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#7_01
「さてさて…」
ピアノに向かい直すと、鍵盤の上に両手をかざした。そして、あの子を思いながら降りてくる旋律を鍵盤に落としていく。
「あぁ…とっても、綺麗だね…」
耳に入って来るピアノの音に、自然と頬に涙が伝って落ちていく。
この旋律は…あの子の悲劇。
宿命なんて言葉では片付けられない、あの子の…悲劇。
身を引き裂かれそうな…悲しみと悲壮感。
そんな物、普段の君から感じる事なんて無い。
隠す事が上手な理由は…何?
どうして、そんなに…上手に隠すの…?
短調の主旋律が変調を果たして明るい天を照らすと…明るくて朗らかなあの子の偽りの姿が…ニッコリと微笑みかけてくる。
「違うだろ…本当は、怖くて、仕方がないんだ…」
溢れてくる涙をそのままピアノの鍵盤に落とすと、長調を再び短調に落として、暗くて…悲壮感の溢れるワルツを刻む…
…もし、俺が死んだら…どうするの…?
…もし、兄貴にモヤモヤが見えたら?
哲郎に、モヤモヤが見えたら…
どうするの…?
いつ…大切な人が死ぬかも分からない恐怖を、一生味わって生きていくの…?
鎮魂曲だ…
”死“に囚われてしまった、あの子の魂を憐れむ…鎮魂曲。
「はぁ…辛い。」
ポツリとそう呟くと、五線譜を譜読みしながら変調した箇所に注釈の様に書いた。
“嘘つき”
その言葉に、意味なんてない…
だって、あの子が…そうしなくてはいけない理由を知らないんだ。
特異な体質を、怖がられる事を心配してるの?
それとも、腫れ物の様に扱われる事を恐れているの…?
ただ、あの子が俺にそう言う様に…“嘘つき”と、譜面に書いた。
ピアノの部屋を出ると、縁側の向こうはまだ明るいが既に月が昇っていた…
時計を見ると、夜の7:00…
豪ちゃん…
暗い部分の輪郭をかすかに映して、光の当たった黄色い部分をこれ見よがしに見せつけてくる…そんな月に、あの子を思う。
まるで、君の様だね…
「はぁ…ご飯を食べないと…」
思い出したように台所へ行って炊飯器を空けると、豪ちゃんが炊いて行ったのか…1合ほどの米が炊かれていた。
お茶碗によそうと、パリスの卵を割って乗せて醤油をかける…
そして、箸で混ぜながら縁側に座って…ズズッと音を立てて、卵かけご飯を食べる。
…交響曲が出来たら、一度こさえた曲を発表しよう。
そんな漠然とした今後の予定を立てて月を眺めた。気付けば、草むらから鈴虫の鳴く声が聴こえてくる…
もうすぐ9月になって…秋が来る。
秋が来たら…冬が来て、春が来る…
俺は、次の春を迎える事が出来るのかな…
作った作品を発表する前に死んだりしないだろうな…
それだけは嫌だ。
せっかく素晴らしい曲が出来上がってるんだ、なんとしてでも発表までは生きていたい。
それ以降の事は…正直、どうでも良いんだ。
ただ、あの子に…そんな素振りは見せないさ。
でも、死ぬ事なんて…怖くない。
怖くなんて無いさ…
「生きてる間…お前の傍に居れるのなら、俺は、幸せだったりする…」
ポツリとそう言うと、空になったお茶碗を手に持って流しへ向かう。
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