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#4

ふと、目が覚めて時計を確認した。夕方の5:00… 寝室の曇りガラスの窓から覗く外の明るさは、確かに少しだけ夕暮れがかって見えた。 完全に…昼夜逆転した。作曲活動をしていると、なぜだか自然とそうなってしまうんだ。どうしてか…夜の方が研ぎ澄まされた集中力を発揮する。 …月の動く音さえ聴こえて来そうなしんと静まり返った夜…一線を越えると、急に冴えわたる。まるで、鶴の恩返しの鶴の様に、曲を作っている姿を誰にも見られたくないみたいだ。 「パリス~~~!」 は…?! 不意に耳に届いたあの子の声に眉を顰めると、一度開いた瞼を再び閉じて布団に顔を突っ込んだ。 どうして…来ちゃったんだよ… 「ん、もう!なぁんで!こっちにおいで?」 「豪ちゃん…網を持って来ようよ。もう、こいつはご主人様を忘れたんだ!鳥頭って言うだろ?三歩歩くと忘れるんだ!」 ため息を吐いて哲郎がそう言うと、ケラケラ笑いながら晋作が言った。 「じゃあ、パリスのご主人様は、あの…おっちゃんか!あ~はっはっは!」 「…ずっと、縁側が閉じてるね?居ないのかなぁ?」 「し、知らない!」 大吉の言葉に苛ついてそう言うと、豪ちゃんは必死にパリスを追い掛け回した… 見ていないのにどうして分かるかって…? 聴こえてくる音を頼りにすれば、大抵のことは見なくても分かる… ドサッ! 「んん…!」 豪ちゃんが、草むらで転んだ… 「コ・コ・コココココ…!」 これは、パリスの本気走りの時の声だ…彼女も本気で豪ちゃんから逃げている… 「も、もう!網だ!らちが明かない!清ちゃん、持って来て!」 「ウ、イェッサ~!」 痺れを切らした哲郎の声に清助が即座にそう言って身の軽い駆け足が遠ざかって行く…すると、すぐ近くで…あの子の声がポツリと言った。 「網なんて…可哀想じゃないか…あの子は、ナンバーワンなのに…!」 「ぷっ!」 布団の中で吹き出して、体を揺らしながら笑いを堪えた。 近い… 壁一枚隔てた向こう側…いつもの様に仲間とつるんで遊ぶ、あの子がいる。 昨日の早朝から昼にかけて、俺に犯されまくった…あの子がいる。 見たい… 「清ちゃん!こっち、こっち!」 大吉が大声を上げてドスドスと跳ねながら清助にそう言った。 「一気にやっちゃって!」 「あ…パリス…」 悲しそうにそう言った豪ちゃんの声に…堪らず、そっと壁に手を当てた。 触りたい… 堪らなく可愛かった。 俺は…君に、恋してる。君が好きなんだ。 …レイプしておいてよく言うよ… でも、会いたいんだ… 「豪…」 壁に手を当てたまま…聴こえる訳もないのにあの子の名前を呟いて、草むらをかき分けるような音と、あの子の小さな独り言を聞き耳を立てて聴いた。 「…パリスの好きな新芽をあげよう…。そしたら、きっと…許してくれる…。網なんかで捕まえた事を…許してくれる…!」 ふふ…可愛い… 頬に伝う涙を拭いながら壁に頭を付けて、クッタリと体ごとあの子の声がする方へともたれかかって行く。 好きだよ…豪。 君の好きな俺をあげるから…傷付ける事しか出来なかった俺を許してよ… …自暴自棄になって死にかけてるんだ。 しゃがみ込んで草むらをかき分けて…地面に生えた新芽をひとつずつ指先で摘んでる。…時折、鼻を啜る音が聴こえて来るのは、泣いている訳じゃないんだろ? 聴こえて来るあの子の音色を耳の奥に届けて、止まらなくなった涙をそのままにして、壁を優しく何度も撫でた。まるで、あの子を撫でる様に…優しく、何度も撫でた。 「ん、あぁ!乱暴にしないでぇ!」 そんな声と共に立ち上がると、あの子は俺の傍から居なくなってしまった… 「なんだよ…丁寧に抱っこしてるだろ?」 腑に落ちない…そんな声色の哲郎に対して、豪ちゃんはイライラしながら言った。 「ん、違う!そんな所持たないで!ほら…パリス、新芽だよ?好きだろ?食べていいんだよ?」 「食べないねぇ…」 大吉がそう言うと、豪ちゃんがまた鼻を啜った。 「見て~!この前のスイカの種が発芽してる!これ、植えたら来年はスイカ食べ放題だぞ~~!」 「…ん、もう…!豪ちゃんは…お家に帰る!」 イライラした豪ちゃんがそう言うと、縁側の近くで晋作と清助がヒソヒソ声で言った。 「…豪ちゃん、どうしたの?あんなに、ここのおっさんを気に入ってたのに…。まるで、早くここから帰りたいみたいだ…」 「この前、町に行って…迷子になっただろ?あん時、タクシーの中で怒られたらしいじゃん。それで、ビビッて漏らしたから…気にしてんだろ…?」 「あぁ…なるほどね。」 違うよ。 豪ちゃんは俺にレイプされて、二度と来るなって言われたから…怖がってるんだ。 また、俺に掴まるんじゃないかって…怖くて、怯えて、苛ついてるんだ。 嫌われたな…惺山。 良かったじゃないか。目論見通りだろ…? …遠ざけたかったんだ。 男の子のあの子を好きだと認めたくなかった。そして、今は…自暴自棄な俺に、これ以上傷付けられて欲しくないから…遠ざけたかった。 …なのに、どうして…こんなに…悲しんだろう… 喉の奥が震えて嗚咽が漏れる。 情けなく背中を丸めて、あの子が恋しくて泣いている。 「よし、湖に行こうぜ~!今日こそ、鱒を釣っちゃうもんね~!」 「じゃあ、家から餌持ってくるわ~!」 そんな声を掛け合う子供たちの中…心配そうに様子を伺う哲郎の声が聴こえた。 「…豪ちゃん、どうしたの…?おっさんに何か言われたの…?」 「…ん、違う。何も…言われてない…。豪ちゃんは、パリスをお家に返してから湖に行くから…!」 「…分かった。じゃあ、先に行ってるよ?」 「…うん」 哲郎は、豪ちゃんの事が好き…。 あの子の無敵の幼馴染だ。俺の様に傷つけたりしないし、俺の様に馬鹿でもない。男気のある…良い男。そんな彼のポジションを羨ましく思ってしまうのは、俺が豪ちゃんを好きだから… ため息を吐きながら布団から顔を上げて、ボサボサの頭を手で乱暴にかき上げながら立ち上がった。 …今日は、あのラプソディにもっと豪華な飾りを施して行こう。 この地を離れても、この曲を聴けばあの子を思い出せる様に…あの子に恋焦がれたこの気持ちを忘れない様に…俺の、拠り所をこさえよう。 コトン… 台所でコーヒーを淹れていると玄関から物音がした。 不思議に思って歩いて向かうと、玄関の曇りガラスの向こうに…あの子が立っていた。 「ご飯…」 一言そう言って、逃げる様に走って帰って行った。 豪ちゃん… もう、構うなよ… 俺の事を、パリスの様なペットとでも思っているの…? それとも、あんなに酷い目に遭っても、俺の事が気になってしまうの…? いつも俺の斜め上を行く豪ちゃんに、やるせない気持ちとどこかしら…嬉しい気持ちを抱えながら、そっと玄関を開いた。 ガララ… 誰もいない玄関先を眺めて、ふと、足元を見下ろした。 「あ…」 そこには、あの子が握ったであろう…おにぎりが3つと、麦わら帽子が置かれていた。 あぁ…どうしよう… じっと見下ろしたまま立ち尽くしていると、敷地の垣根の陰にゆらゆらと揺らめく人影を捉えて、ギョッとする。 豪ちゃん… 見てるんだ。 まるで、罠にかかる野生動物をカメラにおさめる為に待ち構えている…ナショナルジオグラフィックのカメラマンの様だ… どうしよう… せっかく作ってくれたおにぎりを…夕方とはいえ炎天下の下、置きっぱなしにするのは気が引ける。でも、このおにぎりを手に持ったら、あの子は、次もまた来るだろう… どうしよう… じっと、おにぎりを見つめたまま身動きが取れずにいる。 そんな時、不意に頭の血が一気に下がって行く感覚に襲われて、耳に聴こえていた蝉の鳴き声が鋭く鼓膜をつんざいて頭の中をこだまし始めた。唇の感覚が無くなって、顔の表面が冷たくなって行くのが分かる。 フラフラと揺れる体を眺めながら、地震かと首を傾げた。 「…惺山!」 垣根から飛び出して来た豪ちゃんが、慌てた様に俺に駆け寄って来るから…咄嗟にこっちに来るな…と、手で払いながら…倒れた。 あぁ…何も、食べていなかったからだ… 倒れた。 力の入らない体を無理して動かす事もせず地面に頬を付けたまま、目の前を迷子のアリがフラフラと歩いて行くのを眺めた。 「あぁ…!惺山!」 すぐに俺の隣に座ったあの子は、うつ伏せに倒れた大きな体を懸命に裏返して、自分の膝の上に頭を乗せた。そして、顔を覗き込みながら頬に付いてしまった土を手で払って言った。 「大丈夫…豪ちゃんがいるよ…」 あぁ…優しい… 「救急車…」 そう呟いて顔をキョロキョロさせるあの子を見上げて、重い手を持ち上げながらあの子の手を掴んで、首を横に振って言った。 「大丈夫…ただの、疲労だ…」 「でも…惺山は死んじゃうんだよ…」 眉を下げた豪ちゃんが、そう言って瞳を歪ませた。 死ぬ…? はは、大げさだな… 「そりゃ…いつかは死ぬさ…」 クスクス笑う俺を見つめたまま、豪ちゃんは悲しそうに眉を下げて俺の頬を撫でた。そんなあの子の手の温かさに、徐々に血の気が戻って来た体をゆっくりと起こしてヨロヨロと立ち上がると、豪ちゃんは手のひらで俺の体中に付いた土を払ってくれた。 「…歩ける?」 「ん…」 ぶっきらぼうに俺がそう答えると、あの子はおにぎりと麦わら帽子を手に持って、俺の背中を支えながら玄関を上がった。 馬鹿な子だな… こういうのを、ミイラ取りがミイラになるって、言うのかな… いいや、ナショナルジオグラフィックのカメラマンが情を出して…瀕死の熊に近付いて助けてしまった。そして、その後…八つ裂きにされて殺されてしまう。そんな例えの方がしっくりとくる… 「豪ちゃん…来ちゃ駄目って言ったでしょ…?」 あの子の体を抱きしめて、日に当たってポカポカと温かい体に顔を埋めてしまうと、両手で逃げられない様にきつく抱き寄せて密着させた。そんな俺に抵抗するでもなく、あの子は顔を覗き込む様に身を屈めて言った。 「…ご飯食べて?じゃないと…死んじゃうよ…」 握ったおにぎりを俺の前に差し出して、念を押す様に言った。 「食べて…?」 はぁ… 「要らない…豪ちゃんを食べても良い…?」 俺はどさくさに紛れてあの子にキスをして、ニッコリと微笑みかけた。そんな俺とは対照的にあの子は眉を下げたまま、手に持ったおにぎりのラップを剥がして俺の口に当てて言った。 「…食べて。」 「はぁ…分かったよ…」 投げやりにそう言ってあの子から離れると、居間の畳に座って、壊れて映らないブラウン管をぼんやりと眺めた。 廃人… そう思われても仕方が無いくらい、集中した反動の様にその他の事に関心が行かなくなる。差し出されたおにぎりを見つめても…受け取ろうと手が動かないんだ。 それは若い頃から変わらない。 だから、しょっちゅう倒れては病院に担ぎ込まれたもんさ… 「コーヒーじゃなくて…お水を飲んで…?」 口元に運ばれたグラスの中の水を何の躊躇もなく飲んで、あの子が口に運んで来るおにぎりをかじって食べると、覇気の無い俺を覗き込んで、豪ちゃんが言った。 「食べないと死ぬ…」 「は…誰だって、いつかは死ぬんだ…」 そんな俺の言葉に、緊張して強張っていたあの子の表情が少しだけ微笑んだ気がして、口元を緩めて笑った。 …薄暗い部屋の中、閉め切られた雨戸の隙間から差し込んだ光が直角三角形の様な形を作って、所々を照らす鈍い明かりと一線を画してる。 「兄ちゃんが言ってた…糖分ってお米の栄養を取らないと人は馬鹿になるんだって…。きっと、惺山は馬鹿になってるんだ…お米を食べないから…」 「ぷぷっ!」 至極真面目にそう語った豪ちゃんを見つめて吹き出し笑いをすると、あの子はジト目を俺に向けてため息をひとつ吐いた。そんなあの子の柔らかい髪を撫でながら、顔を覗き込んで聞いた。 「なる程ね。だから…豪ちゃんに、酷い事をしたのかな…?」 「知らない…」 冷たくそう言われて、瞳を細めた。 …あの事は許してないけど、ご飯を食べさせてくれている。このパラドックスは理解不能だ。この子は、本当…変な子。でも、だから、とても…好き。 「毎日食べさせて…?」 「いやだ…」 調子に乗ってあの子に甘えると、豪ちゃんはピシャリとそう言って俺の口におにぎりを運んだ。そんなあの子のおにぎりをかじって食べて、そっと手を伸ばして言った。 「どうして…?死んじゃうよ。豪ちゃんが食べさせてくれないと…死んじゃう。」 いつものタンクトップから覗いて見えるあの子の鎖骨をそっと撫でて、そのまま細い首を指先で撫で上げていくと、柔らかい頬を手のひらに包み込んで、優しく撫でた。 「…ちゃんと食べて?」 ムッと頬を膨らませたあの子に首を伸ばしてキスすると、口に押し付けられるおにぎりをかじって食べた。 そう…俺におにぎりを食べさせたい豪ちゃんに、グズグズに甘ったれながらお触りしてる。 傍に来ないで欲しかったのに、遠ざけてしまいたかったのに…俺の斜め上を行く豪ちゃんにお手上げになって、この心地良い“優しさ”にずっと包まれていたくなった。 なんとかおにぎりをひとつ食べ終えると、豪ちゃんは俺の口にグラスを運んで水を飲ませた。 まるで、餌付けだ… 「湖へ行くの…?」 首を傾げて尋ねる俺を驚いた様に目を丸くして見つめると、あの子は肩をすくめて言った。 「…夕方は、釣れるんだ。」 へぇ…知らなかった。 「行くなよ…」 あの子に抱き付いてそう言うと、そのまま畳の上に押し倒していやらしい手つきであの子の体をまさぐった。 抱きたいよ…豪ちゃん…また、可愛い顔を見せてよ… もうすぐ、ここを離れなければいけないんだ。だから、君をもっと…感じたい。 あの子の首にキスをして良い香りのする髪の毛に顔を埋めてしまうと、豪ちゃんは俺の頬を掴んで、顔を覗き込ませて言った。 「惺山…酷い顔をしてる。ちゃんと休んで…ちゃんとご飯を食べないと…」 「…死んじゃう?」 そう言ってヘラヘラ笑う俺を、悲しそうに眉を下げながら見つめて来るから、込み上げてくる愛おしさをあの子に伝える様にキスをして舌を絡めた。 人身供犠… そんな言葉が頭の中に浮かんだんだ。だって、君は抵抗もしなければ、嫌がる素振りもしないで、俺にされるがままじゃないか。…その様子は、まるで、怒りを鎮める為に捧げられた生贄みたいだ。 あの子の汗ばんだ素肌に舌を這わせて体を覆い隠してしまうと、体を撫でまわす手を股間に滑らせて、優しく撫でた。 「…ん!やめてぇ!」 バチン! 頬を打たれて体を起こした瞬間、あっという間にあの子は俺の体の中から抜け出ると、逃げる様に玄関へと走った。そんなあの子の体を、すんでの所で掴み損ねた。 「くそっ!」 食べたかったのに… ガララ…バシャン! 勢いよく絞まる玄関の音を聴きながらクスクス笑って、あの子を抱きしめた両手で自分の体を抱きしめて、感じた”優しい愛“を自分の体に沁み込ませた。 どうして…どうして、俺を構うんだよ。 君の行動は予想外だ… テーブルの上に置かれたおにぎりを見つめながら、自然と溢れる涙をそのまま畳に落として、瞳を細めて微笑んだ。 あんな酷い事をした俺の為に、どうしてご飯を用意しようと思ったの…?どうして、そんなに、優しくしてくれるの…? 同情…?憐れみ…?それとも…これも”愛“なの。 自暴自棄になって…傷つける事しか出来ない俺を愛してくれるの…? 「さてと…」 重い体を起こして風呂場へ向かった。浴槽にお湯を張りながら、ヨレヨレになったシャツを気怠い体を動かして脱いで行く。シャツに沁み込んだ彼女の匂いは、とっくのとうに消え失せた…。俺の鼻先をくすぐるのは…太陽の様な良い匂いだけ… 「ちゃんと休んで…ちゃんと食べて…」 体を洗いながらあの子の言葉を復唱する様に呟いて、今まで誰にも感じなかった喜びを感じて口元を緩めながら頭を洗う。 どうして… あんなに、痛がって、怖がって、泣いていただろ…? どうして、再び…俺に会おうと思ったの。どうして、俺に優しくしようと思ったの。 それでも、俺の事が好きなの…? だとしたら、悲劇だ。 …だって、俺にはそんな価値はないもの。 君の”優しさ”を受け取る価値の無い男だもの… ゆっくりと湯船に浸かって、剥き出しの煙突目がけて水滴を弾いた。いつもの様にジュッ!と勢い良く蒸発して行く音を耳に聴きながら、ぼんやりと焦点の合わない瞳で宙を眺めて、ボツリと呟いた。 「…豪ちゃん、お世話して…」 最低だな…あんなに酷い事をしたのに俺はすっかりあの子に甘え始めてる。 つっけんどんに、ぶっきらぼうに、突き放して、あの子の手を払ったのに…。今ではあの子に甘えたくて、触りたくて、抱きしめたくて、胸が苦しいなんて… 「おにぎり…食べさせてよ…」 自然と口からこぼれる気持ち悪い言葉を遮る様にお湯の中に口を沈めた。 ”優しさ“という”愛“をくれるあの子が…好きだ… 豪ちゃんの行動の意図は読めない。だって、あの子は変わってるから…。でも、俺を心配して世話を焼いてくれているのは事実。 そして、俺はそんなあの子に恋に落ちて、残り少ない自由な時を、あの子に恋焦がれながら過ごしたいって思った。 だって、両親や、家族、今まで付き合って来た誰にも感じた事が無かった…得も言われぬ”安心感“をあの子はくれるんだ。自暴自棄になった俺の傍で、傷付く事が分かっているのに体を離さない。そんな”ヤマアラシのジレンマ“みたいなジレンマを抱えながら、傷付きながら俺に優しくしてくれる。 そんなあの子が…愛おしい。 風呂から上がって体を拭いて、腰にタオルを巻いたままピアノの部屋に向かった。 「ふんふん…ここまで書いておいてなんだが…駄目だな。」 途中から書き足した楽譜の束を譜読みしながら片手に束ねて、床に放り投げた。 「もっと…バイオリンを入れた方が良いんだ…」 ポツリとそう呟いてピアノに腰かけると、楽譜を眺めて首をひねった。 「…バイオリンの四重奏と…ピアノ、シンプルだけど上品だ。でも、ラプソディはもっとハチャメチャな方が良い…。まるで違う曲が入り乱れるような…スカみたいな…ごちゃごちゃ感が欲しい所だ。あの子に翻弄された俺の心の混乱が音色で分かるくらいね…」 冷たいクーラーの風が剥き出しの背中に当たるのを無視して…いつか、服を着よう。いつか服を着よう…そう思っていたら、気が付いたら朝を迎えていた… 「コケ~コッコッコッコ…コケ~コッコッコッコ…」 「はっ!パリス…!お前は家に帰ったんじゃないのか…!」 徹夜したせいか、思った通りのハーモニーを作り出せたせいか…ナチュラルハイになった俺は、上機嫌でテラスの窓を勢い良く開くと、裸足のままパリスを追いかけて庭を走り始めた。 「はっは~~!待て待て~!こらこら~!」 「コ・コ・コココココ…!」 「うわ…!おっちゃん…何してんだよ…!」 いつの間にか現れた清助の声に目を輝かせると、仁王立ちして言った。 「は~!健康的だろ?あ~はっはっはっは!」 「やばいな…変なキノコでも食ったんだ。」 そう言って顔をしかめた清助の背後から顔をひょこッと出した大吉は、俺の真下に顔を突っ込んで上を見上げると、ケラケラ笑って言った。 「あ~~!剥けてる~~!」 はッは…! 当たり前だろう? 「どうだ~!どうだ~!あ~はっはっはっは!」 腰に手を当てながら中のモノをユラユラ揺らすと、大吉が笑い転げて言った。 「やばい~~!おじちゃん、おかしくなったぁ~~!」 「…!!」 そんな時、バーベキュー用のコンロを両手に抱えた豪ちゃんの兄貴が現れた。そして、あられのない俺の姿を見るや否や、絶句したまま子供たちを俺から離した。 「…服を着て下さい!」 「なぁんで?」 肩をすくめて兄貴の要望に首を傾げて答えると、彼は背後を振り返って言った。 「…!豪!この人に…服を着せて来い!」 それは名案だ…俺も、豪ちゃんに服を着せて欲しい。 兄貴の後ろを付いて来た豪ちゃんは、腰にタオルを巻いただけの俺の姿を見てまん丸の瞳を大きく見開くと、兄貴の腕を掴んで言った。 「兄ちゃんも来て…?だって、怖いんだもん…」 本音だろう… そんなあの子の隣で、顔をしかめた哲郎が俺を睨みつけながら言った。 「…俺が一緒に行ってあげるよ。…って言うか、このおっさん、服も着られないなんて…原始人イカだな。だって、あいつらは一応服を着てる。」 お前…それはギャートルズの中だけだろう…? 本当の原始人は服なんて着ない。 おっぱいも、おちんちんも、丸出しで…いつでもセックスするんだ。 哲郎をジト目で見つめて、俺に歩いて来る豪ちゃんに手を伸ばすとあの子の顔を覗き込んで言った。 「気が付いたら…パリスがいたぁ…」 「脱走したんだ…。もう、豪ちゃんの事忘れちゃったみたいに、他人の顔をする…」 豪ちゃんは俺の手を握ってしょんぼりと肩を落とすと、悲しそうに眉を下げて俺を見上げた。 ここで、ひとつ。注釈を入れておきたい。 俺はナチュラルハイを起こして、本来なら人には見せられない程に…弾け飛んでいる。それは、表情を変えず炎天下を歩くポーカーフェイスのいつもの俺を…へべれけにだらしのないダメな中年男性へと変えているんだ。自制心や理性なんて失くした様に、心の中のありのままがそのまま溢れている…そう解釈してくれて構わない。 「おっさん!手なんて繋ぐなよ…気持ち悪いな。豪ちゃん、離して。」 嫉妬に駆られた哲郎の手によって豪ちゃんと俺の手は離れ離れになった。それでも俺の隣を歩いて進むあの子に瞳を細めて、得意げになって言った。 「昨日、寝てない!」 「三沢かよ…ダセえな。」 ことごとく哲郎の辛らつな言葉によって叩き落される俺のおしゃべりを全て無視して、豪ちゃんが言った。 「…昨日、夕釣りが大漁だったんだぁ。だから、惺山にもおすそ分けしてあげようって…兄ちゃんが言ったぁ。今から庭で焼くんだ。ねえ、お米…炊いてる?」 米…? 庭伝いに平屋の家をぐるりと周りながら、テラスのある裏庭までやって来ると、ピアノの部屋の窓を開けながら首を傾げて答えた。 「さあ…」 「きったねぇな!おっさん、ごみはゴミ箱って言葉知らねえのかよ!」 ピアノの部屋の中、床に散らばった楽譜を見て哲郎が怒鳴り声をあげた。そして、中へ入ろうとする豪ちゃんの手を掴んで止めると、俺を見つめて口を尖らせた。 確かに、足の踏み場はない… でも、つま先で歩けば歩いて行ける余地を残して、計算して散らばしているんだ。 「惺山…服を着ておいで?」 「ひとりじゃ出来ない。」 困った様に眉を下げてそう言ったあの子に速攻でそう言い返して、首を残念そうに横に振って見せた。 「はぁ?ぶっとばされてぇんだな。この、おっさん…!」 はぁ… 息まく哲郎をジト目で見ると、足元に散らばった楽譜を乱暴に足で払って道を作った。そして、どや顔を彼に向けて言った。 「…どうぞ?」 全く…とんでもないお邪魔虫が付いて来た! 「豪ちゃんは俺の後ろを付いて来るんだよ…?絶対離れちゃ駄目だからね…?」 「うん…」 雨戸を閉め切った薄暗い部屋の中、哲郎のTシャツの裾を掴んで、オドオドと歩いて進む豪ちゃんを横目に見て年甲斐もなく哲郎に嫉妬した。 良いさ…俺はお前の知らないこの子を知ってる。 きっと、お前になんて一生見せない顔だ… 寝室で胡坐をかいて、荷物の中から下着と着替えを取り出すと豪ちゃんを見上げて言った。 「豪ちゃん、このシャツとこのシャツ、どっちが良いと思う?」 そんな俺の言葉に顔をしかめた哲郎の背中から顔を覗かせたあの子は、ふと、畳みっぱなしの布団を横目に見て、嫌な事でも思い出したんだろう…悲しそうに眉を下げた。そして、視線をすぐに俺に戻すと指をさして言った。 「ん…こっちぃ…」 そうだね…ここは君が俺に乱暴された部屋。怖いよね… …ごめんね。 急に大人しくなってパンツを穿くと、ジーパンを穿いて、シャツを羽織った。 「手が強張ってて…ボタンが留められないのぉ…」 嘘じゃない。 ぶりっ子してそう言うと、哲郎は表情を歪めて舌打ちをした。そして、容赦なく俺の頭を引っ叩いた。 なんてガキだぁ! 「てっちゃん!だめぇ!」 「いんだよ。いつまでも気持ち悪いから、目を覚ましてやったんだ!」 豪ちゃんが怒った顔で哲郎の腕を掴んであいつの暴挙を止めると、哲郎はまんざらでもない様子で豪ちゃんを見下ろして、ちょっとだけ拗ねた様に視線を外した。 ふん… 「じゃあ…これで…」 羽織っただけのシャツと、チャックの閉められないジーパン姿でそう言うと、豪ちゃんが俺の正面に来てチャックをあげてシャツのボタンを留めてくれる。 あぁ…うふふ… 「…ん、もう…動かないで!」 あの子にお世話してもらって嬉しくって体を揺らしたら、豪ちゃんに怒られた。 「パリス…連れて帰るの…?」 目の前のあの子を見つめてそう聞くと、豪ちゃんは俺のシャツのボタンを一番上まで留めて言った。 「うん…怒らないと良いんだけど…」 パリスは怒らないさ…ただ、哲郎は相当ムカついてる。 だって、俺が豪ちゃんの腰を両手で掴んでいるからね。 「はい…出来たぁ…」 「首が苦しい…3個下まで外してよ…」 「え…?ん、もう…先に言ってよ…もう…」 「言わない。」 意地悪にそう言って口を緩めて微笑みかけると、口を尖らせた豪ちゃんの頬がじんわりと赤く染まって行く… あぁ…このままキスしたい… 「豪ちゃん…俺が“3個下まで”外してやるから…雨戸を開けて来てよ…」 豪ちゃんの肩を掴んで俺から引き剥がした哲郎は、俺を睨みつけたまま、あの子を寝室から居間に追い出した。 「…わ、分かったぁ~!」 ガタッガタガタ… 言われた通り、豪ちゃんは縁側に閉じたままだった重たい雨戸を開き始めた。 居間に差し込んでくる眩しい光を背後に哲郎は俺の正面に立つと、首の襟を乱暴に掴んでボタンを外しながら言った。 「…おい、おっさん…調子に乗んな…」 「何が…」 とぼけた様に首を傾げる俺に舌打ちしながら哲郎が続けて言った。 「あの時…豪ちゃんを突き飛ばしただろ…?汚ねえババアに、鼻の下伸ばしてさ…。あんたにはあの汚いババアがお似合いだ。豪ちゃんに変な気起こすなよ…。あの子に何かしたら、許さないからな…!」 あぁ…哲郎は、男だねぇ… 「なんだ…哲郎君は、豪ちゃんが好きなの…?」 煽る様ににやけた顔でそう言った俺を力を込めた目で睨みつけると、あいつは首を傾げて言った。 「好きだよ…文句あるか?」 無いさ… 完璧だよ。 豪ちゃんが男の子だから…15歳だから…そんな理由で、あの子がくれる”優しい愛“を拒絶した俺より、ずっとお前は良い男だ…。 「血の気が多いよ…」 鼻で笑ってそう言うと、まだ一番上のボタンしか外して貰っていないけど、怖い少年の前から立ち去った… 逃げた訳じゃない。 そもそも、勝ち目なんて無いんだ… 俺はあの子を傷付けるだけで、優しく愛してあげる事なんて出来ない。 もうじき“愛人”なんて檻に入って…限られた自由の中、“彼女の愛人”というレッテルを貼られたまま、情けない生き方をするんだから… そんなみっともない男より、お前の方が断然良い男だ。 「惺山、お米、出して来て…!兄ちゃんがこの家のご飯をあてにして、魚しか持って来てないんだぁ…!無いなんて言ったら、怒り始めるからぁ!」 米…? 「ほい…」 豪ちゃんがそう言って半袖の癖に腕まくりするのを横目に見ながら、徹が米をしまっていた物置に行って、力の入らない手で一生懸命抱えて持って来た。 ドスン… 「はぁはぁ…はい、どうぞ…」 「…4合入れて?」 何気なくあの子が手渡すおかまを受け取ろうと手を伸ばすと、強張った指先が上手に動かなくて、派手な音を出しながら床に落としてしまった。 …ゴトン! 「あ…」 「惺山…!」 豪ちゃんは驚いた様に目を丸くして、床に座った俺と向かい合う様に座り込んだ。俺の手をグイッと掴んで自分の目の前に持って来ると、俺をじっと見て言った。 「握って…開いて…ってして?」 優しい… 瞳を細めてあの子を見つめると、言われた通りに手を動かしてみる。でも、強張った指先は思う様に動かなくて…そんな様子を見つめるあの子の眉がどんどん下がって行く様子を、愛おしく眺めて言った。 「…ずっとピアノを弾いているとなるんだ。…そのうち治るけど、しばらく引きつる。これはみんなそう…俺だけとか、病気とかじゃない…手の、過労だ。」 「…本当?」 心配そうに俺を伺い見てそう聞いて来た。 「本当…」 あの子を見つめて微笑むと、頷いてそう答えた。 不思議だね…君の優しさは、俺を優しくしてくれる…まるで、感化されるみたいに。 「へえ…」 そう言いながら俺の手を両手で握ると、豪ちゃんは頬を真っ赤にしながら優しい手つきで揉み始めた。 あぁ…豪ちゃん… 「豪ちゃん!お米炊かないと、健ちゃんがブチ切れるよっ!」 「あっ!」 哲郎の声にハッ!と惚けた瞳を元に戻して、豪ちゃんは俺を見て言った。 「…後でモミモミしてあげるね?」 後で…モミモミ… 手際良くおかまの中に米を入れていくあの子を見つめながら…良からぬ妄想に耽ると、流しで洗い始める背中を見つめて、ボーっとする頭を横に振って立ち上がった。 ブチ切れるなんて…物騒だな。兄貴は米信者か何かか… 「よっこらしょ…」 徹夜明けのせいだ…だんだん体が重たくなって、頭がグラグラと揺れ始める。出ない力を振り絞って米の袋を抱えると、物置へ運んだ。 あぁ、眠たい… ガッチャン… その炊飯器って…そうやって使うんだ… 豪ちゃんが炊飯器をセットするのを横目に見ながら、フラフラと体を揺らして居間の畳にへたり込んだ。 「惺山…眠たい?」 俺の背中を優しいあの子の手がそっと撫でた。 「いいや…」 顔を覗き込んで来るまん丸の瞳に、半分閉じかけた瞳を向けると首を振ってそう言った。 「おいで…寝てて良いよ…」 あの子はそう言うと、日の当たらない居間に座布団を敷いて枕を作った。 「待っててね…」 横になる俺にそう言って寝室からタオルケットを手に持って戻って来ると、優しく足元から掛けてくれた… なぁんて…優しいんだぁ… すぐ隣に座ったあの子の足を撫でると、豪ちゃんは手に持ったうちわで優しい風を送ってくれた。 あぁ…何これぇ… 幸せじゃん… 「なぁんだ、おっちゃん寝たの?赤ちゃんかよ。」 「うん…昨日、寝てないって言ってたぁ…」 晋作のため息混じりの声にあの子がそう答えた。 「…ちっ!」 そんな物騒な舌打ちが聴こえて、誰かが豪ちゃんの足に置いた俺の手を乱暴に退かした… 哲郎だ…くそ… 「豪ちゃん、俺もあおいで…?」 「うん。良いよぉ。」 哲郎…この野郎… 「はは、風が来ないよ…もっと、あおいで。」 「えぇ…?ん、もう…これはぁ?」 「もっと…!ふふ…あぁ、やっと来た…」 哲郎… 半分寝入った俺の耳に、豪ちゃんに甘ったれる哲郎の猫なで声が止め処なく聞こえて、眉間にしわを寄せた。 「豪!米は?!」 庭で兄貴がそう聞くと豪ちゃんは身を乗り出して言った。 「ん、今、炊いてる~!」 「なぁんだよっ!この家には炊きあがった米も無いのか!」 豪ちゃんの兄貴は、仮でも家の主がくたびれて寝ているというのに…米の心配ばかりする。彼の弱点は米の様だ… ぐう… 「ねえ、豪ちゃん。おっさんが起きるまでここに居るの?」 いつの間にかぐっすりと眠っていた。でも…不思議と瞼が重たくて開かないんだ。 「…だってぇ、雨戸も開けちゃったし…戸締りもしないでこのまま置いてけないよぉ…」 困った様にそう言った豪ちゃんの声を聞いて、ため息を吐きながら哲郎が言った。 「はぁ…豪ちゃんの興味を持つ対象が分からないよ。ボケた婆さんに、偏屈の爺さん…後は、病んでるお姉さんも居た。そして、今はこのおっさん…。何が?何が気になるの?何か共通点があるの…?」 「ない…」 ポツリとそう言った豪ちゃんは、おもむろに俺の手を握るとモミモミとマッサージを始めた… あぁ…!きんもち良い…!! 「あっ!何してる!駄目だよ!触らないの!」 哲郎がそう言って豪ちゃんを止めると、あの子はクスクス笑いながら言った。 「良いの、惺山は…良いの。それに、本当に手が強張ってた…。これじゃあピアノが弾けない…。だから、ちょっとだけほぐしてあげるの…。」 「そこまでしなくても良い!」 「なぁんで…」 豪ちゃんがよろけたのか…あの子の声が近くに聞こえて、同じ様に哲郎の声も俺に近付いた。見なくても分かる。豪ちゃんの手を俺から離そうとした哲郎が、あの子に覆い被さって止めようとしてるんだ。 …哲郎! 「…だったら、俺の手も、揉んでよ…」 「ん?どこが痛いの…?」 お前が揉んで欲しいのは…手じゃないだろう… 哲郎…! 「ここと…ここが…痛い…」 哲郎のその言葉に、俺の手を揉んでいた豪ちゃんの手が離れた。 「ここ…?」 「うん…」 「こんな感じ…?」 「うん…」 「ふふ、てっちゃん…気持ち良い?」 「…うん。き、気持ち良い…」 何を聞かされているんだ…?! 「…仕事で鋏を使うだろ…?だから、時々腱鞘炎みたいに痛くなるんだ…」 「剪定する時…?」 「うん…」 …なんだ。哲郎は15歳なのに、植木屋で働いているみたいだ。 あぁ、それで…この家に来た時、玄関前の松の下に小枝が沢山落ちていたのか… 哲郎が剪定してくれたのか。 バン! 突然、縁側に誰かが両手を着いて言った。 「豪ちゃん!花火、買ってくる!」 息を切らした様子の清助がそう言うと、哲郎がケラケラ笑って言った。 「爆竹あったら買って来てよ、清ちゃん!」 何を考えてるんだ…哲郎! 「豪ちゃん、お昼ご飯も魚焼く~?」 そんな大吉の言葉に驚いてピクリと眉間を動かした。 お昼…? いつの間にかそんなに眠ってたのか…でも、どうしてか、瞼が重たくて開かないんだよ。 豪ちゃんはため息を吐いて俺の手を撫でると、しょんぼりした声で言った。 「兄ちゃんは、彼女の所に行ったから…コンロは使えない。大人が居ないと大きな火は使っちゃ駄目って言われてるぅ…」 「おっちゃんがいるじゃん…」 晋作の言葉にあの子は押し黙ると、ポツリと言った。 「この人は…大人じゃない…」 なんだと!! ただ、昼夜逆転して、寝ているだけですが?! 「う…ううん…」 そんなわざとらしい声をだしながら寝返りを打って、重たい瞼を半分だけ開いて豪ちゃんを見ると掠れた声で言った。 「起きた…」 俺を見下ろして目を丸くすると、豪ちゃんは身を乗り出して俺の顔を上から覗き込んだ。心配そうに眉を下げて、潤んだ瞳はグラグラと揺れて見える… 「…なんだか、顔が赤い…。それに、てっちゃんの手より熱かった…」 そっと俺のおでこに手を当てて優しく手のひらで包み込むと、あっ!と驚いた顔をして言った。 「…惺山、熱が出てる…」 あぁ…だから、こんなに体がしんどかったのか… 腑に落ちた… 「今日は…日曜だから、安藤医院はお休みだよね?」 そんな清助の言葉に眉を下げた豪ちゃんは、俺のおでこを何度も撫でながら言った。 「うん…何度あるんだろう…。惺山…熱が出てるの。体温計、ある?」 「…要らない。」 そう言って体を起こすと、ぼんやりする頭を動かして豪ちゃんに言った。 「…うつるから…帰んなさい。」 「あの風邪ひくと…今朝のおっちゃんみたいな奇行に走るのかな…?」 ポツリとそう言った晋作の言葉にクスクス笑いながら、よろける体を持ち上げて雨戸を閉めようと手を伸ばした。すかさずあの子が俺の体を支えて顔を覗き込ませて言った。 「惺山…豪ちゃんが閉めてあげる。大ちゃん、奥の部屋のお布団敷いてあげて?あと、晋ちゃん、氷買って来て?てっちゃん…豪ちゃんのお家から、体温計と…氷嚢と持って来て?」 テキパキと指示を飛ばす豪ちゃんは、いつものおどけた雰囲気を一変させて、まるで看護婦さんの様に手際よく俺を布団に寝かせた。 「僕、安藤先生に聞いて来る~!」 豪ちゃんにあてられたのか…慌てて大吉が部屋を飛び出して行った。そんな彼を見送って、豪ちゃんは辛そうに瞳を歪めて俺を見つめた。 …はぁ、大げさに心配し過ぎだ… 「昨日…ずっと、あの格好で…ピアノを弾いていたから、風邪を引いたんだ。大丈夫…すぐに熱は下がるよ…」 今にも泣き出しそうなあの子を、熱くなった瞳で見つめて微笑みかける。俺と豪ちゃん以外誰も居なくなった寝室で、あの子の頬をそっと撫でて言った。 「豪…ごめんね。酷い事をして…ごめんね…。俺を許してくれるなら、キスして…」 俺の言葉に、豪ちゃんは悲しそうに瞳を揺らして涙を落した。そんなあの子の唇を撫でると、熱のせいか…重たくなって行く腕を上げ続けられなくてバタンと布団の上に落とした。頭の中がボーっとして火照った体はポカポカと内側から熱を放出している。 …ちゅ 豪ちゃんが…キスをくれた。 それが嬉しくて…口元が緩んで、熱がもっと上がって行く… 「豪ちゃん。体温計持って来た…あと、氷嚢も2個持って来た。」 凄い速さだ…あの子の家まで行って、このアイテムを探して、ここまで戻って来たのに、哲郎は予想以上に早くここへと戻って来た。きっと、豪ちゃんと俺がふたりきりになるのを避けたかったんだ…。見てみろ…哲郎氏の額の汗を…ダラダラじゃないか… 「てっちゃん、ありがとう…。ねえ、何度だったらアウトで…何度だったらセーフなの?」 豪ちゃんはそう言うと、俺のシャツの中に手を入れて脇の下に体温計を挟んだ。そっと小さな手で俺の腕を抑える様は…看護婦さんみたいに手慣れている。 その小さな手で…俺の背中を抱きしめてくれたよね…可愛い、可愛い… 「俺の…豪ちゃん…」 しんと静まり返った寝室に、自分が口に出してはいけない言葉を言ったと…気が付いた。 「豪ちゃん!安藤先生、診てくれるって!連れて来たぁ!」 「ほんと?!良かった!」 氷を買って来た晋作がドカドカと寝室に入って来て、熱にうなされる俺を見下ろしてケラケラ笑った。そんな彼の背後から医者らしからぬアロハシャツを着た老人が現れて、俺の傍に座る豪ちゃんを見つめて瞳を細めた。 …この人が…医者…? ハイビスカスの柄が目に痛いくらいだ… ピピピピ… 「あ、先生…39.0℃だって…。これって、アウト?セーフ?」 豪ちゃんがそう言いながら体温計を掲げると、医者は首を傾げて言った。 「アウト!」 おい、ジジイ! お前、絶対、医者じゃないだろう…! 「豪ちゃん…氷嚢で脇の下を冷やしなさい。どれどれ…こりゃあ、立派な成人男性じゃ…見てごらん…血管がドクドク言ってる!熱が出て、心臓が凄い速さで動いてるんだ。はぁ…見て?胸の所…!心臓が跳ねてるのが分かるでしょ?」 …やめて! 得も言われぬ羞恥心を感じて豪ちゃんの足を叩くと、あの子は医者に言った。 「先生…恥ずかしいから、やめてって言ってるよ…?」 「あぁ…なんじゃ、良い年して、何が恥ずかしんじゃ…!」 「そうだろ?このおっさん、40℃を超えたって…死なないぜ?」 「…てっちゃん!もう!」 声を荒げて怒った豪ちゃんが哲郎の手を引っ張って寝室から出て行った。 なんだ…喧嘩か… 「ほほ…嫉妬じゃね?」 ぼんやりと開く俺の瞳にライトを当てると、ニヤニヤ笑いながら医者が言った。 「…あんたは…あの子が興味を持った人だと聞いた。あの子が、興味を持った人の共通点を知ってるかい?」 「…いいや。」 呼吸を荒くしてそう言うと、医者は大吉の持って来た氷嚢を受け取って、俺の脇の下に挟みながら言った。 「そうか!」 なんだよ! 眉間にしわを寄せて医者を見つめると、意にも介さない様子で眉を上げながら時計を見て言った。 「…意識が無くなったら、ヘリコプターを呼ぶ。すぐに連絡するように!」 へ…!! そんなに危険なの? 「ただの熱だ!」 俺がそう言うと、医者は俺を見下ろして、静かに声を落として言った。 「…そうだな、ただの熱だ…。でも、念の為、そうするだけだ。高い熱に変わりはない。子供と違って…大人の高熱は体に負担もかかる。…なに、豪ちゃんが付きっきりで見てくれるだろう。」 …豪ちゃん この村の…看護婦さんだったの…? 「あの子の言う事は聞くんだ…。何が何でも、あの子の言う事は聞くんだ…良いね?」 やけに真剣な表情でそう言う医者を、夢なのか現実なのか…分からない、ぼやけた視界で眺めると…そのまま瞼を落として眠った… 「うっうう、惺山…どうしよう…熱が下がらない…うっ…ひっく…ひっく…」 泣いてる豪ちゃんの声が聞こえて、もうろうとする意識の中、手を伸ばしてあの子を探すとすぐに小さな手が俺の手を掴んで握った… 「大丈夫だよ…豪ちゃん…すぐに良くなるから…」 掠れた声でそう言って俺の顔を覗き込むあの子をぼやけた視界で見つめると、ニッコリと笑ってあげた。だって…ただの熱なのに、とても心配してるんだ。…安心させてあげたくて、微笑みかけた。でも、どうしてかな…あの子の手が力強くて、あったかくて…逆に安心したんだ。 豪ちゃんが傍に居てくれるだけで、俺は安心するみたいだ… 「惺山…大好きだよ…豪ちゃんが、絶対に守ってあげる…!」 大好き…何気に告白してるよね…豪ちゃん。それがおかしくて、ぼやけた視界であの子を見つめてヘラヘラと笑った。 この村の住人は…大げさなんだ。群を抜いて豪ちゃんは大げさだ。 ただの風邪。ただの発熱。 いつもならひとりで寝て過ごすような事を、豪ちゃんは大げさに騒いで…泣いてるんだもん… 「可愛いね…じゃあ、惺山に…キスしてよ…」 掠れた声でそう言って、あの子の頬をなでなでしながら優しく微笑みかけた。 なに、心配する事はないさ… 寝ていれば治るんだ。 キスの話を無視して脇の下の氷嚢を手に取った豪ちゃんは、鼻を啜りながら台所へと行ってしまった。おもむろに…あの子が手に持って泣いていた体温計で自分の体温の履歴を眺める。 40℃… 爆上げじゃないか… あんな格好で過ごして、風邪をひいて、高熱を出して…あの子に心配をかけるなんて、はぁ… 豪ちゃんが言う通り、俺は、大人じゃないな… 「ふふ…」 氷嚢を持って戻って来た豪ちゃんが、不気味に笑う俺を見て心配そうに顔を覗き込んだ。 「…惺山?」 「豪ちゃん…“愛の挨拶”って曲、知ってる?」 「…知らない…」 「今度…弾いてあげる。とっても綺麗なんだ…。どうしてか…今、その曲が、頭の中を流れてる…」 耳の奥で…バイオリンの美しい音色が、穏やかに“愛の挨拶”を流して聴かせてくるんだ…。とりわけ好きな曲な訳じゃない…なのに、どうしてか、流れて聴こえる。 不思議だな… 「惺山…豪ちゃんがいるよ…」 あの子はそう言うと、俺の隣に寝転がってギュッと体を抱きしめてくれた。そして、高熱のせいで…うるんだ瞳から落ちる涙を、何度も拭ってくれた… 好きだよ…豪ちゃん… 「惺山…ねえ、良いでしょ?」 それは初めて…彼女を抱いた日の事… あの時…踏み止まっていれば、こんな事にはならなかったのに。 「もちろん…」 そんな風に余裕ぶって…内心はビビッていたんだろう…? 恩人の先生を裏切る行為に、ビビッてたんだろう? それを悟られたくなくて…突き進んだ… その結果が、これだ。 見栄…虚栄心…下らない、格好つけ… それがお前の破滅を招いたんだ。 ”愛“なんて物じゃなかった。 あいつよりも俺の方が… もっと評価される物を… 他の誰にも負けない、真似できない、飛びぬけたセンスを感じるメロディを… 俺の行動の原理は、いつも…こんな見栄ばかり。 そんな気持ちで新しく何かを作る事なんて…出来ないよ。 創造とは、競争でも、見栄なんかでもない…どんなイメージを持ってるか…どう表現して伝えるか…それだけで十分なんだ。 なのに、すぐに周りと比較して…すぐに自惚れて…自分の虚栄心に振り回された。 「んん…!だめ…だめぇ…!どうして…どうして?あんなに悲しんでたのに、あんなに苦しんでたのに、なのに…どうして、また苦しもうとするの…?!」 必死の形相で俺に食い下がったあの子が頭の中をフラッシュバックして訴えかけてくる。その言葉の意味を俺はすぐに理解したんだ…そして、ムキになった。 体よく利用されていたと分かってた。愛なんて物じゃない事も分かってた。ただ、恩人の先生を裏切った手前、今更、引き返す事が出来なかった…。だから“愛”なんて言葉で誤魔化して、どんどん薄汚れて、くたびれていく自分を…見ない振りしていた。 あの時ね…認める事が出来なかった事実を、直視して立て直せと…君に言われた気がして…感情的になったんだ… 認めるよ…観念した。豪ちゃんの言う通りだ… 君の傍で”優しい愛“を受け取ってしまった俺は、もう、あんな風に自分を苦しめる事を”愛“だなんて思えなくなった。もう、苦しみたくないって…そう思う様になった。 今更だけど、君の言葉に耳を傾けるよ… 失ったものは多かった。でも、まだ最悪の事態じゃない…まだ、引き返せる。気付いてから認めるまで時間がかかったけど、これからは君の言う事だけを聞くから…傍にいてよ…俺を助けてよ…俺を救ってくれよ。 馬鹿でどうしようもない、俺を離さないでくれ… 虚ろな瞳を閉じながら胸の中に抱きしめるあの子の髪を撫でた。 「豪ちゃん…会いたいよ…」 「…惺山?」 そんなあの子の不安に揺れた声を聴いて、意識を失った… 「駄目だ!豪!戻って来い!」 「いやだぁ!」 豪ちゃんの大きな声に目を覚ました。俺はいつの間にか、凄い風を受けながらヘリコプターに乗せられた所だった。 「あぁ…惺山!豪ちゃんがずっと傍にいるからね!」 そう言ってシートベルトを付けられた豪ちゃんがビービー泣くのを見ると、可愛くて、おかしくて、笑いながら…再び意識が飛んだ。 …ただの熱なのに、ドクターヘリを呼んだ… 大げさな村だ…

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