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#7

「コケ~!ココココ…コケ~!ココココ…」 今日も威勢の良いパリスの鳴き声で目覚めた… 彼女はいつも元気だ。 ふと、胸に抱き付いたあの子を見下ろす。 長いまつげを湿らせて…鼻の頭に…乾ききっていない涙を見つけて、胸が締め付けられた。 泣いていたの…?豪ちゃん。 この子は…どうして俺が好きになったのかな。 父親に似た、髪形をしているからかな… 「豪ちゃん…惺山は、お父さんに似てるの…?」 小さい声でそう尋ねて、鼻の頭の涙を指先で撫でながら拭った。 …答えなんて求めていない。 ただ、そうだったら嫌だなって…ちょっとだけ思った。 ぐっすり眠るあの子をそのままにして、思った通り…筋肉痛になった体に鞭を打って布団から起き上がる。 はぁ…おじいちゃんの様だ… 「イタタタ…パリス…おはよう。」 ピアノの部屋、窓の向こうの鶏にそう言うと、おもむろにピアノに座って弾き始めたのは”雨だれの前奏曲“…昨日、鼻歌で歌った曲だ。 雨はすっかり止んで、窓から見える緑の葉は生き生きと水分を蓄えて輝いている。昨日の大雨が嘘みたいに、穏やかで…さわやかな朝だ。 でも…昨日、もしかしたら…あの子が死んでいたかもしれない。 そう思うと、未だに恐怖に胸が苦しくなるんだ。 …怖かった。 そんな言葉では、俺の心は落ち着きそうにもなくて…この曲を弾いて、胸に響かせて落ち着かせてる。 ぽたぽたと…滴って落ちる雨だれを思い描きながら…指先を鍵盤に乗せて弾くんだ。 雷が鳴って…強い雨が降って…不安な情景も一緒に再現して、最後に主題に戻って…穏やかな晴れ間を覗かせる空に、残りかすの様な雨だれが最後に落ちて地面に蓄えた水たまりに波紋が広がる様を…情景に思い浮かべて…弾き終える。 「はぁ…」 鍵盤に指を置いたまま、深いため息と一緒に項垂れた。 …あの子は生きてる。 助かったんだ… もう、怖がらなくて良いんだ… コンコン… パリスにしては鈍いノックの音に振り返ると、そこにはあの子の兄貴が立っていた… 早朝に町から帰って来たばかりなのか、ヨレヨレの格好をしていて、憔悴しきった表情に、あの子のあの件を聞いたんだと…すぐに分かった。 「おはようございます。哲郎の家に行ったら、豪はここに行ったって言うんで、来ました。昨日は、大雨で大変な事になったみたいで…兄貴なのに、家にも帰らないで…色々すみませんでした…!」 窓を開いた俺に、豪ちゃんの兄貴はすぐにそう言って頭を下げた。 …18歳なのに、しっかりしてる… 「ねえ…俺って、君たちの親父に似てるの…?」 ふと、そんな事を唐突に聞くと、豪ちゃんの兄貴は怪訝な顔をして言った。 「いいえ…全然…」 はは! 嫌だな!めっちゃ恥ずかしい!! 「…ふふ、そうなんだ。だって、豪ちゃんが、俺の髪形を、お父さんに似てるって言うから、てっきり…あの子はそう言う理由で、俺に付き纏ってるのかと思ってさ…」 恥ずかしさを隠す様に…オーバーに体を揺らして取り繕う様にそう言ったら、豪ちゃんの兄貴は、困った様に眉を下げて言った。 「確かに…髪が長かったのはその通りです。でも、あなたとは、ちょっと違う。リンゴ・スターに憧れてる様な髪形です。」 あぁ…なるほど。 そっち系か… 嫌だな。キモイじゃん…もみあげとくっ付いた、おちんこカットだぞ… 何度も頷きながら顔を歪めて、豪ちゃんの兄貴を見つめた。 おちんこカットだぞ…? 「今度…髪、切ってよ。」 「え…良いですけど…」 嫌な事を忘れる様に髪をかき上げて、何も話さない兄貴と見つめ合うと、ふと、昨日の事を思い出して、首を横に振りながら言った。 「昨日の話、聞いた?哲郎がさ…豪ちゃんを濁流から引っ張り上げて、ずっと流れに揉まれながら、気を失ったあの子を守ったんだよ。あいつは大したもんだ…!感心したよ。」 そんな俺の言葉に瞳を潤ませた豪ちゃんの兄貴は、涙混じりの声を震わせながら俺を見つめて言った。 「…本当に、あいつが居てくれて…良かった!!今朝、哲郎の家でその話を聞いた時…心臓が止まるかと思ったんです…。まさか、あの時…そんな事があったなんて…!俺は、何も知らないまま…豪を失っていたかもしれない。そう…そう思うと…怖くて怖くて、震えが止まらないんです…!」 あぁ…分かるよ、その気持ち… 顔を歪めて涙を落とす豪ちゃんの兄貴の肩を叩くと、何も言わずに何度も頷いた。 「…母が死んで…父が消えて…周りの大人に、助けて貰いながら生きて来ました。やっと…自分たちだけで生活出来る様になったのに…。こんな事で、あいつまで失ったらって思うと…。本当に、ひとりぼっちに、なっちゃったらって思うと…堪らない。」 豪ちゃんの兄貴はしっかり者で、町の美容室で下働きをしてる。 でも…まだ、18歳だ。 俺が音大生だった、同い年の時よりも、背負ってる物が…違う。 「…大丈夫。もう、大丈夫だ…!」 丸まった背中を叩いてそう言う俺に、豪ちゃんの兄貴はクスクス笑いながら言った。 「…濁流の中、あいつを助けに行ってくれたんでしょ…?ありがとうございます…。はぁ…俺たち兄弟は、つくづく…人に恵まれてる!」 そう言った、溢れて流れる涙がそのままの瞳は…朝日に輝いて美しく見えた。恵まれている…そんな風に、感謝出来るなんて…良い子じゃないか。 「兄ちゃん…?」 いつの間にか起きた豪ちゃんは、まだ開ききらない目で兄貴を見つめて、ウルウルと潤んだ瞳から涙を落した。 「…豪!!」 堪らず部屋に上がってあの子を抱きしめた豪ちゃんの兄貴は、背中を丸めながら、派手に寝ぐせの付いたあの子の頭を何度も何度も優しく撫でた。 そんな光景に…思わず涙を落とすと、あの子の手が伸びて来て、ヒシっと俺のズボンを掴んだ。 まったく… この子は、こんな時も俺の心配ばかりする… そんな豪ちゃんの様子に呆れた顔をして、あの子の兄貴は俺を見て言った。 「…はぁ、やれやれだ…」 本当…分かるよ。その気持ち… 「惺山…またね。」 そう言って兄貴と帰って行くあの子を見送って、縁側の雨戸を開いて部屋の中に朝日を送り込む。 目の前で死ぬ場面を見て何も出来なかったと、後悔するのと… 知らない所で死んだ事を知って何も知らなったと、後悔するのと… どちらが辛いのだろう… どちらも大切な人を失う事に変わりなんて無いのに…どちらが、悲しくないのか…考えてしまうんだ。 あの子の目の前で死んだ方が良いのか…それとも、知らない所で死んだ方が良いのか…どちらが、悲しくないのか分かったら、俺は迷う事無くそちらを選択するのに。 「はぁ…」 ため息を吐いて視線を上げると、庭先をパトロールし始めたパリスを見つめた。 …毎日、毎日、パリスは庭の草をついばんで…飽きないのかな。 そんなどうでも良い事を考えて暗い気持ちを振り払ったら、胸の奥に清々しい朝の綺麗な空気を届けて、パリスに言った。 「パリス…スイカの芽は食べちゃダメだぞ?」 相手は鶏だ。 言葉なんて通じないさ。 …でも、なんでかな。 パリスが、分かった。なんて…返事をした様な気になって来るんだ。 炊き立てのお米にパリスの卵と醤油を数滴たらして、縁側でご飯を食べる。 穏やかな朝だ…今日も卵が美味しい… 人間も…光合成をするのかもしれない。 だって、毎日、太陽を浴びる様になってから、やさぐれて刺々した気持ちが、穏やかに丸みを帯びて来た気がするんだ。 …ふふ、ポエムみたいだ。 あたしの心の葉緑体が…ビンビンだよ…だって、人間だもの…ヒロシ。 …なんつって…なんつって… 「コ・コ・ココココ…!」 縁側で足を揺らしながら不気味に乙女心を噛み締めていると、目の前を凄い速さでパリスが駆け抜けて行く…! あぁ…元気だな。 「ぶほっ!」 そんな大慌ての彼女のすぐ後ろを、巨大な青大将が地面をうねりながら追いかけて行く様子に、米を吹き出しながら縁側に仁王立ちして、ただ…呆然とした… パリス嬢が…捕食されようとしている… 「あ…た、大変だぁ!」 我に返ってパリスを抱き抱えると、大慌てで縁側の上に避難して、そっと…足元を見下ろした。口惜しそうに長い舌を出したり入れたりさせながら、縁側の下へと身を隠す青大将を見送って、体を震わせながらパリスに言った。 「危険だな…しばらく、ここに居なさい。」 興奮したのか…パリスはバサバサと羽音を立ててひとしきり暴れた後、ピタリと動きを止めて、何事も無かった様に…畳をついばみ始めた。 …これが、鳥頭ってやつなのか…?切り替えが、異常に早い。 しかし…再び庭に下ろすのは、危険だ。 「てっちゃん、俺も助けて…」 ポツリとそう呟くと、身支度を整えて、パリスを抱っこした。そして、豪ちゃんがくれた麦わら帽子をかぶって哲郎の家へと足早に向かった。 あんな蛇…シティーボーイの俺では太刀打ち出来ない… だって、怖いんだもん。 縋る様な乙女心をひた隠しにして平気な顔をしながら、15歳の少年に助けを求めに行くんだ… 快晴の青空は、早朝のせいか…まだジメッとした湿気を纏っていない。爽やかに頬を撫でていく風に気持ち良く顔を伸ばして、胸の中に抱えたパリスを見下ろして言った。 「良い天気だね…?」 「コケ…」 俺を見上げる感情の読めない目をした鶏が、そうだね…だなんて、返事をした気がするのは…俺の気のせい。 …きっと、豪ちゃんの影響を受けてるんだ。 あの子の優しい感受性に触れて、感じて、まるで…同じ様に感じる様になっているんだ。そして、それは…とっても嬉しい変化だ。 誰よりも良い物を…あいつよりも俺の方が…他人が称賛する様な物を… そんなギラギラした虚栄心に振り回されずに、心穏やかに過ごせるんだもの。 人は人…自分は自分…なんて言葉が、最近になって…意味を伴って分かる様になって来た。あぁ…こう言う事なんだって、スンと理解出来る様になって来た。あるがままでいられる事の心地良さを知ったから、そんな風に無駄に飾る事が虚しくて馬鹿らしく思えたんだ。 晋作の店の前をトボトボと歩いて進んで行く。すると、右手に立派な鬼瓦を携えたお屋敷が見えて来た。 「あぁ、立派な家だな…。植木屋で働いてるんじゃなくて…あいつの家が植木屋なのか。」 敷地を囲う様にそびえる垣根が、どの場所も均等に美しく借り揃えられた様子に感心すると、玄関前の立派な松を見上げて感嘆の声を上げる。 「わぁ…」 まるで、でかい盆栽を置いた様な枝のうねりと、幹の太さだ… …まさに植木屋の家だ! 造園会社の名前が入ったトラックを横目に玄関へ向かって、呼び鈴を押した。 「武家のお屋敷の様だな…」 首をしきりに動かすパリスにそう言うと、彼女は喉の奥で、コッと小さく言って頷いた。 「はい~。」 そう言って玄関を開いたのは、気の強そうな中年女性だった…。快活で豪快…”女将“なんて言葉がしっくりくる。そんな雰囲気を纏っている。 …きっと、哲郎の母親だ。 突然の訪問者に驚いた様に目を丸くする女将に、ペコリと一礼して言った。 「突然すみません。あの…庭に、青大将が出て…」 伏し目がちにもじもじと体を揺らす俺を見て、女将がゲラゲラと大笑いしながら言った。 「あ~!どこの色男かと思ったら!豪ちゃんの!あ~はっはっは!何?青大将?そんなの首の所掴んで持ち上げたら良いのよっ!はっはっは!じゃあ…母ちゃんが行って捕まえてあげようか?あ~はっはっは!」 …軟弱なシティーボーイぶりを大笑いされた。 屈辱だ…!! 「あ…おっさん。」 丁度その時、哲郎が玄関前を通って…母親に馬鹿にされ続ける俺を見て足を止めた。剥き出しの上半身に申し訳程度のタオルを首から下げたあいつは、歯磨きをしながら、気の毒そうな目で俺を見つめて来る… そんな彼の腹筋は、見事に6つに分かれていた。 好きで見ている訳じゃない。見えたんだ… 「豪ちゃんは…?」 哲郎は怪訝な顔でそう言うと、俺の後ろを眺めて豪ちゃんを目で探した。 「豪ちゃんは、朝早くに兄貴と一緒に家に帰った。それより、庭をこんな大きな蛇がうろついてるんだ。今朝、パリスが追いかけられて…食べられかけた!」 年甲斐もなく、目を見開いて、必死に哲郎に報告する俺を見て、女将がゲラゲラ笑って言った。 「哲!行ってやんな!はぁはぁ…腹痛い…大の大人が…あ、青大将がぁ~って、へっへっへっへ…こりゃ、父ちゃんにも教えてやらねば!」 あぁ…こんな家庭で育ったら…俺も哲郎みたいに15歳で腹筋が6つに割れる良い体の、強くて逞しい男になれたんだろうか… 「はぁ…ちょっと待ってて。」 ため息をついてそう言うと、哲郎はタオルで髪を乾かしながら、お屋敷の奥へと姿を消して行った。 そんな、あいつは、背中にも…しっかりと筋肉が付いていた。 わがままボディの大吉と違って、彼はナイスバディだった… 表情に出さずに胸の中の動揺を隠すと、自分の胸筋にありったけの力を込めて胸を少しだけ張ってみた… 大丈夫…多分、まだ行ける… 「…ねえ、蛇が、苦手なの?」 桐の良い香りがする玄関先、大人しく哲郎を待つ俺に、ニヤニヤのおさまらない女将がそう聞いて来た。 「いいえ…大きかったので…」 首を傾げてそう言った俺に、両手で口を押えながら涙目になると、グフグフ鼻息を漏らしながら女将が言った。 「ぐふっ!そう。自分の股にも大きな蛇が居るのにね~?」 …セクハラだぁ!! 女将…改め哲郎の母親は、まるで、おどおどする俺をいたぶって楽しんでいる様にご満悦の様子だ…口端を上げて、舐める様な目つきをすると、脅す様に声を低くして言った。 「母ちゃんが…蛇の首を掴んで持ち上げてやろうか…?」 ひぃっ! ポーカーフェイスの俺でも耐えられなかった。怖いって気持ちが、顔に出ちゃった! 引きつった笑顔で視線を逸らして、やたら達筆で書かれた”誉“なんてめでたい掛け軸を、書き順通りに視線でなぞって気持ちを落ち着かせると、再び哲郎の母親を見つめて、苦笑いをしながら言った。 「いえ…はは、結構です…」 「あ~はっはっはっは!!腹痛い~~!」 目の前でゲラゲラと大笑いをする哲郎の母親を視界の隅に捉えながら、哲郎が消えた廊下の奥を凝視して、呪いの様に心の中で祈った。 哲郎…哲郎…哲郎氏…坊ちゃん…はよ来てくれ…俺には無理だ…この女と一緒に居る事が出来ない。恐ろしいんだ…とてつもなく、恐ろしいんだ!! 「もう、母ちゃん。あんまり虐めるなよ。…悪い人じゃないんだ。」 やっと現れた哲郎は、笑い過ぎて腹が捩れて死にそうな自分の母親にそう言うと、玄関で靴を履きながら俺に言った。 「…はぁ、うちの母ちゃんは男勝りで…父ちゃんも勝てない。」 認識が間違ってる。男勝りとか…そう言うレベルじゃない。 「哲!気張っといで!」 そんな景気の良い母親の声に見送られながら堂々と歩き始める哲郎の後ろを、鶏を抱いたまま付いて行く。その様は…まるで、俺も、彼が率いるギャング団の一員になったかの様だ。 ザ…ボス、ザ・リーダー、トップ・オブ・ツリー、あんたが大将…そんな、NO.1がしっくりくる様な哲郎は、生まれ持ったリーダー気質…なんて物を、自然と持ってる。 胸を張って悠々と歩く姿が…まさに、それだ。 それに…こいつは、見てくれや雰囲気だけじゃなく…とても、強い男なんだ。あんな恐ろしい状況の中、豪ちゃんを濁流の中から救って…必死に耐えた。 感心どころじゃない。 降参だ… 豪ちゃんが俺にまとわり付く事に…妬く必要のない位、哲郎はあの子の特別だし、俺なんかより…こいつの方があの子を守れて、純粋に愛してあげられる… 「豪ちゃんは…今は、俺に興味があって付きまとってるけど…そのうち、俺がいなくなったら、また元の生活に戻るだろ?そしたら、お前も、ヤキモキする事もなくなる…」 何気なく哲郎の背中にそう言った。 …俺はお前に…降参してるって、弱い犬の様に腹を見せた。 「…そうかな。」 そんな俺の言葉に前を見据えたままそう言うと、哲郎は視線を遠くの空に向けて、もう一度言った。 「…そうかな…」 「あ~~!てっちゃ~ん!おっちゃんと、どこ行くの?」 元気な声と共にどこからともなく晋作が現れて、パリスを抱いたままの俺を見て首を傾げて言った。 「しめるの?」 「違う!なんて事を言うんだ!庭に青大将が出たんだ。だから…」 俺が話し終わる前に吹き出すと、晋作は腹を抱えてケラケラ笑って言った。 「てっちゃんに捕まえて貰うんだ。あ~はっはっは!!」 良いさ。笑いたければ笑えば良いんだ。 人には向き、不向きってもんがあるんだ。 表情を変えずに胸に抱いたパリスを見下ろして、少しだけ口を尖らせた。 「おじちゃ~ん!」 「おっちゃん!」 「惺山~!」 そして、気が付けば…徹の実家に着く頃には、俺の周りにはいつものギャング団が勢揃いしていた… 「パリス、良かった…。惺山が助けてくれたんだね?」 鶏を抱きしめてそう言う豪ちゃんに、晋作が冷たい視線を送って言った。 「おっちゃんは鶏と一緒に逃げただけで、実際に助けるのはてっちゃんだ!」 …清々しいまでの、ド正論だ。 「大ちゃん、籠、持って来て!」 哲郎の的確な指示の中、青大将の捕獲作戦が開始された。 「縁の下に隠れちゃってるから…おとりを使って誘き出すよ。…豪ちゃん、鶏を放って…」 縁側から縁の下を覗き込んだ哲郎がそう言うと、俺の背中に隠れながら豪ちゃんが怒って言った。 「いやだぁ!もし、パリスが捕まったらどうするの!」 「捕まらないさ。そいつの足が速いの、知ってるだろ?」 哲郎はそう言いながら豪ちゃんの目の前に立って、小さい子を諭す様に優しい声で言った。 「今捕まえなかったら、パリスはずっと庭で遊べない。今捕まえたら、すぐにでも安心して遊べる。どっちが良いの?」 人一倍動いて汗だくになった哲郎は、キラキラと眩しい汗を拭いながら、悩み過ぎる豪ちゃんの返答を気長に待ってあげている… あぁ、俺が女だったら、間違いなくこいつに惚れるだろう。 「ん…分かったぁ…」 しぶしぶそう言った豪ちゃんが、さっきの恐怖なんて忘れてしまった様なアホ面をしたパリスを、やっと地面に置いた。 「コッコッコッコ…」 ぶつぶつ文句を言いながら雑草をついばみ始めるパリスを、豪ちゃんは、俺の後ろから固唾を飲んで見守り始めた… 「蛇が出て来たら、縁の下に隠れられない様に大ちゃんと晋作はここに居て?…もしこっちに逃げて来たら、棒で地面を叩いて威嚇するんだ。清ちゃんは俺と一緒に蛇を追いかけて、出来たら首元をこの棒で押さえつけて…?毒はない。でも…臭い匂いを出すから、気を付けるんだ。良い?」 「わ、分かった!」 先が二股に分かれた棒を清助に手渡してそう言うと、哲郎は縁の下をじっと見つめて様子を窺い始めた。 あぁ…俺が女だったら、絶対あいつに惚れる。 間違いない。 だって、強くて頼りになって…腹筋が6つに分かれてるんだ。 顔だって端正なイケメンだし、何の申し分もない… あいつが、豪ちゃんに惚れてるホモガキだってこと以外、何の問題も無いんだ。 むしろ、高根の花だ… 俺の中の乙女心が鷲摑みされる中、異変を察したパリスが勢いよく走り出したのを皮切りに、青大将との決死の戦いが幕を開けた。 「あ~!出て来た~!」 大吉の歓声と共に現れたのは…全長2メートル強の立派な青大将… 茶色い体をうねらせて地面を進む様は…ウミヘビを初めて見た時の恐怖に通ずる。 「あ~~ん!パリス、パリス、逃げて~~!」 とっさに縁側の上に逃げると、泣きながらパリスを目で追いかける豪ちゃんを、抱えて引っ張り上げる。 「コ・コ・ココココ…!!」 パリスは賢い鶏。 まるで自分を追いかけてくる蛇を、哲郎の前に誘導する様に走ってすり抜けていく。 「ふふ…見て?豪ちゃん、パリスは分かってるみたいに哲郎と清助の間を走って駆け抜けてく。早く捕まえろって言ってるみたいだ。」 俺の背中に顔を埋め込んだあの子を振り返ってそう言ったら、豪ちゃんは恐る恐る顔を覗かせて、悲鳴を上げて言った。 「違う!!怖がってる!!」 怒った豪ちゃんに背中をガンガン殴られながら捕獲作戦を見守ると、清助が突然、渾身の一振りを目の前の草むらにお見舞いした。 「…清ちゃん、取った?」 哲郎がそう聞くと、清助は首を横に振って大吉と晋作が守る縁側を見て叫んだ。 「ダメだ!そっちに行ったぞ!」 「よし、いつでも来い!」 そんな男前な晋作とは対照的に、内股になった大吉が言った。 「こわ~い!」 あぁ…俺はもうすぐ31歳になる予定の男だ。 大人…なんて場所に分類される。 でも…こんなサバイバルなサファリパークでは、年齢なんて無意味だって知ってる。 経験値こそ、ここでは役に立つんだ。 怖がって内股になった大吉を見下ろして、乙女の様に両手をグーにして言った。 「大吉、頑張って!!」 「ふえ~~ん!」 「大ちゃん、来たぞ!」 晋作の声に我に返ると、大吉は、地面をうねりながら進んでくる青大将の頭の先に棒を振り下ろして脅かした。 「こっち来るなぁ!」 半ギレ状態でそう言う大吉に恐れをなしたのか、青大将はくるりと方向転換して晋作の足元を狙って進む。 「ダメだぞ!下に入れないぞ!」 縁の下前の防衛陣が良い働きをして、青大将を動揺させると、そろりそろりと近づいて来た哲郎が、蛇の首を捕まえて持ち上げた。 …凄い!カッコいい!! パァ…!と、表情を明るくして哲郎を見つめながら、大吉によって運ばれた籠に蛇が収まって行くのを眺めて、背中にしがみ付いたままの豪ちゃんを振り返って言った。 「すごい!捕まえたぞ!これで、パリスは自由だ!!」 「ほんと?!」 …またしても、哲郎はやってのけた。 この男は…男も惚れる、良い男だ。 しかも、腹筋が6つに割れてる…お屋敷の息子だ。 「わ~!てっちゃん!すご~~い!」 大喜びする豪ちゃんが縁側の上から哲郎に飛びつくと、あいつは嬉しそうに笑って豪ちゃんを抱きかかえて言った。 「これで、もう安心だ…!」 あぁ…やっぱり。お前の方が、その子には相応しい… 胸の奥で、そう納得する気持ちが8割…残りの2割は、わがままな年寄りの恋心だ… 豪ちゃんが好き… そんな淡い恋心が、圧倒的な事実を前にしても…挫けずに残ってる。 「ご苦労さん…まあ、これでアイスでも買って下さい。」 俺はそう言うと、哲郎氏にお駄賃を渡してお礼を言った。 「助かったよ。ありがとう。」 彼は子供らしい満面の笑顔を見せると、蛇がとぐろを巻く籠を見下ろして言った。 「この蛇、懸賞金が付いてるんだ。飼い主が血眼で探してる。見つけた人には15万円くれるらしい。だから、お礼を言うのはこっちの方だ。ありがとよ、おっさん!」 …15万円。 「よし、ちんけな1000円で、アイスでも買って帰ろうぜ!」 そう言って意気揚々と引き上げていくギャング団を呆然と見送ると、1人だけ残った豪ちゃんを見下ろして言った。 「豪ちゃんもアイスを買って食べたら良い。俺はピアノの部屋にこもるよ。」 「…良いの。ここに居るの。」 はぁ…可愛い… 縁側に腰かけて横目に俺を見るあの子を、同じ様に横目で見ると、縁側から部屋に上がって、麦わら帽子を脱いで、台所で水を飲んだ。 …俺に死期が迫ってるから、この子は俺の傍に居る… あんなに素敵な哲郎よりも…死にそうな、俺の事が好きなんだ。 そして、いつも…俺の”死“に怯えて…恐怖に震えている。 残酷だよ… そんなこの子に、俺がしてあげられる事はひとつ。 …たとえ、圧倒的な差を思い知ったとしても、この子が望むなら…今だけでも、傍に… 「…お水飲む?」 そうあの子に聞くと、豪ちゃんはコクリと頷いて俺の元へと嬉しそうにトコトコと歩いて来た。そして、俺の差し出したコップを両手で持って、ゴクゴクと水を飲んだ。 「…一回入ったら、出て来ないよ?」 「…良いの。」 頬を赤くして豪ちゃんがそう言って、俺の足を蹴飛ばすから、俺はあの子の髪を撫でてピアノの部屋に向かった。 豪ちゃんの交響曲はまだ書けない。 俺の手元にあるのは”豪ちゃんに翻弄される…俺のラプソディ“…1曲。 今日は新しい曲を考えてみようと思う。 コントラバス、バイオリン、ピアノ、バンジョーで演奏するのは…夏の何気ない風景。 駆け抜ける風をバイオリンの伸びやかな音色で表現して、コントラバスでテンポを刻もう。そして、ピアノで包んで、バンジョーの際立つ音色で曲の雰囲気を作る。 夏の強い日差しの中…大きく広がった空の下、さわやかでノスタルジーな風が吹き抜けていく中、彼らがつるんで遊ぶ光景が目の前に映る様な…そんな曲を。 ピアノに座ると鍵盤の上に指をかざして、耳の奥に聞こえてくる音を鍵盤に落として、音色を付けて、頭の中で他の楽器とハーモニーを作って行く。 「…悪くない。でも…足らない。」 ギャング団の様に見えた彼らは…“友情”なんて物と、年月を経て得た”信頼“なんて物の上で、固く結ばれている。 安っぽい子供の集まりじゃない。まるで…同胞だ。 だから…もっと、こう…重い…重厚な旋律?いいや…音?いいや…テンポ? 独特の…民族感…団体感…共有した感覚を醸し出す、そんな雰囲気が…欲しいんだ。 「ふんふん…ふ~ん…」 扉の向こうで鼻歌を歌うあの子の可愛い声が聞こえて、思わず口元を緩めて笑う。 昨日教えてあげた”ポルカ“だ… 可愛いな…気に入ったのか… ポルカ… 「そうか、良いね…なかなかだ。」 ひとりそう呟くと、一気にイメージが下りて来て、ピアノの鍵盤の上を指が走って行く。 アコーディオンじゃない、バンジョーで…彼らのポルカを作ろう。 特徴的なリズムと、特徴的なメロディ…曲の展開…それらは、俺が求めていた…共有の感覚を演出してくれるだろう… 同胞…なんて言葉が、しっくりくるような…彼らにしか分からないルールだったり、彼らにしか分からない略語だったり、彼らにしか分からない…一体感。 排他的な訳じゃない…ただ、幼い頃から一緒だった… だから、阿吽の呼吸の様に…当然の様に一緒に居るんだ。 …微笑ましいじゃないか… バイオリンの音色は民族音楽にとても良く合う。間違いなく主旋律だ。コントラバスのうるさくないベースはどの音にも馴染んで溶けて行って、曲の盛り上がりにタンバリンを拍子に入れよう…そして、バンジョーで軽やかで駆け抜けるような風を巻き起こしていく… 「良いぞ!出来た!」 あっという間に出来上がった曲を、五線譜を眺めて譜読みすると、満足の出来に胸がいっぱいになって、ほくほくの笑顔でピアノの部屋を出た。 「惺山、そうめん茹でてるよ?」 台所でモクモクと蒸気を上げながら、大きな鍋越しに豪ちゃんがそう言った。 …そうめん? 「そうなの…?ひとりで、そんなに食べるつもりだったの…?」 あの子の手元の大きな鍋の中、大量に泳ぐそうめんを覗いてそう言うと、あの子は首を横に振って言った。 「てっちゃんが竹を切って…流しそうめんしようって言ったの。」 へ…? 「ここは~?」 「ダメだ~、もっと勾配付けて?」 そんな声に縁側の向こうを覗いて見ると、庭にあったのは竹で作られた立派な流しそうめんの舞台。 麻ひもで組まれた足場の上に置かれた真っ二つに割られた竹は、まっすぐに伸びて青々として美しい… 「すごいな…本格的じゃないか…」 思わず縁側から降りてそう言うと、哲郎が首を傾げて言った。 「こんなのちょろい。仕事ではしごを作ったりするから、竹は扱い慣れてる。」 …イケメンやん。結婚してくれよ… うっとりと恋する乙女の瞳で哲郎を見ると、台所の豪ちゃんが大声で言った。 「惺山!こっちに来てよっ!」 「なんだよ…」 縁側を上がってあの子の傍に行くと、豪ちゃんが大きなザルを流しに置いて言った。 「ここに、ザ~ってして?」 マジか… 今まで母親の手伝いも、彼女の手伝いも、誰の手伝いもしなかった俺が… いきなり、こんな危険な仕事を?! 「熱いから、布巾で掴んで、やけどしない様にやって?」 そんな豪ちゃんの話を注意深く聞きながら頷いて、手に渡された布巾越しに鍋の取っ手を掴んで流しへ運んだ。 「…どうしてこんなに水を入れたんだよっ!」 グラグラと鍋の中で揺れる熱湯を見つめてそう言うと、豪ちゃんは首を傾げて言った。 「そうめんを茹でる時は水は多めって、兄ちゃんが言ったぁ!」 はぁ…まったく! 持てない程の熱湯を作るんじゃないよ…! これは凶器だ! 「流すぞ~?」 「覗き込んじゃだめだよ?目玉が煮えるからね?」 ふふっ! あの子の注意に頷いて答えて、ザル目掛けて一気に鍋の中を空けて行く。 「デゴイチだ~!」 立ち上がる蒸気を見てそう言うと、豪ちゃんはすぐに水道の蛇口をひねってアツアツのそうめんに流水を当てた。 「こうして…しめて…」 せっせと手際よく炊事する豪ちゃんの姿は、このまま哲郎に嫁いでも問題ないくらい板に付いていて、驚いた。 きっと…自炊しているんだ。だから、こんなに上手に出来る。 「食べて…?」 そう言って俺の口元に茹でたそうめんを持ってくるから、口を開いてチュルッと啜って食べた。 「どう?硬い?柔らかい?」 俺の顔を覗いてそう聞いてくるあの子を見つめると、一気に鼻の下が伸びて頬が熱くなっていく。 はぁ…可愛い…! 「ちょうどいいよ…」 そう言ってあの子の腰を掴んだら、愛が止まらなくなって…小さな背中を、覆い被す様に抱きしめながら、あの子の首筋を食んでキスした。 「あ~~~~!おっちゃんが、豪ちゃんにセクハラしたぁ!」 やばい…! そそくさと豪ちゃんから離れて、大吉を一瞥しながら素知らぬ顔をして言った。 「…何も、してないのに…」 「うっそだ~~!新婚みたいにした癖に!」 縁側の下で大騒ぎする大吉なんて目に入れないで、耳まで真っ赤に染めた豪ちゃんの後ろに立ちながら、あの子がそうめんを洗う後姿を微笑んで見つめる。 不思議だな… こんなに誰かを愛おしいと思った事は無いよ。 もうすぐ…死んでしまうからかな? まるで体験した事の無い事を、怒涛の如く経験して行っている気がするんだ。 「…惺山、このまま外に持って行って?水が滴るから、豪ちゃんが下で蓋を持って一緒に行くから…」 豪ちゃんはそう言うと、お鍋の蓋を手に持ちながら、俺を見てにっこりと微笑んで言った。 「…持って?」 はいはい… 言われた通りにザルを両手で掴んで、引き上げた瞬間…ズシリと腰に負荷が掛かって…想像以上の重量のそうめんにドン引きした。 田舎暮らしは…肉体労働の連続だ…! 「じゃ…行くよ?」 「うん。」 掛け声を付けて流しから出したそうめん入りのザルは、予想以上に水を滴らせて、下で鍋の蓋を構えた豪ちゃんがゲラゲラ笑いながら言った。 「あ~はっはっは!これは…蓋なんかじゃダメだった!」 遅いよ… 「良い。後で拭けば良い。」 そう言って一気に縁側まで移動すると、蓋に入った水を縁側の下に流しながら豪ちゃんが言った。 「豪ちゃんが拭き拭きするから、惺山はてっちゃんの所にそうめん持って行って?」 「ほ~い…」 「新婚してた…!」 大吉がしつこくそう言うのを無視して、哲郎の元にそうめんを運んで行く。 「豪ちゃんがそうめんを洗ってる時、後ろからこうして、こうして、こうしてた!」 「うわ…おっさん…やっぱり最低だな。」 「セクハラジジイだよ。」 そんな清助や晋作の言葉を右から左に受け流して、ジト目を向ける哲郎に言った。 「お前は本当…何でも出来るな。俺が同い年の頃なんて…ただの馬鹿だった。」 「今だって、そうだろ…?」 …痛いね。 苦笑いしながら哲郎にそうめんを渡すと、縁側でおつゆを作り始めるあの子を見つけて、目じりを下げて微笑んだ。 正座して…可愛いな… 「豪ちゃ~ん!おつゆ作ったから、これで食べな~!」 そんな威勢の良い声と共に、大きな鍋を手に持って庭に現れたのは、哲郎の母親… 恐ろしい…ドSの女将だ… 俺の蛇の首根っこを掴まれる…ひえっ! 股間がひゅッとなるのを隠す様に体を動かすと、縁側に座った哲郎の母親が、大きな鍋から豪ちゃんの差し出すお椀におつゆを入れていく様子を眺めた。 …豪ちゃん兄弟は、幼い頃、この子供たちの家を点々とお世話になって回っていたって…徹が言っていた。だから、彼女もあんな風に…まるで、自分の子供の様に接するんだろうな。 つまり…あの子は…あの兄弟は… 沢山の人に愛されてるって事か… 「うちの母ちゃん、おっさんの事…可愛いバブちゃんって呼んでたぜ…はは!」 そんな乾いた笑いをすると、哲郎は、晋作が持って来た水道のホースを竹の上にかけて、蛇口を持ってこちらを窺う大吉に言った。 「大ちゃん、流して良いよ?」 「は~い!」 水量を調節する二人のやり取りを、晋作と一緒に眺めていると、哲郎の母親が俺を見て言った。 「なんだい、大きな子供がもう一人いるみたいだね?」 「ははは…」 苦笑いしか出来ない… だって、哲郎の母親は怖いんだ。 逞しすぎて、シティーボーイの俺は歯が立たない… 「おばちゃん?惺山は物知りだよ?きっと他の人が知らない事を沢山知ってる。ただ、こういう事が苦手で、初めてなだけ。」 豪ちゃんはクスクス笑ってそう言うと、人数分のおつゆをおぼんの上に乗せて行く。 そんなあの子を見つめて、哲郎の母親は口元を緩めると、優しい手つきであの子のおでこを撫でて言った。 「ホント…良い子だね?」 それには、まったくもって同意する。 その子は、とっても優しい子…そして、とっても可愛い子。 おつゆの準備が整った豪ちゃんは、おぼんに人数分のお椀を乗せて歩いて来ると、ひとりひとりに手渡しながら言った。 「はい、どうぞ?てっちゃんのお母さんのおつゆだよ?」 「お~、旨そうだぁ!」 お椀の中を覗き込んだ子供たちが、口を揃えてそう言った。 「はい、これは、惺山の分だよ?」 …ふふ 「…うん。」 子供たちと同じ様に受け取ったお椀の中を覗き込んで見ると、良い香りと、具沢山のおつゆに目を丸くして言った。 「何が入ってるの…?」 「てっちゃんのお母さんが作ってくれた。特製のなすと肉みそのおつゆだよ?きゅうりとか…ミョウガも入ってて美味しいんだ。」 へぇ…確かに、これは、旨そうだ。 さすが、女将…口も達者だが、料理も達者だった。 「ほら~食え~!」 そんな哲郎のやる気のない声で、本格的な竹の流しそうめんがスタートした。 豪ちゃんは俺の隣に陣取って、今か今かと、体を揺らしながらそうめんが流れてくるのを待っている… そんなあの子を見つめる、哲郎の視線が…とっても優しいんだ。 こんなものを見せつけられても…身を引く事が出来ないのは…ある意味、辛いな。 「わ~い!取れた~!」 そう言って大喜びする晋作を横目に、豪ちゃんが箸を構えたまま哲郎に言った。 「てっちゃん!豪ちゃんの所に来ない!」 そんな豪ちゃんに目じりを下げて微笑むと、哲郎は手招きして言った。 「そんな下に居るからだ!もっと上においで!」 あぁ…哲郎… 「ん、もう!」 腹を立てた気性の荒い豪ちゃんは、ぷんぷん大げさに体を揺らして哲郎の目の前に行って箸を構えた。 「流して!」 あの子がそう言うと、鼻の下を伸ばした哲郎がそうめんを竹に構えて言った。 「取れるかな…?」 「取れる!」 「どうかな…?」 「取れる!」 「あ…パリスが…!」 哲郎がニヤリと口端を上げてそう言うと、豪ちゃんはパリスを探す様に首を振って辺りを見渡した… 次の瞬間…豪ちゃんの構えた箸の間をそうめんが流れて行って…大吉がキャッチして喜んで言った。 「やった~!取れた~!」 その様子を見た豪ちゃんが、頬を膨らませて怒って言った。 「ん、もう!てっちゃん!嫌い!」 「あ~ははは。ごめん、ごめん。ほら、入れてあげる。」 哲郎はそう言って笑うと、豪ちゃんの器の中にそうめんを入れてあげた。 「違うの!流れてるのが欲しいの!!」 「良いだろ?変わらない。食べてごらん?ほら、あ~ん…」 何を見せられてるんだ… 彼ら以外の面子が、箸を持ったまま固まって二人を眺めている…そんな状況だ。すると、目の前の清助がしびれを切らせて言った。 「いちゃ付くなら家の中だけにしろよ!早く麺を流せ!麺を!麺を流せ!」 …清助。 そんなに、そうめんが好きなのか… 「お前も…上の方に行った方が良い…」 余りのがっつき振りにそう言って苦笑いをすると、清助は俺を見て、鼻で笑って言った。 「おっちゃんが取れそうなのを…片っ端から取って行くつもりで、ここに居るんだ!」 …なんだよ、それ! 一方…そうめんの流し手である哲郎は、豪ちゃんに、あ~んするのに夢中な様子で…箸で掴んで持ち上げたそうめんを揺らしてあの子を挑発し続けている。 「ほら、みんな怒ってるから、早く食べて…」 「…ん、もう!」 あいつの煽りにブち切れた豪ちゃんは、怒りながら目の前に出されたそうめんをしぶしぶ啜った。 「…ふふ、美味しいだろ?」 そんなあの子を見つめて、意地悪にそう言う哲郎は、満足げな…いいや、恍惚の表情で微笑んだ。 …哲郎! 「豪ちゃんが茹でたんだ!てっちゃんは流してるだけ!」 豪ちゃんはそう言って哲郎の手から箸を取り上げると、怒りを露わに地団太を踏んだ。 「早く流せよっ!」 「はいはい~」 やっと流れ始めたそうめんに子供たちの溜飲が収まる中、清助は宣言通り…俺の目の前に流れてくるそうめんを次から次へと箸ですくっては口の中へ入れて行った… …こいつ、マジでやる気だ… 清助は口元を半笑いにさせて俺を見つめてそうめんを啜ると、豪ちゃんに惚けた哲郎が次から次へと流すそうめんを箸で捕まえては、自分の器にドンドン入れて行った… こいつは流しそうめんの嫌がらせのプロだ…!! 「はは…おっちゃん、まだ食べれてないじゃん…どしたの?」 口から溢れるそうめんを収める事もしないで好戦的な態度を続ける清助は、こんもりとそうめんの山を作り出した自分の器に、迷う事無く、次のそうめんも乗せて行った… 馬鹿だ… 「あ!清ちゃん!最低だぞ!」 こんな異常事態にやっと気が付いたのか…豪ちゃんが怒って、清助を俺の目の前から追い払った。すると、まるでバトンタッチするかの様にしらばっくれた表情の晋作が目の前に現れて、口端をニヤリと上げて俺を見た。 彼もまた…特殊な意義を…流しそうめんに見出しているかのような目つきだ。 …お前もか、晋作…! 「惺山、豪ちゃんが取ってあげるね!」 俺の顔を覗き込んでにっこりと微笑みかけると、豪ちゃんは目の前にぼんやりたたずむ大吉の体を押し退け始めた。 「お、おいおい…仲良くやれよ…」 「これは戦争だ!仲良くなんて出来ない!」 俺の言葉に必死になってそう言った豪ちゃんは、そうめんを掴む事よりも、困惑する大吉をグリグリと押し退ける事に夢中になっている様に見える… 「も~、愛の力で何とかしてぇ?」 そんな大吉の悲痛な叫びを聞きながら、口を尖らせて肩をすくめた。 「いっくよ~!」 あんなにたらふく食べたから、もう満足したのか…哲郎と交代した清助がビニール手袋をつけてそうめんを流し始めた。 しかし、そこはギャング団…穏やかな流しそうめんなんて、初めから無理だったんだ。 「ふん!あっ!ん…もう!あっ!だめぇ!んん…!てっちゃん意地悪しないで!」 豪ちゃんの目の前に来るそうめんを、ことごとく箸で掴んで持ち上げると、哲郎は首を傾げながら言った。 「…だって、これは戦争なんだろ?」 まったく… 哲郎…やれやれだ。 好きな子を虐めて良いのは…ベッドの上だけだぞ! 「これ!哲!豪ちゃんを虐めんな!」 鶴の一声ならぬ、鬼の一声で叱りつけられると、哲郎はバツが悪そうに口を尖らせて縁側の母親に言った。 「違う、そんなんじゃない!」 そうだな…お前は豪ちゃんとじゃれてるつもりなんだろうな… でも、あの子を見てみろ…哲郎氏。 顔を真っ赤にして…怒っているではないか…! 哲郎は、どうも…引き際が分かってないんだよな… 「流すよ~!」 そんな中、清助の掛け声と共に流れて来たそうめんを、必死の形相で掴み取った豪ちゃんは、嬉々と頬を上げて俺に駆け寄って来た。 「はい…やっと、取れたよ?」 そう言って、ごく自然に俺の口にそうめんを運ぶから、俺も自然に口を開けてあの子のそうめんをすすって食べた。 「…ね?美味しいでしょ?」 そう聞いて来たあの子が、キラキラと輝いて、可愛くって…クラクラして来る… 「…うん。」 ぼ~っと頬が熱くなって行くのを感じながらあの子を見つめる俺を見て、縁側で哲郎の母親がケラケラ笑って言った。 「本当、豪ちゃんはその人が気に入ってるみたいだね?ははは!こりゃ、父ちゃんにも教えてやらんと!はっはっは!」 …哲郎の母親は、豪快で…すぐに、父ちゃんに教えたがる、料理の上手な女だ。 「もっと、取ってあげるね!」 そう言って目に力を込めた豪ちゃんは、くるりと体を返すと、竹の上を流れて行くそうめんを掴もうと再び箸を構えた。 本当…いじらしい子。 その後、俺があ~んして貰った事に嫉妬した哲郎氏の横暴によって、豪ちゃんがブチキレるという終幕を迎えると、あんなに沢山茹でたそうめんも底をついて、流しそうめんはお開きになった。 「なすと、ひき肉を一緒に炒めて…ネギも一緒に入れて、その後お出汁を入れて…」 哲郎の母親と縁側に向かい合う様に座って、特性のおつゆの作り方を聞きながら、豪ちゃんは昆布の入ったおにぎりをむすび始めた。 食べ足りなかったのか…炊飯器ごと持って来て、手際よくおにぎりを作って行く様は…まるで、農家の嫁の様だ。 「とっても美味しかったから、今度、兄ちゃんにも作ってあげよ~う!」 あの子がそう言うと、哲郎の母親はケラケラ笑って言った。 「お~、そりゃあ健ちゃんも喜ぶね?ミョウガも入れるんだよ?疲れが吹っ飛ぶからね?」 そんなやり取りを微笑ましく隣で聞きながら、流しそうめんの舞台を解体する哲郎を眺めると、彼はしきりに豪ちゃんを気にしている様子だった… 喧嘩が尾を引いていないか…心配なんだ。 はぁ…そこはやっぱり15歳の少年だ。 甘酸っぱい…甘酸っぱいんだ… イケメンで、お屋敷育ちで、リーダーの素質があって、腹筋が6つに分かれていても…思い通りにいかないもんなんだな…。 「はい…惺山、2つは食べてね?」 豪ちゃんはそう言うと、ぼんやりと庭を眺める俺の目の前におにぎりを差し出した。 「あ~ん、して?」 「…あ~ん…」 言われた通り…何も考えずに口を開くと、あの子の差し出したおにぎりをかじった。 「は…」 そんなドン引きした哲郎の母親の声に一気に我に返って、汗を垂らす。すかさず、豪ちゃんからおにぎりを取って言った。 「…じ、自分で食べられる!」 「ん、もう!嘘つき!」 「…はは」 哲郎の母親の乾いた笑いを聞きながら誤魔化す様に遠くを眺めると、台所に行った豪ちゃんがコップに水を入れて戻って来て言った。 「お水も飲んで…慌てて食べたらダメだよ?」 「ぶふっ!」 吹き出して笑う哲郎の母親を意にも介さない様子で、豪ちゃんは俺の口にコップを当てると、いつもの様に優しい声で言った。 「はい、ゆっくり飲んでね?」 「…じ、自分で飲める…」 「嘘つき…」 まん丸の瞳を細めてそう言うと、豪ちゃんは俺の隣に座って一緒におにぎりを食べ始めた。 「豪ちゃんは…お世話するのが、好きだから…」 目の前の光景を納得する形に収めようと、哲郎の母親が苦笑いしながらそう言うと、豪ちゃんはおにぎりをかじりながら言った。 「うん…好き。」 明らかに…豪ちゃんの俺への溺愛っぷりに、ドン引きしてる。 それを拒みもせずに…受け入れてる俺にも…ドン引きしてる!! 「…はは、まぁ、ほどほどにしときなさいよ…?」 そんな意味深な言葉を残すと、哲郎の母親は空になった鍋を持って帰って行った。 …父ちゃんにも教えてやらんと… そんな彼女の心の声が聞こえて来そうな、訝しげな瞳を向けて… 「豪ちゃん?普通の大人の前であんな事して、俺に恥をかかせたいの?」 隣でおにぎりを食べ続けるあの子にそう言うと、あの子は俺が縁側に置いたおにぎりを手に持って言った。 「…ちゃんと食べて!」 …はぁ 兄貴の影響で、この子は米を万能薬の様に思ってる。 米さえ食べていれば、丈夫になると思ってるんだ! 「じゃないと…また、僕が食べさせるよ?」 鋭くそう言ったあの子の言葉にすぐに姿勢を正すと、豪ちゃんからおにぎりを受け取って黙々と食べる… 「良いな~、俺も食べたい!」 「良いよ?」 縁側に腰かけた清助におにぎりの皿を差し出すと、豪ちゃんはひとつだけ手に取って、ギュっとラップの上から握り直して俺の膝の上に置いた。 「あ、俺も~!」 「腹減った~!」 あんなに大量のそうめんを食べたばかりだというのに…子供の腹は燃費が悪すぎる。いつの間にか、縁側にはおにぎりを食べる子供たちと、おっさんが一人。 こんなシュールな光景も…中々ない。 ふふ… 「…またピアノの部屋にこもるから…遊んで来なさいよ。」 おにぎり2個のノルマをクリアしてお腹いっぱいになった俺は、コップの水を飲んで豪ちゃんにそう言った。 「…うん。」 寂しそうに俯くあの子を横目に見ると、居間に上がってピアノの部屋へ向かった。 さぁ…次はどんな曲を作ろうかな… 仕事の依頼でもない限り、初めに決めたテーマが揺らぐ事なんてしょっちゅう。 枝分かれする選択肢の様に…作曲を進めるうちに本来の方向性とは全く違った趣旨の物が出来る事なんて…ザラだ。 ガチャガチャみたいに…出来上がるまで、作ってる本人すら着地点が見えていない。 それを楽しいと思うか…煩わしいと思うか…これまた本人次第。 俺は…楽しんでる。 自分の感性とやり取りしてるみたいで…楽しいんだ。 あぁ…こんなものを作り出したのか…って、出来上がった後に、他人事の様に感心するフレーズや、ハーモニーが点在するんだ。 まるで現実と無意識のはざまで作曲してるみたいだろ。 ピアノに腰かけると、ふと、手際よくおにぎりをむすんでいた豪ちゃんを思い出して口元を緩めた。 …あの子が、奥さんだったら…俺は徹の様に、普通の仕事に就いて、毎日規則正しい時間を送って…淡々と生活を送る事自体に、幸せを感じて生きていけそうな気がする… ただ…その人の為だけに、共に生きている事が幸せだなんて、思える気がする。 鍵盤を鳴らして弾き始めたのは…”調子のいい鍛冶屋“ おにぎりをむすぶあの子を想像しながら…この運指の練習曲の様な、小気味の良い曲を弾いている。 同じ主題を繰り返して…少しづつ変化を加えて行く曲調は…ボレロやG線上のアリア、カノンの様で好きなんだ…。 まるで生きてるみたいに…少しずつ変化していく… オタマジャクシから手が生えて…足が生えて…尻尾が切れて、カエルになって行くように…。曲の中で変化を繰り返して、昇華していくんだ… 豪ちゃんの…味のしないおにぎりが… 昆布を入れる事によって、断然、美味しくなった様にね。 「ふふ…そうだね…昆布は美味しかった…」 クスクス笑ってそう言うと、“主よ人の望みの喜びよ”…を弾き始める。 パイプオルガンの音は嫌いだ… でも、ピアノで弾くと、断然まろやかになって…肌触りの良いブランケットの様に優しく体を包み込んでくれる…そんな曲だ。 宗教音楽の様なハーモニーをぶち壊して、わざと音をズラせば…それは洒落たブルーノートのバッハ… テンポを変えて…調子を外して…マイナーコードを踏むと、悲しみのバッハ… 「ふふ…遊び過ぎだ…」 そんな風にひとりで笑うと、譜面通りの鍵盤に指を戻して、ゆっくりと死んで行く様に静かに…繊細に…曲を終える。 「わ~!おっさんは本当に上手だ…女じゃないのに…はぁ~!」 そんな晋作の声が真後ろから聞こえた。 鍵盤の上の指をダラリと下ろして、ため息をついて項垂れる。 いつの間にか…ピアノの部屋のテラスに、ギャング団が集まって来ていた様だ… ワイのワイのと俺のピアノを“女じゃないのに”なんて時代遅れの枕詞を付けて褒めている。 俺はピアノ奏者じゃない…弾いてる所を見られるのは、嫌いだ… 項垂れたまま微動だにしないで固まると、後ろで騒ぐ子供たちが早く居なくなってくれないか…と、瞳を閉じて再びため息を吐いた。 「あ、何してるのぉ!だぁめ!」 少し遠くの方から、そんな豪ちゃんの怒った声が聞こえて、ゾロゾロと足音を立ててギャング団がピアノの部屋のテラスから…玄関の前…敷地の外へと、移動していく様子を、じっと聞き耳を立てて伺った。 …あの子は、俺のピアノを聴くのが好き… 炎天下の中、少しの日陰の中で…ずっと聴いていたんだ。 君にだったら…ずっと聴かせるのも嫌じゃない… でも、他の人は嫌だ。 まるでそんな俺の偏屈を分かっているみたいに…人払いをするんだ。 豪ちゃん…好きだよ… 俺が死んじゃうのが…堪らなく怖い、愛しの豪ちゃん。 ねえ、どうして…俺にだけ、あの事を話したの…? 哲郎にも、晋作にも…大吉や清助にも話さなかった。 兄貴にだって…話していない。 そんな大事な事を…どうして、俺に話してくれたの… …そのうち、死ぬから? いいや…違う。 …俺が自分の言う事をちゃんと聞く様に? いいや、違う。 俺なら…話しても良いって、思ったんだ。 俺が…あの子になら、ピアノをずっと聴かれていても良いって思った様に… あの子も…きっと、そう思ったんだ。 飾りのない、心の内を見られても…良いって思ってくれたんだ。 あどけないかと思えば…急に大人びた雰囲気を醸し出して、意味深な事を言って… 触れたいのかと思えば…恥ずかしがって怒り始める。 そんな、いじらしい…君が大好きだよ…

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