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#4_01
気が付くと真っ白な病院の天井を眺めていた。痛いくらいに跳ねて動いていた胸は落ち着きを取り戻し、視界もぼやけていない。ただ少しだけ頭が痛かった…
ふと視線を動かすと、傍らには…豪ちゃんと、徹と、彼女が居た…
「惺山!」
気が付いた俺に駆け寄ろうとする彼女の目の前に立ち塞がった、豪ちゃんの背中が見えた…両手を広げた不動の姿勢は、まるで俺を守る様だ。
「帰れっ!」
そんなあの子の憤りにも似た声を、初めて聴いた…
あんなに酷い事をしても、聴いた事の無かった…あの子の怒鳴り声だ。
「なんなの…?!…惺山!あなた…こんな子、知らないって言ったわよね?!」
動揺しているのか、彼女の俺を詰る声がどんどんヒートアップしていく…。そんな様子にしびれを切らした徹が、首を横に振りながら言った。
「…まだ、意識が戻ったばかりです。あまり、大きな声を出さないで…」
「はぁ?!あなたが心配だったから、わざわざこんな所まで来たのに!それなのに、何なのよっ!!」
徹と豪ちゃんを睨みつけてそう言うと、彼女は俺を忌々しそうに見つめて、ムッと頬を膨らませた。
はぁ…
この状況は、最悪だな…
ため息を吐いて首を横に振ると、俺をじっと見つめる豪ちゃんを見つめ返した。…まるで、俺の選択を待っているみたいにまん丸の瞳を静かに揺らして見つめて来るんだ。
…分かってる。とっくのとうに…降参してる。
俺はお前の言葉に、耳を傾けるよ…
なぜなら、それが一番…後悔しない選択だからだ。
ピリピリムードの病室。俺は腑に落ちない顔をして苛立ちを隠さない彼女に言った。
「先生を裏切った事をずっと後悔している…。もう、あなたには会わない。愛だと思った物は…ただの虚栄心だって、気が付いた。愚かでした。」
「は…?」
そう言ったっきり、呆気にとられて呆然とした彼女に、徹が言った。
「どうぞ、お引き取り下さい…」
「惺山!あんたみたいな出来損ないの作曲家が、私の…いいえ、主人のコネもなくいきのこれるとおもってるの?!…どうなるか、分かってるんでしょうね!わざわざ来てやったのに、こんな扱いして!許さないからっ!!」
そんな罵声と脅しを浴びせて病室を出た彼女は、鼻息を荒くしたままどこかに電話をかけ始めた…
「大丈夫…豪ちゃんがいるよ?」
そんな彼女を追いかける視線を遮る様に俺の目の前に立つと、豪ちゃんはおもむろに俺の手をそっと握ってくれた。泣き過ぎたのか…目じりを赤く染めて、まるで化粧でもしているかの様に見える。
可哀想に…心配かけたんだ…
「ん、モミモミしてあげる…」
手のひらをマッサージされながら、可愛い豪ちゃんを鼻の下を伸ばして見つめていると、あの子は俺を見つめてニッコリと微笑みかけてくれる。
そんな優しい笑顔が…まるで、俺を褒めてくれている様に見えるんだ。
自暴自棄に進んだ道を、思い直して…勇気を出して引き返した事を、褒めてくれている様に感じたんだ…
「…はぁ、ヒステリーな女性だな。更年期障害かな…」
首を傾げながら病室へ戻ってくると、徹は俺を見て顔を歪めて大きなため息を吐いた。
「病院の外まで送ったら、ブチ切れられた!」
「迷惑かけたな…」
そう言って頭を下げると、豪ちゃんがモミモミし続ける自分の手のひらをぼんやりと眺めて口元を緩めた。
「良いんだ。豪ちゃんが異変に気付いて、すぐに先生に連絡して…ヘリで大きな病院に運んだんだ。良かったよ。脳症になりかねない高熱だったから、危険な状況だったんだ。あのまま、家で看病してたら…最悪、命を落としていたかもしれないって…病院の先生が言ってた。全く!豪ちゃんに感謝しとけよ?」
徹はそう言うと、豪ちゃんの頭を撫でて顔を覗き込んで言った。
「お手柄だったね?豪ちゃん?」
「んふふっ!」
肩をすくめて照れ笑いすると、豪ちゃんは悲しそうに俺を見つめて口を尖らせた。
あぁ…そうだね。
たかが熱…すぐに下がると思ったんだ。
でも…お前の心配した通り、危険な状況だったみたいだね。
あの子を見つめて眉を下げると、”こんな事になるなんて、思わなかったんだ“と…何も言わないで、口を一文字にしながら首を横に振った。
「食事を抜いて…不摂生な暮らしをしてたんだろ?何てことない風邪なのに…あんなに高熱を出して、死にかけるんだ。お前はいつもそう。夢中になるのは構わない。でも、もう少し自分の体を労わりながら夢中になるべきだ。もう若くないんだ…。今までと同じように過ごそうなんて、甘い考えは捨てるんだな!」
徹の、耳に痛い言葉を聞きながら、俺の手をマッサージし続けるあの子をずっと…見つめ続ける。
顔を伏せたまま口元を少しだけ緩めて、お説教されてる俺を笑ってるみたいだ…
「…豪ちゃん…ありがとう。」
あの子の顔を覗き込むと、驚いた様に、丸い目をもっと丸めて俺を見つめた。そして、耳を真っ赤にすると、伏し目がちになって、恥ずかしそうにもじもじしながら言った。
「良いの…惺山は、良いの。」
「なんだ、仲良しじゃないか…」
あぁ、俺は、この子の事が大好きだ…
徹はそう言うと、俺の腕に繋がれた点滴を眺めて言った。
「この点滴が終わったら帰れる。送って行くから、そのつもりでな。俺はちょっと外でタバコでも吸ってくる…豪ちゃんもジュースでも買って来てあげるよ。何が良い?」
徹の言葉に首を傾げると、豪ちゃんはにっこり笑って言った。
「リンゴジュース!」
ふふ…可愛い…
ガララ…
徹が居なくなった病室…俺をじっと見つめる豪ちゃんと目を合わせて、何も言わないまま…見つめ合う。夕方なのか…病室の窓からオレンジの光が差して、カラスの鳴く声と、家路につく子供たちの声が聞こえてくる。
「嫌だって言ってた…」
ふと、あの子はそう言うと、俺の手のひらを両手に挟んで撫でた。
「え…?」
首を傾げて聞き返すと、豪ちゃんはじっと俺を見つめて言った。
「あの、おばさんの愛人になるのは…嫌だって…うわ言で言ってた。」
あぁ…
そうなんだ…
「あの人の…旦那さんに、とても世話になったんだ…」
顔を俯かせてそう言うと、あの子の撫で続ける自分の手を眺めて、ため息を吐いた。
「何から…何まで、お世話になった…。それなのに、裏切って、奥さんと浮気をしてしまった…。」
「好きだったの…?」
そう尋ねられた言葉に首を傾げると、あの子の手を握って、自分の手の中にしまい込んでいく。
好き…?
好き…
「いいや…そう、思い込んでいただけみたいだ。作曲した曲が、初めて認められて…お披露目パーティーをして貰ったんだ。名前も知らない友人が沢山出来て、華やかで…豪華で…夢のステージに、やっと立てた気でいた。だから…彼女の誘いを断る事が…出来なかったんだ。見栄を張ったんだ…。みっともなく動揺してると、思われたくなかった…。」
あの子の瞳を見つめると、どうしてかな…観念した様に…そんな本音がボロボロと口から零れてくるんだ。
この子に、見栄を張る必要なんてない。格好付ける必要なんてない。
ありのままの俺をさらけ出して…良いんだ。なぜなら…この子はそんな俺を、受け止めて優しく愛してくれるから…
「業界の人は…こういう事をするもんかと思って…特に何も考えずに、溺れて行った。それが“好き”や…”愛“かと聞かれれば…それは違うと思う。俺は…ただ、自惚れて…自分に酔っていただけ。」
ニッコリとあの子を見つめて笑うと、そっと手を伸ばして豪ちゃんの頬を摘まんで言った。
「…お前の事は、好きだ…」
「謝るんだ…惺山。先生に、謝るんだ…」
俺の瞳をじっと射貫く様に見つめたあの子が、さっきまでの様子を一変させてそう言った。それはまるで穏やかに諭す様に。そして、あの子の頬を撫でる俺の手のひらを包む様に手を添えると、ゴクリとつばを飲み込んで言った。
「…もうすぐ死ぬ人が分かる…」
は…?
「な、何…?」
突然の話題と、いつもの様子と違うあの子に戸惑いながら顔を覗き込んでもう一度尋ねると、豪ちゃんは俺を見つめて瞳を歪めて、唇を噛み締めた。
「誰にも言わないで…」
「…言わないさ。」
そんな俺の顔を見て安心した様に視線を落とすと、豪ちゃんは淡々と話し始めた。
「…兄ちゃんにも言ってない。でも、安藤先生は…うっすら気づいてる。僕が…そういうのを感じやすいって…。僕自身、細かい事までは分からないんだ。でも…人の周りにモヤモヤが見える。小さい頃はそれが面白くて…付いて回っていた。でも、だんだんと分かって来た。あれは、もうすぐ死ぬ人に現れるサインなんだって。死ぬ理由は…病気だったり、自殺だったり…事故だったり…様々で、予測出来ない…。だから、その人の傍を離れないで…見張ってる。」
豪ちゃんの言葉に、あの時の医者の言葉がフラッシュバックして蘇る…
“…あんたは…あの子が興味を持った人だと聞いた。あの子が、興味を持った人の共通点を知ってるかい?”
あぁ…そう言う事だったのか…
だから、豪ちゃんの要請に、ヘリコプターを躊躇なく呼んだんだ。
え…じゃあ…
呆然としたまま豪ちゃんを見つめると、首を傾げて聞いた。
「俺も…もうすぐ、死ぬの…?」
そんな問いかけに、あの子は表情を変えずに深く頷いて言った。
「そうだよ…惺山。だから…僕の言う事をよく聞いて…?」
はは…
「いつ、死んでも良い…!」
驚いた顔をする豪ちゃんを抱きかかえると、自分の膝の上に乗せて、背中をギュっと抱きしめた…
あぁ…!
だから…この子は…ずっと、俺の傍にいたのか…!
理解した瞬間、鳥肌が全身に立って、胸の奥から嗚咽が込み上げて…堪え切れずに声を出して泣いた。
「あぁ…そうだったのか…そうだったのか…!」
炎天下の中も…雨が降っても…無視され続けても、酷い事をされても…
俺が死なない様に…守っていてくれた。
まるで…
「天使じゃないか…」
あの子の背中に顔を埋めてそう言うと、豪ちゃんは声を曇らせて言った。
「…お父さんは…僕の事を、悪魔だと言った…」
そんな訳ない…
きっと、この子を産んだ時…奥さんを亡くした事と…この子がそんな奥さんに…瓜二つな事が、父親の心を乱したんだ…
「誰が何と言おうと…俺の天使は、お前だ…!」
そう言ってあの子を抱きしめると、俺の手を撫でるあの子の手のひらを感じて口元を緩めて泣きながら笑った。
これは…予想外の展開だ。
大どんでん返しだ…
「…こんな話、信じるの…?」
動揺した様に声を震わせた豪ちゃんが、不安に瞳を揺らしながら背中の俺を振り返って、じっと瞳の奥を覗き込んで来た。それは、いつもの様におどけた様な、とぼけた様なあの子の顔じゃない…俺の真意を伺い見るような目だ。
信じる…?
「当たり前だよ…」
誰にも言っていない秘密を…俺にだけ教えてくれたのには、理由があるんだろ…
「だって…俺を守ってくれたじゃないか…」
そう言って不安に揺れるあの子の瞳を見つめながらキスをすると、頬であの子のおでこを撫でて大事に抱きしめた。
愛してるよ…俺の天使…
「まだだよ…まだ、分からない…」
歪めた瞳から涙をボトボト落とした豪ちゃんは、震える声でそう言うと堪え切れなくなったように俺に抱き付いて泣きながら言った。
「惺山…あなたが、好きなんだ。死なないで欲しいの…!」
細い両手で強く締め付けられる体に、この子の愛を感じて…胸が熱くなっていく…
あぁ…
もう、昼夜逆転してもご飯を抜く様な生活は…やめよう。
裸同然で、クーラーに当たる生活も…やめよう。
自分に出来る事、全てをやって…この子が心配しない様に…過ごそう。
「死なない…」
苦しいくらいに抱きしめて体の中に覆い隠してしまうと、豪ちゃんはクスクス笑いながらあふれた涙を俺の胸に擦って拭った。そして、いつもの様に俺の襟足を指先に絡めて遊び始めるから、俺はそれを好きにさせたままあの子の髪にキスをした。
両手に抱きしめたこの温もりを、悲しませてはいけない…
徹の実家に戻れば…パリスや、いつものギャング団がこの子の帰りを待っているだろう。そして、いつもの様に時間が進んで…日常が進行していくんだ…。それはまるで指揮者不在の止まらないマーチみたいに…一定のリズムを刻んで、どんどん前へ進んでいく。
俺の周りにモヤモヤが見えて…それが、もうじき死ぬ事を意味するというのなら…
自分のマーチが終わるその時まで…傍に居てくれるこの子が心配しない様に…恙なく演奏を続けて、そんな他愛もない日常を送ろうじゃないか。
「惺山、“愛の挨拶”ってどんな曲…」
「聴かせてあげるね…」
クッタリと脱力したあの子を両手に抱きしめながら、柔らかい髪にキスをして、体を揺らして、前奏を鼻歌で歌ってあげた。
「ふ~んふふふんふんふんふ、ふ~んふ~んふ~…」
「ふふ…」
クスクス笑うあの子の手を自分の手のひらの上に乗せて、まるでピアノを弾いている様に指を動かして見せる。
「わぁ…」
そう言って嬉しそうに頬を赤くする豪ちゃんを片手で抱きしめて、指先であの子の指を動かしながら美しい旋律を口から紡いであの子に教えてあげた。
「バイオリンで弾くと、この旋律は、一段と美しくなるんだよ…」
「へぇ…」
そして、曲を歌い終えると、あの子のこめかみにキスして言った。
「今度…ピアノで聴かせてあげるね。」
「…うん。」
こんな風に…誰かに優しく出来た事があっただろうか…
こんな風に…ありのままの自分の姿で、話を出来る誰かが今まで居ただろうか…
飾る事も、見栄を張る事も無い…
ありのままの自分で居られる事が、こんなにも安心する事だなんて…知らなかった。
コンコン…ガララ…
ノックと同時に扉を開いて、強面の看護師が病室に入って来た。そして、俺の膝の上に乗った豪ちゃんを一瞥すると、あの子を抱き抱える俺を怪訝な表情で覗き見て、首を横に振った。
何もしてないさ…ただ、未成年を膝の上に乗せて、抱き抱えただけだ…
後ろめたい事など、何も、していない!
表情を変えずにあの子を膝の上に乗せたままでいると、看護師は俺の腕を掴んで言った。
「はい…点滴、抜きますよ?」
随分、蔑んだような…冷たい声じゃないか…!
手際よく点滴の抜けた穴に絆創膏を張ると、看護師は豪ちゃんの手を掴んで俺の膝の上から退かした。そして、あの子の頭をポンポンと撫でると、俺をジト目で見つめたまま…部屋を出て行った…
多少の誤解を生じたが、点滴を抜かれて晴れて自由の身になった。
いいや。
俺はまだ…自由じゃない。
“死”と、豪ちゃんに付きまとわれる…そんな生活を送る必要がある様だ。
でも…豪ちゃんになら、付き纏われても良い…
だって、俺はこの子が大好きだから。
その為に“死”がセットなら、いつ死んでも…構わない。
もちろん、そんな胸の内は豪ちゃんには言わないさ。
だって、この子は俺に恋をしていて…失う事を、とっても怖がっているから…
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