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#9

「良いか!もう、絶対に、あいつの所に行ったらダメだからなっ!」 「なぁんで!なぁんで!」 僕がそう言って暴れると、兄ちゃんは思い切り僕の頭を引っ叩いて言った。 「次、あいつの所に行ったら…あの話をするからな!!」 あの話… 兄ちゃんが全部言わなくても、僕にはそれが何の事か…すぐに分かった。 「や、やぁだ…!」 すぐにそう言うと、兄ちゃんの足にしがみ付いて怒って揺らした。そんな僕をけ飛ばすと、兄ちゃんは髪をかき上げながら怒って言った。 「じゃあ…会うな!良いな?!俺は本気だぞっ!哲郎にも、晋作にも、大吉にも清助にも、お前があいつと喋ったり、一緒に居る所を目撃したら、俺に教えろって言うからなっ!そして、お前が約束を破ったと分かった瞬間、兄ちゃんはあの事を話すからなっ!!」 「やぁだぁ!!」 「うるさい!この、馬鹿野郎!お前は…いつもいつも…もう、外出禁止だっ!!」 ガシャン! 兄ちゃんはそう言うと、僕を置いて…玄関の扉を思い切り閉めて、外へ行った…。 今日は…仕事はお休み。 きっと、台風が荒らして行った、後始末を手伝うんだ… 「ふんだ…」 そう言って溢れてくる涙を拭うと、惺山の長袖Tシャツに顔を埋めてあの人を思った… …惺山 ごめんなさい… 嘘をつきました。 どうしても…心配で、居ても立っても居られなかったんだ… だから、兄ちゃんに言ったなんて…嘘を吐いた。 惺山が好き… あの人の優しい瞳が好き…あの人の大きな手のひらが好き…あの人の低くて優しい声が好き…あの人の襟足の髪が好き。 あの人がピアノに自分の言葉や思いを乗せて弾き続ける、後姿が…好き。 何て言ってるのか…分かるんだ。 僕には、分かる。 ずっと何かに苛ついて…ずっと何かに囚われた…そんな雁字搦めのもどかしさの中で地団駄を踏んでいる様な…そんな彼のピアノの音色は、激しくて、美しくて、音楽なんて何も分からない僕の心を揺さぶった… だって、それは、葛藤そのものだったんだ。 美しい彼が素敵で…堪らなくて、どうしてか…キスをした。 それは、僕の人生で、初めての…キスだった。 そして、彼に嫌われた… 顔も見せてくれない日々が続いて…それでも、彼が現れる事を期待して…毎日、彼のピアノの部屋の傍で過ごした。 …きっと、彼は気付いてない。 だって…ずっと、身をひそめて、隠れていたんだから。 その時…気が付いたんだ。 体の中に…あの人のピアノの音色が流れて行くと、まるで、彼の独り言を聴き続けているみたいに…彼の事が分かるって…分かった。 そう、分かったんだ… 子供の様に繊細な心を持った人…必死に夢を追いかけてる人…不器用で、激しい情熱を持て余している人… そして、犯した過ちを、ずっと…後悔していて、ただ、謝りたいって…思っている事も分かった。 …とっても優しい人だって…思った。 だから、僕は…彼が何をしても…離れて行こうなんて思わなかった。 彼の本質が、優しい人だと知っているから。 …どうしても…守りたいんだ… …彼の周りにモヤモヤが見える。 初めて会った時…彼の周りに纏わり付くモヤモヤにすぐに気が付いて、目が離せなくなった。 でも、それ以上に…素敵なあの人に、目を奪われて…すぐに好きになった。 それは”気に入った“とか…そういう物じゃない… 女の子が、男の子を好きになる様な…そんな物。 僕は男の子… 自分でもよく分からないけど…彼だけ、特別に…女の子みたいに好きになった。 「お母さん…どうして、僕は、とことん普通じゃないの…?」 仏壇の中…笑顔で微笑むお母さんの写真を見つめてそう言うと、ホロリと涙が落ちて頬を伝った。 会った事もない…お母さん。 僕を産んで…死んでしまった、お母さん。 僕は生まれた瞬間から、普通じゃない… だから、お父さんも… 僕を愛せなかったんだ。 「もやもやぁ~!」 「ありゃまぁ!お団子をあげるよぉ?めんこい子だねぇ…」 大岩のおばあちゃんは、ボケていたけど…優しい人だった。 しわしわの手で、僕の手を握って温めてくれたり…手遊びを教えてくれたり…とっても、優しくて…温かいおばあちゃんだったんだ。 「ばっちゃん…もやもや、ふふっ!」 「えぇ~?もやもやは、ばっちゃの頭の中だ~!ほほ、おいで~!おいで~!」 そう言って踊り出す大岩のおばあちゃんの後ろを、一緒になって踊って歩いた。だって、大岩のばあちゃんの笑い声が…とっても楽しそうだったんだ。 だけど、周りの人たちは…そんな僕を見て、首を傾げた。 その時の彼らの視線は、決して優しい物じゃなかった… 奇妙なものを見るような…痛い、突き刺す様な…目。 そんなある日… 大岩のばあちゃんは大きな蜘蛛が見えるって言って…怖がって泣いた。 僕はそれが…モヤモヤの正体だと思って、何もない所を叩いて、蹴飛ばして…ばあちゃんを守ろうとした。 でも、いくら宙を攻撃したって…手応えなんて無くて、結局…ばあちゃんは泣き止むどころか、もっと怖がって…うずくまって泣きじゃくった… そんな、ばあちゃんが、可哀想で、可哀想で…堪らなかったんだ。 どうして…助けてあげられないんだろうって…悲しかった。 それからというもの…大岩のばあちゃんは日に日に弱って行って、僕の事も…分からなくなって行った。 ばあちゃんの体に纏わり付くモヤモヤを…うちわで扇いだり、手で払ったり、懐中電灯を当てて、退治しようとした… でも、どれも効果がなくて… ある日、いつもの様に…ばあちゃんの後ろを付いて歩いていたら、急にばあちゃんが井戸へ向かって走り出したんだ。 「…ばっちゃん!だめぇ!!」 …あの時…僕が、大岩のばあちゃんを止める事が出来たら… そんな思いが…ずっと胸の奥を痛めつける。 ”偏屈なじいさん“なんて呼ばれていた、後藤のおじちゃんも…同じ。 僕が…もっと早くに気が付いていれば…仙人のおじちゃんが間違って銃を撃つ事もなかったんだ… 止める事が出来た…でも、力が及ばなかった。 それは…僕が、馬鹿な子供だったから… そう… 馬鹿だから…お父さんに言ってしまったんだ。 「おとさん…僕ね、死ぬ人が分かるの…」 助けて欲しかった… どうしたら良いのか分からない、人と違う物が見えるこの目を…どうしたら良いのか…教えて欲しかった。 抱っこして貰った事も、構われた事も、無かったのに… 僕は馬鹿だから…助けてくれるかもしれないって…思ってしまったんだ。 「…車に乗れ…」 そう言われて、僕は何も考えずに車に乗った。 兄ちゃんが心配そうに僕を見送って…どんどん車は山へと向かって行った。 「お前が…殺したんだろう…?悪魔…」 そう言った…お父さんの顔を、僕は忘れた… ただ、とても恐ろしくて…泣いた事は覚えている。 …そして、グルグルに木に縛られて、真っ暗な山に置いて行かれた。 大きな声なんて出さない…涙なんて、流さない… ただ、この事は…人には言ってはいけない事だって…良く分かった。 鳥の声すらしない真っ暗闇の山の中…黙って項垂れていると、あまりの静けさに…自分の声の出し方も忘れてしまいそうになった。 「豪ちゃ~ん!」 「豪ちゃ~ん!どこだ~?」 そんな声と共に、いくつもの懐中電灯の黄色い光が見えて…僕は思った… …このまま、気付かれないで欲しい… 隠れるにも、縛られていた僕は身を隠す事が出来なかったんだ… 「あ、いたぞ~~!こっちだ~~!」 すぐに大人が集まって、木に縛り付けられた僕を助けると、優しく抱き上げて車に乗せた… あのまま…山に吸い込まれてしまいたかった… でも、僕は再び…この場所に戻って来た。 “もうじき死ぬ人が分かる” それは人には言ってはいけない事…お父さんのお陰で、それがよく分かった。 それからというもの…お父さんは…機会を伺っては僕を殺そうとした… 危ない崖に連れて行ったり…湖の上、ボートの上から落としたり…何とかして、僕を殺そうとした… そして、その度に言われた… 「お前は悪魔だ…人殺し…!死んでしまえっ!」 僕には、顔を歪めて、吐き捨てる様にそう言ったお父さんの方が…悪魔に見えた… 「お父さん…体に、モヤモヤが見えるよ…」 5歳になったある日、お父さんの体の周りに…あの、モヤモヤが見える様になった… この人が、父親でも、僕を愛していない事は幼い自分でもよく分かっていた。 だからかな… 全然、悲しくなかったんだ。 「お父さん…もうすぐ死ぬんだね…?」 顔を歪めて僕を睨みつけるお父さんに、笑ってそう言うと…思いっきり張り手を食らって…床に転げた。 次の瞬間、大きな体が僕の上に乗って…大きな両手が僕の首に伸びて来た。 「薫…薫…薫…薫…」 僕の首を絞めながら…お父さんは、ずっと…お母さんの名前を呼んでいた。 意識が遠のく間…僕は、ずっと聴こえて来るお父さんの声が、色を付けた帯の様に見えて…それがとっても、綺麗で…不思議と嫌じゃなかった。 ガコンと凄い音を立てて、兄ちゃんがやかんでお父さんを殴ると、逃げる様に家を飛び出すお父さんの背中が見えた… そして…それ以来、お父さんは帰って来なくなった。 「…どうして、あんな事されたの…?」 ボロボロと泣きながら兄ちゃんが聞いて来たから、僕は…咄嗟に嘘を吐いた。 「…言う事を、ちゃんと、聞かなかったから…」 幼いながらに、死ぬ人が分かるなんて…二度と言うもんか。って、そう思ったんだ… なのに… なのに… どうして、彼に言ってしまったんだろう… あなたは、僕を“天使”だと言った。 自分を守ろうとしてくれた…“天使”だと言った。 だから…あなたに言ったのかな…。 あなたがそう言うって…分かったから、僕はあなたに話したのかな…? あれ以来、誰にも言わなかった事を…初めて人に話したんだ。 それは、崖から飛び降りるのと同じくらい…勇気が要る事のはずなのに… いとも簡単に話してしまった。 そして、あなたは…いとも簡単にそんな話を信じてくれた。 惺山…好きなんだ。 あなたが死んでしまうなんて…僕は耐えられそうにない… 死ぬなら一緒に… そんな気持ちで、昨日…てっちゃんの家を飛び出した。 「あの事を話すぞ…」 ポツリと兄ちゃんの声を真似してそう言うと、家の裏で喧嘩を始める鶏の声に耳を澄ませる。 「キャサリン・ゼタ=ジョーンズ!ダメだよっ!喧嘩しないの!」 家の中からそう言うと、コケ…と返事をするキャサリン・ゼタ=ジョーンズに言った。 「…仲良くして…?雄なんて取り合わなくても良い…。35億居るんだから…」 僕の言葉が分かるのか…キャサリン・ゼタ=ジョーンズは喧嘩をやめて、大人しく雑草をついばみ始めた… …惺山に会いたい。 彼は、僕が嘘をついた事を怒っていないかな… …こうしてる間に、どこか、危ないところに行っていないかな… 「あの事を話すぞ…」 ポツリと再びそう言うと、惺山の長袖のTシャツを口元に当てて、涙を落とす。 …どうか、僕から彼を奪わないで… もし、僕が“天使”なら…あの人を死なせないで… 彼のピアノをもっと聴きたいんだ。彼の心の内をもっと知りたいんだ。 もっと…彼の腕の中に居たいんだ…。 「何しに来た!」 そんな兄ちゃんの怒鳴り声が外から聴こえると、玄関の傍へ行って耳を澄ませる… 「ご、豪ちゃんと湖に行くんだよ。健ちゃん、怖いよ…」 …清ちゃんだ。 「豪は遊ばない!今日は外出禁止にしたんだ!」 兄ちゃんはそう言うと、清ちゃんに言った。 「豪があの作曲家に会いに行ったら俺に教えろ!会って話したりしても同じ、全部俺に教えろ!良いな?」 「何でだよ…」 てっちゃん… 不満げに声を歪めるてっちゃんに苛ついたのか…兄ちゃんが乱暴に言った。 「うるさい。口答えすんな。俺が教えろって言ったら、教えろ!豪は何度も言いつけを破った。その罰だ!良いな?」 「嫌だよ…俺たちは友達を売ったりしない。それに、健ちゃんの方こそ、頭を冷やした方が良い。やり過ぎだよ。自分は年増の先生と出来てるくせに!」 …良いぞ! てっちゃん! 僕はずり落ちてくる惺山のスウェットとパンツを掴むと、思い切り上に引き上げて、てっちゃんと一緒に気合を入れた。 「はぁ?年増とか…し、失礼だろっ!」 動揺した兄ちゃんがそう言うと、てっちゃんは畳みかけるように言った。 「知ってんだよ?先生が企画した音楽祭。何の目玉もない上に、食べ物は焼き魚しか出ない。しかもだ!豪ちゃんの名前を使って、あの作曲家の先生にタダで出演を依頼したそうじゃないか!健ちゃん!矛盾してるじゃん!豪ちゃんには会わせないのに、おっさんを釣るのに、豪ちゃんの名前を使う…それってさ、どうなんだよっ!」 え…? 知らなかった… ムッと頬を膨らませると、口を尖らせて顔をしかめる。 …兄ちゃん、彼女に良い顔したいからって…僕の事を利用したんだ! 「そ、そ、そ、それは…俺の知る範疇にない…それに、焼き魚は健康に良いだろ…」 動揺した兄ちゃんはてっちゃんの猛攻撃にたじたじになると、玄関に手をかけて言った。 「とにかく…俺に教えろよ?」 「うるさい!年増に騙されて童貞を失った負け犬の癖に!」 てっちゃんの勢いにのまれた大ちゃんがそう言うと、兄ちゃんは玄関に掛けた手を離して、後ろを振り返って凄んで言った。 「ん?…もう一回言ってみろ?」 「な、な、何回でも言ってやるっ!年増に騙されて、身長差でほぼほぼオナニーしてる様なセックスしか出来ないくせに、偉そうに言うなっ!健ちゃんがしてるのはセックスじゃない!テンガだ!しわしわで、短足のテンガとセックスしてるんだぁ!」 …テンガ? 大ちゃんがそう言い切ると、パチパチと少ない拍手が起きて、兄ちゃんが沸々と怒り始める。 「どういう事だよ。俺が誰と付き合おうと関係ないだろ?テンガとか…失礼にも程があるだろ?」 「あの、おばさんとセックスするくらいなら、てっちゃんのお母さんの方が良い女だ!ボインだし、ワイルドだし、色気があるっ!」 …大ちゃん?! 「だ…大ちゃん、もう…止めろよ…!」 飛び火したてっちゃんがそう言うと、大ちゃんはグスグスと鼻をすすって言った… 「みんな言ってる…健ちゃんはブス専だって…みんな言ってる。」 「とにかく…!豪ちゃんをおっさんに会わせないなら、音楽祭の話もなしだ。小林先生には俺から言っておくよ。タダで講演を依頼するなんて、そもそも図々しいんだ。若い男の体に、とち狂ったとしか思えない!知ってる?俺も、色目使われるんだよ?」 「あ~はっはっはっは!!」 てっちゃんの口撃と、みんなの笑い声と言う鉄板技を食らうと、兄ちゃんはぐうの音も出なくなった。 ざまぁみろっ! 惺山にタダ働きをさせようとしていたなんて…最低だ。 彼は素晴らしい作曲家なのに! 素敵なメロディが入り乱れるあの曲も…寂しげで…胸の苦しくなるような繊細なあの曲も…楽しいポルカの曲も… 彼が作った曲はどれも素敵で、どれも大好き… そんな彼に…タダ働きをさせようとしていたなんて! …許せない!! 「勝手にそんな事するな!」 兄ちゃんが怒鳴り声で鎮圧しようとするけど…僕の仲間はそんな事でひるまない。 「こっちのセリフだ!」 声を合わせてそう言うと、みんなでガヤガヤと兄ちゃんの心を揺さぶる事を言った。 「俺が…小林先生に言いに行くけど、色目使われて気落ち悪いんだ。だから、誰か一緒に来てよ…。」 「ウゲ…キモ…」 「だぁから、一人じゃ嫌なんだよ。他の人は…おっさんに伝えて来てよ。」 「おじちゃんに言いに行く~!こんな暑い日に、わざわざ、18歳という若い体を欲しいままにするアウトの学校の先生なんて見たくないも~ん!まだ鶏とおしゃべりする、剥けてるおじちゃんの方がマシだよ。」 大ちゃんだけ…妙に小林先生に当たりが強い… きっと、昔…音楽の授業の時、縦笛を忘れた事を派手に怒られたのを根に持ってるんだ… 玄関の前で大きなため息を吐くと、兄ちゃんはみんなに降参して言った。 「…分かったよっ!今日だけ、外出禁止にして…明日からは、自由にする…。だから、彼女には言うなよ。あと、哲郎?!色目を使われたとか言うな。それはお前の勘違いだ!」 「いいや?胸板を触られた…マジでキモかった。」 …よし。 今日だけ我慢すれば、明日…彼に会いに行ける。 ズボンを引っ張り上げながら食卓の前に座ると、鼻息を荒くした兄ちゃんが玄関を乱暴に開けて、ドカドカと部屋に上がって来て言った。 「はぁ~~!ほんっと、お前の仲間はガラが悪いな?!年上の俺を脅してきたぞ?」 そんな言葉にジト目を向ける僕を見ると、兄ちゃんは怪訝な顔をして言った。 「なんだよ、豪…」 「豪ちゃんの名前を使って、惺山にタダで仕事させようとしたの?セコい…。兄ちゃんはいつもそう、セコい…。晋ちゃんの店で買い物もしないし、彼女は手近で済ませる。全てがセコい!」 首を振ってそう言うと、ジト目で兄ちゃんを睨みつけて言った。 「最低…!」 兄ちゃんはムキになって怒ると、台所に行って炊飯器を開けて、お茶碗にお米を盛りながら言った。 「兄ちゃんだって、若い女の子にモテるんだ!お店に来る女の子に、モテるんだ!」 「ふん…」 無我夢中にお米を食べまくる兄ちゃんを無視すると、作り途中のミサンガを持って来て、食卓の上にテープで止めて編み始める。 …ピアノの鍵盤の模様…これを、あの人にあげたい。 お守りの意味もあるんだって… だから一つ一つ…思いを込めて編んでる。 「フン!小学生の女の子みたいだね?豪なんて、勇ましい名前なのに!女みたいな顔で、女みたいな趣味で、女みたいにぎゃんぎゃん騒ぐ!」 そんな兄ちゃんの時代錯誤な嫌味なんて、右から左に流して聞き流す。 清ちゃんのお母さんに作り方を教えて貰ったミサンガも、もうすぐで完成しそう。 これを、彼の足に付けて…ふふ。うふふ…。 口元を緩めてミサンガを作っていると、お茶碗越しに様子を伺っていた兄ちゃんが言った。 「それ…あの人にあげるの…?」 「ん、ぅるっさい!」 自分は、年増の先生と出来てる癖に…人の事に首を突っ込まないで欲しい。 お茶碗を持って炊飯器に行くと、再び山盛りのお米を盛って兄ちゃんが戻って来た。 そして、僕がミサンガを編むのを、お茶碗越しに眺めて来るんだ… もう…! 「兄ちゃん…テンガって何?」 キョトンと不思議そうな顔をしてそう聞くと、兄ちゃんは僕から視線を逸らして聞こえない振りをした… きっとエッチな物なんだ… 大ちゃんはそう言う知識が豊富だから…きっと、そうなんだ。 「あの事…言わないで?」 お茶碗越しの兄ちゃんにそう言うと…兄ちゃんは口端をグッと上げて笑って言った。 「ははっ!どうかな?言っても良いんだよ?ははっ!」 「兄ちゃん…テンガって何?」 僕がそう言うと、兄ちゃんは僕から視線を逸らして…再び聞こえないふりをした。 あの事… それはまだお父さんの居た頃…女の子に間違われた僕は、てっちゃんのお母さんに会う度にスカートを穿かされていたんだ… 誰も何も言わなかった… だって、てっちゃんのお母さんは怖いから、みんな、何も言えなかったんだ。 「ん~、おトイレ~…」 そう言ってもじもじする僕を、トイレまで連れて行って…初めて僕が、男の子だって…気付いたそうだ。 その頃の写真を、兄ちゃんは独自のルートで入手して、こうやって脅しに使ってる。 髪の毛も短くして…着る物も男の子っぽくして、僕は今ではすっかり女の子に間違われる事は無くなった。 でも、彼の様に…長く伸ばすのも、素敵かもしれないって…思ってる。 指の間を通る髪の毛が、しなやかで…冷たくて、気持ちが良いんだ。 「テンガって…なんだろうね?兄ちゃん…」 「…知らない。」 大ちゃんのお陰で、僕は兄ちゃんのそんな脅しに対抗出来る言葉を手に入れた。 お茶碗に山盛りのお米を二杯…あっという間に食べ終えると、兄ちゃんは立ち上がりながら言った。 「兄ちゃんは、これから哲郎の父ちゃんと焼却炉まで行ってゴミを燃してくるから…ちゃんと言いつけを守って、今日は外出禁止で家に居るんだぞ!」 「はぁ~い…」 鶏の世話と…卵を集めておこう…あと、この服をきれいに洗って…明日、彼に返せるように…干しておこう… 「絶対だかんな!」 そんな凄みを見せると、兄ちゃんは玄関を勢いよく閉めて外に出かけて行った… 「ふんだ…」 口を尖らせながらミサンガを編んでいくと、最後の鍵盤を編み終えて、端を三つ編みにしていく… 「…あぁ、出来たぁ…!」 テープから外して両手に包み込むと、仏壇の前に座ってお母さんに言った。 「出来たの。…僕の手作りのミサンガ…見て?凄いでしょ…?明日、彼にあげてみる。でも…要らないって思うかな…?こんなの…大人は付けないかな…?もっと…鉄で出来た奴の方が良いのかな…?」 そう言って自分の腕に置くと、軽く留めて付けて眺める。 …惺山、右手の薬指に、指輪を付けていたんだ。 いつも大事そうに…撫でていたのに。…いつの間にか、無くなっていた。 「ああいうやつの方が…嬉しいかな…?」 写真の中…微笑みかけるお母さんにそう言うと、自分の腕に巻いたミサンガを見て首を傾げた。 …こんなもの、貰っても…嬉しくないかな…? 「こぉら!雄が怖がってる…もう、AKB世代はガッツキ過ぎだよ?…モー娘。世代を見てごらん?淡々と生活してるだろ?もう若くないんだから…無理するなよ。」 鳥小屋を掃除しながらそう言うと、手に持った卵を籠に入れてフワフワの藁を敷き詰めてあげる。 コッコッコッコ… 気持ち良さそうに喉を鳴らして、藁の上を行ったり来たりする鶏を眺めて汗をぬぐうと、ふと、足元に羽化した形跡のある卵の殻を見つけて眉を下げた… 「…温めていたんだ…」 でも、ダメだった… 冷たくなった雛の死骸を手に取ると、裏庭に作った共同墓地に行って、穴を掘る。 五体満足…丈夫で骨太の雛は、圧死した様子だった。 きっと…昨日の台風で、パニックになった大人の鶏に踏まれたんだ… それを可哀想と思う…? 酷いと…思う? これは…自然な事なんだ… 誰も止められない。 命は尊いけど、脆いもの…そして、生活の中…簡単に失われていくもの。 スーパーに並んでる豚肉は、寿命の尽きない豚を殺して作ってる… 食肉は…生まれた時から、殺す時の事を考えて育てられるんだ。 牛肉もそう…逃げられない屠殺場への道を、泣きながら歩いて行くんだ。 それを…可哀想と…酷いと思う? 乳牛はお乳が沢山出る様に人工的に操作されて、乳首に機械を付けられて…毎日絞られる。 本来は、赤ちゃんのためのお乳を…人間の為に、タンクいっぱいに絞られる… 乳腺炎になるからって…明日も…その次の日も…繰り返し絞られ続ける。 そんな生き物の犠牲の上で成り立っている、自分たちの生活を…酷いと思う? 罪深いと…思う? 「天国に行きな…」 雛の上に土をかけて両手を合わせてそう言うと、空を見上げてため息を吐く。 答えなんて出せない。 ただ、必要な分だけ…それ以上は、多すぎる。 そんな塩梅が…取れれば一番良いのにって…思う。 死ななくても良い命が死んだり、物の様に命が扱われる現実があるのに、人は見たいものしか見ないのか…下らない三文芝居に涙を落として、下らない有名人の死を悲しむ。 命に変わりはないのに…分からないよ。 惺山の先生だったら…何か教えてくれるかもしれない… とっても面白い人だった。 ふわふわとした言葉の端々に意味が込められているんだ。それを見つけて返すと、とっても嬉しそうに笑って…もっと面白い事を教えてくれる。 僕はあの人の事…好きだよ。 先生、鶏の命と…人の命…その違いは何? 僕には、分からない… 惺山の命と…この圧死した雛の命…その違いは何…? そんな疑問が、突如、頭の中に浮かんだ。 眉間にしわを寄せて、歪んだ瞳から涙を落とすと、嗚咽が漏れそうな口を手で押さえた。 「惺山は、だめぇ…死んだらだめ…!」 丸めた背中を揺らしながら喉の奥でそう言うと、止まらなくなった涙を雛の墓前に落として、声を震わせながらすすり泣いた。 惺山の命と…スーパーで売られる豚の命…その違いは…? 次から次へと押し寄せるそんな疑問を、頭から振り払う様に首を振ると、集めた卵を手に勝手口から家へと戻った。 「有精卵が混じってる…」 そう言って太陽の光に卵をかざしながら、ひとつひとつ卵の中を透かして確認していく… この中には、オスとメスが交尾して受精を果たした…有精卵が混じっているみたいだ。 温めれば雛が生まれて、鶏に育つ…既に立派な命。 温められて10日も過ぎた卵なら、こうして太陽に照らすと透けて見える黄身に少しだけ変化をみられるんだ。 だけど、それ以前は…排卵の様に産み落とす無精卵と何ら変わりはない。 無と有…何ら違いはないんだ… 命って知れば知る程…冷たくて無機質で、感情なんて持たない…まるで呼吸をするのと同じように、産まれて…死んで行くものだって、思う時がある… なんの、意味も持たないみたいに…無機質で冷たい。 そこに…価値や意味を見出すのは…人。 これが、惺山の先生が言っていた…“主観”と呼ばれるものなんだろうか… だったら、僕は主観に支配されてる。 命の価値は平等と分かっている癖に、彼の命だけ…特別に思うんだもの。 現実なんて…くそ食らえ!って…思うんだもの。 「これは…有精卵。後は…多分、無精卵…」 仕分けをすると、有精卵…5つを手に取って鳥小屋へ戻る。 「ごめんね…誰のか分からないけど…温めてあげて?」 そう言って藁の上に卵を置くと、当たり前の様にお腹の下に隠してアンヘッシュが温め出して、得意げな顔を僕に向けた。 「ふふ…優しい子。」 アンヘッシュは…この鶏の群れの…第三世代、個性の強いまとまりのない世代に産まれた鶏。 …流されない、自分を持ってる、そんな世代なんだ。 それは、悪く言えば…まとまりがない…なんて言う。 「違うよね…?自分の定規で、測れるだけだ。」 そう言ってアンヘッシュの頭を撫でると、気持ち良さそうに首を揺らしながら伸ばした。 「豪ちゃ~ん!!」 遠くで、てっちゃんが僕を呼んだ。 「なぁに~~?」 立ち上がって鳥小屋を出ると、同じ様に大きな声でそう言った。 「おっさんが、心配して、晋ちゃんの店の前をウロウロしてるよ~~!」 そう言って指さしたてっちゃんの手の先を見ると、晋ちゃんのお店の陰から、僕を見る惺山が見えて…胸の奥が一気に溢れて、頬が痛いくらいに笑顔になる… 「せいざぁ~~~ん!」 そう言って彼に手を振ると、あの人は恥ずかしそうに手を振って応えた。 そんな、彼の反対側の手には、トイレットペーパーが2個も… 晋ちゃんが売りつけたんだ…!ん、もう! 「明日、会いに行くよ~~~!今日は、兄ちゃんが怒って、家から出られないんだ~~~!」 大きな声でそう言うと、彼は何度も頷いて手を振った。 声を聴かせてよ… あなたの、素敵な優しい声が聴きたいよ… ピアノの音色でも良い… だって、あなたは…ピアノで話すもの。 僕はそれを聴くのが大好きなんだ… 「ふふっ…ちゃんと麦わら帽子をかぶってる。そうだよ…熱中症になっちゃうからね。暑さに慣れていない人は、頭を守って…良く休んで…お米を食べるんだ。そうすれば、病気にはならない…」 ニッコリと微笑みながら遠くの彼に呟いてそう言うと、体を揺らしながら大好きな彼を遠目に見つめた。 「おじちゃんは、豪ちゃんが気になって気になって仕方がないんだねぇ~?」 そんな大ちゃんの舐めるような質問を受けると、惺山は体を揺らして慌てて何かを言った… …聴こえない。 ここからじゃあ…あなたの低い声が聴こえない。 僕は、あなたの声が、今すぐ…聴きたいんだよ… 「…見て?これが烏骨鶏だよ?」 そう言ってジョボビッチを両手で抱えると、大好きな彼の目の前に立って、掲げて見せた。 「あ…」 そう言った驚いた顔の彼と、その周りで同じ様に驚いた顔をする…てっちゃんと、清ちゃんと、晋ちゃんと、大ちゃんを尻目に…僕はジョボビッチを掲げながらもう一度言った。 「…ん、惺山、烏骨鶏だよ?」 兄ちゃんが話しちゃダメって言った事を忘れた訳じゃない。 家に居ないとダメだって事を忘れた訳じゃない。 でも…彼の声が…どうしても聴きたかったんだ… 「あ~…俺は、何も知らない…」 晋ちゃんはそう言うと、クルリと踵を返して店に戻って行った。 「僕も…知らない…!」 大ちゃんはそう言うと、突然しゃがみ込んで地面の土を掘り始めた。 「あっ!…うん…俺も、何も見てない…」 清ちゃんがそう言って大ちゃんと地面を掘り始めると、てっちゃんが呆れた顔をして、ため息を吐いて言った。 「…もう…、一回だけだぞ?」 てっちゃんの言葉に頷くと、ジョボビッチを横にズラして…僕を見下ろす彼を見上げて、ニッコリと微笑んで言った。 「普通の鶏と違う見た目でしょ?地肌が黒くて…卵もたまにしか産まない。でも…そのおかげで、とっても栄養の高い卵を産むんだよ?ふふ…」 そんな僕の言葉に、瞳を細めて大好きな優しい笑顔をくれると、彼は首を傾げながら言った。 「…うん。ダチョウの…雛みたいだね…」 ふふ… うふふ…! 大好きな…彼の、優しくて低い声を聴いて、嬉しくて…嬉しくて、体を捩ってもじもじした。 「うん…。ダチョウみたいなの…」 そう言って彼を見上げると、僕を見つめて優しく微笑む笑顔に…胸の奥が苦しく締め付けられる。 お母さん…僕は彼が大好きみたいだ。 どうか…こんなに大好きな人を、僕から奪わないでって…神様に言ってよ。 彼に纏わり付くこのモヤモヤが、今すぐ無くなる様に…助けてよ…! 「豪ちゃん…そろそろ健ちゃんが帰って来るよ…」 そんなてっちゃんの声に、目の前の彼を見上げると、じっと見つめて…目に焼き付ける。 次も…会えるでしょ…? 明日も、居るでしょ…? まだ、死なないでしょ…? いつも唐突に訪れては、モヤモヤと一緒に命を奪っていく“死”が…大嫌いだ。 僕の努力なんて…報われないって、嘲笑う様に…いとも簡単に命を奪って行く”死“が大嫌いだ… 「明日…また、ピアノを聴きに来たら良い…」 まるでそんな僕の気持ちが分かるみたいに…あなたは優しい声で、そう言った。 不思議なんだ。 どうして僕の気持ちが分かるの…? どうして、僕の心の声が…聴こえるの? 昨日だって…あなたは、僕の気持ちが分かるみたいに、心配なんだろって…分かってるって何度も言って…僕に寄り添ってくれた。 僕の不安な気持ちを分かってくれて、宥めて、慰めてくれた… 「…うん。」 俯いてそう言うと、何度も不振り返りながら、一本道の上を…自分の家へと向かう。 手に抱いたジョボビッチを放してあげて、玄関の前で彼を見つめて、僕に笑いかけるあの人の笑顔を目に焼き付けた。 彼が死んでしまったら…どうしたら良いの… 僕の事を、分かってくれる…そんなあの人を失ったら、どうしたら良いの? そんな事を考えては、止まらなくなる涙をどうする事も出来ないで…ただ、泣き続けるしかなくなるんだ。 …怖い。 怖くて怖くて、死んでしまいそうになる… 「ただいま~。おぉ…偉いじゃないか、ちゃんと家に居た!」 玄関を普通に開いて、機嫌の直った兄ちゃんがそう言って部屋に上がって来ると、泣きべそをかいた僕の頭を撫でた。 「これ、哲郎の父ちゃんに貰った。仏壇に置いておいて…?」 そう言って渡されたイチゴを受け取ると、仏壇の前に置いて手を合わせた。 …お母さん、イチゴをあげるから…惺山を助けて… 「いや、今回の台風はマジでやばかった!斎藤さん家なんて、せっかくの新築が床下浸水してたもん!そう考えると、こんなボロ家でも…良い立地に立ってるだけで、被害もなく過ごせるんだ。不思議なもんだな?」 兄ちゃんはケラケラ笑ってそう言うと、畳の上にごろんと寝転がって言った。 「豪…腰…」 「ん、もう!豪ちゃんは、兄ちゃんのお手伝いさんじゃないのにぃ!」 そう言って頬を膨らませると、兄ちゃんの背中に乗って、腰をトントンと叩いてあげる。 「あ~~~、良い~~~!もっと、強く!腰の次は手と…足も…」 …これが惺山だったら、僕は喜んでやってあげる。 でも、兄ちゃんは家にいる間、ずっとこうして僕にお世話をさせるんだ! まるで、クレオパトラみたいだ…! 「先生にして貰ったら良いじゃん…年を取ってるから、コリとか…張りとか…どこを揉んだら良いのか、詳しいかもしれないよ?」 兄ちゃんの顔を覗き込んでそう言うと、へっ!っと口をひん曲げた顔をして兄ちゃんが言った。 「そういう事はしなくても良いんだ。それに、豪の方が、ちょうど良い俺の塩梅を分かってるからね~~。」 ん、もう! そんな事言って…!何の得もない肉体労働を、僕にやらせるんだ!

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