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#5

髭も剃った… 髪も整えた… ネクタイは…そもそも、持って無い。 「…よし、行って来よう…」 身なりを整えて玄関の引き戸を開くと、敷地の外には一台のタクシー… と、その周りにさりげなくたむろする…ギャングの一団… はぁ… 「おっちゃん、謝りに行くんだって?」 清助がそう言うと、すかさず哲郎が鼻で笑って言った。 「だせぇ…」 「どうしてぇ?…剥けてて、ごめんなさいするの~?」 「え…」 そんな大吉の卑猥な言葉に一同が唖然とする中、じっと俺を見つめて大きく頷くあの子を見つめて言った。 「…行ってくるよ。豪ちゃん…」 「…うん。」 タクシーに乗り込むと、当然の様に続けて車内に入って来る豪ちゃんを見て言った。 「だぁめだよ!子供と一緒に行く様な所じゃないんだから!」 俺の言葉にキッと眉を上げると、豪ちゃんはまるで子供を叱る母親の様に言った。 「惺山!豪ちゃんは、惺山と一緒に行くよ?!」 これから、みっともなく…頭を下げに行くというのに…! …はぁ でも、俺は、この子に頭が上がらないんだ… 「ん~~!もう…分かったよ。」 しぶしぶ項垂れてそう言うと、次から次へと乗り込んで来そうな子供に戦々恐々としつつ、苦々しい表情をする哲郎をチラッと見て言った。 「じゃ、行ってきまぁ~す。」 俺はこれから、お世話になった先生に、謝罪しに向かう。 奥さんと不倫してしまった事を、謝罪に向かうんだ… 遊びじゃないんだ。 追い返される確率の方が高い。 …なのに、どうして…この子を同行させてしまったのだろうか… 項垂れる様に頭を下げると、窓の外を眺める豪ちゃんを横目に見た… 一張羅の服を着て来たのか…見た事もない紺色の短パンに…いつものヘビメタバンドが描かれたハードなタンクトップを着てる… ある意味コケティッシュだ。 だって…ほら、大きいタンクトップは、手を上げると…隙間からポロリもあるから… 「惺山?軽井沢のホールって所に、先生が来るの?」 俺に視姦されてるとも知らずにあの子はそう言うと、体を揺らして言った。 「ホールには、何があるのかな?」 「何もない…」 あるのは、怖い大人と…その取り巻きと…楽器だけだ。 そっけなくそう言う俺を見ると、豪ちゃんは嬉しそうに微笑んで言った。 「大丈夫…豪ちゃんが一緒にいるよ?」 あぁ… もう…可愛いな… 「…うん。」 頬を赤くしてそう言うと、あの子の剥き出しの生足を眺めて、手のひらで少し撫でた。 「…やめて!」 「なぁんで…何もしてない…!こうやって手を動かしたら、当たっただけじゃないか…」 体を揺らしてそう言うと、ジト目で俺を見続ける豪ちゃんに口を尖らせて言った。 「…ん、な、もう!何も、してないだろ?」 乱暴を働いて以来…俺は豪ちゃんに触れる事はあっても、抱いたりする様な事は一度もしていない。 あの子がこうやって怒る事と、哲郎が目を光らせている事…それらがネックになって…俺は可愛い可愛い豪ちゃんを、お預けしてる状態を続けているんだ。 でも、どうだい。見てくれたまえ…? このタクシーに乗ってるのは、俺と豪ちゃん… そう、あはは…ふたりきりなんだ。 怖い大人に謝った後…頑張った俺を慰めてもらおう…褒めてもらおう…そんな下心を持って、今の緊張と恐怖をかろうじて乗り切ってる。 向かうは、軽井沢にある…市営の市民会館…格好良く言うと、ホールだ。明日と明後日…そこで先生の講演会が開かれると聞いて…赴く。 高熱を出して死にかけた。 あの子の機転により、大きな病院に搬送されて大事は免れたが、危険な状態だったと後から聞いた… 「謝るんだ…惺山。先生に、謝るんだ…」 …ふたりきりの病室であの子が言ったこの言葉が、ずっと…胸の奥で疼いている。 俺が見ない振りして来た…最大の罪悪感。それを取り除けと…言った。 理由…? 知らないさ…でも、あの子の言う事を聞くよ。 「もうすぐ死ぬ人が分かる…」 そう話してくれたあの子の話を、疑いもせずに信じた様にね… 豪ちゃんは能天気な馬鹿じゃなかった… ただ、“もうすぐ死ぬ人が分かる”という事実を隠す様に…本当の自分を隠していただけなんだ。 真剣なまなざしと…自分の事を“豪ちゃん”と呼ばずに…”僕”と呼んだあの子に…馬鹿な要素なんて何一つなかった。 あれが…あの子の本当の姿なんだ。 病院から戻った後、村の住人やギャング団にそれとなく話を聞いて回った。 今まであの子が興味を持って来た対象の共通点…それは確かに”死”だった。 偏屈なじいさんは…山で仙人と呼ばれるマタギに誤って銃殺された。 ボケた大岩のばあさんは…井戸に落ちて死んだ。 物乞いのじいさんは…病気で死んだ。 都会から来たお姉さんは…いじめを苦に自殺した。 俺に付きまとった様に、そんな対象に付いて回っては…あの子は必死に、“死”を食い止めようとして来た。…いつ、どんな形で訪れるかも分からない“死”を回避しようと、ひとりで奮闘していたんだ。 どうして…俺に教えたの…? あの…仲良しのギャング団にさえ伝えていなかったその事実を…どうして俺なんかに教えてくれたの? 死ぬのなんて怖くない…いつか人は死ぬものだ。 だけど… この子は、俺の死を、とても怖がっている。 そんなこの子に…してあげられる事は、ただ一つ。 この子の怖がる俺の“死”の因子を、少しでも減らす事… 不摂生な生活を改めて…食事も三食きちんと取るように心がけてる。 そして…先生への謝罪にも向かうんだ。 「惺山…いつも行ってる町より、車が多いね…?」 豪ちゃんはそう言うと、俺を見て、窓の外を指さした… そりゃそうだ。 ここは国道…車が走る道だ。 大型トラックから…小回りの利くバイクまで、途切れる事無く列を成して走ってる…豪ちゃんの住んでいる村とは、時代を跨いで移動して来たような…そんなタイムスリップ感を感じさせる光景だろう。 「…怖い?」 あの子の髪を撫でて聞くと、豪ちゃんは首を傾げながら笑って言った。 「…ん、ちょっと。」 可愛い…! 15歳なんて…都会じゃあ受験に追われて…変に大人びた冷めた印象すら与えるというのに…この子は、まるで小学生の様に…純粋で、穏やかで…あったかい。 まるで…ぽかぽかの太陽の様に…強くて、明るいんだ… そして、押しに弱くて…ややМっ毛のある、人の死期が分かる子なんだ。 …さて、先生がやってくる場所は分かった。しかし、アポイントを取っていないし…そもそも、会って貰えるのかさえ怪しい… 豪ちゃんの前で、みっともなく…追い払われるのかな…? 嫌だな… いいや、この子の前では見栄なんて要らない! 俺が先生に謝罪する事で…この子が少しでも安心するのなら…その程度の恥なんて容易い事だ。 そうだろ…?惺山… そんな決心を固く結ぶと、目に力を込めたまま窓の外を眺めて、カンカン照りの日差しを受けてキラキラと輝くアスファルトを見つめた。今日も太陽は良い仕事をしてる… 「…お客さん。着きましたよ。」 着いてしまった… 無慈悲なタクシー運転手の声に財布を出すと、背中を丸めた俺の襟足を豪ちゃんが指先で撫でた。 ふふ… どうしてかな、この子は、本当に…俺の襟足が… いいや、俺の事が大好きなんだ。 「なぁんだ…」 ニヤニヤ笑ってあの子を横目に見てそう言うと、豪ちゃんは耳を赤くしながら手を引っ込めて、とぼけた様に首を傾げた。 …可愛い… あんなに散々レイプした癖に、俺はこの子に恋してる… …はぁ。 バカみたいだけど、まるで生き甲斐の様に感じてしまうんだ。おっかなびっくり俺に触って来る様子も…恥ずかしそうに頬を赤くする様子も…どれも、可愛くて…堪らない。 この子との…こんな、淡い思いの共有が…今は何よりも、幸せを感じるんだ。 バタン… タクシーを降りると、ジリジリとアスファルトを照らす太陽の反射を地面から感じながら、目の前のホールを見上げた…暗雲なんて立ち込めてない。見えるのは、ただただ清々しい青空だ… あぁ… 追い返されるのが、オチかなぁ… 「すっごい、おっきな建物だね?僕、こんな大きな建物、見た事ないよっ!」 大興奮して駆け回る豪ちゃんを微笑ましく見つめると、あの子のタンクトップの大きく開いた袖口からチラチラ見えるわき腹を凝視した。 頑張ったら…ご褒美にベタベタさせて貰えるかもしれない… 動機が不純…? 良いんだ。何か嫌な事をする時の動機なんて、不純で良いんだ… 冷房の効きすぎたホールに入ると、豪ちゃんが物珍しそうに吹き抜けの天井を見上げて回る中、受付の女性に声をかけた。 「すみません、明日から講演会をされる…木原先生にお会いしたいんですけど…本日、彼はこちらにいらっしゃいますか…?私…森山惺山と申します。」 俺の言葉にニッコリと微笑むと、可愛い顔をした受付の女性は、手元のスケジュールを確認しながら言った。 「…はい。先生はいらっしゃってますが…お約束はされておられますか?」 あぁ… 「いいえ…たまたま、近くに来たんで…」 そう言った途端…可愛かった女性の表情は硬くなり、口調も心なしか事務的に変わった。 「そうですね…。関係者の方以外、中には入れない事になっています。先生とお約束がある方でしたら、伺っておりますが…申し訳ございませんが、森山様のお名前を頂戴しておりません。ご本人様とお約束をされてから、改めてお越しいただけますか?」 …正論だ。 「…そうですか。わかりました。ありがとうございます…」 …ド正論だ! クルクル回って遊ぶ豪ちゃんのもとへ行くと、俺を見上げるあの子の顔を見つめて眉を下げて言った。 「…ダメだってぇ!」 「えぇ…?」 普通そうだ。 アポも取っていないのに、会える訳がないんだ! それに、危険人物だって来るかもしれないから…“たまたま近くに来たから~”なんて話は、面会の理由にもならないんだ! これが、大人の社会なんだ… 「…どうする?惺山…?」 だらりと垂れた俺の手にすっと手のひらを差し込むと…豪ちゃんは優しく握りながら言った。 「…チョコレートパフェって…食べた事がないんだ。てっちゃんが、かき氷のお皿で作ってくれた事があったけど、ウエハースってやつが手に入らなくって、おせんべいが乗ってた。ねえ、本物はどんな感じかな?」 へ…? チョコパフェ…? そう言ってあの子の手に引かれて連れて来られたのは…ホールに併設する、カフェ…入り口前に置かれた看板には、でかでかと“チョコレートパフェ解禁”なんて文字が書かれていた… 「食べたいの…?」 あの子を見下ろしてそう聞くと、豪ちゃんはもじもじしながら言った。 「…うん。ちょっとだけ…」 ちょっとだけ食べるって、どういう事だよ… 「はぁ…そうだな。コーヒーでも飲みながら…次の策でも練るか…」 ため息をつきながらそう言うと、豪ちゃんを連れてチョコレートパフェが解禁になったカフェへと入った。 「あ…先生。」 店員に案内された席のすぐ隣に…俺が会いに来た…奥さんと不貞を働いてしまった…木原先生が座っていた。 そして、あろうことか…解禁されたばかりのチョコレートパフェを摘まんでいた。 「あぁ、惺山…!これこれ!これが食べたかったんだぁ!おじちゃん、美味しい?これ、美味しい?」 唖然とした表情で見つめ合う…俺と先生が見えないのか… それとも、彼の手元のチョコレートパフェにしか目が行っていないのか… 無邪気な豪ちゃんはそう言うと、先生の目の前に座ってチョコレートパフェのグラスの高さを指で測って悶絶しながら言った。 「こんなにおっきい!!」 「…森山君。久しぶりだな…」 我に返ったのか、渡辺先生はそう言うと、目の前で大はしゃぎする豪ちゃんを見つめて、チョコレートパフェを手元に引き寄せた… 「先生…どうしても、お会いしたくて…こちらで講演をされると聞いて…」 「ご注文はお決まりでしょうか?」 は…? KYな店員は…働き始めなのか… どうやったら、席にも着かずに、立ち尽くす俺が、注文の決まった客に見えるのか… 小一時間!問い詰めたいね! 「コーヒーと…このおじちゃんと同じ…チョコパフェ~!」 KYな豪ちゃんはKYな店員にそう言うと、案内された席に俺を無理やり座らせて、目の前の木原先生のチョコパフェを眺めながら言った。 「ウエハースが…無いね?」 「ふふ…美味しいものは先に食べる派なんだよ…」 先生は伏し目がちに笑ってそう言うと、長いスプーンでアイスをすくってパクリと食べた。 「…美味しい?」 「…ふん、美味しい…。でも、千疋屋(せんびきや)の方がもっと美味しい。」 「…千疋屋って?」 「フルーツパフェが美味しいんだ。果物屋さんだからね。新鮮なフルーツがたくさん乗っていて、甘ったるくないクリームが…あぁ、美味しいんだ。」 意外にも…木原先生は豪ちゃんと会話を続けている。 どちらとも違和感なく、まるで昔からの知り合いの様に繰り広げられる目の前の光景にただ怪訝な顔で眺める事しか出来ないでいると、豪ちゃんが身を乗り出して言った。 「ん、それ、食べたぁい!」 「1個…2、000円はするよ?僕に買えるの?」 「買えるよ?でも…そのお店がどこにあるのか分からない。」 「そんなの…どこにでもあるさ…」 「豪ちゃんの住んでる所にはないよ?晋ちゃんの商店しかない。」 俺の事なんて置いてけぼりの様に無視して、目の前の豪ちゃんと楽しそうに話す先生を見ると、KYな店員が目の前にコーヒーを置いて言った。 「ごゆっくりど~ぞ!」 あぁ…きっと働き始めの人なんだ… だから、KYで、だから、コーヒーもガンガンにこぼして運んで来るんだ。 ソーサーにこぼれたコーヒーを見つめて項垂れると、カップを手に取って紙ナプキンを敷いた。 「わあ!惺山!見て見て!」 そんな嬉々とした豪ちゃんの声に顔を向けると、あの子は満面の笑顔になって、目の前に置かれたチョコレートパフェを指さした。 「なにこれ!!すっごい!!」 「食べた事ないの…?」 あまりの興奮に先生が半笑いしながら豪ちゃんにそう言うと、あの子は長いスプーンを手に取って嬉しそうに眺めて言った。 「ない…だから、とっても嬉しい!」 ゆっくりとスプーンをパフェに近づけていく豪ちゃんを横目に、あの子に夢中な先生に言った。 「先生…この度は、本当に…」 「今はいい…」 ぴしゃりとそう言われて押し黙ると、口元を緩めた先生が豪ちゃんに言った。 「ウエハースは食べないの?」 「豪ちゃんは…好きなものは途中で食べる派なんだ…」 アイスをゆっくりとすくって、緊張感を醸し出しながらあの子がそう言うと、クスクス笑って先生が言った。 「変な子!」 はぁ… 何とか追い払われずに済んでいるのは、可愛い豪ちゃんのお陰か… でも、これじゃあ…肝心の話が出来ないじゃないか。 「ん~~~~!美味しい!どうして?どうして?ただのバニラアイスなのに、このグラスに入ってると、とっても美味しく感じるのはどうして?」 体を揺らして喜ぶ豪ちゃんを瞳を細めて見つめると、先生は伏し目がちに言った。 「なんでもそう。主観がそうさせるんだ…。大した事ないものが、華美に見えたり…まったく違う物に感じたり…」 「主観…?」 チョコパフェをほじくりながら豪ちゃんがそう聞き返すと、先生は首を傾げながらあの子に言った。 「そうだよ。簡単に言うと、好き…嫌い…その感情が、物事を正確に見る目を曇らせるんだ。」 「じゃあ…耳なら大丈夫だね?だって、見るものじゃないもの。聴くものだもの。」 豪ちゃんはそう言うと、大きくすくったパフェをパクリと食べて悶絶した。 …耳なら大丈夫…か。 あの子が不意に言った言葉を拾って確かめると、首を横に振る先生を見つめた。 「耳もダメ。手もダメ。五感の全てが、主観なんて言う形の無いものでコロッと現実を見なくなる。心までもね…?」 「では、どうしたら良いの…?」 ウエハースを手に取ってそう言うと、先生のチョコパフェのグラスにコロンと入れて、豪ちゃんが言った。 「…これ…あげるよ?好きなんでしょ?」 「ふふっ!」 吹き出して笑うと、先生はあの子が入れたウエハースを指でつまんでかじりながら言った。 「そうだな…主観に支配されてしまったら…どうすれば良いのかな…」 気のせいかな… さっきから、この2人の話している会話に…引っかかりを感じるんだ…。 まるで…俺の事を話しているような内容に…ため息が出るんだ。 奥さんに遊ばれていると分かっていたのに…現実を見ずに…主観的になった。”愛“だなんて言葉に逃げて、自分を無理やり納得させて…暴走した…。その結果…どうして良いのか分からなくなって、落ちる所まで落ちて…最後まで進むしかなくなったんだ。 それを…この子が引き返せと、もう、自分を苦しめるな、と…引き留めてくれた。 そんな“優しい愛”で包み込まれた俺は、自分の持っている“愛”が、偽物だと認めざるを得なくなったんだ… 「…主観が…ぐうの音も出なくなるような現実を…目の前に、叩きつければ良いんですよ。そうすれば…主観で誤魔化した偶像はボロボロと化けの皮を剥がして…現実を見せてくれる…。否が応でもね…」 堪らずそう言って項垂れると、先生は肩をすくめて豪ちゃんに言った。 「…だってさ。」 そんな言葉にあの子は先生を見つめると首を傾げながら言った。 「よく分かんない。でも、チョコレートパフェはすっごくおいしくって、すっごく特別に感じる事は分かった。これが、主観なら…豪ちゃんは主観に支配されても良いよ?でも、もっと美味しい千疋屋のフルーツパフェを食べたら、このチョコパフェも霞んで見えるなんて…それはある意味、残酷だね?」 「あ~はっはっはっは!」 店内が驚くくらい、聞いた事も無い様な大笑いをすると、先生は嬉しそうに目じりを下げて言った。 「…豪ちゃんのくれたウエハースが、とっても美味しかった。」 「それは主観?だって、先生が先に食べたウエハースと同じ物だもの。豪ちゃんから貰ったものが、それよりも美味しい訳じゃない。豪ちゃんに貰ったから、美味しいって感じたんだ。つまり…主観だ。」 にっこり微笑んだ豪ちゃんがそう言うと、クスクス笑って先生が言った。 「じゃあ…違うお店のウエハースの方が美味しいって言ったら…?」 「それは主観と現実…つまり、事実が混在してるね。だって、豪ちゃんはそのウエハースを食べていないんだもの。先生しか知らないでしょ?じゃあ…本当かどうか分からない。先生の主観なのか…それとも、本当に美味しいウエハースなのか…豪ちゃんには分からない。」 豪ちゃんは賢そうにそう言うと、口を尖らせながら先生に首を傾げて見せた… 「はは…確かにそうだ!」 満足そうにそう言った先生は、豪ちゃんを見つめてうっとりと瞳を色付けた。 難解だな… こんな屁理屈の様な…哲学の様な、とんちにもとれる、不毛なやり取りを…目の前のふたりは楽しそうに繰り広げている… 気が合うのか…?何なのか…? 初対面にも関わらず、どちらとも楽しそうに話し続ける様子に…首を傾げるばかりだ。 すっかり楽しくなった先生は、前のめりになるとケラケラ笑いながら豪ちゃんに聞いた。 「じゃあさ…豪ちゃんは、好きな人のおならと、嫌いな人のおなら、どっちが臭いの?」 は…? 何言ってんだ…こいつ… そんな先生を見つめると、豪ちゃんは、ため息を吐きながら先生の鼻をツンツンと叩いて言った。 「ふふ!先生はお馬鹿さん。そんなもの、食べた物によるし、体調にもよるんだよ?豪ちゃんが、まんまと嫌いな人のおならの方が臭~い!って言うと思ったの?ふふ!お馬鹿さん…!」 お、お馬鹿さん… 確かに馬鹿みたいな質問をしたけど…一応、この人は…偉い人だ。 叩き上げの精鋭バイオリニスト。海外のオーケストラで何年もコンマスを勤め上げ、独特で情熱的なソロで名を馳せ、人材育成にも力を入れた活動をしている。海外と日本を行ったり来たりして、音楽活動にいそしみながら作曲活動もして、今に至る… 俺にとったら…雲の上のような人だ… 「あ~はっはっはっは!!腹痛い!」 あの子の答えに悶絶を打ちながら大笑いすると、先生はやっと俺を見て言った。 「この子は、変な子!」 あぁ… そうだ。 この子は変わってて、可愛くて…意味深だ。 鼻でため息を吐くと、自然と口角が上がって…あの子を見つめて微笑んで言った。 「豪ちゃんです…。俺の主観をボロボロにした…ぐうの音の出ない現実。それがこの子です。」 そんな様子を見ると、木原先生は同じ様にため息をついて、豪ちゃんがチョコパフェを食べて体を揺らす様子を眺めた… 「驕っていました…申し訳ありませんでした。」 一言、先生にそう言って深々と頭を下げると、豪ちゃんを見つめ続ける先生から視線を外して、あの子に紙ナプキンを渡した。 だって…口元がチョコだらけになってるんだ… うっかり舐め舐めしちゃうところだ。 「豪ちゃん…バイオリンを聴いた事がある?」 チョコパフェを食べ終えた豪ちゃんの顔を覗き込むと、木原先生はそう言って尋ねた。 「…バイオリン?ないよ。どんな音色?」 あの子はすっかり先生に懐いた様子で、ケラケラと可愛く笑いかけた。 「そうだね…聴かせてあげるから、ちょっと一緒においで?」 …な、なんだと! これは楽器をやってる奴の常とう手段だ。 “聴かせてあげる”や、“弾いてあげる”は…すなわち、お持ち帰りしたいって事だ。 なんて先生だ! 妻を寝取られたからって…! 俺の…可愛い豪ちゃんを、狙うなんてっ!! 「いや…どうかな、豪ちゃんは…どうかな…」 しきりに瞬きをしながら首をカクカク傾げてそう言うと、不思議そうに俺を見つめる先生に言った。 「いやぁ…豪ちゃんは男の子だし、趣味があるにしても…どうかな?ん、どうかな?」 「誰かと一緒にするなよ!私はそんなつもりで言ったんじゃない!」 顔を歪めてそう言うと、俺にジト目を向けながら首を横に振って…先生は、嫌悪感をあらわにした。 良いんだ。こんな視線、慣れてる。 「わ~い!バイオリン!帰ったらみんなに自慢しよ~う!」 豪ちゃん…それを見栄って言うんだ。 そして、俺はそれで身を滅ぼした… 体を揺らして喜ぶ豪ちゃんに微笑みかけると、先生はジト目を俺に向けながら席を立った。そして、連れて来られたのは、施設内…数ある中の“小ホール”と呼ばれる、名前の通りの小さなホール。習い事の発表会や…小規模のコンサートなどに使われるような所… 舞台の上には一人のバイオリニストが立っていて、先生の登場に満面の笑みを見せて言った。 「木原先生…」 その一言だけで十分に分かった… 彼女の表情も、口から出す声も…甘い色を付けた言葉も…全て彼にだけ捧げてる。 つまり、彼女は先生に特別な感情を抱いてる… 「やあ…どうかな?」 どうかな…? 男ってやつは格好つけるとき、やけに洒落た物言いをするもんだ。 やあ、どうかな?…こんな感じにね。 という事は、すなわち…先生も彼女の好意に対して、まんざらじゃないって事だ。 おい、良いのかよ… 俺はあんたの奥さんを寝取った男で、そんな奴に…自分の浮気相手候補を見せるのって、どうなんだよ… 豪ちゃんと手を繋ぎながら彼女の元に向かう先生の後ろを何も言わないで付いていくと、背後の俺に気が付いた彼女は表情を固めて言った。 「あぁ…あなたは…」 「森山君だよ。私の…弟子みたいな子だった。」 「えぇ、存じてます…」 弟子…みたいな子…だった。 そんな先生の過去形に内心しょんぼりすると、それでも拒絶されていない現実にほっと胸をなでおろして、目の前の彼女にぺこりと頭を下げて挨拶をした。 「初めまして…森山です…」 俺なんて目に入っていないのか、バイオリンを手に持った彼女は先生を見つめたまま、うっとりと微笑み続けていた。 「日村君…バイオリンで、何か聴かせてくれないかい…?そうだな、豪ちゃん…何が聴いてみたい?」 すっかり豪ちゃんにデレデレになった先生はそう言うと、手を繋いだ先のあの子を見つめて首を傾げた。 「…え、えっとぉ…“愛の挨拶”…?」 豪ちゃんはドギマギしながらそう言って、ステージの下から見上げる俺を見下ろして、首を傾げて見せた。 あぁ、そうか… あの子が答えられる曲名なんて…俺が教えた”愛の挨拶“くらいしかないのか… 「へぇ…“愛の挨拶”ね。日村君、弾いてくれないかい?」 「えぇ…」 怪訝な表情をしながら頷くと、日村と呼ばれる女性はバイオリンを構えて弓を引いた。 「わぁ…!」 ホールいっぱいに響くバイオリンの音色を体中に受けた豪ちゃんは、体を震わせながら笑顔になった。 そうだね…とっても美しい音色を出す。 特に…彼女の出す音は、とっても…綺麗だ。 透明感と繊細さが混在して…彼女本人がそうである事を証明するみたいに、綺麗だ。 華奢な体格…男受けしそうな顔、従順な瞳に…黒髪のストレートヘアー… 不思議だよね…楽器の音色なんてどれも同じに聴こえるのに、奏者によって弾き方以前に…音色が違うんだ。 これは、主観じゃない… 本当にそうなんだ。 だからこそ、素晴らしい演奏者は際立っていく… 飛びぬけて、目立って、輝くんだ。 「素晴らしい…!」 彼女が弾き終えた瞬間、そう言って拍手を送ると、先生は自慢げに豪ちゃんを見つめて言った。 「…どうだった?」 「…え?」 え? 急に話を振られた豪ちゃんは、きょとんと丸い目を点にするともじもじしながら言った。 「…音楽の事は分からない…。でも、惺山の弾く“愛の挨拶”と、同じ曲とは思えなかった。全然違う…。…鋭くて…胸が痛くなった。」 …鋭い? 透明感のある音色が、そう思わせたのかな… 豪ちゃんの感想を聞くと、日村さんは伏し目がちに顔を俯かせて…先生はじっとあの子を見つめた。そして、そっと頭を撫でると、瞳を細めて、感嘆の声を出して言った。 「良い…感性を持ってる。」 どうした事か…俺の付き添いで来た筈の豪ちゃんが、先生のお気に入りになった。 あんなラフな格好をして日焼けをしてるからそうは見えないが…あれが日焼けもしてない真っ白な姿で…シャツなんて着た日にゃあ…まるで先生の危ない寵児の様に…映らなくもない…お洒落なベリーショートはあの子の可愛い顔を際立たせて、フランスのシャンゼリゼ通りを歩いていたって、おかしくないくらい可愛いんだ。 現に、先生は豪ちゃんを見つめる視線に怪しい色を付け始めてる。 俺と同じ…危ない橋を渡って行きそうな勢いだ。 俺や日村さんの事など目にも入らない様子で客席の端っこを陣取ると、渡辺先生は豪ちゃんを隣に座らせておしゃべりを始めた。 「今度、オーケストラを聴かせてあげる…ひとりで来れる?」 そんな言葉を彼らの真後ろの席に座りながら聞くと、豪ちゃんはニッコリと微笑みながら聞き返して言った。 「それってどんな曲なの?」 「ふふ…違う。曲は別にあって…オーケストラっていうのは…沢山の楽器を持った…楽団の事だよ。」 後ろからは表情まで見えない。 …でも、豪ちゃんに語り掛けるその声色は、優しくて…まるで、まるで、 まるで誘っている様にすら聞こえる…! やっぱり! さっき、あんな風に否定していた癖に! 先生に限って、ロリコンのゲイ…じゃないだろう? それに、あの女性にだって…良い顔をしていたじゃないか! やあ、どうかな?やあ、どうかな?って…格好つけてたじゃないか!! 疑念を払しょくする為に、前に座った二人の会話に聞き耳を立てると、おもむろに先生が豪ちゃんの手を取って言った。 「先生が指揮するコンサートがあるんだ…豪ちゃんが来てくれたら嬉しいな…」 は…? 「ん、でも…豪ちゃんは、ジョボビッチ達に餌をあげないといけないし…兄ちゃんのお米も炊かないといけないし…それに、今、惺山の住んでる家の庭でスイカを育ててるから…遠くまで行けない。」 しょんぼりした顔でそう言うと、豪ちゃんは先生の手を撫でながら言った。 「先生が豪ちゃんの所に来て?」 ぷぷっ! 「ふふ…あっはっは!そうだね。そうしようか…!ふふっ!この子は…面白い…!」 盛大にフラれたのに、先生は強がってそう言うと、背後の俺を振り返って言った。 「この子は、面白い…まるで、囚われない。見栄っ張りで、すぐに驕り昂ぶる…お前の様な男の傍で、現実を突きつけながら軌道修正してくれるんだとしたら、良い相棒だ。…正直、妻の事は持て余している。今回の事、ある意味…飛び火みたいなもんだとも思ってる。しかし、周りはそうは思わないだろう…。それこそ…そんな周りの目をがらりと変えてしまう様な…現実を突きつけて、返り咲くのも悪くない。」 昔の様に、穏やかにそう話す先生を見つめると、込み上げる嗚咽を抑えられずに頭を下げて言った。 「せ…先生…!申し訳ありませんでした…!!全て、私の…驕りでした…!!」 若い頃…コネの無い営業周りなんて上手くいかなくて、日中はスタジオのアルバイトをして生活を繋いでいた… すべて、作曲家になる事だけを夢見て…必死にしがみ付いてたんだ。 そんな、俺を救ってくれたのが…この人なんだ。 「何を書いてるの…?」 レコーディングに入る先生が、そう言って俺の書いていた五線譜を覗いて見た。 「…下らない、ソナタを…」 有名な先生だと知っていた…だから、鼻で笑われると覚悟して、そう言った。 先生は俺の楽譜を手に取ると、譜読みしながら言った… 「下らなくない…主題がとっても素敵じゃないか…」 その時の感動と言ったらない… 箸にも棒にも引っかからない自分は、きっと世の中に必要とされていない音ばかり作ってるんだと…半分投げやりになっていたから… 褒められて…とっても…嬉しかったんだ。 それからというもの…先生はスタジオに入るたびに俺に挨拶をくれる様になって…俺が五線譜を手に持っている時は、必ず目を通してくれた… 名前を覚えてくれて…作曲のイロハを簡単に教えてくれて…音楽の持論や哲学を教えてくれた。 「惺山…私の仕事をひとつ、手伝ってみるか?」 …そう言って、俺の手を握って、泥沼から引っ張り上げてくれたのが… この人だったんだ… 歪んだ瞳が小刻みに震えて…溢れる涙が足元にぼたぼたと落ちていく… なんて事をしてしまったのだろう… 後悔なんて言葉じゃすまされない。 だって…俺は先生の信頼を裏切って…恩を仇で返して、顔に泥を塗った! 驕り昂ぶって…不義理を働いたんだ。 「…許すとは言わない。ただ、これ以上責める気はない。それで手打ちだ…」 先生は短くそう言うと、隣に座った豪ちゃんのタンクトップから覗く肩を撫でて言った。 「他には何て名前の鶏が居るの…?」 「え?…えっと、まずは世代から説明するね?第一世代がモー娘。グループで…第二世代がAKBグループ…。で、ここに来て…第三世代が個性が強すぎてまとまらなくて…グループになってない。全員で20匹は居るんだ。」 「そんなに?!」 「ふふ…そうだよ?みんな豪ちゃんがお世話してる。普通の鶏が…15匹と、烏骨鶏が5匹。ねえ、凄いでしょ?」 溢れて止まらない涙を拭うと、そんなどうでも良い会話に花を咲かせる二人の後ろで、鼻をすすった。 俺がやった事は消せない… でも、許してもらえなくても、こうして…話をする事が出来て、良かった。 例え、これから発表する作品が弾かれたとしても…先生が関わってるなんて、疑心暗鬼になる事が無くなっただけで…心が晴れた。 豪ちゃんに背中を押してもらえなかったら…俺は自暴自棄になったまま、先の暗い未来しか見られなかっただろう。自殺…なんて、頭の隅にもなかったけれど、今となっては分からないよ。 だって…この清々しさを感じたら、あの時の自分を思い出すだけで、恐ろしくなって来るんだ。 もう…俺は、終わりだ… そんなフレーズばかり頭の中をめぐって、項垂れたまま…作曲を続けて…どうせ新しい曲を発表しても…叩き潰されるんだって思い込んでいたんだから。 「…そろそろ、コンサートのお客さんが入ってくる。豪ちゃんも聴いていくかい?」 「ううん…兄ちゃんが心配するから、帰る。」 ことごとくフラれ続ける渡辺先生を見つめてクスリと笑うと、あの子が先生に耳打ちした姿を横目に、席を立った。 何を言ったのかな… 先生は、豪ちゃんを驚いた顔で見つめると…瞳を細めて微笑んで、頷いた… それは、少し悲しげで…少し諦めにも似た表情だ。 小ホールを出ると、外には入場を待つお客さんの列がパラパラと出来ていた。壁には日村さんのポスターが貼ってあって…リサイタルの文字が書いてあった。 彼女は先生の、愛人…なのかな。 だから、先生の公演前の数日…ソロリサイタルなんて開けるのかな…? そんな無粋な邪推をしていると、豪ちゃんと手を繋いだ先生が言った。 「この子は、君が言った通り…主観をボロボロにして現実を突き付ける子だ。お陰で目が覚めたよ。…ふふ。」 先生はそう言うと、豪ちゃんの手の甲にチュッとキスをして言った。 「豪ちゃん、大好き!」 「えっへへぇ~!」 なんなんだ… 嬉しそうにキャッキャと笑う豪ちゃんを、瞳を細めて見つめる先生…そんな意味不明な目の前の光景を目の当たりにして、首を傾げる。 …いったい、いつ、先生の主観が崩れたんだ… 豪ちゃんの頭をナデナデしながら、先生が首を傾げ続ける俺を見て言った。 「…惺山、次に発表する物を…心待ちにしてるよ…」 あぁ… そんな嬉しい言葉を貰うと、再び涙腺が緩くなって、堪らず頭を下げて言った。 「…はい…!」 「先生、今度…千疋屋に連れてってね?」 豪ちゃんはいつもと変わらずそう言うと、ケラケラ笑う先生に手を振った。 夕方の軽井沢…沈みかけた太陽は最後の力を振り絞って西日で俺の背中を熱くした。 「惺山?良かったね…?先生はとっても良い人だったぁ…!」 ケラケラ笑う豪ちゃんを見つめて眉を下げながら、ブンブン振られるあの子の手を取って、にっこりと微笑みかけた。 「…そうだね。豪ちゃんが居てくれて、良かった…」 この子がいなかったら…あんな風に先生と話す事なんて、二度と出来なかったかもしれない。 …人生は分かれ道、なんて言うけど…本当にそうだ。 あの時、俺がこの子をタクシーに乗せなかったら…こんな未来にはならなかった。 その事を、怖いなんて思わないさ… だって、人は多かれ少なかれ選択を迫られながら生きてる。 俺だけじゃない。 むしろ…俺はこの子に助けられている分…ハズレを引く機会が減っているんだ。 …馬鹿な俺が、この子の言う事を…素直に聞いている限りはね… 「豪ちゃん…帰りは車で帰るよ…。」 そう言ってあの子の手を引きながらやって来たのは、中古車の販売店…移動にいちいちタクシーを使う事の不便さを解消したいんだよ。 「どの車にしようっかな~…」 動けば良い… そんな気楽な気持ちで中古車を眺めていると、不思議そうな顔をして豪ちゃんが言った。 「惺山はお金持ちなの?」 は!? お金なんてない! でも…なけなしの貯金で買うんだ… 肩をすくめてあの子を見下ろすと、口を尖らせて言った。 「お金なんてね、ないよ。でも、そんなに高くない車なら買える。」 そんな俺の様子に、あの子は首を傾げると突っ込んで聞いて来た。 「いくら?いくらまでなら買えるの?」 ん~~、どうしたものか。 まるで懐事情を知られるようで、答えたくないな… 「…30万…までなら…」 「分かった~~!」 苦々しい顔をしてそう答えると、豪ちゃんはウキウキしながら車を探し始める。 本当は20万以内で買えれば御の字なんだけど…見栄を張って30万と言った… 見栄… 「せいざ~ん!この車、20万円だよ?」 遠くの方で豪ちゃんが大声を出して、俺に現実を突きつけてる… はぁ… まるで、見透かされてるみたいだ。 肩を落としてため息をつくと、所狭しと並べられた車の間を、豪ちゃんがしきりに飛び跳ねる方へと抜けて進んでいく。 「どれどれ…あぁ、こんな感じで良いじゃないの…荷物も積めそうだし。」 20万円だし… 「20万円だし…」 豪ちゃんの目を見て見栄を捨ててそう言うと、あの子は首を傾げながら言った。 「…惺山、これにする?」 「うん…これにする。」 それは中古のジムニー 走行距離の問題か…綺麗なのに破格に安かった。 事故車かな… 田舎のイキった販売員に声をかけると、さっそく値切りの交渉を開始する。 恥ずかしい…?いいや、これは慣例だよ? 「18万だったら、乗って帰るんだけどなぁ…?」 「…え、マジっすか?じゃ、18で良いっすよ?」 なんと! さらに安くなった!! 俺と販売員のやり取りを眺めていた豪ちゃんは、飽きたのか…他の車の内装を順々に見て回り始めた。 「そんな…簡単に値下げして…事故車じゃないだろうね…?」 怪訝な表情でそう聞くと、田舎の販売員は細い眉を上げて言った。 「カスタマイズしたせいか、燃費が悪りぃんで…足として使うんだったら問題ないんスけど、仕事で使うとなると金かかるっス。大体~、会社から補助の出る足代って決まってっから~、結構みんなシビアっス。」 はぁ…なるほどね… ここいらは都会と違って車も仕事には必要なんだ。それで、会社から降りる交通費…ガソリン代に収まる様な車を探しやすい…と言う訳か。 「じゃあ…これにするよ。18万円で、お願いします。」 「まいど!」 簡単すぎる中古車購入を済ませると、ウキウキ顔の豪ちゃんを助手席に乗せた。 「やっと…足が出来た…」 エンジンをかけてポツリとそう言うと、豪ちゃんは車の中をあちこち触りながら言った。 「てっちゃんのお父さんの車よりボロだね?」 …余計な事を言うんじゃないよ。 「良いんだよ、動けば。」 口を尖らせてそう言うと、販売員が見送る中ライトを点灯させて車を発進した。 「てっちゃんのお父さんの車はね、自動でライトが付くんだよ?」 俺の手元を見ながらそう言うから、大事な事をあの子に教えてあげる。 「豪ちゃん?もし、ライトに集まって来るゾンビが居たら、哲郎の親父の車は間違いなく襲われるよ?逆に、俺の車は自分でライトの点灯が出来るから、ゾンビに気付かれずに、あいつらをひきながら先を進む事が出来る。どっちが良い?」 「惺山の方が良い!」 ”ゾンビ“なんて言ったから…あの子は目を丸くして、ビビってそう言った。 大人気なくなんて無いさ。可能性の話だもの。 制限速度40キロの山道を、60キロで走って進む。 田舎の山道のせいかな… 所々にラブホテルがあって、ついつい寄って行きたくなっちゃうんだ。 そんな乙女心をひた隠しにして助手席のあの子を見ると、暗い夜道を楽しそうに眺めている背中に声をかけた。 「…何か見えるの?」 「ねえ?ピンクゴジラって…なんだろうね?」 それは…多分、ラブホテルの看板のネオンだ。 「さあ…」 そっけなくそう答えると、あの子の膝に脱いだジャケットを置いて言った。 「…寒かったら羽織ってなさい。」 「うん…」 すぐに俺のジャケットを羽織り始めるあの子を横目に見ると、ドキドキしてくる胸を抑えて、じっと前を見据える。 …可愛いんだ。 ブカブカのジャケット着て…所謂、萌え袖になっているあの子が、いと可愛いんだ。 「お腹空いた…」 そんな言葉に口を緩ませると、クスクス笑って言った。 「ごめんな。何も食べてない…。何か買って食べさせれば良かった。」 「良いの…惺山なら、良いの…」 弱々しくそう言った声が気になってチラッと顔を向けると、あの子はシートに体を沈めて瞳を半開きにして俺を見つめていた。うっとりとトロけた様な瞳は可愛いを飛び越えた官能的な雰囲気さえ漂わせている。 は…!! すぐに視線を逸らして前を見た。 止めろよ…そんな顔、興奮してくるだろ…! 通り過ぎてはまた現れる…そんなラブホテルのネオンを抜けて、やっとあの子の村に帰って来た。それは頭の中で何度も葛藤を繰り返す…壮絶な道のりだった… 「ねえ…豪ちゃん、あの時、先生になんて言ったの…?」 妬いてる訳じゃない。 ただ、あの時の先生と豪ちゃんの内緒話が、気になっていたんだ。 そんな俺の問いかけにため息を吐くと、豪ちゃんはシフトレバーに置いた俺の手を撫でて言った。 「…あのバイオリンのお姉さんは、奥さんと同じだって言った…」 え…? あの可憐で、従順で、華奢で、男受けしそうな…大人しそうな彼女が…!? 「まさか!」 信じられないとばかりに、顔を横に振りながらケラケラ笑ってそう言うと、あの子は俺の手をポンポンと叩いて、前を見据えたまま言った。 「それが…先生の言っていた主観だよ。惺山…」 …は?! 晋作の店の前で車を停めて俺の手に置かれたあの子の手を握ると、そっと顔を覗き込んで聞いてみた。 「…どういう事?」 あんな清純そうな女性が…あの雌豹と、同じな訳がないじゃないか。 そんな俺を見上げると、眉を下げながらあの子が言った。 「…先生は迷ってた。あの人の気持ちに応えるべきかどうか…。だから、僕に彼女のバイオリンを聴かせた。鋭くて、痛い、そんな音色に…僕は怖くなった…。だから、先生に言った。彼女も奥さんと同じだよって…あなたの傍にいると得られる特権が欲しいんだって…」 は…? うぶな振りも、清純そうな見た目も、あの色付いた声色も、計算だって事? 「そ、そ、それこそ…客観性を欠いた、豪ちゃんの主観じゃないの…?」 俺の言葉に首を傾げると、あの子は淡々と言い放った。 「客観とは…主観の対義語の様に言われているけど…結局の所、第三者の…誰かの…主観じゃないか。それは、事実じゃない。事実は主観には左右されない。」 「じゃあ…豪ちゃんは、事実を見抜く事が出来るの…?」 詩人の様に、哲学者の様に語ったあの子にそう尋ねると、豪ちゃんは口を尖らせて言った。 「出来る…」 「なぁんでだよ…」 そんな俺の言葉に首を傾げると、豪ちゃんは残念そうに眉を下げながら言った。 「…主観を抜きに物事を見れば良いんだ。あの人は権力者には媚びを売った。でも、惺山には挨拶すらしなかった。それが、答えだよ。」 へ…? た、確かに…挨拶をスルーされたのは…事実だ。 あの子のまん丸の瞳を見つめながら、ぐうの音も出なくなった口を噤んだ。そして、あの時の先生の表情を思い出して…妙に腑に落ちた… 「そ、それで…先生は…なんて言ったの?」 豪ちゃんの髪を撫でながらそう聞くと、あの子は俺を見つめて…首を伸ばしながら言った。 「…分かってるって言ってた。有名になると…そう言う人が周りに来るって、見誤ってばかりいるって…悲しそうに言ってた…」 へえ… でも、そんな事よりも…豪ちゃんが俺に接近してくる事の方が気になって…話が頭に入って来ないよ… あぁ…これは… トロけた瞳を向けて俺の頬に頬ずりすると、豪ちゃんはそのまま顔をずらして行く… ちゅ… 「あぁ…なんだよ。豪ちゃん…」 堪らなくなって両手で抱きしめると、あの子の髪に何度もキスして、形の良い頭をグリグリと撫でた。柔らかくて、すぐに、ぐしゃぐしゃになるあの子の髪を整えながら、トロけて潤んだ瞳を向けるあの子と見つめ合う… この子は…何だかんだ…俺に、触れたがってる… 「惺山…好き…」 あぁ…!ああああ!! 恍惚の表情のあの子を見つめながら心の中で大絶叫をすると、豪ちゃんの家の玄関が開くのが見えて、我に返って体を離した。 でも…繋いだ手はそのまま…離したくなかった。 玄関から漏れる明かりがこちらに迫って来るシルエットを映すと、大きくなった人影が仁王立ちして言った。 「豪!また勝手に遠くまで行って!今、何時だと思ってるんだ!お前はいっつもいっつも…!どうして普通に出来ないんだぁ!」 そんな怒れる兄貴の声にハッと我に返ると、豪ちゃんは俺の手を離してジャケットを脱いだ。そして、まるで後ろめたい事を隠す様に、急いで車から下りた… あぁ… 行っちゃった… 「…兄ちゃん、惺山が車を買ったんだよ?見て?速そうでしょ?」 いつもの調子でそう言うあの子に、鼻息を荒くした兄貴の諦めにも似た呆れた声色が続けて言った。 「…まったく!どこまで行ってたんだ…何してたんだ!」 …おっと、お怒りの様子だ… 助手席の窓を手動で開くと、顔を覗かせて怒れるあの子の兄貴に言った。 「…ごめんね。軽井沢の市民会館まで、知り合いに会いに行っていた…。その帰りに中古車を選ぶのを手伝ってもらっていたら、こんな時間に…。申し訳ない。」 「まったく!」 ぷりぷり怒る兄貴に連れられて自宅に戻るあの子を見送ると、俺に迫って来たあの子の瞳を思い出してフルフルと胸の奥を震わせる… …なんだよ、豪ちゃん… 俺に触りたいなら…いつだって、好きなだけ、触れば良いのに… あぁ…俺がすぐにエロイことを始めるから…嫌なのか。 「はぁ…」 ため息をついて車を出すと、徹の実家に戻って敷地内をパトロールするパリスを轢かない様に車を停めた。 「ココココ…」 「ただいま…パリス、今日は疲れた…」 足元に寄って来る飼い主にそっくりな鶏にそう言うと、玄関を開いて中に入った。 真っ暗な部屋を歩いて進むと、台所の電気をつけて水を飲む… すぐに顔を赤くするあの子が、堪らずキスしたくなるほど…俺の事が好きなんだ。 はぁ…堪らんね… ニヤニヤしながら1人項垂れると、首を横に振りながら鼻歌を歌う。そして、生活のリズムを整えるために風呂にお湯を入れ始めた。 「さてさて…」 両手をモミモミしながらピアノの部屋に向かって、昨日のうちに書いた譜面を読んで、ため息をつく。 「…違うんだよな。」 豪ちゃんをイメージした交響曲を書き始めている。それは一度は練ったけど、途中で俺のラプソディへと形を変えてしまった。頓挫した課題だ…。 あんなに簡単にラプソディを作れたというのに、いざ豪ちゃんの交響曲に手を着けた途端、ブレるんだ… …理由は簡単だ。 これだ!…と思った、あの子のイメージだったり…あの子の雰囲気が、次から次へと覆されていくから主題が定まらないんだ。 昨日書いたこの譜面もそう。今日の出来事の様に…自分からキスをして来る様な、俺に夢中なあの子の姿はない。それらをすべて加味しないと…気が済まないのか、納得しないのか、どうにもこうにも…先に進まないんだ。 「やり直しだ…」 ポツリとそう言うと、ピアノの上に五線譜を置いた。 主題すら作れていない…この状況に、意外にも焦りなんて物は無い。 この環境のせいかな… 都会に居た時の様な…ギラギラしたがっつく感覚が無いんだ。 お茶碗にお米をよそうと、今朝産みたてのパリスの卵を上に落として醤油をかける。 お腹が空いていなくても一日に3食必ず食べる様にして、風呂に入って、夜は寝る…そんな当たり前の生活を、最近やっと送れるようになって来た。 体の健康と引き換えに…ギラギラしたものが失われていくのかな… 不健康なほど、感覚というのは研ぎ澄まされるのかな… ザバババーーー! 「はっ…?!」 湯船のお湯が溢れる音が聞こえて、お茶碗を片手に持ったまま慌てて風呂場へ向かった。 「あ~、またやっちゃった…」 溢れたお湯に足を濡らしながらお湯を止めて、バスマットで足を拭きながら卵かけご飯を食べる。 …豪ちゃん、お腹空いたって言ってたな。 どうして良いタイミングでご飯に連れて行かなかったんだろ…。 ADHDなんて言葉があるけど、最近、自分がそうなんじゃないかって疑い始めてる。あまりにも生きる事に無頓着すぎて、生活がままならないからだ。お腹は空くもの…だけど、意識しないとご飯すらまともに摂ろうとしない。 ただ、ピアノと、五線譜さえあれば…生きてると感じるんだ。 それさえあれば…他は必要ないって、体が言ってるみたいに…無頓着なんだ。 「パリス嬢、ごちそうさまでした~!」 ひとり、ポツリとそう呟くと、流しでお茶碗を洗って水切り籠に置いた。 後は…風呂に入って…寝るだけ。 タスクの様に当たり前の事をこなして、毎日を整えて、あの子を安心させないと…

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