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#12

「じゃ…明日ね。お休み…豪ちゃん。」 「うん…」 大人の惺山は、何を考えているのか…全く読めない。 普通の顔をしてそう言うと、暗い夜道をとぼとぼと帰って行く…僕はそんな彼が見えなくなるまで見つめ続けると、玄関の扉を閉めて、食卓に座った兄ちゃんを横目に見ながら仏壇の前に行く。 …何だか、いつもと違う… そんな違和感を感じながらも、怖くて兄ちゃんと話せないでいると、窓の外から鈴虫の鳴き声が聴こえて来た… リンリンリン…と鳴る羽音に耳を澄ませると…音色の奥にゴロゴロと転がる音を感じて口元を緩めて笑う。 まるで…喉の奥を鳴らしてるみたいだ… もうすぐ秋… その前に、僕は一大イベントをクリアしなければいけない… バイオリンなんて弾いた事も、触った事も無かった楽器を、演奏出来る様にしなければいけないんだ。 どうしてかって…? 大好きなあの人の隣に立って、一緒に…同じ曲を弾いてみたいんだ… “愛の挨拶”を… 惺山の作ってくれた“指を置く場所の書かれた紙”を見つめながら、バイオリンを首に挟んで、左手の指を立てて弦を押さえて行くと、頭の中で彼の弾いた…”愛の挨拶”が聴こえてきて…うっとりしながら瞳を閉じる。 こんな弦が4本張ってあるだけの物で…あんな美しい音色を出せるなんて… 素敵すぎる… 胸が痛いくらい…恋焦がれてしまう… 「豪…」 お好み焼きを食べ終えたのか…兄ちゃんは仏壇の部屋の前に立つと、僕を見下ろして言った。 「…兄ちゃんに、本当の事を言ってよ。彼の事、好きなんだろ…?」 そんな兄ちゃんの声に伏せた瞳を上げると、じっと仏壇の中、笑い続けるお母さんの笑顔を見つめる。 僕の耳の奥には…彼の弾いた“愛の挨拶”がずっと流れ続けて…まるで…大丈夫だよって、言っているみたいに…優しくて、温かい音色を響かせている。 …本当の事を言っても…良い事なんて無い… そう…思っていた。 でも… 「うん…」 笑顔で微笑むお母さんを見つめながらそう言うと、項垂れて自分の胸に抱えたバイオリンを撫でて、深いため息を吐きながら言った。 「ごめんなさい…。普通じゃなくて、ごめんなさい…」 「良い…そんな事、どうでも良い…」 え…? そう言った兄ちゃんの言葉に目頭が熱くなると、下唇を噛みしめながら顔を上げて、兄ちゃんに言った。 「嘘だ!」 「…嘘じゃない…。兄ちゃんは、嬉しかった。お前が、自分の事を”僕”と言って…彼と普通に話している姿を見たら、本当の弟を見た気がして…嬉しかった…」 あぁ… 僕を見つめて嬉しそうに眉を下げて微笑む兄ちゃんを見つめると、胸の奥がじわじわと鈍く痛むのは…どうしてだろう… お尻に根っこが生えてしまった様に、兄ちゃんを見つめながら体が動かなくなると…意図せず、涙が落ちて頬を伝う。 兄ちゃんはそんな僕の隣に静かに座ると、顔を覗き込む様に身を屈めて言った。 「…”変わった子”なんて言われ続けて…そうしなくちゃいけないって、思ったのかな…。それとも、そうした方が生き易かったのかな…?」 あぁ… バイオリンを指先で撫でながら、静かに僕に話しかける兄ちゃんの瞳を見つめて、胸の奥で疼く衝動に…身を任せて口を開いた… 「違う…お父さんに…捨てられた時、本当の事なんて…言っちゃダメだって…思ったの。」 僕の言葉に、悲しそうに瞳を歪める兄ちゃんを見つめると、鈍かった胸の痛みが、鋭くなって…僕の胸を突き刺していく… 「本当の…事って…?」 あぁ…惺山… 僕はどうしたら良いの…? 胸が痛いんだ…このまま、嘘をつき続けるのが、辛くて… 感じない様にしていた罪悪感と、自分を偽っている後ろめたさを…もう、手放してしまいたい。 でも…怖いんだ… 惺山… 僕は、普通じゃない… 耳の奥に聴こえていた彼の“愛の挨拶”が曲の終わりを迎える頃…カチカチに凍って固まった…僕の胸の奥の、決心が…揺らいだ。 「…もうすぐ…死ぬ人が…分かる。」 言った… 僕は…言った… 固まった体で目だけ動かして兄ちゃんを見ると、兄ちゃんは瞳から大粒の涙を落として、声を出して泣いた… そして、僕を思いきり抱き締めると、何度も頭を撫でて言った。 「そうか…そうか…だから、あぁ…!そうだったんだ…!豪…!」 それは…ずっとそうして貰いたかった…“共感”と呼ばれる様なもの… 得られる筈もないと思っていた…もの。 「…初めは、何だか分からなかった。でも…大きくなるにつれて、それが何だか分かった。…もうすぐ、死ぬ人が分かる。それをお父さんに話したら…山に捨てられたんだ。だから…」 「…言えなくなったんだな…!!」 …うん 「うん…うん…!」 僕を抱きしめる兄ちゃんに両手で抱き付くと、溢れてくる声をそのままに出して…震える体と一緒に吐き出しながら泣いた。 今までの…一切合切の悲しみと…理解して貰えないもどかしさと、諦めと、1人で抱える絶望を…兄ちゃんに涙で伝える… 今まで…誰にも理解なんてされないって思っていた。 こんな話、信じて貰えないって思っていた。 ”悪魔”だって…罵られると思っていた… なのに…兄ちゃんは、僕の悲しみや…辛さを、一緒になって感じる様に…泣いてくれている… 「もうじき死ぬ人の体の周りに…モヤモヤが見えるんだ…。だから、その人の傍に居て…守りたかったの。その為に、変な子で居た方が楽だった。病院の安藤先生は…なんとなく気付いてる。でも、内緒にしてくれてる…」 仏壇の前…兄ちゃんと向かい合って両手を繋ぎながらそう言うと、兄ちゃんは僕の頬を撫でて、瞳を歪めて言った。 「…じゃあ、あの人も…」 あの人…? あぁ、惺山の事だ… 「そうだよ…。」 コクリと頷いて兄ちゃんを見つめると、瞳を歪めて涙を堪える兄ちゃんに言った。 「教えたんだ。僕が…もうじき死ぬ人が分かる事も…。彼がそうだって言う事も…。それでも、かわらず…普通にしてる。」 呆れた様に笑ってそう言うと、兄ちゃんはボタボタと涙を落としながら笑って言った… 「はっはっはっは…そうかぁ、そうだったのかぁ…!だから、台風の時…あぁ…!そうか…それで、あぁ…!!そうだったんだ…」 そうなんだ。 僕は、ただの“変わった子”じゃない… ”もうじき死ぬ人が分かる事を隠してる“…ただの15歳だ。 そして…もうじき死ぬ人を、愛してしまった…15歳だ… 家の外で鈴虫が大合唱を始める夜。 窓から入る…涼しい風に吹かれながら、笑顔のお母さんを前に泣き止んだ兄ちゃんと向かい合って、念を押して言った。 「誰にも言わないで…お願い…」 「言わない…お前が10年もひた隠しにして来た事を言ったりしない…。俺は、お前の兄ちゃんだぞ?何があっても言わない。お前が悪者になっても、お前が”変な子”と言われても…絶対に言わない…」 兄ちゃんはそう言うと、僕の頭を撫でてニッコリと微笑んで言った。 「お帰り、豪。俺の弟…大事な、優しい弟。」 嬉しい… 理解して貰えるんだ…こんな事、分かって貰えるんだ… 兄ちゃんも…惺山と同じ、僕を”悪魔”だなんて言わなかった。 ”優しい弟”だなんて…言ってくれた。 それがとっても嬉しかった… あぁ…惺山、あなたのお陰で…僕はまた救われた。 あなたが後押ししてくれたから…自然と話してしまったよ。 ずっと…隠していたのに。 「お前が…彼を好きな事…彼は知ってるの…?」 布団に入ると、兄ちゃんが天井を見つめながらそう聞いて来た。 「知ってる…」 僕はポツリとそう言うと、兄ちゃんの布団に手を伸ばして言った。 「手を繋いで…寝ても良い?」 「はは…良いよ?」 照れた様にそう言うと、兄ちゃんはグイッと体を寄せて、僕の手を握ってくれた。 本当の僕を見て貰って、本当の僕に触れてもらう。 たった、これだけの事なのに…とっても心が気持ち良い… 彼を助けられないまま…死なせてしまう…そんな恐怖を消す事は出来ないけど、その恐怖を…理解して貰える人が出来た。 僕の…兄ちゃんだ… 「コッコッコッココケコッコ~~~~!」 今日も借りて来た雄は…威勢よく第一声の鳴き声を上げる。 続く様にみんながコッコッコッココケ~~~!と鳴いて、羽ばたく羽音を聴かせる… あぁ…朝だ… 布団から起きると、兄ちゃんはいつもの様にうつ伏せになって死んだ様に眠ってる。 「ふふ…変な寝相…」 クスクス笑いながら寝ぼけた頭で台所に立つと、勝手口から外に出て洗濯物を触る… 「あぁ、乾いてる…良かった…」 手早く取り込むと、居間にドサッと重ねて置いて、再び外に出た。 「産んだかな~?」 籠を片手に鳥小屋へ行くと、白くて立派な卵を1つずつ籠に入れて行く。 「貰うよ?いただきます…!」 卵泥棒の僕は、ジト目で見てくるジュリア・ロバーツにそう言うと、ペコペコ頭を下げながら鳥小屋から逃げる様に出る。 彼女は気性が荒いんだ…! この前も、不意に突かれて、追いかけ回されたもん… 彼女はモー娘。世代…一番の年長組だ。だけど、どこが怒りのポイントなのか…未だに分からない。 庭の茄子を剪定ばさみで収穫すると、卵の籠に入れて、急いで台所へ戻った。 「今日は…茄子のお味噌汁と…卵焼き…あとは…納豆でいいや…」 台所に立って、野菜に水を掛けながらつま先で蚊に刺された足を掻くと、勝手口から隣の家のおばちゃんが入って来て言った。 「豪ちゃん、昨日作り過ぎちゃったの、これ食べて?」 「え~、良いの?ありがとう。」 それは美味しそうな…魚の煮つけ。 「卵…持って行って?」 そう言っておばちゃんに卵を渡すと、美味しそうな魚の煮つけの匂いを嗅いで身悶えする。 …あぁ、良い匂い!惺山にも食べさせてあげたい…! 鍋に出汁を取って適当に切った茄子を入れながら、兄ちゃんを起こす。 「兄ちゃん…!今、5時30分だよ…!」 「んぐぐ…んぐ…!」 兄ちゃんは、そんな変な呼吸音をさせると、芋虫の様に布団から這い出て、食卓の前に転がった… いつもの事…。兄ちゃんは、寝起きが悪いんだ。 フライパンに卵を割り入れてじっと見つめていると、あっという間に真っ白になって行く白身と黄身のコントラストが、真っ黒のフライパンを鮮やかに染める。 「兄ちゃんは…ベーコンとか…ウインナーが食べたいよ…」 そんな贅沢を言う兄ちゃんの目の前に、さっきおばちゃんから貰ったキンメの煮つけを置いて、ガン見し始める兄ちゃんに言った。 「お隣のおばちゃんがくれたんだ。すっごい肉厚だね?」 「ほほほほ!これは!旨そうだ!」 朝からご機嫌になった兄ちゃんは、味噌をとかす僕の隣で目玉焼きをお皿に移してくれた。 …きっと、早くご飯が食べたいんだ。 「豪、兄ちゃんのお米…いつもよりも多く盛って!」 「はいはい…」 食卓にお茶碗とどんぶりを置くと、やっと朝食が整って、兄ちゃんと一緒に両手を合わせていただきますをした。 「わ~~!旨い!このキンメは脂が乗ってる!!」 「ふふ。本当だ…!きっとおばちゃんの高知に嫁いだ娘さんが送ってくれたんだよ。」 こんなキンメダイ…スーパーなんかじゃ売ってない! 急いで少しだけ取り分けると、小さなお皿に移してラップをかけた。 これは絶対、彼に食べさせてあげたい! そんな僕を見ると、兄ちゃんは眉毛を下げて様子を見る様に横目に見て言った。 「…彼は…朝ご飯は…食べてるの?」 …ん? 聞いてくれるの? 僕の愚痴を…? 僕は体を兄ちゃんに向けると、ワザとらしく困った顔をしながら、ため息を吐いて言った。 「それがね?パリスの卵かけご飯しか食べて無いんだ!買い物にも行かないし!も、ほんっと、僕がいないと何も出来ないんだよ?栄養も偏ってるし、この前なんて何も食べないで過ごすから、バタンって倒れたんだ!はぁ~!だからね、僕がちゃんと食べなさいって言って、お世話してるの。」 「はは…ははは…」 兄ちゃんは僕の愚痴を聞くと、乾いた笑いをして言った。 「…なんだ、付き合ってるみたいな言い方だな…」 「そうだよ?僕たちは両想いなんだ!」 「はぁ!?」 「いつも愛し合ってる…昨日も…」 「待って!聞きたくない!」 突然兄ちゃんはそう言うと、僕の口に手を当てて言った。 「それ以上…聞きたくない!」 …なんで? 正直に話す事はとってもラクチンで、僕はすっかり肩の荷が下りたのに… 「そう…?」 眉間にしわを寄せる兄ちゃんを首を傾げて見ると、キンメの身を箸で摘まんでお茶碗に乗せた。そしてお米と一緒に口の中にぱくりと入れて頬張る。 あぁ…美味しい! お味噌汁を飲んでご馳走様をしたら、次は…洗濯を済ませないと。 「兄ちゃん…洗濯機回すよ?」 「…おお。」 ずっと眉間にしわを寄せっぱなしの兄ちゃんに首を傾げっぱなしにすると、取り込んだ洗濯物を畳みながら借りたままの彼の服を丁寧に畳んで、ひとまとめにしておく。 洗濯物を入れた兄ちゃんが洗濯機を回す頃、僕は流しに立って洗い物をしながら首だけ動かして聞いた。 「兄ちゃん?東京には何を着て行ったら良いかな?」 「…はっ!いつもと同じで良いよ…!あっ!待って!ダメ!もっと…襟が詰まってて…袖の長い服にしなさい…!」 兄ちゃんは突然意見を変えると、タンスの奥から七分袖を出して言った。 「これ…」 「暑いよ…」 「暑くない…露出の多い服は…どうかな?ん~、ちょっと、どうかな?」 …はぁ? 「ん、もう…いいよ。いつもと同じにするから…」 怪訝な顔をしてそう言うと、朝の支度を済ませて、鏡の前で短い髪をブラシでとかした。 「…じゃあ、兄ちゃんは仕事に行くから…気を付けて行って来る様に!」 「はぁい。兄ちゃんも気を付けて行ってね?」 僕がそう言うと、兄ちゃんはいつもの様に僕の頭をポンポン叩いて玄関を出て行った… ふふ…そう、いつも通りに… あんな話をしても、兄ちゃんは僕を山に捨てなかった… あんなに心配して…あんなに怖がって…誰にも言えなかった事を話しても…兄ちゃんはいつもと変わらず、僕に接してくれた。 「…良かった…」 穏やかな心を体の上から撫でる様に、胸の上に両手を当てて、深く深呼吸しながらそう呟いた。 ピーピーピーピー 「あ、洗濯が終わった…!」 急いで洗濯機から洗濯物を取り出して、勝手口から外に出ると、お隣のおばちゃんが一足先に洗濯物を干し始めていた。そして、僕を見つけると、目じりを下げて微笑んで言った。 「あ、豪ちゃん。魚どうだった?」 「おばちゃん!めちゃくちゃ美味しかったよ!あんな立派なキンメダイ、スーパーじゃ手に入らないだろうって兄ちゃんがビックリしてた!高知の娘さんが送ってくれたの?」 僕の言葉ににっこりと笑うと、おばちゃんは嬉しそうに笑って言った。 「そうなのよっ!豪ちゃん、さすが良く分かってる!」 手際よく洗濯物を干しながらおばちゃんと話しに花を咲かせると、今度は、鶏の小屋の掃除を始めた。 こうして、家の事を超特急で済ませると、部屋に戻って服を着替えた。そして、麦わら帽子とキンメの煮つけを手に持って、大急ぎで玄関を出た。 「せいざ~~ん!」 彼の家の前から彼の名前を呼んで走って向かうと、縁側で卵かけご飯を食べる彼に抱き付いて言った。 「兄ちゃんに…話しちゃった!」 何の事と勘違いしたのか、妙に体を固める彼を他所に、手に持ったキンメの煮つけを彼に渡しながら、とくとくと話した。 「僕…ずっと言ってなかったけど、昔…”もうじき死ぬ人が分かる”ってお父さんに言った事がある。そしたら、悪魔って言われて…山に捨てられた。すぐに村の大人に助けられたんだけど、その時、もう…この話は誰にも話さないって心に決めた。だけど、あなたに話してしまったからかな…?昨日…兄ちゃんにも話しちゃったんだ。」 僕の話をクスクス笑いながら聞いて、キンメの煮つけのラップを剥がすと、クンクンと鼻を鳴らしながら得意げな顔で彼が言った。 「…で、どうだった?」 …なぁに? まるで、こうなる事が分かっていたみたいな顔をする! キンメの煮つけを食べる彼の腕にもたれかかると、自然と溢れて来る笑顔のまま、彼の腕を叩いて言った。 「なぁんだ…こうなると分かってたの?兄ちゃんは…僕の今までの行動の理由を理解してくれて、一緒に泣いてくれた。それが、とっても…嬉しかった。」 そっと僕の頭を撫でると、彼は穏やかに、低くて、優しい声で言った。 「美味しいね…この魚。」 「キンメダイだよ?高知県のブリブリの脂の乗った、最高級のキンメダイ!隣のおばちゃんに貰ったの。」 僕がそう言うと、彼は優しく笑いながら僕の顔を見て言った。 「…豪ちゃんはね、可能性の中の一番悪い結末ばかり考えてしまうみたい。台風の時だってそうだ。木は飛んで来たけど俺は死ななかっただろう?だからね…自分の想像した最悪の未来しか無いなんて…思い込まない事だ。」 …分かってる。でも、怖いんだ。 「ふぅん…」 口を尖らせて鼻で返事をすると、惺山はそんな僕の髪を撫でながらケラケラ笑って言った。 「まぁったく!…まぁ、兄貴に話せて良かったじゃないか…豪ちゃん。」 「うん!」 彼と一緒に居ると、撫でられる髪の一本一本が喜ぶみたいに…じんわりと温かく感じるんだ。 でも、それは…きっと…気のせい。 昨日の残り物のトマトをひとつ摘むと、口の中に放り込みながら彼にもたれかかって言った。 「昨日…僕と惺山が話してるのを見たら、兄ちゃんは…どうしてか…嬉しくなったんだって。それで、東京に行くのも許してくれた…。そして、僕が惺山を好きな事も許してくれた…。ねえ?正直に話すって…とっても清々しいね?だから、兄ちゃんに僕たちは両想いで、愛し合ってるって言ったんだ。そしたら…」 「ゴホッ!ゴホホホッ!」 突然、惺山が咽て咳き込むから、僕は慌てて彼の背中を叩いて顔を覗き込んだ。 「ん、もう!慌てて食べるからだよ?」 そう言いながら部屋に上がると、台所で水を汲んで縁側の彼に急いで持って行った。 「…はい、飲んで?」 彼の口元に水を運んで飲ませると、顔を赤くして涙目になった惺山が言った。 「そんな事…他の人に言ったらダメだ。」 はぁ…? 「そんな事って?」 真っ赤になった彼の顔を見つめたままそう尋ねる僕に、彼は大きくため息を吐いて言った。 「だから、エッチしましたとか…愛し合ってるとか…そんな事だよ。例えば、豪ちゃんが兄貴と小林先生のエッチを細かく聞いたら、どう思う?」 「ウゲっ!」 それは…最悪! 僕の歪んだ顔を見て深く何度も頷くと、惺山はジト目で僕を見て言った。 「そう、それだよ…。ウゲッ!だ…。だから、そんな細かい所までは、普通の人でも話したりしないんだ。良いね?気を付けて?塩梅が大事だよ?」 朝食を終えた彼が、そう言って後片付けを始めるのを横目に見ながら、今朝、兄ちゃんに話してしまった内容を思い出して、背中に冷汗をかく… 「わ、分かったぁ…気を付けるね?」 そうか…言っちゃダメな事もあるのか… 特に、こう言う事は…人に話す事ではないんだ。 ガタガタガッタガタ…! 不意に背後で、惺山が縁側の雨戸を閉め始めた。 「もう、行く?」 振り返って彼を見上げながらそう尋ねると、惺山は頷いて答えた。 「行く行く…。道路が混む前に行って…夕方前には戻って来たいからね…」 彼のその言葉を聞いて、慌てて靴を脱いで縁側から居間に入ると、閉まって行く雨戸を見つめながら彼の背中に抱き付いて言った。 「惺山…キスしたい…」 だって…大好きなんだ…彼が大好き。 「良いよ?もう…豪ちゃんは可愛いんだから…」 彼はふざけてそう言うと、真っ暗な部屋の中で、僕に優しくて魚の味のするキスをくれる。 「魚の美味しい匂いがした…」 クスクス笑ってそう言うと、惺山は吹き出し笑いして言った。 「豪ちゃんはトマトの味がした。」 あぁ…もう!大好き!! でも…こんな事、他の人に話しちゃダメなんだ。 ずっと隠し事をしてきたせいか…一度、話始めると止まらなくなるみたいに話したくなって…つい、余計な事まで言ってしまった… だから、兄ちゃんはずっと眉間にしわが寄っていたんだ… ガララ… 玄関を閉めて彼の車に乗ると、窓を開けてシートベルトを付ける。 「遠い?」 「…いや?そんなに遠くないよ。高速道路だと2時間とちょっとで着く。」 彼はそう言って運転席に座ると、胸ポケットに入れた眼鏡をかけてシートベルトを締めた。 「あっふふ…!変なの~!」 彼の眼鏡を指さしてそう言うと、惺山は首を傾げながら言った。 「なぁにが…」 「この前はかけて無かった!」 「この前は…危険運転したんだ。車も少ないし…良いと思って…。でも、今日、行くところは危険だからね?ちゃんと見える様に…して行かないとね。」 そう言いながらエンジンをかけると、彼は慣れた手つきで車をバックさせて言った。 「出発進行~~!」 「わぁ~~い!」 途中、わが村の自慢…道の駅…ゆめとぴあの前を通ると、“音楽祭”の準備に駆け回るてっちゃんたちを見つけて、大きな声を出して手を振った。 「てっちゃ~~ん!」 「あ~~!豪ちゃん、ずるい!遊びに行くんだ~~!」 そんな晋ちゃんの声にむふむふと笑うと、体を戻して運転席の彼に言った。 「惺山先生は…講演会で、何のお話しするの?」 「あっはっはっは!先生なんて…あっはっはっは!ほんと、豪ちゃんは変な子。」 ふふ…! 彼に言われる”変な子”は、全然、嫌じゃない… 「何も考えてないよ?大して話す事もない。だから、質疑応答して、時間をつぶす予定だ…」 そう言った眼鏡をかけた彼は、いつもよりも…もっと、物知りに見えた。 「ふぅん…」 そう言って彼を見つめると、そっと彼の左手を撫でて言った。 「触ってても良い?」 「…ふふ、良いよ?」 彼に触れてると、それだけで…僕の心は気持ち良い… だから、隙あらば…彼に触りたいんだ。 「豪ちゃん?高速道路に乗るから…窓を閉めてね?」 高速道路…? 「え?あ、はぁい…」 手動で窓を閉めると、惺山が言った…”高速道路“という物に初めて乗った… まるで競馬の馬が入る様なゲートを潜ると、惺山が一気にスピードを上げ始めた。 「んん!惺山!早すぎるよっ!死んじゃうぅぅ!」 「ははは!違う、高速道路はね、名前の通り…高速で乗る道路だ。100キロくらい出してみんな運転するから、ここで、チンタラ走ってたら怒られるんだよ?」 …ええ?! 確かに…周りの車は彼の車よりもビュンビュンスピードで走って行く… 「怖い道路だね…?」 「そのうち慣れるよ…」 彼はそう言うと、自分の携帯電話を僕に渡して言った。 「豪ちゃん…この携帯に…車の…そこから伸びてるケーブルを繋いでよ…」 「ん、良いよ?」 言われた通り、飛び出したケーブルに携帯電話を繋げると、彼の携帯電話の待ち受け画面を見て大笑いする。 「あはは!パリスだ!惺山、パリスの写真を待ち受けにしてるの?」 「はは…可愛いだろ?どっかの誰かさんみたいにとっても可愛いから、そうしてるんだ。」 だったら、僕の写真にしてよ…なんて、思っても言わない。 だって…恥ずかしいもの。 「豪ちゃん…音符の書いてあるマークの所を押して…何か曲をかけて?」 「はぁい…」 携帯電話は、兄ちゃんので使い方は知ってる。 得意げに音符のマークを押すと…どれも英語で書いてある曲ばかりで、首を傾げながら画面をスクロールさせていく… 唯一書いてあった…日本語の曲…”少年時代“を押すと、聴いた事もないイントロに首を傾げて言った。 「…あれぇ?僕が知ってるのと違うみたい。」 「あぁ…これは、俺が仕事で…編曲した奴だ…」 え…?! 彼の言葉に目を点にして驚くと、ハンドルでトントンと調子をとる彼に言った。 「惺山が作ったの?!これを?だって…縦笛とか…聴こえるよ?」 聴こえて来る曲は…彼がいつも弾いてる様なピアノだけじゃない。まるで、売り物の曲の様に…沢山の楽器が使われていた。 「そうだよ。沢山の楽器で、演奏する事を想定して作ってるからね?」 沢山の楽器で…演奏する事を想定して…作ってる…?! サラッとそんな事を言ってのける彼に驚くと、素敵な彼にメロメロになって言った。 「…すご~い!」 様々な音色を響かせた楽器たちが奏でるのは…僕が知ってる”少年時代”よりも、もっと砕けた…あどけなさが強い、小学校低学年くらいの少年をイメージさせる曲。 …きっと、縦笛の音色のせいだ。 ふふ…!すごい! 感心しながら彼の編曲した曲を聴き終えると、もう一度初めから流して言った。 「惺山の編曲した”少年時代”に、もう一音…加えてあげる~!」 そして、流れ始める前奏に体を揺らすと、知っているこの曲を元気に歌い始めた。 「あぁ…はは!」 クスクス笑い始める彼の声を聴きながら気持ち良く歌い続けると、不思議だな…いつの間にか…楽しそうに笑いながら、彼も一緒になって歌い始めたんだ。 口を大きく開けて歌う様子は…まるで二人とも…小学生になったみたいだ! 「古い曲なのに…知ってるの?」 間奏で彼がそう聞いて来たから、僕は首を傾げながら言った。 「…ん?音楽の教科書に載ってるよ?」 えっ?と驚いた顔をする彼にケラケラ笑うと、間奏が終わったタイミングで再び歌い始めた。 それはまるで…幼い日の僕の様… 麦わら帽子を被って、目的も、予定もなく、ただブラブラと炎天下の下を歩いて行く…そこには、時間の概念なんて無くて、ただ、目の前に見えた”楽しそうな事”にはしゃいで満足する。 そんな…永遠に続きそうな、夏休みの情景だ… 「素敵だ…」 彼がそう言って喜ぶから、僕はもっと楽しくなって気持ち良く歌った。 「豪ちゃんは声楽部に入っても良いね?俺はお前の声が好きだよ?」 携帯電話を手に持って次の曲を選んでいると、彼がそんな風に…また、僕を褒めた。 「僕は…惺山の声が好き…!」 そう言ってメロメロになると、英語で書いてある訳の分からない曲を押して、何が聴こえるのか耳を澄ませる。 「なぁんだこれぇ!」 怪しげな民族音楽に眉を顰めると、違う英語を押して、再び眉を顰める。 「変な曲しかない!お手上げだぁ!」 僕がそう言って降参すると、運転席の彼はケラケラ笑って言った。 「あ~はっはっはっは!そうだな…確かに、少し…特殊かもしれないな…じゃあ、プレイリストから選んでごらんよ。バイオリンとか…ピアノとか、書いてあるから…」 あぁ…なんだ、そんな風に仕分け出来てるんだ。 気を取り直してプレイリストを開くと、すぐにバイオリンの所を開いて曲を再生させた。 「はぁ…」 兄ちゃんの携帯電話の中の音楽と違う… ヘビメタ、ロック、アイドルグループのひらがなで書いてある曲名なんてひとつも無い。 彼のはプロ仕様だった。 どっと疲れて窓の外を見つめると、いつの間にか山の合間を走っていた。 薄い水色の空を真上に広げて、青々と茂った森の木々が、気持ち良さそうに風に枝を揺らしている… 「ねえ、東京はどんな所かな?タピオカミルクティーあるかなぁ?」 僕がそう尋ねると、惺山はケラケラ笑って言った。 「タピオカミルクティーはどうかな?もう、無いかもしれない…今は食パンと唐揚げだって、騒いでいたよ?」 …え?食パンと、唐揚げ? 都会の人って…ちょっと、良く分からない。 惺山の話に首を傾げると、おもむろに聴こえて来た美しい曲に、耳を奪われる。 「はぁ…綺麗な曲。惺山…これは何て名前の曲なの?」 「シシリエンヌ…」 「僕の知ってる、学校で聴いたシシリエンヌと違う…」 そう呟いたっきり黙ると、耳の奥に響いて消える音に集中して聴き入った。 とっても、綺麗… 他の物と全然違う。まるで、幻想的な…真っ白の霧の中に居るみたいだ… 「これは…藤森北斗って言う、有名なバイオリニストが弾いてるシシリエンヌだよ。彼のバイオリンは…少し普通と違って…情緒が強い。それが苦手な人も居れば、逆にドはまりする人も居る。」 「僕は好き…」 すぐにそう言うと、胸に手を当てて深呼吸する。 あまりに繊細な音色に、呼吸をするのも忘れたみたいに胸が苦しくなったんだ。あのバイオリンでこんな音色が紡げるなんて…信じられない。 「惺山…世の中には凄い人が居るんだね?ねえ…僕みたいな初心者が、あなたと演奏しても良いのかな?僕みたいな初心者が、バイオリンを触っても良いのかな…?」 初めからうまく弾けるなんて…思ってない。 楽譜だって読めないんだ。 素敵な彼と演奏出来たら良いな!なんて…軽くて、下心のある気持ちで始めた。 そして…“音楽祭”で演奏したらお終い。 そんな短いバイオリン人生…とも呼べない…短期間の経験。 気負いする事なんて無い… そう思っているのに… なのに…バイオリンに触れる事が、とても不相応な気がして…気に病むんだ。 特に…こんな素晴らしい音色を聴いてしまうと、僕は、自分が土足で神聖な場所に入ってしまっているんじゃないかって…怖くなってしまう。 惺山はそんな僕を見て眉を下げると、頭を撫でながら優しく言った。 「どうしてそんな事を気にするの?太鼓や、縦笛と同じ…バイオリンもただの楽器だよ?きっと、先入観でそう思っちゃうんだ。高い楽器イコールお金持ちの趣味…みたいな。ね?」 ね?じゃない… 優しい彼をジト目で見つめると、口を尖らせてため息を吐きながら言った。 「音符が読めなくて、演奏だってした事無い。僕がバイオリンを肩に乗せると、まるで大きなカブトムシの様に見える。なんとなく綺麗…とか、なんとなく素敵…とか、漠然とした感覚でしか音楽を聴いた事がないんだ。そんな僕が、バイオリンを弾いても良いの…?」 「良いじゃないの…。それのどこに引け目を感じるのか…俺には分からないよ。ふふ…!第一…バイオリンを肩に乗せて…ふふっ!大きなカブトムシなんて言う感性は、逆に素晴らしいと思うけどね?」 彼はそう言って笑うと、再び、僕の頭をナデナデして言った。 「バイオリンはやめて、ピアノを聴きましょう…」 「はぁい…」 言われた通りに、彼の携帯電話のプレイリストからピアノを選択して再生させた。 「ふふ、綺麗な音色だね?ポロン…ポロン…」 そう言ってニコニコ笑うと、耳の奥まで届くピアノの音色に聞き耳を立てて、ぼんやりと運転席の彼を見つめた。 あぁ…素敵な人… 僕のそんな様子に、瞳を細めて微笑む彼に…うっとりしてしまう… 自分がこんなに音楽が好きだなんて思わなかった。 彼に会わなかったら…多分、ずっと…気が付かなかったかもしれない。 それとも…彼がいるから、音楽を好きなのかな…? 彼が嬉しそうに微笑むから…好きなのかな。 「あ~わわわわわわ…!!」 「どしたの?」 ガチガチに体を固めた僕に、惺山が首を傾げて言った。 「こっち見ないでぇ!事故に遭う!」 高速道路は東京へ近付くにつれて…どんどん危険な道へと変わって行った。 あちこちから現れた車たちが…一斉に同じ所へ向けて全速力で走って行くんだ。 「あ、あ、危ないよぉ!」 「はは…大丈夫…ジャンクションは、なんとなく…みんな、間隔を空けて行くから…」 …なんとなく? こんなに沢山の車が動いてるのに…なんとなく…なんて感覚で、みんなで100キロ近くの速度を出してるの? それは…ある意味、とても馬鹿だ。 「もう東京だよ。豪ちゃん…もうすぐ下の道に行って…俺のマンションまで行って、荷物を持ったら、とんぼ返りだ。どこか…行ってみたい所はある?」 さっきまでの大きな道じゃない。 まるで…昔、大ちゃんがはまったミニ四駆のコースの様な道を…大型トラックギリギリに走り抜けていく光景に、クラクラしながら彼の話を聞いてる… 「よ…よよ、寄って…みたい所…?分からない…」 目を回しながら返事をした僕に、彼は心配そうに顔を覗き込ませて言った。 「大丈夫…?」 …大丈夫じゃない。 「う、う…うん。ちょっとだけ…怖い…」 そう言って俯くと両手で顔を覆って…この、怖い光景が終わるまでじっと我慢する。 こんなの…正気の沙汰じゃない! 「あぁ…怖いのか。じゃあ…もう、降りようね?」 僕の狼狽えっぷりを心配した優しい惺山は”高速道路”をすぐに降りてくれた… 「もう…大丈夫だよ?ほら、顔を上げて…?心配になる。」 そう言われて顔を上げると、そこは人が沢山蠢く…大都会。 合間に見える申し訳程度の空を残して、高いビルが空を覆っている…車の窓からじゃ…てっぺんまでも見えやしない高さのビルに囲まれた道路だ。 人が多いせいか…あちこちに…モヤモヤが見える。 最悪だ… 「…惺山の、お家に付いたら教えて…?」 顔を覆って僕がそう言うと、彼は心配そうに声を落として言った。 「あぁ、可哀想に…」 耳に聴こえる音楽はこんなに美しいのに、目に映る光景は地獄の様だった… 人が多すぎて怖い。 車が多すぎて怖い。 だって、それは僕が育った場所とは全然違うんだ。 人の息が、人の声が、人の足音が…ひっきりなしに耳に届いて…怖い。 一緒に付いて行くなんて、わがままを言って無理やり付いて来たくせに… 格好悪い。 「着いたよ…?」 彼の声に両手を目から外すと、ゆっくりと瞼を開いて恐る恐る周りを眺めた… そこはアスファルトだらけの道路と、背の高い建物が周りを囲む様にひしめき合う場所…ジリジリと太陽が照り付ける地面は、僕のいる村よりも熱く感じた。 「惺山、手を繋いで…?」 彼に甘えてそう言うと、ギュッと握られた手だけ幸せを感じたまま…彼の家へと歩いて向かった。 「…エ、エ、エ、エレベーターは乗った事があるよ?」 繋いだ手の先を見上げてそう言った僕を、彼は瞳を細めて見つめて笑いかけてくれた。…そんな優しい笑顔を見て、必死に、これ以上格好悪くならない様に下唇を噛み締める。 でも、胸の奥は、そんな事お構いなしにブルブルと震えたままなんだ… ギュッと掴んだ彼の腕を見つめてやり過ごして、エレベーターの扉が開いた先の景色に胸の奥が再び跳ねた。 どこまでも建物が続いた遠景は、緑なんて申し訳程度にしか見えなくて、土と呼べる色合いなんて…どこにも無かった。それが怖いなんて思うのは…きっと、僕がいなかっぺ大将だからだ… そんな中、ふと、ポケットから鍵を出す彼の仕草を少し後ろから見て、顔が熱くなる。 だって…格好良いんだ… 都会の…男って感じで、格好良いんだ… そうだ。初めての都会の景色が怖いなら…大好きな彼を見ていれば良い。だって、彼は村に居ても…ここに居ても…彼のままなんだから。 おもむろに鍵を開く彼をまじまじと眺めて、心の中で悶絶しながら自分の動揺を紛らわせる手段を編み出した。 「何、見てるの…?」 横目で僕を見て彼がそう言うから…僕は視線を外して言った。 「…し、知らなぁい。」 これ以上、格好悪い所、見せたくないもんね… そして、一歩入って分かった。 彼の家は、僕の家よりも大きい… 「作曲、編集出来る小さなスタジオが一緒にあるから…事務所兼、自宅だ…」 彼はそう言うと、ずっとチカチカと光り続ける…留守番電話を聴き始めた。 僕は慣れないお洒落な空間に完全に飲まれて、恐る恐る部屋を散策しながら閉められたままのカーテンから外を覗いた。 「もしもし…惺山?この前の…あの女の子、覚えてる~?あの、胸元が開いた服着てたさ~、虫が苦手な女の子~!あの子がさ~、もう一度お前に会いたいって言ってて…ピ~~」 「あぁ…もしもし~?だ、だから、今度、また一緒に飲みに行こうぜ?あの~…そうだなぁ~…六本木辺りでどうかな?あの子、俺の友達の妹でさぁ~相当、お前を気に入った…ピ~~」 そんな彼の留守番電話を盗み聞きしながら、心の中で、一度に留守電を入れられない人は…ちょっと、どうなのかなって…思った。 窓から見た事もないビルの畝を眺めながらそんな辛辣な事を思っていたら、4回目の用件を聴き終えた惺山がため息を吐いて言った。 「…馬鹿なのかな。」 …僕も今、そう思ってた… 「豪ちゃん…お水が冷蔵庫に入ってるから、勝手に飲んで良いよ?ちょっと、向こうの部屋に行ってるからね。」 彼がそう言って廊下の向こうへ消えてしまうと、慌てた様に早歩きで彼の後ろを追いかけた。 「待って…、惺山、待って…」 僕の声に立ち止まって待つ…彼の背中に抱き付いて、一緒に歩いて行く… 「どうしようかな…この機械を全部持って行くのは…無理だ。必要な物だけ持って行って…」 彼が首を傾げて眺める部屋の中。大きなパソコンと、テレビ画面が3台…それに繋がったやたら大きなキーボードと、コロンと置かれた2つのスピーカー… まるで発破装置の様な大きな機械はチカチカと赤いランプが点灯していた。 「これで、野球を見たら…ピッチャーとバッターがいっぺんに見れる?」 3台に並んだテレビ画面を指さしてそう聞くと、惺山はケラケラ笑いながら言った。 「あはは…!確かに…見れるかもね?でも、俺はこれで野球は見ない。これで見るのは…どの楽器がどこで演奏を始めるのか…そんな、フレームを追いかけてる。」 ふぅん…よく、分からない… 「いつか…捕まえられると良いね…?」 「ははは!あぁ…そうだね。」 ケラケラ笑う彼が大きな箱にパソコンを入れて行くのを横目に見ながら、暗い廊下の奥を見つめて聞いた。 「あっちの部屋は…?」 「寝室と…書斎…」 わぁ…書斎…! 「見て来ても良い…?」 もじもじしながらそう尋ねると、彼は汗だくの額で行方不明のコードと格闘しながら頷いて言った。 「どうぞ?」 ふふ…書斎だなんてカッコいい! キョロキョロとあちこち眺めて暗い廊下を歩いて進んだ。そして、お目当ての部屋の前に来ると、金色の綺麗なドアに手をかけて中を覗き込んで見る… 「わぁ…凄い…」 びっしりと本が並んだ壁一面の本棚を見上げて、一緒に置かれた青いロボットのブリキのおもちゃを手に取ると、コトンと何かを落としてしまった。 「…CDだぁ…」 すぐに拾い上げて眺めると、迷いもしないで、そのままポケットに突っ込んだ。 机の上には高く積まれた楽譜の束。そして、足元にはぐちゃぐちゃにされた楽譜たちが散らばっている…そんな、今使ってるピアノの部屋と大して変わらない状況に苦笑いして、手に持ったブリキのおもちゃのぜんまいを回して床に置いた。 ガガガガ…! 「あッはは…可愛い!」 凄い音を立てながら、カクカクとロボットらしい動きを見せて、ブリキのおもちゃが動き始めた。その様子が可愛くて、おかしくて、床に寝転がってじっと眺めた。 カクカク…ジージー…カクカク…ジージー…面白い… 「好きで集めてたんだよ…可愛いだろ?ふふ…」 いつの間にか書斎にやって来た彼が、寝転がって遊び始める僕を見下ろしてクスクスと笑うから、大慌てで体を起こして取り繕う様に首を傾げて言った。 「…可愛いねぇ?」 「はぁ…ここから持って行くものは…そうそう、これこれ…!」 そんな僕の頭を撫でて机の向こうへ行くと、彼は嬉しそうに笑いながら僕の目の前に黒いケースをゴトンと置いて、正面に向かい合う様に胡坐をかいて座った。 …何が入ってるんだろう…? 「…それは?」 「これ?これはバイオリン…。こいつとは、高校生の時から一緒に居る。」 そう言ってケースを開いて見せてくれたのは…茶色い可愛いバイオリン。小林先生が僕に貸してくれたバイオリンよりも木目の目立つ体は、まるで、彼の様に独特で美しかった。 「ふふ、可愛いね?見て?木目がとっても綺麗!」 彼の顔を覗き込んでそう言うと、彼はバイオリンの具合でも見る様に弦を眺めて首を傾げて言った。 「微調整がいるね?ちょっと、楽器屋に寄って…弦と、弓に張る馬の毛を調達してから帰ろう。」 はぁ…凄いんだ。 「惺山は…物知り…」 ついつい触りたくなるんだ…彼の髪に。 僕はそう言うと、彼の長い髪を指の間に通して、顔を覗き込みながらかき上げた。そんな僕にクスクス笑いながら彼が優しい声で言った。 「豪ちゃんの方が…物知りだ。生きて行く術を知ってる…。田舎に暮らして分かった事の一つ。それは、今まで培った事は、サバイバルな環境においては無意味だったって事。他人の顔色を窺って調子を合わせてつるんだり…足元を見られない様に格好を付けたり…ここで必要だったそんな事は、生きるか死ぬかの現実では、全く役に立たなかった。」 それに…と言葉を繋げると、彼は首を伸ばして僕に優しいキスをして言った。 「大切な人の見分け方も…間違っていた。」 あぁ…惺山ったら…!惺山ったら…!あぁ…! もう…も、もう…大好き~~~~!! 顔が一気に熱くなって行く…そんな自分が恥ずかしくなって、素敵な彼から視線をガクガクと外すと、手元の可愛いバイオリンをそっと指先で撫でて言った。 「…可愛い子。」 「…豪ちゃんにあげる。だから、ずっと…バイオリンを弾いてよ。“音楽祭”が終わっても、俺が…居なくなっても。」 え…? 「やだ…」 咄嗟にそう言ってバイオリンから手を離すと、立ち上がって言った。 「やぁだぁ!」 「あはは!そう言うと思ったよ。じゃあ…良い。」 大事そうにバイオリンを撫でる彼を見下ろしながら、ワナワナと震える両手を持て余して、手のひらを強く握った… まるで、居なくなる事を見越した様な彼の言葉に、反発して、拒絶した。 だって、この子を受け取ったら…まるで、あなたが居なくなる事を認める様な気がして…あなたを諦める様な気がして…嫌だったんだ…。 でも… 彼の大切なものを、他の誰かに取られるくらいなら… 握り締めた両手から力が抜けて、肩が自然と下がって…彼の顔を見つめながら、力なくへたり込んで言った。 「やっぱり、欲しいの…」 震える両手をバイオリンに伸ばすと、彼の顔を覗き込んで言った。 「惺山の全部を、僕に頂戴…」 「ふふ…良いよ。そう言うと思った…。じゃあ、約束して?豪ちゃんが死ぬまで、バイオリンを弾き続けるって…上手じゃなくて良い。ただ、音を鳴らして、聴かせてよ。俺はね…お前のバイオリンの音色が、大好きだから…。」 じっと、見つめる彼が…グラグラと揺らいで見えるのは、僕が泣いているせい。 喉の奥が痛いのは、僕が泣いているせい。 胸が苦しいのは…悲しいせい。 「ん…、惺山…僕が守ってあげる…!だから、そんな事、言わないで…!」 守る…? 一度も成功しなかったくせに… 大好きな彼に抱き付いて涙だらけの顔で頬ずりすると、彼の唇が、再び悲しい事を言わない様にキスをした。 心の中で、彼を…守れないって思ってるんだ。 なのに…彼に嘘を吐いて、そう言った… …僕は、大ぼら吹きで酷い奴だ。 「分かってる…分かってる。ありがとう…豪、大好きだよ…」 そう言って僕の体を抱きしめると、彼はバイオリンを撫でたような手つきで、大切に、僕の頭を撫でて…優しく包み込んでくれた。 お母さん…助けてよ… この人の未来が…永遠に続く様に、僕を、助けてよ… その為だったら…僕は何でもする。

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