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晋作の商店のすぐ隣…舗装のされていない脇道を入って進むと、腰の高さまで高くなって行く土地に囲まれる様に建った一軒のボロ家の前にたどり着いた。庭先というか、他人の田んぼなのか…我が物顔で闊歩する鶏たちにドン引きしてたじろいだ。 「なんだ…怖いな!」 そんな乙女心を全開にした俺の反応にクスクス笑うと、豪ちゃんはにっこりと笑って言った。 「大丈夫…みんな良い子だもん。ただ…今、雄の鶏を取り合ってるんだぁ…。だから、ちょっとだけ目つきが怖いんだぁ。」 へえ…人間と同じだな… ガララ… 豪ちゃんは無施錠の玄関を開いて中に俺を連れ込んだ。すぐに掴んだ手を離していそいそと玄関を上がった豪ちゃんは、俺を見下ろして聞いて来た。 「えっとぉ…シャンプーと、コンディショナーと…ボディーソープと、洗顔フォーム?」 「あと、ふわふわのスポンジも必要だ…」 …どうせありっこないんだ。ついでにヘアオイルでも注文してみるか…? 「…ん、待っててぇ!」 豪ちゃんは真剣な顔でそう言って部屋の奥へと消えて行った… トタン屋根に剥き出しの土台…雨漏りが起きてもおかしくない。台風が来たら吹き飛ばされてもおかしくない…そんな外観のボロ家は、玄関から覗いた限り…意外に清潔に整頓されていた。きっと、しっかり者の兄貴が管理しているんだろう。 「せいざぁん…来てぇ?ん、ちょっと…分かんなぁい。」 薄暗い部屋の中から俺を呼ぶ豪ちゃんの声と、段ボールを引き摺る様な音が聞こえて来て、その瞬間、ピンと来たんだ。 …これは、トラップだって。 部屋に上がった俺を捕まえて、好きなだけ襟足を撫でようと企んでいるに違いないんだ… 「嫌だ。上がらない。持って来ないなら帰る。」 頭の緩いあの子の為に、ハッキリときっぱりとそう言って断った。 「んんっ!だぁめぇん!英語で書いてあるから…分かんないのぉ!」 地団駄を踏む音が聴こえて来るが、俺は徹とは違う。面倒見の良いお兄さんじゃないんだ。用が無いなら帰るまでさ… ガララ… 玄関を開いて外に出ようとした瞬間…部屋の奥から重い荷物の落ちる音が聞こえて足を止めた。 「…んん…だめぇ、行かないでぇ…うっうう…うう…ひっく…ひっく…」 そんな、か細く震えて泣き始める声が耳に聴こえて、項垂れてため息を吐いた。 意を決して玄関で靴を脱ぐと、あの子の声がした部屋の奥へ向かった。 「あぁ…」 そこには段ボールに押し潰されて身動きが取れなくなった…泣きじゃくる豪ちゃんの姿があった。俺を見つけると、ボロボロと涙を流した歪んだ瞳を向けて、必死に言った。 「せいざぁん…んっ、ひっく…あるのぉ…シャンプーあるのぉ…」 ねえ、これを何と言うの…?健気?純真?それとも…馬鹿? あの子の体の上に圧し掛かった段ボールを持ち上げて退かしてやると、豪ちゃんはグスグスと鼻を啜りながら段ボールを蹴飛ばした。 あぁ…気性は荒いな… 「豪ちゃん!勝手に人を家に上げたら健ちゃんに怒られるよ!」 玄関から哲郎の声が聞こえて、ドカドカと部屋にあがって来る足音を背中に聞きながら豪ちゃんの体の上に散らばって乗った銀色のパックを段ボールに入れ直した。 「…ぐす。こ…これはぁ?」 そう言ってあの子の差し出した銀色のパックに書かれた英語表記を見て、思い出した。 そうか…この子の兄貴は町の美容室で下働きをしているんだった。だから…業務用のシャンプーをこんなに沢山持っていて、それを…俺に渡そうとしていたんだ。 あぁ…なんだ… そう思った瞬間、胸の奥から自然とため息が出て、力んでもいなかったのに肩の力が抜けて行く。 「…それは、シャンプーって書いてある。」 涙目で俺を見つめる豪ちゃんに微笑みかけると、自分でも驚くくらい…優しい声でそう言った。豪ちゃんは、頬を真っ赤に染めて恥ずかしそうにはにかみ笑いをすると、もじもじと体を揺らして喜んでいる様だ。 そして、それは…まるで、俺に…恋をしている様に見えた。 いつの間にか俺の背後に哲郎がやって来て、段ボールをひっくり返した豪ちゃんを見下ろしてため息を吐いて言った。 「豪ちゃん、あぁ~あ…健ちゃんに怒られるよ?」 「てっちゃん、大丈夫だよぉ?だって、兄ちゃんは今日の朝、惺山に会ったもん。困ってるって言ったら、きっと良いよって言ってくれるもん。ねえ、じゃあ…これはぁ?」 同じ様な銀色のパックを俺の前にかざしてそう尋ねて来るあの子を見つめると、さっきと同じ様に優しく言った。 「…それは、コンディショナーだ。」 半年は無くならそうな量のシャンプーとコンディショナーを手に入れた。 おもむろに財布から2万円を取り出してあの子に差し出して言った。 「これ、兄貴に渡しておいて…?」 次の瞬間、豪ちゃんはニコニコしていた表情を一変させると、悲しそうに眉を下げて口を尖らせながら必死になって言った。 「お金なんて要らない…!惺山にあげるのぉ!だから…お金なんて要らないのぉ!」 不機嫌に眉を歪めて不貞腐れ始める豪ちゃんを見ながら思った… きっと、俺が財布を出した事が嫌だったんだ。自分の好意に対して俺が金を出したから…傷付いた。 あぁ…もしかしたら、この子は… 「お金が欲しいんじゃない。惺山が…惺山が困ってたからぁ、だからぁ!」 ムキになってそう言うあの子の顔を覗き込むと、宥める様に静かに言った。 「分かってるよ。…俺もそんなつもりでお金を渡す訳じゃない。ただ、これは商品だ。兄貴がお金を払って買ってる物だ。ジョボビッチやトラボルタが産んだ卵とは違う。だから、俺はお前の兄貴に、商品分の代金を支払うんだ。」 「そうだよ。豪ちゃんに渡してる訳じゃないんだから、いちいちそんな事で怒んなよ。おっさん、仏壇の上にでも置いておいてよ。」 哲郎は怒った豪ちゃんの頭を撫でながら俺を見下ろして仏壇を指さした。そして、不貞腐れた豪ちゃんの顔を覗き込むと、確認する様に言った。 「良い?健ちゃんに聞かれたら、ちゃんと話すんだよ?良いね?」 …豪ちゃんは、すっかりへそを曲げてしまった様だ。 哲郎の言葉に返事もしないで、頬をパンパンに膨らませたまま大黒柱を足で蹴飛ばし始めた…。そんな様子を横目に、仏壇のある4畳半の部屋に入って真新しいお供え物の隣に2万円を置いた。そして、遺影の中のあの子の母親をチラリと覗き見て、驚いた。 …そっくりだ。 「豪ちゃんは…お母さんにそっくりだね…」 思わずそう言ってしまう程に、瓜二つなんだ。似ているレベルじゃない。これは生き写しだ。顔の大きさから、目鼻立ち…朗らかな笑顔の奥にアンニュイに醸し出される雰囲気まで。本人と間違われてもおかしくないレベルで、豪ちゃんはお母さんに似ていた。 俺の言葉に俯いた顔を少しだけ上げた豪ちゃんは、首を傾げながら寂しそうに視線を外して言った。 「…知らない。」 この子が産まれた時に母親は亡くなったと聞いた。 ”知らない“…その言葉通りだ。 どことなく嬉しそうに見えないのは、母親の死に負い目でも感じているせいだろうか… 「ボディーソープと、洗顔フォーム…あと、スポンジは…?」 話題を変える様に、不貞腐れて頬を膨らませたままの豪ちゃんを見下ろしてそう尋ねた。すると、あの子は顔を上げて何度も俺を振り返っては、帰らないかと様子を伺いながら別の段ボールを漁り始めた。 「…待っててね。今、今…出すからぁ…」 「待ってる…」 あの子の言葉にそう返した俺を見て、頬を真っ赤にして笑顔になると、豪ちゃんは一心不乱に段ボールの中からお目当ての物を出しては俺に掲げて見せた。 「ボディーソープ!」 「うん…」 「洗顔フォーム!」 「あぁ…」 「後…後はぁ…はい!スポンジ!これはねぇ、豪ちゃんのお気に入りだよ?」 「あぁ…そうかい…」 すっかり機嫌の良くなった豪ちゃんはケラケラ笑いながら全ての商品を畳の上に置いて、哲郎と一緒に段ボールを元の場所にしまった。 どうしてだろう… あんなに煩わしくて鬱陶しかったこの子を堪らなくいじらしく感じた。邪険に感じていた感情が一気に逆転したんだ。それは、段ボールに下敷きになったこの子が泣きながら俺を呼んだ瞬間から感じていた心境の変化… この子はKYで馬鹿かもしれない。でも、困っている俺の為に何かをしてあげたかったんだ。だからお金を出したことにショックを受けて、俺が笑顔を向けた瞬間…トロけてしまいそうなくらいの笑顔で喜んだ。 いじらしいじゃないか… こんな風に思ってしまうのは、きっと…世話好きの徹の影響を少なからとずも受けてしまったって事…。じゃなかったら、シティーボーイの俺が、どさんこの子供に、こんなに寛容になれる訳無いんだ。 「惺山、この袋に入れて持って行きな?」 意外だ… 頭の緩いあんぽんたんだと思っていた豪ちゃんは、俺の両手にかさばった荷物を一つ一つ手に取って、生成りの袋に詰め直すなんて気配りを見せてくれた。そして、いつもの様に瞳を細めて微笑むと、重たくなった袋を俺の肩にかけてくれた。 段ボールが所狭しと積まれた物置はこの家が日用品をストックする家だという事を物語る。段ボール買いしたトイレットペーパーや、箱ティッシュ…洗濯洗剤や食器洗剤、その他もろもろが晋作の商店よりも豊富に揃っているんだ。 きっとしっかり者の兄貴が、割高の晋作の商店で買うより、職場の近くの適正価格で売られる商品を買ってくるんだ。 「助かったよ…ありがとう。豪ちゃん。」 こんな声が出せるのか…と、自分でも驚く程に、出した事も無い優しい声で豪ちゃんを見つめてお礼を言った。豪ちゃんはそんな俺に頬を真っ赤に染めると、もじもじと体を揺らして恥ずかしそうにはにかんで言った。 「ふふ、良いの。惺山なら、良いの!」 …あぁ、やっぱり…この子は… 「豪ちゃ~~ん!グイネス・パルトロウらしき鶏が、田中のおじちゃんの畑の新芽を食べてるよ!」 「はっ!あぁ…!ん、もう!」 家の外から大吉と思わしき声が聞こえてくると、豪ちゃんはハッと表情を変えて一目散に玄関を飛び出して行った。グイネス・パルトロウ…それはきっと、豪ちゃんの鶏の名前だ…。なぜかあの子はハリウッド女優の名前を鶏に付ける様だ… 「ほら、おっさん…はよ、出てけ。」 そんな哲郎の恫喝ともとれる言葉を受けながら、まるで急き立てられる様に豪ちゃんの家を出た。玄関の前にはギャング団が集合して、ケラケラ笑いながら畑を走り回る豪ちゃんを眺めている。 「こらぁ!だめぇん!グイネス・パルトロウ!田中のおじちゃんの畑に入っちゃだめぇん!お前が食べて良いのはこっちの新芽だけ!豆苗を植えてあげたでしょう?ほら、こっちにおいでぇ?」 「コッコッココッコ!」 「なぁんだぁ!そんな事言う事ないだろ!豆苗だって美味しいのに、食わず嫌いなんだぁ!」 「ココココッコッコッコ、コケ~コ!」 鶏の言葉でも分かるのか…まるで喧嘩でもしているみたいなやり取りに吹き出すと、ギャング団がケラケラ笑いながら俺に言った。 「グイネス・パルトロウはまだ良い方なんだ。ジュリア・ロバーツが一番やばい。豪ちゃんでも太刀打ち出来ないくらい強い鶏なんだ!」 「へえ…」 首を横に振りながら呆れた様に笑って豪ちゃんを見上げると、鶏に説教をするあの子に向かって言った。 「豪ちゃん、ありがとう。またね…」 「あ…。うん、惺山…。ま、ま、また困った事があったら…豪ちゃんに、言うんだよぉ?」 恥ずかしそうにもじもじしながらそう言うあの子に手を振って別れると、来た道を沢山の荷物と一緒に戻って帰る。 さんさんと照り付ける太陽は来た時と同じなのに、心なしか心地よく感じるのはどうしてだろう… 亡くなったあの子の母親は豪ちゃんに瓜二つだった。 …もしかしたら、あの子の父親はそれに耐えかねて家を出て行ってしまったのかもしれない。愛する人があの子を産んで死んでしまった。大事に育てていたら、どんどんその人に似て行くんだ… それを嬉しいと思う人もいれば、辛く感じる人もいるのだろう… ふと、豪ちゃんの嬉しそうなトロけた笑顔を思い出して無意識に口元を緩めた。 豪ちゃんは…不思議な子。 あんなに優しい声を出せるなんて思わなかった…。もしかしたら、自分自身、初めて聞いた声かもしれない。それは、あの子の健気さが成せる絆しなのか…それとも、俺に向けられたあの子の特別な感情に、優越感を感じてしまったのだろうか… あの子は、多分…俺の事が好きなんだ。 伺い見る様な目つき、赤く染まる頬と耳、もじもじと恥ずかしそうに揺らす体…それは恋する乙女の行動に他ならない。その感情を持て余して”付きまとい行為“に走っているんだ。 …都落ちした、うだつの上がらない作曲家に恋する少年なんて…良い題材になりそうじゃないか。 同性愛、田舎、どさんこの純朴な少年と、汚い大人の作曲家。 ”アダージェット“の様な胸が締め付けられる…そんな切ない曲が書けそうだ。 「よし…」 ひとりそう呟くと、徹の実家に戻ってピアノの部屋へと向かう。そして、目の奥をギラつかせて頷いた。 今なら…良い旋律が浮かんで来そうなんだ。 肩に掛けた荷物を下ろして閉じたままの段ボールを開くと、何も書いていない五線譜を束で取り出してピアノの上に置いた。そして、ピアノの椅子に腰かけてそっと鍵盤を見下ろして、我に返った様にため息を吐く。 曲なんて作ってどうするんだよ…どうせ、弾かれて叩き潰されるだけじゃないか… 噛み締めた唇がジンと痺れた。 でも…白と黒の鍵盤を見つめたまま項垂れる俺の耳に、ピッコロの軽快な音色が響いて聴こえるんだ。まるであの子みたいに…俺の体の周りを付きまとって、楽しそうに笑いながら言うんだ。 「惺山、おいで…?」 って… そんな可愛らしくも透明感のある際立った音色に耳を澄ませていると、下を向いた気持ちが自然と持ち直して、鍵盤の上にかざした両手が自然と走り始めた。 先の事なんて今は考える必要はない… ただ、空から降りて来た体の周りを走り回るあの子の旋律を…ピアノに乗せて五線譜の中に閉じ込めてしまおう。 田舎の少年…両親が居ない、兄と二人暮らし。天真爛漫で、語尾を伸ばす話し方をする。馬鹿かと思ったら意外にもしっかりしている所もあり…剛毅な一面も覗かせる。そして、何よりも…見た目が可愛い。 そう…あの子のイメージはピッコロの音色にピッタリくる。俺の耳の中に響いて聴こえた音色は、まるであの子…そのものだ。 そんな旋律を補助する様にチェロの音色を寄り添わせて、一緒につるんで遊ぶ仲間たちをパーカッション、バイオリン、コントラバスで表現して行くと… 「あぁ…豪ちゃんだ…」 まるで楽しそうに駆け回るあの子の様な…そんなメロディーが出来上がった。口元を緩めて笑うと、鍵盤から手を離して五線譜に音符を書き込んで行く。 このメロディを主題にして、ドラマを作って行こう。 曲の中にも起承転結があるんだ。 あの子の曲にも…そんな物を用意して、翻弄させて、成長させて、昇華して行こう… ただ、今日はここまでみたいだ… だって、この先のメロディが思いつかないんだ。 …既存の曲の二番煎じやオマージュになってしまっては元も子もないんだ。降りて来た音色を繋いで、均して、厚さを持たせて…奥行きを出して行く。そうして、やっと一つの曲が完成する。 …あの曲だって、そうだった。 ピアノの鍵盤の上に置いた手を見つめながら、重たくなって行く頭をそのままに項垂れて、ため息を口から吐き出した。 交響曲をひとつ作ったんだ。 それは、なかなか芽の出ない自分を奮起させるために作った…激励の意味合いを込めた交響曲だった。ホルンやチューバ、トランペットが空気を切り裂く様にファンファーレを紡ぐ第4楽章は、我ながら圧巻の出来になった… それなのに… そんな素晴らしい交響曲に、自らの手で泥を塗ってしまった。 浅はかで…愚か。 でも…彼女を、未だに忘れられないでいる… ピアノに座りながら空っぽの本棚を見上げて、はみ出た楽譜の端を眺めながらため息を吐いた。 不思議だな… こんなに打ちひしがれる程思っているのに、彼女で曲を書こうとは思わなかった。閃かなかったんだ…彼女の何にも。美しさや…表現したい物を感じなかった。つまり、俺の感性は俺の本能とはかけ離れた所で創造をするという事か… だから、自分に惚れた少年を題材に曲を書こうなんて思うのさ… 「調律師が要る…」 ポツリとそう呟くと、少し音のズレたピアノでリストの”ため息“を弾き始めた。 暗雲が立ち込めてあちこちで雷鳴が轟いている様な場所から這う這うの体で逃げ出して来たというのに…どうしたものか、今はこんな風に美しい音色に酔って、この曲の様に…感嘆のため息がこぼれてしまう感情を味わっているんだ。 繊細に指先を運んで…高音からなだれ込む様に音の階段を降りて行くと、すぐに駆け上がって主題のメロディを弾きながら…あの子に話しかけた。 とても、きれいなお母さんだったね。驚いたんだ…だって、とても似ていたから。君のその可憐さは…きっと、お母さんに似たんだ。そう…君は、まるで汚れていない…混じりっ気のない、ガラス玉の様に…美しい。 頬を赤く染めて嬉しそうに瞳を細めるあの子の笑顔を思い出すと… 慈しむように撫でられた髪の感覚を思い出すと… 得も言われぬ感情が沸き上がるのはどうしてだろう… どうしてだろう。 「はぁ…」 ”ため息“をため息を吐きながら弾き終えると、止まらなくなった指をそのまま好きにさせて、続けて”ラ・カンパネラ“を弾き始めた。 リストは好きだ… 孤高で、華麗で、トリッキーな彼の楽譜と演奏法は、いつも出鼻をくじいてくれる。 そんな所が好きだ… そして、演奏してもっと好きになる。 何重にも重なる音色が溢れてこぼれて、奏者はどんどん溺れていくんだ。 指が追い付かないくらいに…音色が先に聴こえて来るみたいに…溺れて、惑わされて、方向を見失っていく… あぁ…!綺麗だ…この旋律は…まさに奇跡! ”ラ・カンパネラ”を勢いのまま情熱的に弾き終えて、そっと自分の両手を眺めた… 「…なんだ。まだまだ、動くじゃないか…」 コンコン… 背後の窓から聞こえるノックの音に視線を移すと、テラスへ続く大きな窓の向こう側に…すでに頬を真っ赤に染めた豪ちゃんが立っていた。あの子は両手で大事そうに鶏を抱えて俺をじっと見つめて瞳を潤ませている… あぁ…また、この子か… 俺に恋した…どさんこの少年。豪ちゃんだ。 ため息を吐きながらピアノを離れて窓辺へ向かうと、あの子を見つめながら窓を開いた。押して開いた窓から身を避ける様に後ずさりすると、豪ちゃんは嬉しそうに体を揺らして鶏の頭を撫でた。 「何…」 ぶっきらぼうにそう聞いた俺に、あの子は胸の中の鶏を見せて言った。 「せ…惺山に…パリスを貸してあげる…!庭の…雑草を全部食べてくれる…!そ、そそそれに…雄鶏がこの子に夢中になっちゃって、他の雌が怒っちゃうんだぁ…ねぇ、良いでしょ…?」 今の今まで、30年間生きて来て…俺と接触を図るために“鶏”なんて使う女はひとりもいなかった…。しかも、庭の雑草を食べてくれるから…なんて、切実な生活感の溢れる理由も、聞いた事が無かった… 呆然としながらあの子の腕に抱きかかえられた鶏を見下ろした。頭には小さな赤いトサカ…しきりに動かす首…俺を見上げる感情の読めない小さな瞳…そんな鶏から、視線を上にずらしてあの子を見つめて、首を傾げる。 豪ちゃんはもじもじと体を捩らせて、真っ赤に染まり切った頬を隠す様に顔を伏せながら、何度も上目遣いに俺の様子を伺い見て来る…そんな姿にため息を吐いて顔を背けると、ぶっきらぼうに言った。 「…好きにしろ。」 窓に手を掛けて閉めようと力を入れると、恥ずかしがっていたあの子が身を乗り出して言った。 「ピ、ピアノ…凄く素敵だった…惺山…素敵だった…」 どうしてかな… そんな最後っ屁の様なあの子の一言に、胸を撃ち抜かれた。 それは忘れかけていた純情な気持ちを思い出させたのか…この、青葉の様に青臭い少年の恋心に、あてられでもしたのか…胸の奥が、飛んで弾けたんだ。 どうかしてる… この少年の淡い恋心を曲の題材として使うなら良い。 それは、あくまで俺が主体で行われる事だからだ。俯瞰して切り離した場所から、この子を眺める事で、この淡い恋心を、乱れる感情を、曲に変えて行く事が出来る。 なのに…どうしてか… この子の一方的な熱い眼差しを、俯瞰して見る事が出来ないで、まるで一緒に恋に落ちて行く様に…胸の奥が揺すぶられてしまうんだ。 きっと…見た目が可愛いから、脳が混乱しているんだ。そもそも、この子は女じゃない、男だ。しかも、かなりの年下だ。そんな対象に見る事すら考えるにはばかる相手なんだ。 しっかりしろよ…惺山。俺は年上の女が好きだろう…? 甘えさせてくれるし、包容力だってある。そして、何より… 冷たい。 突き放して、二度と会えなくなっても…きっと、平気な顔をして過ごしているに違いないんだ…。先生に媚びを売って、先生の金で、煌びやかに自分を飾り立てて、俺の事なんて、とっくのとうに…忘れているに違いないんだ。 でも、もしかしたら… まだ、俺の事を思ってくれているかもしれない。 どうしているかと…心配しているかもしれない。 「豪ちゃ~ん!」 そんな気の抜けた大吉の声に我に返ると、目の前で俺を見つめたまま頬を真っ赤にして惚けた瞳を向ける豪ちゃんに言った。 「友達が来てるぞ…」 そして、まるであの子から逃げる様にそそくさと窓を閉めて、振り返りもせずピアノの部屋を後にした。 彼女に会えないせいで…俺は田舎でロリコンの男色に目覚めてしまうかもしれない。 最悪じゃないか… 音大にもいたし、業界の中にもそう言う人種はいた。所謂…ゲイやホモと呼ばれる同性愛者たちだ。どのペアも、俺から見たら…男同士のむさ苦しいものにしか見えなかったし、決して美しい形になんて見えなかった。 「どうやってセックスするんだろうね…」 「お尻の穴に入れるんだよ。」 俺の問いかけに友人はそう言って笑うと、ハッと表情を崩して大笑いしながら言った。 「惺山なんて陰のある色男だから、ああいうのが寄って来るぞ!むしろ、そう言う風に体を使ってコネを作るって手もある。女の子に手伝ってもらって、尻の穴に挿れる練習でもしておけよ!あ~はっはっは!!」 最低だろ…?でも、この友人は割と本気でそう言ってた。そんな彼を一瞥して顔を歪めて見せると、俺は肩をすくめて言い返した。 「無理だよ…俺は女にしか興味が無い。そもそも…勃起しない!お前だったら出来る?例えば…あのカップルの、あいつとセックス出来る?」 「あ~はっはっは!無理に決まってる!ジョリジョリのひげ面とキスするかと思うだけで、萎えるわ。」 そんな話をした…大学4年の春…桜の花びらが舞う構内。 今は昔…まだ若かった頃…あの時の自分に戻りたい。 そして、もう一度初めからやり直したいよ。 豪ちゃんのお尻になんて挿れない… 可哀想じゃないか。あの子は田舎のどさんこなんだ。そして、都落ちした…うだつの上がらない作曲家に恋をして…失恋する。 そんな曲に仕上げるんだから… 作品の情緒に飲み込まれたりするな。 あくまで俯瞰した場所から鑑賞して、情緒を盗んで、作品の中に落とし込める為に利用するんであって、わざわざ渦中に飛び込んで体感する物じゃないんだ。 感情移入するのは、仕事熱心なお前の悪い癖だよ…? 「こんちは~!調律に来ました~!」 時間通りだ。 午後2:00…調律師が玄関先にやって来た。そして、勝手知ったる徹の実家に上がると、そそくさとグランドピアノの調律にかかった。 …4時間はかかるかもな… 徹が言っていた。誰も弾かなくても定期的に調律をして来たって…。生き物と同じさ…ピアノも、世話をしないと死んじゃうんだ。 今回は更に奏者が変わる訳だから、調律師としては、いつもの様な”徹仕様”のメンテナンスと調律ではいけない訳だ。最後に俺が弾いて具合を確かめながら、あのピアノを”徹仕様“から”俺仕様”にチェンジするんだ。 お抱えの調律師はある意味、かかりつけ医と同じ。このピアノの事を誰よりも分かっている職人だ。きっと上出来に仕上げてくれるさ… 「それじゃ…よろしくお願いします。」 「はい~」 汗だくの調律師を横目にピアノの部屋の扉を閉めると、調整のお呼びがかかるまでぼんやりと壊れたブラウン管を眺めた。縁側の向こうでは許可もした覚えも無いのに我が物顔でギャング団たちが遊び始めていた… 「あ~はっはっは!晋ちゃん!そっちだぁ!」 「パリスチャ~ン!待ってぇ~!」 「コッコッコココココ…!!」 晋作と清助が楽しそうに鶏を追いかけている…。 捕まえる事に意義があるのか…それともその先に何かしらの理由があるのか…小一時間、問い詰めてみたい所ではあるが、足元を走り回る鶏に翻弄される彼らは、時間を持て余した俺には良い暇つぶしの余興となった。 「お、落とし穴作ったぁ!」 大吉がそう言って両手を広げてアピールする中、パリスはあいつの前で急旋回して来た道を走り抜けて行く。なんと…賢い鶏だろう!大吉の足元の不自然なトラップを見破ったんだ。まるで小馬鹿にする様に引き返して行った。 「ぷぷ…」 思わず吹き出すと、気付かれない様に横目に様子を伺い続けた。 「よ~し、じゃあ…ふたりで挟み撃ちしながら大ちゃんの落とし穴に誘導して行こうぜ!」 はは、実に子供らしいじゃないか… なに、鶏を虐める事が子供らしい訳じゃないさ。追いかけているつもりでも、落とし穴に誘導しているつもりでも…結局のところ、鶏の方が賢いんだ。 「あっ!イタ~!」 ほらね… 大吉は自分の作った落とし穴に見事にはまった。そして、晋作と清助はパリスの機転に気付かず、お互いの頭をぶつけあって悶絶してる… 馬鹿だ…! 馬鹿なんだぁ…!! 大笑いしたい所を必死に堪えて目じりを下げながら彼らを眺めていると、ふと、感じた強烈な視線に顔を向けた。 豪ちゃん… あの子は居間でブラウン管を眺める俺をじっと見つめていた。そして、それはどことなく寂しそうな色を付けた瞳だった。俺と目が合うと恥ずかしそうに顔を伏せて、横目にチラチラと伺い見てはもじもじと体を揺らした… あぁ…本当…君は女の子がそうした様にするね… つまり、俺の事が好きなんだ。 そんなあの子の後ろには、この状況を面白くない表情で眺める哲郎が居た。しきりに話しかけるも、豪ちゃんは俺の事ばかり見るから…苛ついている様子だった。 はぁ…なる程ね…君は豪ちゃんの事が好きなんだ。だから、俺をそんな瞳で睨みつけて来るのか… ふと視線をブラウン管に戻すと、テーブルの上の空の五線譜に鉛筆で書き留めた。 第一楽章は、ソナタ形式で起承転結を付ける。ここでは豪ちゃんの奔放さと、醸し出すアンニュイな雰囲気…後は、哲郎の恋慕を入れよう。 第二楽章はゆったりとメロウに…第一楽章を繋いでいくのも悪くない。 第三楽章で豪ちゃんの純朴な可愛らしさと鶏をだしに使うあどけなさをワルツにしようか…そして、第四楽章で…怒涛のフィナーレだ。 俺に振られて失恋に荒れ狂う…そんな豪ちゃんを描いていこう…もちろん、足癖の悪いあの子の様子をティンパニーを打ち鳴らして表現してやろう。 失恋…? そもそも、豪ちゃんは俺に好きだと伝えてくると思う? 俺に、その先の何かを求めると思う…? 抱いてくれなんて…言ってくると思う…? ブラウン管の中…眉を顰めた自分の顔を見つめて首を傾げた。 「パリス…怖かったね?可哀そうに…」 足元に寄って来る鶏の頭を撫でて、頭をぶつけて悶絶するふたりのおでこの具合を確かめると、豪ちゃんはタオルを水で濡らしてふたりのおでこに当ててあげた。そして、落とし穴で身動きの取れなくなった大吉を引き上げてやると、すりむいてしまった膝を同じ様に濡らしたタオルで拭いてあげている… そこいらの女の子より、ずっと優しいんだ… ふと、そんな俺の視線に気が付いたのか、あの子が顔をあげて俺と目を合わせた。 あ… 咄嗟に視線を逸らした。そして、耳にヘッドホンを付けて手元に転がった楽譜を手繰り寄せて、あても無く音楽を再生させる。 取り繕う様に淹れたてのコーヒーを一口飲んだ後、読み始めた譜面の曲を選曲し直すと、ため息を吐きながら再生させる。 トントントントン… 耳に聴こえてくる音楽のテンポをテーブルを叩いて刻んで、ひとつひとつの楽器の音色を聴き分けながら譜読みをして、時間が止まった様に目の前の楽譜と聞こえてくる音楽だけに集中して行く。 余計な事を考えたくない時は…こうするに限る。 どうかしてる… あの子と目が合っただけで、ずっと見つめていたと気付かれただけで… 胸が跳ねて動揺してしまうなんて…どうかしてる。 顔をあげた時、まだあの子がいたら…やっぱり目で追ってしまうんだろうか…。まるで恋している様に…目で追って、見つめて、微笑んでしまうんだろうか… それは…嫌だ。嫌なんだ。 読み続けていた“ボレロ”の楽譜を、曲を聴き終えると同時にテーブルに置いて、持ち続けた冷めたコーヒーを一口飲んで、縁側の向こうを眺めた。 いつの間にかギャング団たちはあの子を連れて姿を消していた。 …いたのは、一羽のパリスだけ。 「…パリス…おいで…」 あの子が呼ぶ様に声をかけてみると、パリスは何事かと茂みから顔を上げた。そして、首を伸ばして声の主を探す様に顔を捻ると、俺を見つめて首を傾げた。 ふふ… まるで、言ってることが分かっているみたいじゃないか… 「良いの…惺山なら、良いの…」 そう言ったあの子の言葉をおもむろに口に出して呟いてみる。それは甘くて…予想外に、胸の奥が熱くなる様な…幸福感をくれた。 「そうなの…俺なら、良いの…」 まるであの子に返事をする様に小さく呟くと、縁側の向こうを眺めたまま楽譜の端をしきりに撫でて指先で丸める… 恋になんて落ちない。 つい、この間…泥沼に突き落とされて、未だに抜け出せないでいるんだ…! しかも、あの子は子供で…男の子だ。 どうかしてるよ。惺山…。彼女が恋しすぎて…おかしくなってる。 「すみません。確認おねがいします~!」 ピアノの部屋から顔を覗かせた調律師に声を掛けられて我に返ると、足早に部屋へと向かった。これから微調整が始まるんだ。 それは調律師と、奏者の駆け引きの如く…長い時間を掛けて微妙な塩梅を探る、そんな綿密な作業になるんだ! 「ども、ありがとうございました~!」 はは!ウケる! 俺みたいに演奏に拘りも癖も無いベーシックは、確認なんて作業も瞬殺だった。一音一音念入りに押して踏んでも、どの音もピンポイントに聞こえて一発で合格だった。 逆にだ、こだわりの強い人は一体何に難癖をつけているのか…聞いてみたいもんだね! 調律師はあっという間に仕事を終えると赤いミニクーパーで田舎道を帰って行った…ボンネットに日の光が当たって…微妙にかっこよく見えたのは俺の主観だ。 敬意を込めた、主観さ… 4時間もかかるなんて俺の見積もりは大外れ…2時間もしない内に調律が終わった。それについてダサいなんて思わないさ。調律師の腕が良かったのと、長年このピアノを見て来た経験値が、俺の読みを外しただけだからね… 「そうだ…湖にでも、行ってみるか…」 傾きかけた太陽を縁側から見つめてそう言った。日も落ちて来た午後4:00…流石に直射日光を浴びる危険はもうないだろう… さっそく申し訳程度の戸締りを済ませて玄関を出た。モワッと地面から立ち上がる熱気に顔をしかめて道を下って行く。三叉路まで出ると、豪ちゃんの家がある方じゃない、左の道を下って降りて行く。 …目がまん丸な所が可愛いんだ。 突然、頭の中でそんな言葉が浮かんできて…ゾッとした。 どうかしてる… …時折見せるアンニュイな表情が、可愛いんだ。 どうかしてるよ、惺山… お前はこの前、作曲家人生を台無しにしたばかりじゃないか…。間髪入れずに本当の人生までも台無しにするつもりか…? どМ過ぎるだろう…ドン引きさ… 自分に呆れて言葉も出ない…ただただ、ため息を吐きながら首を横に振った。 一列に並んだ防風林の向こう側に湖面が姿を現して、傾きかけた日差しが一帯をキラキラと輝かせていた。 「あぁ…綺麗だ…」 …海とは違う。湖の湖面は穏やかで、風に撫でられた波紋を広げては小さな波を立てるんだ。 「せいざぁ~ん!」 そんな俺の名前を呼ぶ声に咄嗟に背を向けると、反対方向の湖畔を歩き始めた。 視界の隅にあの子が見えたんだ。俺は今、あの子に会いたくない。だから、気が付かない振りをして…やり過ごすつもりなんだ。 「惺山、こっちにおいで~?」 行かない。 一瞬だが、確かに見えた。豪ちゃんは海パン姿だった。そんなあの子の姿を見て、自分がどう反応するのか…怖かった。 だから、絶対に行かない。 ジロジロと体を眺めて鼻の下なんて伸ばしたりしたら、本気で立ち直れなくなりそうだ。 今はどうかしてるだけ…だから、避けて通れる危険を回避している。 同性に対して、女の子を好きになる様に好きになる事なんて今までなかった。きっと、人生の局面で、あらゆる可能性を模索しようとした俺の貪欲さが裏目に出ているだけなんだ。 「はぁ…良い夕陽だな…」 湖の上を駆け抜ける風が滲んだ額の汗を撫でて乾かして行ってくれる。仕事を終えて家に帰る太陽は、くたびれたおっさんの如く照り付けるパワーを失ったみたいだ。 夕方の湖畔は気持ちが良い… ギャング団と十分に距離を取って離れた桟橋を歩いて進むと、先端に腰を下ろして靴を脱いだ。そして、そっと足を湖の水に浸して口元を緩めて笑った。ひんやりと冷たい湖の水が火照った体の熱を一気に冷ましてくれるんだ。 そのままゴロンと仰向けに寝転がると、ゆっくりと流れて行く煙みたいな掠れた雲を眺めて…瞼を下ろした。 あぁ、平和だ…ぱちゃぱちゃ…ウフフ…お水が気持ち良い… 足をブラブラさせながら水面を掻くと、足に絡みついて来るようなトロみのある湖の水に癒されて、楽しんだ… 「せいざぁ~~~~ん!」 ドタドタと桟橋を駆け抜ける足音と、そんな威勢の良い声を上げながら、俺の上を飛び越えて…湖に飛び込んで行った。 誰がって…? 豪ちゃんだ! あの子は金づち…徹がそう言っていた。 慌てて体を起こして湖面を見下ろすと、バシャバシャと水しぶきを上げて溺れているあの子を見て、心臓が止まった。 「豪ちゃん!」 迷いなんてしなかった… 躊躇なんて、無かった… すぐに湖に飛び込んで、あの子を抱き抱えながら浅瀬に向かって泳いだ。 …なんて馬鹿なんだ!泳げもしないのに…足の付かない所に飛び込むなんて!! 「…随分、馬鹿な事をしたな。せっかく軌道に乗ったというのに…全て水の泡だ。先のことも考えられない癖に、こんな事をするなんて…。お前を見込んだ私の見当違いだったと言う訳か…残念だよ。惺山…」 そう言った先生の苦悶の表情が、目の前をよぎって行く… …はは、そうか… 俺も、この子と同じ、馬鹿だって事か… 先生に不義理をはたらく事で、全てが台無しになるなんて…考えも、思いつきも、しなかったんだからな… 「惺山、苦しい!」 小脇に抱えた豪ちゃんは困った様に眉を下げてそう言うと、俺の肩に手を掛けて顔を覗き込みながら言った。 「…豪ちゃんと遊びたかったの?でも、急に抱き付いたら…溺れちゃうよぉ?」 ん…? 「お前、泳げないんだろ…?」 俺の首に両手で掴まったあの子は、近すぎるくらい顔を寄せて頬を真っ赤にすると、頬ずりしながらグフグフ笑って言った。 「ぐふっ!犬かきなら出来るって…3年前に知ったぁ!」 はぁ…何だよ… 泳げんのかよ… 運動不足と年齢…プラス精神的ショック…色々な条件が揃ったせいだ。浅瀬に着くころには俺はヘトヘトになってしまった。そんな俺を抱きしめながら、豪ちゃんは楽しそうにケラケラ笑っている…この状況は、一言で言えば…カオスだ。 「おっさん、豪ちゃんは自分しか助けられないぞ。飛び込んでも、しがみ付いたら一緒に溺れて死ぬぞ?それとも、心中か?あ~はっはっは!」 晋作は物騒だ…どこにも笑うポイントなんて無いのに、心中なんて言葉にゲラゲラと大口を開けて笑ってる。そんな中、大吉がいやらしく手もみしながら近づいて来て言った。 「…きっと、豪ちゃんのちっぱいが見たかったんだよ。」 は…?! さっきから前後左右…満遍なく抱き付いて来るこの子の胸が微妙に膨らんでいるのは、気が付いていた。でも、ジロジロ見ない様にしていた…筈だ。 「違う!徹が、豪ちゃんは泳げないって言っていたから、てっきり溺れたのかと思ったんだ!だって、バシャバシャと凄い水しぶきを上げてるんだ。普通、勘違いするだろう?!」 慌てれば慌てる程、まるで弁解している様に見える。そんな俺を見つめて抱き付くのを止めると、豪ちゃんは頬を真っ赤に染めてもじもじしながら手ブラをした。 ずっと抱き付かれていたせいか気が付かなかったが、日に焼けていないあの子のお腹は真っ白で、手ブラの下から覗き見えるなまめかしいちっぱいの上の乳首は、舌で舐めるには丁度良い大きさで…薄ピンクの可愛い… はっ! 何てこったぁ…最悪だぁ!! 「まったく!溺れたと思ったんだよっ!あぁ~あ!ずぶ濡れになった!ほんと、最悪だ!お前に関わるとろくな事が無い!」 あの子の体を見て下心が疼いた。そんな認めたくない衝動を隠すために乱暴にそう言った。水浸しになった重たい体を起こして桟橋に置いた靴を取りに行くと、もれなく後ろから付いて来るあの子が言った。 「…ごめんね。惺山…ごめんね…怒んないで…?」 止めろ…付きまとうな…! 体に纏わり付くシャツのボタンを乱暴に片手で開けながら靴を手に取ると、後ろを付いて来る豪ちゃんを見下ろして言った。 「俺も男だ!付いてる物も、持ってる物も同じだ!そんな風に…手ブラをするなよ。男のくせに気持ち悪い…!」 その一言が…あの子を傷付けた。 「う…」 豪ちゃんは俺の言葉にショックを受けた様に表情を固めて瞳を歪めた。そして、胸にあてていた手をズルズルと下に下ろして、項垂れてしまった。 可哀想… そんな豪ちゃんの肩にタオルを掛けると、哲郎は俺にタオルを差し出して言った。 「…使う?」 「要らない…」 ムフムフといやらしい笑顔を向ける大吉や、キョトンと首を傾げる晋作。未だに湖で小魚を取ろうと頑張る清助を横目に、びしょ濡れの体で…ひとり、徹の実家へ引き返す。 自分の下心を察せられたくなくて、動揺して…あの子を傷付けた。 でも、良いんだ…これで良い… 俺は女にしか興味が無い。普通の成人男性だ。変に優しくしたりして期待させる方が、可哀想だろう… でも… あの子が俺に何かを求めると思う? ただ、傍で見ていたいだけなんじゃないの…? ただ、俺の襟足を撫でたいだけなんじゃないの…? すぐに、話がセックスや安っぽい愛に変わる汚れた大人と違って…純粋なあの子の要求なんてたかが知れている… 傍を付いて回りたいだけなんだ。 俺は、心に余裕のない…大人気ない…くそ野郎だな。 徹の実家に戻って風呂場で体を流して、あの子に貰ったボディーソープと、シャンプー、コンディショナーを使った。 ふわふわのスポンジは、豪ちゃんの…お気に入り…か… お湯で洗い流したふわふわのスポンジを壁にかけて、きしまなくなった髪に満足して風呂を出ると、ビールを片手に縁側に寝転がった。 日は沈んでもまだ明るい…そんな空を見上げてため息を吐いた。 気持ち悪いのは…俺の方だ… 純朴なあの子に、邪で汚い…下心を抱いてしまったんだ。 ごめんね…豪ちゃん、可哀想に…泣いていただろう? 本当に、ごめんね… 「コケッコケッコ…」 縁側の下を覗き込んで、俺を見上げながら首を細かく動かすパリスを見下ろした。まるで俺の様子を伺いに来たような鶏に、クスクス笑って瞳を細めて、ポツリと言った。 「パリス…お前のご主人様を傷付けてしまった…」 感情の読めない小さな瞳を見つめてそう呟くと、パリスは首を揺らしながら俺に言った。 「コッコッココココッコ…コケ…」 うん。分からないよ… でも、何かを伝えてこようとする意思は感じた。 …豪ちゃんは俺に何かを伝えようとして来る訳じゃないんだ… 好きな俺に、親切にして…付きまとって…過剰に世話を焼きたがるだけ。 そんなあの子に良からぬ下心を抱いたのは…俺。 なのに… 「気持ち悪いなんて…酷い言葉を掛けて泣かせてしまった…」 縁側の下でパリスの喉を鳴らす声が聞こえて、目の前の薄暗い空には大きな翼の鳥が真っ黒なシルエットになって山へ向かって飛んで行った。うっすらと顔をのぞかせた月が、静かに俺を見つめている気がして…頬に涙が伝って落ちて行く。 無防備で…無垢。そんな人を、傷付けてしまった… それは、思った以上に…自分の心まで傷付ける様だ。 「おじちゃん…食べ物無いんだろ?」 そんな言葉と共に現れた大吉は、縁側に煮物を置いて帰って行った。 「…おっちゃん、これやるから機嫌直せよ。」 そんな言葉と共に現れた晋作は、トイレットペーパーを縁側に置いて帰って行った。 「おっさん…豪ちゃんが悪かったな…」 そんな言葉と共に現れた哲郎は、大吉の置いた煮物の隣に焼き魚を置いて帰って行った。 「これ…やっと捕まえられたんだ…観賞用に。」 そんな言葉と共に現れた清助は、縁側に小魚の入った桶を置いて帰って行った。 時間差で現れては食べ物や物資…観賞用の魚を置いて行った彼らに、無言でペコリと頭を下げて、ビールを飲みながら黄色く鮮やかに色付いた月を見上げた。 今まで気が付かなかったけど…もしかしたら、俺は子供に好かれるタイプなのかもしれない… 放っておけないタイプ、なのかもしれない… 「…惺山…」 震えている… そんな声に視線を落として、少し離れた所から俺を見つめるあの子を見つけると、自然と肩から力が抜けて…体が柔らかくなって行くのを感じた。 「…どした。」 そっけなくそう言ってビールを一口飲むと、まるで、さっきの事を帳消しにする様に自然に振舞って、ギャング団が寄越した料理や物資…観賞用の小魚を指さして言った。 「くれた…」 そんな俺の様子に、豪ちゃんは何も言わないままもじもじと体を揺らした。 月明かりがあたりを照らしてあの子の姿が良く見える様になると、足元に寄って来たパリスを撫でながら震える声で豪ちゃんが言った。 「…大ちゃんが…言ったから…」 「…ん?」 まるで囁き声の様に小さな声を聞き逃して、体をあの子に向けて首を傾げて聞き直した。すると、あの子は怒った様に頬を膨らませて言った。 「…ん、大ちゃんが…変な事を言ったから、おっぱいを隠しただけなの!」 「ぷぷっ!あ~はっはっは!」 やっぱり…”気持ち悪い…“なんて言われて傷付いていたんだ。 ごめんね…ごめんね、豪ちゃん… …まん丸の瞳の目じりに溜めた涙は、気が付かない振りをするよ。 大げさに笑って見せると、顔を赤くして肩で息をする豪ちゃんに言った。 「あぁ、そうか…それは悪かったな。」 あの子は俺の大笑いを見て驚いた様に目を丸くした。それもその筈だ…だって、ここに来て俺が大笑いする事なんて一度も無かったからな…。 いいや、ここに来て…じゃないな。俺自身…自分のこんな笑い声なんて聞いたのは何年ぶりだろうか… 「豪ちゃんのくれたシャンプーとコンディショナーがとってもいい感じだ。サラサラになった。はは…ほら、触ってごらん?」 目を丸くしたままのあの子にそう言って頭を向けると、豪ちゃんは嬉しそうに笑って近付いて来て、そっと俺の頭を撫でて言った。 「…長い髪…気持ちいい…」 そう言ったっきり、ビールを飲んで月を眺める俺の隣に腰かけて、あの子は俺の髪を撫で続けた。特に襟足の髪を指に絡めるのが好きみたいだ…。クルクルと巻きつけてはクルンと離して、再び…クルクルと指先に巻きつける。…その繰り返しだ。 ふと、横目にあの子を見ると、だらしなく惚けた顔をしながら、焦点の合わない瞳を揺らしていた… まるで、どこかに意識がいっちゃってるみたいだ…変な子。 でも…可愛い子。 「豪ちゃん…好きなの…?」 惚けたままのあの子を見下ろしてそう聞いた。ハッと我に返った様に俺を見つめると、豪ちゃんは呆けた瞳を細めてだらしなく緩んだ唇を動かして言った。 「…好き。」 あぁ…このままキスしてしまいたい。 まるでとれたての果実の様に、張りのある…吸いつくような肌触りのあの子の頬を撫でて、手のひらに感じる温かさに良からぬ下心が疼き始める… 「ふふ…襟足が、好きなんだね…」 意地悪にそう言ってあの子の瞳を覗き込むと、豪ちゃんはウルウルと瞳を潤ませて言った。 「う…あ、えっと…う、うん…襟足が…好きなの…」 本当は、俺が好きなんだよね…豪ちゃん。 可愛い豪ちゃん… 「…じゃあ、豪ちゃんも伸ばしてみたら良い…」 おもむろにあの子の頭を撫でると、思った以上に柔らかくて細い髪にうっとりと瞳を細めた。そして、まるで猫の様にクッタリと俺の手のひらに頭を預けて来るあの子に…堪らなく興奮して、このまま抱きしめてしまいたい気持ちを必死に堪えた。 「ふふ…何で?何でそんな顔をするの…?」 眉をひそめて俺を見つめるあの子の表情に吹き出して笑うと、あの子はそのままの表情で俺に言った。 「なんだか…良く分からない。どうしてか分からないけど…」 惺山の事が好き…なんだろ? 「…うん、なぁに…?」 余裕の笑顔であの子を見つめてそう聞くと、豪ちゃんは躊躇った様に顔を横に振って言った。 「…髪が、長いのが…好き…みたいだぁ…」 あぁ…豪ちゃん…言えないの。惺山が好きって…言えないんだ。 「だぁから…だったら、豪ちゃんも伸ばせば良いって…そう言っただろう?」 柔らかい髪を撫でて後頭部を手のひらで包み込んで、あの子の首筋を小指で撫でながら引き寄せると、真っ赤に染まったあの子の顔を覗き込んで、鼻の頭をチョンと押して言った。 「…ロン毛の豪ちゃんは、きっとモテモテになるよ?」 「え…う、う…うん…」 腑に落ちない…そんな表情をして首を傾げたあの子は、耳まで真っ赤に染めながら唇をぺろりと舐めて、俺の唇を見つめた。 は…?!駄目だ!何を考えてるんだぁ! 狼狽えて、動揺して、焦った…。 そんな気持ちを隠して潤んだ瞳の豪ちゃんから静かに佇む月へと視線を移すと、カクカク首を動かしながら言った。 「豪ちゃん…月が綺麗だよ。ほら、見てごらん。」 取り繕う様にそう言った俺に、あの子は何も答えないままじっと俺を見つめ続けて静かに言った。 「…惺山、怒らないで…」 はぁ…駄目だよ。 「…怒るよ」 一言そう言ってため息を吐いて、縁側から立ち上がろうと体を沈めた。 次の瞬間、あの子の唇が自分の唇に重なって…小さな震える舌が口の中に入って来た。 はぁ…?! いきなり…舌を入れて来たぁ! 思わずあの子の体を押しのけて、顔をしかめて怒って言った。 「ど、ど、どこでそんな事を覚えた!」 「て…てててて…テレビ!」 やばい…まさにそう言った表情をすると、豪ちゃんはボロボロと泣きながら言った。 「ち、ち…違うもん!惺山の…惺山の唇に、青のりが付いてたからっ!取ってあげただけだもん!べ…別に、違うもん!」 嘘つきめっ! 悪い子だぁ! このまま第四楽章のフィナーレを迎えさせても良いんだぞっ! 大人をからかうと、どんな目に遭うのか…思い知らせても良いんだぞっ! 「はぁ…!もう、帰んなさい!」 …怒り、という感情にシフトする事が出来た俺は、かろうじてあの子に襲い掛かる事を踏み止まる事が出来た。しかし、思った以上に豪ちゃんは…積極的だった。きっと、この子には“大人の駆け引き”の様な…スキンシップが、刺激的すぎたんだ。

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