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第35話 那津

ーーー・・・ 「ふぁ~・・美味し」 ゆっくり珈琲を淹れて、そのソファで独りカップに口をつける。 「はぁ・・・」 二口目も変わらず美味しかった。 目の前の白い壁を眺めながら、掃除っていいなって改めて思った。 この部屋を出て、 ただダラダラと続けてるイベントの手伝いなんてやめて、 ちゃんと家政夫にでもなろうか・・・なんて考える。 でもそもそも、男でもなれるものなのだろうか。 家政婦さんもメイドも、女の人ってイメージしかない。 好きなことを仕事にしない方が良いって人もいるけど、 実際はどうなんだろう。 ぼんやりとなんとなく、自分の未来を考える。 いつもなら「逃げちゃう」こと。 いままでずっと考えることを避けてたこと。 仕事とか将来とか。 そういうの。 男が好きってだけで、幸せな家庭なんて想像出来るわけなかったし、 別段、やりたいことも夢中になれることも何もないから、 そういうことを考えるのはずっと避けてきた。 それなのに。 頼まれてもいないのに、オレはともちゃんといると なぜだかいままで逃げてきたものについて、 自然と考えてしまっている気がする。 「・・・ともちゃんが」 きっと、ともちゃんという存在が。 いまのオレにとっての最大の未来だからなんだと思う。 自分の未来を描くことをいままでしてこなかったのは、 考えれば考えるほど、どんどん気分が暗くなっていくからだ。 あの日。 このマンションの地べたに座って見上げた、その暗闇のように。 それは何処にも繋がっていない、ただ、闇というだけだから。 そんな景色は怖すぎて、 いままでのオレはただ、なんとなくその日をやり過ごして、 笑っていられればそれでいいやって思ってた。 でも、ともちゃんに出会ってしまって、オレはなにかが変わってしまった。 その闇は、ただ暗闇なのではなくて、 少しでも明るいどこかに 繋がっていたらいいのにと思うようになってしまった。 そういう自分に気づいてなぜだか気分が沈む。 目の前のカップに口をつけると、 さっきはとても美味しかったそれはなぜだか味がしない気がした。 ソファの奥深くに腰かけて、背もたれに全身を預ける。 すると自然に顔は天井を向いて、そのまま瞼を閉じた。 本当なら明日もココで、 変わらずにおはようって言いあえたらいいのにと思う。 明日の休みに、ともちゃんが観たいと言っていた映画を 一緒に観に行けたらいいなって。 二人とも休みだから、いつもなら一緒にお昼を食べるだろう。 ともちゃんの食べたいと言ったものを作ってあげたい。 いつもみたいにただ淡々と、二人で食べられたらいいなって思う。 そうして次の日もいつもと変わらずオレの方が少しだけ早く起きて、 ともちゃんのために朝食を作って、 ともちゃんと一緒にそれを食べたい。 翌日はかっこよくスーツを着て、 窮屈そうな、けれどかっこよくネクタイを締めたともちゃんを、 玄関で「いってらっしゃい」と手を振って見送りたい。 来週も。 そのまた次の週も。 ともちゃんがオレにくれた、 あの春のコートが季節外れになったように、 いま着てる半そでが季節外れになってもずっと ・・・ココで。 ともちゃんと居られたらいいのにと思うのに。 閉じてた瞼を開く。 天井にはまた、ともちゃんが映る。 瞼を閉じても開けても、ともちゃんがいる。 「那津」って優しく呼ぶ声が聞こえる。 そばに居たい。 ・・・けれど。 いま、もうすでにかなり苦しい。 たぶんこれはひどくなる一方だってわかってる気がする。 この先、この気持ちは無くなることはなくて良くなることもない。 どういうわけか、それはもうきっとそうだと知っているのだ。 「っ!・・びっ・・・くりした・・・」 天井を見上げてたオレの瞳はいつの間にか濡れていて、 気づかないうちにそこから溢れた透明な雫が垂れていた。 びっくりしてその溢れた涙を手で拭うと、 ソレはまた溢れて頬を流れる。 だからまた、それを拭うとまた・・・涙が溢れた。 「もうダメだ・・・」 手のひらで顔を覆うようにして、 たぶんもう随分前から気づいてたことをぽつりとつぶやく。 そうして、つぶやいてしまったらもう、なかったことには出来ない。 もうダメなんだ。 もうムリ。 ココにいられない。 ココで笑っていられない。 勝手に溢れて出てきちゃうソレを、止める術がわからない。 止めようとすればするほど、逆に溢れる。 声を抑えたくても自分じゃどうにもならなくて、 溢れる全部をしばらくそのまま放っておいた。

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