12 / 55

#7_01

「さてさて…」 ピアノに向かい直すと、鍵盤の上に両手をかざした。そして、あの子を思いながら降りてくる旋律を鍵盤に落としていく。 「あぁ…とっても、綺麗だね…」 耳に入って来るピアノの音に、自然と頬に涙が伝って落ちていく。 この旋律は…あの子の悲劇。 宿命なんて言葉では片付けられない、あの子の…悲劇。 身を引き裂かれそうな…悲しみと悲壮感。 そんな物、普段の君から感じる事なんて無い。 隠す事が上手な理由は…何? どうして、そんなに…上手に隠すの…? 短調の主旋律が変調を果たして明るい天を照らすと…明るくて朗らかなあの子の偽りの姿が…ニッコリと微笑みかけてくる。 「違うだろ…本当は、怖くて、仕方がないんだ…」 溢れてくる涙をそのままピアノの鍵盤に落とすと、長調を再び短調に落として、暗くて…悲壮感の溢れるワルツを刻む… …もし、俺が死んだら…どうするの…? …もし、兄貴にモヤモヤが見えたら? 哲郎に、モヤモヤが見えたら… どうするの…? いつ…大切な人が死ぬかも分からない恐怖を、一生味わって生きていくの…? 鎮魂曲だ… ”死“に囚われてしまった、あの子の魂を憐れむ…鎮魂曲。 「はぁ…辛い。」 ポツリとそう呟くと、五線譜を譜読みしながら変調した箇所に注釈の様に書いた。 “嘘つき” その言葉に、意味なんてない… だって、あの子が…そうしなくてはいけない理由を知らないんだ。 特異な体質を、怖がられる事を心配してるの? それとも、腫れ物の様に扱われる事を恐れているの…? ただ、あの子が俺にそう言う様に…“嘘つき”と、譜面に書いた。 ピアノの部屋を出ると、縁側の向こうはまだ明るいが既に月が昇っていた… 時計を見ると、夜の7:00… 豪ちゃん… 暗い部分の輪郭をかすかに映して、光の当たった黄色い部分をこれ見よがしに見せつけてくる…そんな月に、あの子を思う。 まるで、君の様だね… 「はぁ…ご飯を食べないと…」 思い出したように台所へ行って炊飯器を空けると、豪ちゃんが炊いて行ったのか…1合ほどの米が炊かれていた。 お茶碗によそうと、パリスの卵を割って乗せて醤油をかける… そして、箸で混ぜながら縁側に座って…ズズッと音を立てて、卵かけご飯を食べる。 …交響曲が出来たら、一度こさえた曲を発表しよう。 そんな漠然とした今後の予定を立てて月を眺めた。気付けば、草むらから鈴虫の鳴く声が聴こえてくる… もうすぐ9月になって…秋が来る。 秋が来たら…冬が来て、春が来る… 俺は、次の春を迎える事が出来るのかな… 作った作品を発表する前に死んだりしないだろうな… それだけは嫌だ。 せっかく素晴らしい曲が出来上がってるんだ、なんとしてでも発表までは生きていたい。 それ以降の事は…正直、どうでも良いんだ。 ただ、あの子に…そんな素振りは見せないさ。 でも、死ぬ事なんて…怖くない。 怖くなんて無いさ… 「生きてる間…お前の傍に居れるのなら、俺は、幸せだったりする…」 ポツリとそう言うと、空になったお茶碗を手に持って流しへ向かう。

ともだちにシェアしよう!