちゃんに何を作ってあげようかなって考えながら買い物してる時間や、
ともちゃん家のでっかいキッチンでひとり、
ともちゃんの帰りを待ちながら料理を作っている時間が、
オレにとってはめちゃくちゃ楽しい時間なのだ。
さっき、部屋を出てくる直前に、
昨日はハンバーグだったから今日は魚にしようと思って、
冷凍庫にしまってあった鮭を冷蔵庫へ移しておいた。
エレベーターの中でひとり、
今日の夜は鮭のホイル焼きをつくろうと決める。
バイト帰りのスーパーでは、
なにか安くて美味しそうな煮物の材料を買って帰ろうと考えていると、
ちょうどドアがあいた。
エントランスを通り過ぎてガラスの扉があくと、
オレはちょっとだけドキドキする。
あの日、座り込んで暗闇を見上げたその場所が一瞬だけ視界にはいって、
それはなんて表現したらいいかわからない、
キュウっとした見えないナニカが、
自分の内側の中で沸き起こるのを感じるのだ。
それは毎回そうなるのだけれど、けれどもそれはほんの一瞬だけ。
すぐに目の前の景色が視界を占領して、
ここ2週間の間、変わらないけどまだ新鮮な、
その風景たちが流れていく。
駅のホームに着くと頭ん中に、
そういえばバターが終わりかけていたなと浮かんだ。
いままで付き合ってきた男たちにだって、
ときには料理をしたことはある。
でも、なかでもともちゃんは格別に特別だった。
なぜならともちゃんはオレの作った料理を、
ウソ偽りなく、本当においしそうに食べてくれるから。
誰だって作れるひねりのない簡単な料理を
いつだって美味いって必ず言ってくれて、
ときにはまるで大げさに天才じゃんって言ってくれる。
なにより両頬いっぱいにご飯もおかずも頬張って、
そのぱんぱんに膨らんだほっぺ姿がとっても可愛いのだ。
思い出すとなんだか一人で笑っちゃう。
今日も早く帰ってあのキッチンに立ちたくてうずうずする。
ここ最近、バイトにだって前向きなのは絶対ともちゃんのおかげだと思う。
何を作ろうか考えたり、
作った料理をともちゃんが食べてくれることを思うと、
オレはそれだけを楽しみに、バイトも全てをがんばれる。
今日もなんとなく前向きな気持ちになりながら、
電車に揺られるのだった。
ーーー・・・
イベントの手伝いは1回の拘束時間が少ないってことと、
毎回、会場が違うってことが性に合ってると思って始めた。
もともと飽き性で物事が続いたためしがない。
それはある意味、人間関係もそう。
わりとすぐにヒトとは仲良くなれる。
けれどそれは表面的なものばかりで、だからそこからずっとは続かない。
自分がそっち側の人間だってこともさほど隠したりしないけど、
世の中やっぱり受け入れキャパはまだまだ狭いし、
きっと、人と深くかかわることを自分からはしないのだ。
イベントのアルバイトはそれぞれが単発で、
自分でどれを手伝うかも選べるから、
場所も人もその場だけの付き合いで済む。
そういう仕事のスタイルの方が自分には合っているって思ってる。
とはいえ、
いまやってる仕事がやりたくて仕方がないってほどでもないことは、
自分がよくわかってはいる。
人間、生きていくためには働かなくてはならなくて、
もっと頭がよかったら、
なにか資格でもあったなら、
もしも男好きではなかったら、
いまの仕事をしているかなんてことは、
まったくもって見当もつかない程度に。
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