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#2_01

「違うもん…ち、違うもん…」 何度も俺を振り返っては、グスグスと鼻を啜ってそう言いながら豪ちゃんは帰って行った… まさか、あの子にキスされて舌を入れられるとは思わなかった。それは野生児の持てる“本能”というやつなのか…はたまた、駆け引きの様なスキンシップに興奮して止まらなくなってしまった衝動なのか… これは、うかうかと余裕ぶって、虐めて、弄んで、からかうもんじゃないな…。だって、危うく未知の領域に連れて行かれそうになった。それはいともたやすくだ。 つまり、あの子を押し倒して…抱いてしまいたいって思ったって事だ。 「美形を前にしたら、男も女も無いのかもしれない…それに15歳は、イノセントだ。」 迎合している… 自分の意識が変わった事に唖然とした。あんなに拒否していた癖に…まるで、未知のドアをノックして笑顔で覗き込んでいるじゃないか!! いけない!ノー、モア、映画泥棒だぞ! …あのまま、キスしたら…豪ちゃんはどんな風になったのかな… はっ!やめてくれ! …あのまま、押し倒して組み敷いて、逃げられない様にして、もっとどぎついキスをしたら、あの子は勃起するのかな… は~~!どうかしてる! 否定しては沸き起こる、こんな素朴な疑問を頭から振り払う様に首を横に振って、洗面所で顔に冷たい水を掛けると、鏡の中に映る馬鹿みたいな自分の顔を見つめながら、ふと、唇に出来た血豆をみつめてポツリと呟いた。 「…青のり…」 きっと豪ちゃんを抱えて湖を泳いだ時、ぶつけたか…噛み締めたかで出来たんだ… やばい… あの子は本当に青のりを取ろうとしただけかもしれない…。なのに、勝手に勘違いして、あの子の体を押しのけて…どこで覚えた!なんて言って追い返してしまった。 …いいや、違う。 あの子の動揺はそんな物じゃなかった。 男を好きだなんて気付かれたくない。そんな風に思われて拒絶されたくない。気持ち悪いって…思われたくない。でも、傍に居たい…そんな思いを感じる、狼狽えっぷりだった… あの子は、好きな俺に煽られて…衝動的にキスして来たんだ。 唇に触れたあの子の唇…ほのかに感じたあの子の舌の感触を思い出して口元を抑えると、眉を顰めて鏡の中の自分を見つめて放心する。 …男に恋をするなんてどんなものかと思ったんだ。可愛いあの子を焦らしたらどんな反応をするのか知りたくて、からかった。 そうしたら、逆にノックダウンされた… …ついこの間、多額の慰謝料と、誹謗中傷と、作曲家人生の終わり、蔑む様に俺を見つめる彼女の瞳を貰ったばかりなのに… 恋してるみたいに、はしゃいで… …気持ちの悪い男だ。 自分にほとほと嫌気がさして、ため息を吐いて肩を落とした。 「俺は作曲家…恋愛小説家じゃない…」 月明りの綺麗な庭に目もくれず雨戸を閉め切ってピアノの部屋に向かうと、右手にはめた下らない指輪を引き抜いてピアノの上に置いた。そして、豪ちゃんを思って書いた書きかけの五線譜を乱暴に腕で薙ぎ払って床に落としてしまうと、何も書いていない空の五線譜をピアノの上に置いて、椅子に腰かけた。 湖の上を走る風みたいに、人の頬を撫でて掠めて通り過ぎていく…そんな躍動感のある、美しい旋律が欲しい。 誰にも書けない。聴いた人がひれ伏す様な。俺の、俺だけが紡ぎだせる、確かな旋律が欲しい… コツコツ… ふと、背後に聞こえた音に視線を落として、窓の外で心配そうに俺を見上げるパリスと目が合った。鶏の癖に…このパリスは本当に何か物を言う様だ… 「…そこに居れば良い。俺は今日はずっとここに居る…」 俺を見つめる鶏にそう言うと、ピアノに向き直ってイメージを膨らませた。 恋や…愛なんて、そんな物にうつつを抜かしてはいけない。 俺は何で身を滅ぼしたんだ…?馬鹿野郎… すぐにその気になってしまうのは、きっと人肌が恋しくておかしくなっているせいだ。がむしゃらに突き進んできた道が途切れて…やけになってるんだ…。 「コケ~コッコッコッコ…コケ~コッコッコッコ…」 一定のリズムを刻む。そんなパリスの鳴き声に目を覚ました。楽譜を頬に付けたままあたりを見渡して、自分がピアノに突っ伏して眠ってしまっていたと気が付いた。 「パリス…」 見下ろした窓の向こうに豪ちゃんの鶏、パリスの姿と…彼女の足元に転がった白い卵。きっと、今朝生んだんだろう。青味がかった生まれたての色をしていた。 窓を押し開いてしゃがみ込むと、すぐに俺に近付いてくるパリスは…まるで誰かの様だ。テラスの上に転がった彼女の卵を手に取って手のひらで包み込むと、まだほのかに温かい温度に自然と瞳を細めた。 まるで褒めろと言わんばかりに、猫の如く顔を摺り寄せて来るパリスを撫でてやると、鶏の癖に…気持ち良さそうに首を伸ばすんだ。 「ふふ…なんだ、お前。ご主人様に似て、変な奴だな…」 指を曲げてパリスの胸を撫でながら羽の奥に指を突っ込んでみると、意外にも分厚い層の羽に驚いて目を丸くした。そして、羽をむしられて丸裸で売られている鶏を思い出して、顔を歪める。 実は…もっとスリムな体系なんだな…パリス。着太りってやつかな… 「…せ、惺山…おはよう…」 視界の隅にあの子の靴を捉えて、咄嗟に見ない様に首を横に振って言った。 「しばらく作曲に集中したいんだよ…声を掛けないでくれ。」 「…わ、分かったぁ…」 まるであの子をシャットアウトする様に、立ち上がると同時に窓を閉めた。寂しそうに項垂れる小さな背中を視界の端に見て踵を返すと、ため息を吐きながらピアノの部屋を出た。 田舎の子供と、アブノーマルな恋愛ごっこをしている場合じゃない。あの場所に返り咲くために、俺がやらなければいけない事…誰よりも素晴らしい曲を作らなければいけないんだからな。 豪ちゃん、俺の突き放す様な言葉にすぐに身を引いたね…あんなに付きまとって煩わしくしていたのにさ…。君は意外と賢いのかな。空気が読めるみたいだね。 君を拒絶してるって…伝わった様で良かったよ。 胸の奥が痛むのはただの罪悪感。 子供に邪険にした罪悪感を感じているだけだ。それ以上の感情なんて、無い。 食事もとらずにコーヒーを片手にピアノに戻ると、誰もいなくなった窓の外をチラッと一瞬だけ見てピアノに腰かけた。そして、鍵盤の上に手をかざして…頭の中に浮かぶ旋律をピアノに落とした。 そんな日を、何日も過ごした… 外になんて出ない。雨戸も開かない。食事だって忘れて、風呂にだって入らない。 ただ、ひたすら、ピアノの前に座り続けた。頭の中で壮大な演奏を繰り返しては中断して、自分のセンスのなさを嘆いては、再びピアノを弾く…そんな事を繰り返している。 駄作を思いついては、書き終えた譜面を床に放り投げて過ごした。 「コッコッコケ…」 「あぁ…お前は、毎日…毎日…卵を産むんだな…俺は、何も生まない…。なんだか、お前の方が…生き物として優れている気がする…」 何日目の朝か…パリスの卵を拾ってそう言うと、彼女は首を傾げて俺を見つめた。 開いた冷蔵庫の中には、20個近い彼女の卵が保管されていた…今日の分を含めると…21個だ。そっとパリスの卵を冷蔵庫にしまって、コーヒーを片手に持ちながらピアノの部屋に戻った。 ここは、こんなに静かで集中できる環境だというのに…21日間、フル稼働しても何も思いつかないなんて…まるで、空中を犬かきする犬みたいだ。必死にもがくのは自分だけで、一向に変わらない同じ景色ばかり見ている様な…虚無感を感じる。 それは、誰のせいでもない…自分の力不足。 …テラスの影に毎日現れる…あの子のせいなんかでは、もちろんない… 「はぁ…こんな炎天下なのに…」 太陽に照り付けられて眩しいくらいに明るく光る窓の外を見つめて、窓枠の端に見え隠れする麦わら帽子のつばと、あの子の足元に寄って行くパリスの姿を見ながら、ため息を吐いた。 あの子は、ずっと、あそこに座って…俺のピアノを聴いてる。 声を掛けるな…そう言ったあの日から、ずっとだ… 駄作に感情的になって怒鳴り散らす声も、ハイになってケラケラ笑う声も、楽譜を薙ぎ払って唸る声も、思い悩んで黙りこくって、静かになる声も…あそこでずっと聴いてる。 ただの偏執的なストーカーじゃない…何もアクションを起こしてこない、接触を図ろうとしない、ただ傍に居るってマジもんのストーカーだ。 ピアノに座っていつもの様に真新しいメロディを頭の中で巡らせて、すぐに項垂れた。 「…どれも、これも、聴いた事がある。これも…こっちも…どこかで聴いた事がある様な物ばかり…!こんなんじゃ…駄目なのに…!」 どうしようもない苛立ちから奥歯を噛み締めながらピアノを睨みつけた。 自分の感性なんてたかが知れてる。だけど、閃きは誰にでも平等に訪れる物だって信じてる。だから、その機会を手を伸ばして待ってるんだ。…がむしゃらに手を伸ばして、指先に触れるのを待ってる。一度でも触れたら、掴んで、離さないで、自分に引き寄せて、ひとり占めするんだ…。 不意に…ごそっ…と窓の外から音が聞こえた。 あぁ…帰るのか。 という事は、もうすぐ夕方の6時か… あの子は毎日、朝の7時からあそこに座ってる。そして、11時に一旦家に帰ると、午後1時に再び戻って来て、用事が無い時は…そのまま夕方の6時まで居る… 声を掛けるなと言った言いつけ通り、あの子は俺に声なんて掛けない。姿も見せない。ただ、あそこに座って…ずっと俺のピアノを聴いているんだ。 かれこれ…21日間。先述したタイムスケジュールでそんなストーカー生活を送ってる。 …どうにもしてあげられないよ。 俺は君の気持には答えられない。 優しくもしないし、近付く事もしない。 …だから、諦めて、どこかへ行きなさい。 そんな気持ちであの子が炎天下の下に居ても、雨が降って来ても、何も言わないで放ったらかしにしている。 野良猫に餌をやるなって言うだろ…。俺はあの野良猫に餌を上げてしまったんだ。だから、あの子は次を期待して…あそこでずっと待ってる。 俺が顔をのぞかせるのを、期待して待っているんだ… そんな日々を送りながら、パリスの卵が25個を超えたある日の午後… 「豪ちゃん!町に行こうぜ!父ちゃんが乗せてってくれるんだ。」 久しぶりに聞いた哲郎の声に自然と耳を澄ませながら、あの子が今日もそこに居たと把握して、ため息を吐いた。 こんな炎天下に… 熱中症にでもなったらどうするんだ…全く。 はぁ… 「…うん…」 俺に聞こえない様に気を付けたのか、小さくそう言ったあの子の声に…胸が締め付けられた。 …どうしてこんなに、胸が苦しいのか…分からない。 不意に背後に近付いて来る足音に耳を澄ませて、ぐっと眉間にしわを寄せた。 コンコン! 「作曲に集中したいって言ってるだろっ!」 怒鳴り声を上げながら振り返って、豪ちゃんじゃない…眉をひそめた哲郎と睨み合った。あいつは俺を睨みながら口をひん曲げて言った。 「町に行くんだ。なんか必要なもんがあったら一緒に買って来てやろうと思ったけど、止めた。なあ、おっさん…あんた、その調子で豪ちゃんに怒鳴ったりしてないよな…?」 「うるさい!どっか行け!」 そう言って椅子に座り直して、乱暴にピアノの上の楽譜を手に取って作ったメロディを鍵盤に乗せて弾いた。 どれもこれも…! 聴いた事がある旋律ばかりっ!! 「ん~~~~~~っ!!」 鍵盤を叩き付けたい気持ちを、振り上げた両手を宙でプルプルさせながら必死に耐えた… 「行こう!豪ちゃん!あのおっさんは情緒不安定だ!」 哲郎の息まく声と、手を引かれて連れて行かれるあの子の足音が、どんどん遠ざかって行くのを耳に聴いて、眉間にしわを寄せながら心の中でポツリと呟いた。 怒鳴ってない… 豪ちゃんには、怒鳴ってなんかない… 「くそっ!」 無駄に広いこの部屋は、楽譜を散らばす度に行方不明にさせて…イライラするんだ!置いた筈の場所から…勝手に移動してるとでも言うのだろうか…?! 「さっき書いたやつ!探してるのにぃ!キーッ!!どこ行ったんだぁ!うがぁっ!」 床に散らばった楽譜をグチャグチャにして暴れていると、ピアノの上の携帯電話が鳴っている事に気が付いて、ピタリと動きを止めた。 ブルル…ブルル…ブルル… …俺に電話をくれるなんて、両親か…兄貴、徹や昔なじみの仲間くらいだ… 「はい~もひもひ…僕チンです!」 着信相手も見ずにそう言って電話を出た。すると、電話口の相手は戸惑った様に声を裏返して言った。 「…惺山。あなたなの…?」 あぁ…なんだよ… 今更… 何も答える事が出来ないまま、ピアノの上に置いた指輪を見つめて奥歯を噛み締めた。そんな様子を知ってか知らずか…電話口の彼女は、悲しそうに声を震わせながら言った。 「惺山…。ねえ、今、どこにいるの…?会いたいの…ねえ…」 もう… なんだよ… 「…あなたに会ったら、俺はもっと慰謝料を払わなくてはいけなくなる…。もう、すってんてんだ。勘弁してください…」 鍵盤を指先で撫でながらそう言うと、電話を切る事もしないで彼女の次の言葉を待った… 「ごめんなさい…でも、会いたいの。」 あぁ… 俺もずっと…会いたかった… 頬を伝う涙はうれし涙なのか、彼女が俺を求めてくれた事が堪らなく嬉しかった。

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