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#13

車の後部座席に荷物を積み込むと、僕は彼からバイオリンを受け取って言った。 「大事にする…。ずっと弾く…。約束する…」 僕のその言葉に…彼は嬉しそうに瞳を細めると目じりを下げて言った。 「良かった…お前が貰ってくれて、嬉しいよ。」 たった一言二言のやり取りに、この先の運命が決められる訳がない。 彼のバイオリンは僕の物… だけど、それが、彼の死を受け入れる事になるなんて、思わない… 「ちょっと人ごみに行くよ?怖かったら俺の手を握って、下を向いて居たら良いからね…」 運転席に座ってそう言った彼に頷いて応えて、バイオリンのケースに書かれた彼のイニシャルを指で撫でながら、ぼんやりと車に揺られる。 惺山は、高校生の時から…この子と一緒なんだ。 今…30歳だから…13~4年くらい…一緒に居る事になる。 この子を僕が貰ったら…彼と過ごしたその分を…僕が貰う事が出来るのかな… 「ここら辺に停めちゃお…」 彼はそう言うと、車を道路の端に停めて僕に言った。 「この先の楽器屋で、弦と…弓毛をいつも貰ってるんだ。すぐ終わるけど…どうする?待ってる?」 「行く。」 「はは…そう言うと思ったよ…」 だったら何で聞いて来たんだ!そう言うのを愚問って言うんだよ? ケラケラ笑う彼をジト目で見つめると、こわごわと助手席を降りて、耳に聴こえて来る車の音と人の足音に格好悪くビビらない様に、バイオリンを胸に抱えた。 そして、僕に手を伸ばす彼の手を掴んで…ギュっと自分に引き寄せながら一緒に歩いた。 離れないで、離さないで、僕が守るから…諦めないでよ… 込み上げる思いを喉の奥で止めると、彼の腕に寄り添いながら下を向いて歩き出した。 今まで…誰一人、救えなかった癖に… どうして、この人だけ、助けられると思うの…? ねえ…そんな風に言って、簡単に諦めるのか…? 壊さないって言ったバイオリンを簡単に手から離した様に…彼の事も…仕方ない事だと受け入れて、諦めて、何もしないで、ただ死ぬ時を待って見ているだけなのか… そんなの、やだよ… 諦めない…諦めたくない…諦めちゃダメなんだ! 惺山が言ってた。 初めは誰でも上手く出来ないって… きっと、僕もそうなんだ。 今度こそ…この体に纏わり付くモヤモヤを失くす方法が分かって…彼を救う事が出来るんだ。 そうでしょ…お母さん… だから、僕は…この人に恋に落ちたんでしょ…? 彼と結んだ手を強く握ると、腕に絡まって体を寄り添わせた。不思議そうに僕をチラッと見た彼を無視して…目の前の地面だけ見つめて… なにがなんでも…僕は諦めない…! 心の中でそう誓って、唇を噛み締めて、決心した。 「こんちは~。」 「お~。久しぶり。今日は…はは、ずいぶん可愛い子と来たね?」 惺山と、お店のおじさんの話をなんとなく聞きながら目を丸くして店内を見渡した。 だって、凄いんだ…! ここは…楽器屋と言うより、バイオリンのお店… 天井に吊るされたバイオリンは、肌色の木の色をしたまま、干された洗濯物の様だ。 「弦と…弓毛…あと、駒を買おうかな。」 彼がそう言うと、お店のおじさんは僕を見て手を差し出して言った。 「バイオリンを見せて?」 「嫌だ!」 さっき…心の中で、力強く決心したせいか…僕は、何故か咄嗟にそう言って…拒否してしまった。そんな僕をギョッとした顔で見つめると、惺山が困った様に眉を下げて首を傾げた。 「豪ちゃん…ほら、見せて…。はは…どうしてかな、この子は枕詞に”嫌だ”が付いちゃう…そんな日があるみたいだ。」 惺山はそう言うと、僕の胸に抱えたバイオリンを掴んで持ち上げようとした。でも、馬鹿な僕は、決心した強い気持ちを引きずっていて、断固拒否したい気持ちに駆られて、意味も分からず彼に抵抗し続けた。 「ん、やぁだ!」 「なぁんで、訳の分からない所で嫌がるんだよ…?必要だから、見せるんだ!」 そう言ってムキになる彼に、もっとムキになると、体を捩りながら嫌がった。 「あ~…お姉ちゃん、そんな…ぶっかい服を着て暴れると、ポロリが…あるよ?」 お店のおじさんがそう言うと、惺山がケラケラ笑って言った。 「この子は…男の子だ!」 「はぁ~!!」 女の子に間違われなくなったと思ったのに、このおじさんは…きっと、僕の声変わりしない声だけ聴いて、そう思ったんだ…! 「ふん!豪ちゃんは男の子だよ!」 ムッと頬を膨らませてそう言うと、胸に抱えたバイオリンをそっとカウンターの上に置いて言った。 「…ど、どうぞ?」 「最近の遺伝子はどうなってんだ…遺伝子組み換えハイブリッドだろ…?」 ぶつぶつそう言ってバイオリンをケースから取り出す店のおじさんを見つめると、彼は僕の顔をまじまじと見つめて言った。 「まつげが長い、細い眉、まん丸の瞳、可愛いお口に、お洒落なベリーショート…華奢な体付き…。おじちゃんが見てあげるから、脱いでごらんなさい。本当は女の子なんだろ?ポロリもあるよ…をして良いのは、それなりの顔の子だけだよ?見てくれが良い子はそんな事しなくても、良いんだ。」 「惺山、このおじさん…最低だよ?」 固まって店のおじさんに軽蔑するような視線を向ける惺山にそう言うと、彼は僕に自分のジャケットを羽織らせて、肩に両手を置いて回れ右をさせて言った。 「向こうに行ってなさい…」 兄ちゃんが言った通り…七分袖を着た方が良かったみたいだ… 知らなかったけど、この格好は…都会では、女の子に見えるみたい。 渋々惺山から離れると、天井にぶら下がるバイオリンを見上げて、洗濯物…いいや、干物の様に連なる様子を見て大笑いして言った。 「ホッケの干物みた~い!」 「ホ、ホッケ…!?」 お店のおじさんの言葉に頷くと、色の濃くなったバイオリンを指さして言った。 「こっちは、みりん干ししたホッケ!」 「あ~はっはっはっは!!」 カウンターをバンバン叩いて大笑いを始めるお店のおじさんを首を傾げて見つめると、困った様に眉を下げて口を尖らせる彼を見て、慌てて体を返して本棚に視線を移した。 あぁ…困らせちゃったかな… 僕と居て、恥ずかしいって…思っちゃったかな… 「…こんにちは。豪ちゃんは…東京に住む事になったの?」 突然後ろから声を掛けられて驚いて振り返ると、目の前にいた人物に口を尖らせて言った。 「なぁんだ…先生だ!」 「あっふっふっふ!可愛いね?豪ちゃんは、今日も可愛い。」 先生は嬉しそうにそう言うと、僕のおでこを指先でナデナデして言った。 「そうだ、千疋屋に行こう!」 「わぁ~い!」 お店のおじさんをジト目で見つめ続ける惺山の背中を叩くと、振り返った彼に先生を見せて言った。 「惺山、弦と…馬の毛と、駒を買ったら、先生と千疋屋に行こう?」 「はっ!木原先生!」 驚いて目を丸くする彼を見上げると、先生と一緒にケラケラ笑った。 「惺山がビックリしちゃった!」 「豪ちゃんはビックリしなかったのにね?」 そう言って笑う先生は、この前会った時よりも表情が明るくて、楽しそうに見えた。 きっと…何か、肩の荷が下りたんだ… 「あぁ…俺は何も見てない…知らない…聞かない…!不倫だ…浮気だ…物騒な話は聞いていたが…こんな修羅場、俺は知らないよ…?我関せずだよ?」 ブツブツそう言いながら、視線を落としてバイオリンを眺めるお店のおじさんを指さすと、先生に言い付ける様に顔を歪めて言った。 「豪ちゃんに、脱げって言った。セクハラおじさんだよ?」 「はぁ?そんな事言われたの…?酷いね?」 先生はそう言って僕の肩をナデナデすると、お店のおじさんを見て言った。 「失礼だよ?この子は男の子だ。前に一度…服の中が見えた時、確認した。」 最低だな。 都会の男は洋服の隙間を覗くのが好きなのかな? だって、村に居て…こんな事を言われた事なんて無いもの。 「…先生が嫌いになったぁ。」 そう言って頬を膨らませると、先生は慌てた様に両手を動かして言った。 「見てないよ?先生は何も見てない!ただ…偶然、見えちゃっただけ!」 …ふんだ。 困った様に眉を下げた先生の眼鏡を取り上げると、自分の目に掛けて、ぼやけた視界のまま言った。 「先生、見て?ホッケがぶら下がってるみたいでしょ?先生はどの干物が食べたい?豪ちゃんはね、えっとぉ…左から…3番目の奴が良い!だって、脂が乗ってそうだもん!」 「見えないよ…」 先生は目をしばしばさせてそう言うと、上を見上げて指をさして言った。 「先生は…みりん干しの方にする…」 ふふっ! やっぱり、この人は面白い…! 「じっとしてて…?豪ちゃんが掛けてあげるね?」 そう言って先生に眼鏡を戻すと、耳にグルンと掛けてあげる。 「あぁ…見える…見える。可愛い豪ちゃんが見える…」 先生はそう言うと、首を傾げた僕の耳を指で撫でてにっこりと笑った。 面白い人… 不思議だな。この人の事、嫌いじゃない。 一緒に居ると、何だか楽しい…それは僕が勝手に思ってる印象。 惺山のシャツの裾を掴んで、彼が注文の品を受け取るまで先生と千疋屋の話をして過ごすと、用が済んだ彼がバイオリンを僕に渡すから、両手で受け取って胸に抱いた。 「あら…豪ちゃんのバイオリンなの…?」 僕の顔を覗き込んで先生がそう聞いてくるから、僕は胸を張って得意げに言った。 「うん…惺山から貰ったの。ふふぅ、良いでしょ?」 「バイオリンが弾けるなんて知らなかったよ?」 そんな先生の言葉に首を傾げると、ニッコリ笑って教えてあげる。 「まだ、弾けないの。これから練習して…弾けるようになりたいな~って、思ってるんだぁ。」 そう…彼と一緒に”愛の挨拶”を弾くんだ。 彼の様に綺麗じゃなくても…他の人に…笑われても、素敵な彼と演奏が出来るのなら…良いの。 胸に抱いたバイオリンをじっと見つめてほほ笑むと、先生は瞳を細めて僕の頭を撫でて言った。 「そっか…それは楽しみだね…。先生も豪ちゃんのバイオリンが聴きたいな。」 「今度の土曜日…ゆめとぴあで”音楽祭”をやるんだ。先生も来る?焼き魚以外にも、綿あめと…焼きそば、後…お好み焼き屋さんも出るよ?」 僕の言葉に頬を上げてにっこり笑うと、先生は頷いて言った。 「…絶対、行く。」 きっと、お好み焼きが好きなんだ… 「…豪ちゃん、どうして…先生と千疋屋に行くの?」 楽器屋さんを出て先生と手を繋ぎながら歩くと、惺山が僕に顔を寄せて小さい声で聞いて来た… 「ん、だってぇ、先生がフルーツパフェをご馳走してくれるって言ったんだもん。」 眉を下げて困り顔の彼にそう言うと、離れてしまわない様に彼の腕を掴んで、胸の前でバイオリンのケースを抱えて持った。 あんなに怖かった人混みにも慣れて来たのか…少しだけ顔を上げて歩ける様になって来た。それでも、モヤモヤを体に纏わせた人を見かけると、必死に視線を逸らして…見ない振りをした。 怖かった…怖くて、見れなかった。 まるで…激しく打ち付け続ける鉄砲水の様に、止め処の無いモヤモヤの多さに、ただ怖がって…見ない振りをして、やり過ごすしか出来なかった。 彼らの命も…惺山の命と、変わりはないのに… 僕は、彼らのモヤモヤを見ようともしないで、目を逸らした。 「3人です。」 「あ…これは、先生…いらっしゃいませ…」 先生は千疋屋に通い過ぎたのか…顔パスみたいに奥の席に案内されていく。 「惺山…?先生はきっと優良客なんだね?だから、こんなに好待遇なんだよ?」 綺麗な服を着た人たちの間を通りながら、後ろを付いて来る彼にそう言うと、惺山はため息を吐いて言った。 「はぁ…豪ちゃんは、先生に本格的に気に入られたみたいだ…」 席について3人分のフルーツパフェを頼むと、先生の顔を覗き込んで言った。 「先生は、豪ちゃんがお気に入りなの?」 「ぶほっ!」 惺山が思いきり吹き出すのをケラケラ笑いながら背中をトントン叩いてあげると、先生がにっこり笑って僕を見て言った。 「そうだよ。先生は豪ちゃんが大好きなんだ…。」 「へへっ!やったぁ~!豪ちゃんも、先生が大好きだよぉ?」 僕がそう言うと、先生は眼鏡を何度も直しながら首をカクカクさせた。 それが面白くって、指をさしてケラケラ笑うと、惺山が僕の指を掴んで止めさせた。 どうして? 先生は、きっと、笑わせようと思ってやっていたのに… あぁ、そっか…惺山は先生の前だと、良い子ちゃんぶるんだ。 そんな事しなくったって、あなたが凄い人なのを僕は知ってるよ? 「先生?惺山の新しい曲、とっても素敵なんだよ?」 前のめりになって先生にそう話すと、すぐに惺山が僕の腕を掴んで言った。 「豪ちゃん…!」 「ん、なぁに…?」 凄い剣幕で僕を見る彼を見て…すぐに、分かった。 言っちゃいけない事だったって… 「…ご、ごめんなさい…」 眉を下げて彼に謝ると、悲しそうな彼の顔にすっかり落ち込んで肩を落とした。 …だって、先生に彼の素晴らしい曲の事を教えてあげたかったんだ。 だから、つい…言ってしまったんだ。 「ん?言ってみてよ…聞いてみたい。」 落ち込んで項垂れた僕の頭を撫でて、先生は惺山を見つめると眉を下げて言った。 「豪ちゃんの話が聞きたいんだよ。止めないであげて…」 そんな先生の言葉に、彼はため息を吐きながら肩を落として、どことなく投げやりに言った。 「はぁ…まるで豪ちゃんを使って営業してるみたいで嫌だったんですよ…。怒ってごめんよ。話しても良いよ…」 なんだよぉ… だめって言ったり、良いって言ったり…! ムスッと頬を膨らませていじける僕に、彼は同じ様にいじけた顔をしてジト目を向けて来た! 「ふん!嫌なら言わないもん!」 大人気ない…そんな彼の態度に頭に来てそう言うと、フンと鼻を鳴らして顔をそむけた。 …空気が悪くなるって、きっと、こういう事… 視線の先に映る遠くのテーブルでは、どこかの誰かさんみたいな…華美なおばさんが、僕の大好きな惺山をじろじろと見てよだれを垂らしていた… …はぁ?!ぶん殴ってやろうかな?! いきり立った気持ちのまま僕はありったけの暴言を胸の中で吐き捨てると、目力を全開にして睨み付けてやった! おい!あんた!この人はな、僕の惺山なんだぞ!ぶん殴られたくなかったら、今すぐその大きな目玉をテメエの真ん前に座ってる、間抜けな狸野郎に向けやがれっ! そんな…悪態も呪いの様に一緒に込めて、ガンギマリした目つきで睨み付けた。 …僕のたゆまぬ努力が実を結んだのか…おばさんは僕と目を合わせてギョッとすると、すぐに彼から視線を外して目の前の狸に取り繕った様に笑いかけた。 …あぁ。良かったぁ。 僕は、念の為、おばさんが良からぬ妄想を抱いたりしない様に…とどめを刺す呪いを込めて睨み続けた。ゾンビと同じで、ヘッドショットをかまさないと生き返る危険があるからね… 駄目だよぉ…この人は僕の惺山なんだから…!ん、もう…! 「はぁ…この子はごねると長いですよ?」 僕がそんな戦いを繰り広げていたなんて知りもしないで、惺山は先生にそう言って肩をすくめた。そして、おもむろにテーブルの下の僕の足に手を置いて、ナデナデと撫でてポンポンと叩いて…を繰り返し始めた。 あぁ…惺山が… 彼の手が僕の足を撫でて、擦ってくれてる…! ごめんね?ごめんね?って言ってる…! うふふ…うふふふ…! 急に熱くなってデレデレになると、ニヤニヤ笑いながら窓の外を眺めて、熱っぽいため息を吐いた。でも、すぐに人の多さに怖くなって、慌てて視線を先生に戻すと、不思議そうに僕を見つめる先生に、愛する彼の曲の話を始めた。 「特に好きなのは…ポルカの曲!ふふっ!まるで…そう、”少年時代”みたいな…永遠に続く夏休みの様な…そんな情景が目の前に現れるの。そこに…ポルカのリズムが、独特な…一体感を感じさせて、そう…豪ちゃんの友達の顔が浮かんでくる。あの曲は、そんな曲…!」 僕の言葉に、首を横に振った彼が、驚いた顔をして言った。 「…どうして?」 …どうして? 僕はそんな彼の顔を見つめると、首を傾げて口をへの字に曲げて言った。 「さぁ…何となく。惺山のピアノを外で聴いていた時、そう思ったんだ。そんな光景が目の前に現れた…そして、胸がとっても…楽しい気持ちであふれた…!」 「この前、“華麗なる大円舞曲”を弾いた時もそうだ…。どうしてか…この子には、俺がイメージしてる事が…伝わってるみたいに感じる…」 興奮した様子でそう話す彼を見つめながら、僕は首を傾げる事しか出来なくて、ただ、楽しそうに笑う彼を、素敵だなって…思いながら見つめた。 ”華麗なる大円舞曲“ 彼はその曲のあるフレーズが始まる瞬間、ベネチアの船着き場を想像しながら弾いているみたいだ… それは赤い縞模様の半そでを着た…カンカン帽をかぶった船頭がいる船の上…美しい運河をゆったりと進んで、両脇にそびえたつ建物を下から見上げて、美しいと…感嘆の言葉を口にするその時まで…しっかりと僕の中に伝わっていた。 不思議だなぁ…でも、分かったんだ…そんなイメージが見えた。 「あぁ…豪ちゃんに先生の指揮したオケを聴いてもらいたいな…そして、感想を聴きたい。君は良い耳を持っていて、良い感性を持ってる。それが、森山君だけになのか…それとも、他の曲を聴いてもそうなのか…確かめたいな?」 先生は楽しそうにそう言うと、スプーンの先にねじねじされた紙ナプキンを撫でて言った。 「良い耳があると、“聴き手”なんて言って…重宝される。新しい音楽家を探す時、そんな耳を持った人が頼りになるんだ。みんな…主観にまみれてるからね。」 へぇ… そんな先生の言葉に実感も共感も感じないで、首を傾げた。 僕だって、主観にまみれている…惺山だけ、特別だっていつも思っているもの。そんな大層な物の様に語った先生の話は、僕には当てはまらない。 そう思ったから、クスクス笑いながらこう言ってみた。 「だったら、惺山は?彼は良い音楽家だよ?だって、豪ちゃんは惺山の作った曲、全部、大好きだもん!」 …僕の顔を見てニヤっと口元を緩めると、先生はすかさずに…こう答えた。 「それは…どうかな?豪ちゃんの主観が多分に含まれてるからな…どうかな?どうかな?あてにならないかな…?」 ふふ…やっぱり、この人は…面白い人! 「なぁんだ~!先生の意地悪!」 目の前に組まれた先生の手を叩いてそう言った僕に、先生はとっても優しい瞳を向けて微笑みかけてくれる。それは、まるでさっき思考を巡らせた僕の頭の中を理解しているみたいだった。 惺山に感じる大好きって気持ちとは違う…。まるで自分を見ている様な…同じ感覚を共有している様な、そんな不思議な気持ちを先生に感じてしまう。 「お待たせいたしました~!」 「…はっ!!」 店員さんの声に我に返ると、運ばれて来た…あの、千疋屋のフルーツパフェを目の前にして… 息をのんだ。 すかさず目の前の先生を見て、溢れる感動を伝える様に首を横に振りながら言った。 「すごい…!」 「はは…!凄いでしょ?豪ちゃん、食べてみて?食べてみて?」 大きくカットされたメロンに、オレンジ…バナナ、リンゴに、パイナップル、グレープフルーツ…!トップに大きないちごが乗っている…これは、まさに…果物の祭典だ! 「んん~~!どうしよう!惺山…!どうしよう!どこから食べたら良いのか、分からないよぉ!」 フルーツパフェを前に狼狽える僕に彼は呆れた顔をして言った。 「…早く食べないと、中のアイスがとけちゃうよ?」 「ん~~!だめぇ!」 彼の言葉に慌てて長いスプーンを手に取ると、小さく震える手で、ゆっくりと、グレープフルーツとクリームを一緒にすくい上げて…僕を見つめる先生の顔を見つめながら、パクリと口の中に入れた。 「キャ~~~~!」 これは…ミラクルだ! 足をバタバタさせると、身悶えしながら先生に言った。 「これは…!主観じゃない!圧倒的な現実だ!思い込みや、刷り込みなんかじゃない、本当に、美味しい物だよ?豪ちゃんは…こんなに甘いフルーツを食べた事が無い!!」 「あ~はっはっはっは!!だぁから言ったでしょ?ほらぁ、先生が言ったとおりだ!」 豪快に笑う先生に何度も頷いて、隣に座った惺山に真剣な顔で教えてあげた。 「食べてみて?メタくそ美味しい!」 「うん…フルーツがどれも甘くて美味しいね?」 そう言って微笑む彼に胸をときめかせると、自分のパフェの上のフルーツを見つめて、次はどれを食べようか…と、考えあぐねる。 「豪ちゃん?森山君の…その他の曲はどんな感じなの…?」 バナナをスプーンの上に乗せて口に運ぶ僕に、先生がそう聞いて来た。でも、僕はバナナを食べるのに全神経を注いでいるから、この手を止める事なんて出来ないよ? 何も言わずに先生を見つめて、パクリとバナナを口に入れて…悶絶した。 そう…それは、まさに熟れる直前の絶妙なバナナだったんだぁ… 「太くて、おっきいバナナに、白いのが付いてて、とっても美味しい!」 「ぐほっ!」 「先生のバナナは太い?それとも…大きい?ねえ、見せて?見せて?」 そう言って先生のフルーツパフェを覗き込むと、顔を真っ赤にして鼻息を荒くした先生が言った。 「そんなに…大きくないけど、硬いと思う…」 へ…? 硬かったの…? まだ熟れてないバナナを入れられちゃったのかな? 「えぇ…?もっとトロトロにトロけたバナナの方が、口に入れた時、美味しいのに…ほらぁ、先っぽから口に入れて…トロッと口の中でトロけて行くみたいに…舌で舐めると、グニャって…なるくらいが美味しいのに…」 そんな僕のバナナ論に眉を下げて何度も頷くと、先生は姿勢を正して、僕の手を握って言った。 「先生は…すぐに硬くなるけど…すぐに柔らかくなるよ?」 「木原先生…!」 諫めるような声で惺山がそう言うと、先生は僕の手をテーブルにゆっくり置いて、自分のフルーツパフェを黙々と食べ始めた。 …なんだろう? 「先生、どうしたんだろうね?」 隣の惺山を見上げてそう言うと、彼は無表情のまま先生を見つめて、残念そうに首を横に振るばかりだった。 可哀想な先生…こんなに美味しいフルーツパフェのバナナが、硬かったなんて… 「元気出して?僕の…いちごをあげる…あ~ん、して?」 スプーンの上に器用にいちごを乗せて先生の口元に運ぶと、しょんぼりしていた先生は一気に笑顔になって口を開いた。 あはは…おっかしい!まるで、雛みたい… 「んふ、可愛い…!」 思わずそう言うと、ニコニコの笑顔を向けて先生の口の中にいちごを置いてあげた。 「…美味しい?」 「すっごく美味しい!」 満面の笑顔で歯切れよくそう言った先生は、もう…残念だったバナナの事を忘れたみたい。 …良かった! 「ふふ…おっかしい。豪ちゃんのバナナは美味しいのに…先生のだけ硬いなんて…。惺山のバナナは?硬い?」 隣の彼を見上げてそう聞くと、彼は眉を下げて僕に言った。 「豪ちゃん…もう、バナナの話は良い…」 えぇ? 大事な事なのに…変なの。 変な様子の彼に肩をすくめて、目の前でイチゴをほおばる先生に、彼のその他の曲の事を話して教えてあげる。 「惺山の他の作った曲はね…あと2つあるの。可愛いメロディの周りを、優しく包み込んだかと思えば、怒り始めたり…叩き付ける様に掻き消そうとしたり…でも、最後は一緒に綺麗な曲を作って行く…そんな曲と、とっても…悲しい曲。」 そう…とっても、悲しい曲。 僕は、あの曲を初めて聴いた時、涙が止まらなくなった… 「どんな…?」 僕の沈んだ顔を覗き込んで先生が聞いてくるから、ちょっとだけ視線を外して答えた。 「…まるで、自分の胸の中が抉られるような…痛みを感じた。それと同時に、癒された。大丈夫だよって…寄り添ってくれた様なそんな優しさを感じた。」 目の前で瞳を細めて僕の話を聞く先生をぼんやりと見つめて、ポツリと言った。 「音楽って…不思議。どうして目の前に情景が浮かんだり…どうして、胸が締め付けられたりするの?」 そんな僕の問いかけにクスクス笑うと、先生は頬杖を突きながら言った。 「…う~ん…それを、人は…感受性なんて呼ぶ。それが豊かな人は…とっても感じやすいんだ。あ~はは、そうか…豪ちゃんは…感じやすいのかぁ…あふ、ふふふ!」 ぐふぐふ笑い出す先生から視線を逸らして、首を傾げながら思い出す。 感じやすい事… それは、例えば…”もうじき死ぬ人が分かる“事と、関係があるのかな? だとしたら、そんな物…要らないな。 「豪ちゃん、感受性なんて要らないかもしれない!」 フルーツパフェを食べ終えてそう言うと、隣の惺山を見上げて眉を下げる。 感じたくない。 彼の周りを纏わり付く…この、モヤモヤを。 目の中に嫌でも入って来る…現実を感じたくない。 僕の主観が…ぐうの音も出ない現実。それは今も、彼の体に纏わり付いて…離れない。 「…感受性は大切だよ。無くなってしまったら…森山君がメロディに紡いだ情景も見えなくなるだろう…。それは、豪ちゃんの望む事なの?」 「ん、だってぇ…邪魔なんだもん!」 諭す様にそう言った先生に、ぶっきらぼうにそう答えると、先生は僕の手を握ってなでなでしながら伺い見る様な目を向けて言った。 「一音聴いただけで、その人のセンスが分かる様な…そんな鋭利な感受性を持ってる人はね…。汚い人間に晒されてはいけないんだ。簡単に傷ついて、心が痛むからね…。大事に大事に綺麗な場所で育てて…籠の中に閉じ込めて…穢れの無いまま…死ぬまで過ごす。そうして生きて行くしかないんだよ。」 籠の中に閉じ込めて、穢れの無いまま死ぬまで過ごす… そんな先生の言葉の端に違和感を感じると、眼鏡の奥で僕を見つめて微笑む瞳をじっと見つめて、考えた… 僕に感受性が無かったら、先生が言った通り…惺山がピアノに込める情景が見えなくなる… それは、彼が作曲した曲の中に込めた思いも分からなくなるって事だ。 そんなの…嫌だよ。 だって…僕は彼のピアノから…彼の優しさも…思いも、まるで話して聴かせて貰っている様に感じ取る事が出来たんだ。 だから…彼を、もっと、好きになれたんだから… でも、”もうじき死ぬ人が分かる“なんて…そんな物は要らない… でも、それが無かったら…僕は彼の事を知らないまま…道で通り過ぎる他の誰かと同じ様に…顔を見る事さえもしないまま、覚えてもいないだろう… そんなの…嫌だよ。 例えば…先生の言う通り、この感受性を持つ事で、傷付く事を恐れて殻に閉じこもって生涯を過ごしたとしたら… 僕は、何を見て、何を感じて、何を思って死んでいくんだろう… そもそも、何も知らないままで…何を思う事が出来るんだろう… 「先生…人は汚くてさもしい…だけど同時に、美しくて尊いんだ。悲しい気持ちが分からなかったら、嬉しい気持ちなんて分からない。そうでしょ?美しい物を美しいと感じるのは、汚いものを知っているから…。相反するものは…ふたつでひとつなんだ。どちらが欠けたら…感じる事も出来ない。光が無ければ、影が無いのと同じ…だから…」 「だから…?」 そう言って嬉しそうに微笑みかける先生の笑顔を見つめると、僕はクスッと笑って言った。 「感受性は…そのどちらも感じさせてくれる…そして、そのどちらも大切だと教えてくれる。そんな尊いものだった…。豪ちゃんが見たくない物も見せて来るけど、その反対に気付かない素晴らしい物に気付かせてくれる。だから…要らないなんて、間違ってた。」 先生はにっこりと笑って頷くと、眼鏡の奥の瞳を細めて僕の頬を撫でながら言った。 「…先生のお弟子さんになる?」 「え…?!」 そんな惺山の裏返った声にケラケラ笑って、彼のジト目を受けて慌てて口を抑えると、僕を見つめる先生に答えた。 「…ならないよ?豪ちゃんはね、惺山先生のお弟子さんだもの…。」 そう、僕は彼の傍にずっといるんだ。まるで、彼のお弟子さんみたいにね。 微笑み返す彼を愛しく思う気持ちも…会えない時の寂しさも、愛してるって…激しく彼を求める気持ちも…すべて、感受性の為せる心の彩りだとしたら… 僕の胸のパレットは、他の人よりも…多くの色を出している。 明るい色が多いけど、暗い色も又、多いんだ。 でも、その分…僕の描く絵は、他の人よりも沢山の色を乗せる事が出来る… 彼を…他の人よりも…もっと深く愛して、美しく彩る事が出来る。 だとしたら…感受性が強い事も…悪くないって、そう思えた。 「先生、ご馳走様でした~!」 お店を出て振り返った瞬間、ペコペコと頭を下げ始める惺山の隣で、彼の真似をして先生にペコペコと頭を下げてみた。それはまるで、僕の迷惑を誰かに謝る兄ちゃんの様で、少しだけ胸の奥がチクリとした。 先生はにっこりと笑いながら僕の頭を撫でると、ペコペコし続ける僕の頭を止めて顔を覗き込んで来た。そして、瞳を細めてとっても優しい笑顔を向けて、惺山に言った。 「豪ちゃんの言っていた曲…出来上がったら一度、聴かせてくれないか…?いつもの所に送ってくれて構わない。この子が聴いた情景を、私も感じてみたいんだ。」 そんな先生の言葉に、彼は嬉しそうに頬を上げて微笑むと、何度も頷いて言った。 「はい…はい。ありがとうございます…!」 良かったね…惺山。 あなたは、素敵で、素晴らしい人… 僕の愛する…愛しい人。 そんなあなたが喜ぶ姿を見るのが、とっても…好きなんだ。 これも…感受性のなせる…心の喜び。 「帰りも…高速道路を通るの?」 「通るよ…?ねえ、豪ちゃん?バナナの話をしつこくし過ぎだよ?あれじゃ、まるで…」 「まるで…?」 運転席でムスくれた様に口を尖らせる彼にそう聞くと、彼は不満げに鼻からため息を吐いて言った。 「先生のおちんちんの話をしてるみたいだったよ?」 はぁ?! 「なぁんで!なぁんで!ち~が~う!僕は、ただ…先生のバナナが…硬くて…あ。」 言いながら、なんとなく…意味が分かって顔を熱くすると、ムスッと頬を膨らませて言った。 「…もう!良い!」 バナナとそれは全く違うのに、連想する方がおかしいと思う。 だけど…様子が変だった先生を思い出すと、絶対に…そんな連想をしていたんだと、後から分かって…一気に恥ずかしくなった… 「エッチなんだぁ!だから、そんな事しか考えられないの。大ちゃんと同じ!」 あんなに楽しい会話をした後に、最悪の気分だぁ! 大笑いし続ける彼をバシバシと叩いて恥ずかしさを紛らわせると、そんな僕の羞恥心を弄ぶみたいに惺山はしつこく食い下がって言った。 「先生がエッチなんだ!あっはっはっは!」 ん、もう…!てっちゃんみたいに子供っぽい! その一言に尽きる! そんな彼にため息を吐いて、呆れながら首を横に振った…そして、来た時と同じ様に…彼の携帯電話で音楽を選び始める。 さっきと違うのは、後ろに積まれた沢山の荷物がある事と、僕の膝の上に彼の可愛いバイオリンが乗っている事…。 「…ん、これこれぇ!」 そう言って僕が選んだのは…彼の作った交響曲だ… “Symphony No.1 in Bflat,Op.15 allegro”なんて…難解な名前が付いている。 どうしてこれが彼の作った曲か分かったかと言うと…彼の書斎で、おもむろに手に取った青いブリキのロボットの下敷きになっていて、床に転げ落ちたCDが、まさに彼の作った交響曲のCDだったんだ。 そして、裏に載った彼の素敵な写真を見て、手放せなくて、泥棒してしまった… 再生ボタンを押すと、運転席の彼がピクリと顔を動かして僕を見つめた。 「…ん、なぁに?」 そんな風にニヤけてとぼけると、彼はため息を吐いて言った。 「どうして?」 怒ってなんかない。だって…彼は呆れた様に笑ってるもの… 「聴きたかったの…嫌だった?」 彼の顔を覗き込んでそう聞くと、口を一文字にして眉を上げながら言った。 「お好きにどうぞ?」 ふふ! 「これも…持って来ちゃった。泥棒しちゃった…」 そう言って彼の目の前に盗んで来たCDを見せると、ゲラゲラ笑いながら彼が言った。 「はぁ~!悪い奴だな!」 「ごめんなさい!ねえ、これ頂戴?僕に頂戴?」 咄嗟に曲を止めて頭を下げると、渋々頷いて、僕の頭を叩く様に撫でる彼の手つきにクスクス笑いながら、曲を初めから再生させた。 「わぁ…」 それは…学校の授業で“音楽鑑賞”として聴くクラシック音楽…そのものだった。 車のシートに腰かけたまま、聴こえて来る音楽をただただ無言で浴び続けて、耳に入って来る沢山の楽器の音色に耳を澄ませた。 こんな素敵な曲を、この人が作ったなんて…信じられない。 …すごく激しい… そんなイメージを抱きながら窓の外を見つめて、怖かったはずの高層ビルが、まるで、舞台背景の様に流れて行くのを眺めていると…耳に届く曲のテンポに合わせた様に、目の前を風が吹き抜けて行った。 「わぁ…」 あぁ…まるで、風になって…駆け抜けて行くみたいだ… それは自分の意志であったり…誰かに急かされたり…否が応でも走り続けなければいけない…そんな、焦りにも似た思いが胸の中に現れて、口元を緩めて笑った。 これは…僕の思いじゃない。 彼の思いだ… 不思議だな… 僕はこの交響曲をCDで聴いても、彼の思いを読み取る事が出来るみたいだ。 大好きな彼をもっと知りたくて、耳の奥に届く彼の歌声を聴き続けた。 「…これは、強い…決意の表れ。みたい…」 耳を澄ませながらそう言うと、運転席の彼が吹き出して笑って言った。 「分かるの…?」 分かる… 分かるよ… 言葉でなんて説明出来ない。どうしてか分からないけど、あなたの思いが伝わって来るんだ… 瞳を歪めて潤んだ涙を頬に流すと、耳に聴こえる美しいハーモニーに心が撫でられて、うっとりとため息を吐いて言った。 「素敵だ…体が、溶けて、流れて行きそう…」 次の曲になると、初めの曲とは違う…細くて繊細で…まるでレースのカーテンがそよ風にうねりを作っているみたいな、爽やかな情景が目に浮かんでくる。 「ふふ…綺麗だ…。これは…まるで、朝の情景。空気が入れ替わった…夜が明けた、リセットされた…朝の情景みたい…」 耳を澄ませて、瞳を閉じて、もっと彼の歌声に耳を澄ませる。 …あぁ、僕の愛しい人は…こんなに美しい曲を作る事が出来る… なんて、美しい人なんだ… 穏やかで透明感のある旋律に、うっとりと酔いしれる様に体を揺らすと、次の曲が再生されて、目を見開いて言った。 「…どうした!」 「なんだ!?」 僕の言葉に動揺した惺山を無視すると、規則的に3拍子を刻むメロディに耳を澄ませて、軽快な音色と、重厚な音色が交差していく様子に胸の奥がひっくり返って行く… 「あぁ…!すっごい!どうして…?どうしてこんな事を考えたの!」 感動して彼に掴みかかってそう言うと、惺山は怯えながら僕に言った。 「怖いよ…」 「怖くない!これはまるで…!メビウスの輪みたい!それが二つに重なっていて…交互に演奏して…交差して、裏と表が入れ替わって行くんだ…!なぁんて、立体的なんだ!」 耳に聴こえて来る曲が、どうしてか分からないけど、いろいろな光景を目の前に映しては消えて行くんだ… それは、まるで、てっちゃんの自転車の後ろに乗っている時の様に…自分では制御出来ない光景が、次から次へと目の前に映っては通り過ぎて行くんだ。 「はは…!楽しい!」 ひとりで喜んでケラケラ笑うと、とうとう最期の曲が再生されて、耳の奥を劈いて響くラッパの音に胸を撃ち抜かれて悶絶する。 「強い~!」 僕がそう言って助手席でピクピクすると、その様子を見た彼がゲラゲラ笑って咳き込み始めた。 「なんて、強引で…なんて、力強くて…なんて、独りよがりなんだ!はは!面白い!」 目の前に映るのは…彼が王様になって下々を従えて堂々と王冠を被る姿。 それがおかしっくてケラケラ笑い転げると、運転席の彼を見つめて、腹を抱えてもっと笑った。 …バカみたい! そう思ったけど…それを伝えるのは適切じゃないって…僕だって分かった。 だから、怪訝な顔を向ける彼に言った。 「可愛い人…!」 そう…彼の作った交響曲は…大層な楽器を沢山使って作った…自分への激励するような曲。 ふんぞり返って下々を見下ろす彼の…得意げな表情まで目の中に浮かんで…それがとっても、可愛らしかった。 あぁ…一番になりたかったんだ…って、そう思った。 そんな事…誇示しなくてもあなたは一番なのに…分からなかったんだね。この時は、まだ…分からなくて、もがいて、苦しんでいた… そんな思いの詰まったこの交響曲は、とても美しくて、情熱的で、力強かった。 今、作っているあの曲たちは、いったいどんな景色を見せてくれるんだろう? 彼がピアノで演奏しただけでも、あんなに素晴らしいあの曲たちが… 「はぁ~!素敵だね…。僕は、素敵な人に出会ったみたい…!」 彼を見つめてそう言うと、胸の奥で未だに疼いて消えない、興奮とも言える細かな振動を抑え込む様に胸に手を当てて息を吐いた… 「…で、どう、だったの…?」 怪訝な表情を向けてそう尋ねる彼に、僕はにっこりと笑って言った。 「…一番になる為に…一生懸命頑張って来た。そんな色々な思いがギュッと詰まった、素晴らしい交響曲だったぁ。これは、惺山を…奮起させる、いわば激励曲の様に感じた。特に…最後の…ぷぷっ!ラッパが良いね!王様にピッタリだった。」 僕がそう言って笑うと、彼は唖然としたまま首を横に振って言った。 「…なぁんで、分かるんだよ…」 何でかって? それはきっと、僕があなたを好きだからだよ… 「可愛い…王様。」 そう言って彼の頬を指でつつくと、彼は腑に落ちない様子で僕を見て言った。 「どんな風に見えるの…?どんな風に…感じるの?」 「そうだな…まるで…てっちゃんの自転車の後ろに乗ってる時みたい。ズンズン進んでいくんだ。自転車の後ろから見てる景色が…どんどん後ろに流れて行くみたいに。」 そう言って彼に説明すると、首を傾げながら惺山が言った。 「本当に…先生に、弟子入りした方が良いかも。その感性を眠らせたままにするのはもったいない。」 「やぁだぁ!僕は…惺山先生の弟子になったんだぁ…!」 そう言ってケラケラ笑って、彼の腕に頬ずりして甘ったれた。 …ねえ、こんな風に誰かに甘える事が難しかったんだ… いつも嘘を吐いていたせいかな…誰かに心を開く事が、怖かった。 それはまるで薄っぺらい上っ面が化けの皮を剥がすのを恐れているみたいに、誰にも甘えないで、その場しのぎの”馬鹿”を演じて、物心付いた時からそうして来たんだ。 あなたは僕の事を”ぐうの音の出ない現実を叩きつけた存在“と言っていたよね。 僕にとったら、あなたがそうなんだ。惺山… ピアノで話しかけて来たあなたは、僕の嘘で取り繕った化けの皮を剥がした。そんなあなたの前では…僕はあるがままの自分で居るしかなくなったんだ… でも、そうする事が…堪らなく安心する事なんだって、気が付く事が出来た。 いつの間にか山の合間を抜ける…見慣れた景色が目の前に続いていた。見慣れた光景に瞳を細めて窓の外を眺めながら、胸の奥がじんわりと暖かくなって行くのを感じた。 音楽って…面白いね… こんな風に見る事が出来るなんて思ってもみなかった… 僕の感性が素晴らしいから…? いいや、絶対に違う。 音楽が大好きな彼を、大好きだから…分かる様になっただけ。 「豪ちゃん、コンセント持って来て!」 「はい~!」 いつものお家に帰って来ると、おにぎりを結びながら彼の雑用をお手伝いする。 だって、僕は惺山のお弟子さんだからね! 彼が持って来た箱の中を漁って、延長コードのコンセントを手に取ると、急いで彼の元へ持って行く。 「はい…これしかなかったよぉ?」 「ん、ありがとう…これで良いんだ。」 汗だくになってコンセントにパソコンを繋ぐ彼を見ると、丸まった大きな背中を見て、首筋を流れる汗を指先で撫でて、汗ばんだ彼の髪に顔を突っ込んだ。 「あぁ…暑い!」 そう言って背中に乗った僕を振り払おうと体を揺らすから、ケラケラ笑って言った。 「暑くない!暑くな~い!」 「あぁ…ここは、まるで新婚さんの家みたいだね…?」 そんな事を言いながら、縁側の向こうに大ちゃんがやって来て、僕たちを見てしたり顔で言った。 「…あ、お邪魔だった?」 大ちゃんって… 「今ねぇ、豪ちゃんが、おにぎりをむすんでるよ?食べて行く?」 そう言って惺山から離れると、台所に戻って手を洗った。 濡れた手に塩を付けて、冷めたお米を適量乗せる。くぼみをつけておかかを入れて、少量のお米で蓋をすると、お米がつぶれない程度の力で、一気に三角に結んでいく。 慣れたもんでしょ? 塩を付け忘れる事はあっても、僕のおにぎりは…ふわふわで硬くないって…兄ちゃんが褒めてくれるんだ。 「…ねえ、今日、どこに行って来たの?」 縁側に座って、パソコンを設置する惺山を眺めると、大ちゃんがそう言った。 「東京~!」 「えぇ!良いなぁ…!お姉さんは、やっぱり短いスカートを穿いてるの?」 そんな大ちゃんの質問に首を傾げると、僕はおにぎりを結びながら言った。 「…見てないよ。」 「なぁんで!大事な事じゃん!」 だって…怖くて目なんて開けられなかったし…帰りの車中では、僕が彼の作曲した曲に興奮して、それ所じゃなかった… 「豪ちゃん!バイオリンの練習してないの?車で、どこに行ってたの?」 突然の大きな声に驚いて縁側を見ると、ムスッと頬を膨らませたてっちゃんが、縁側に座って僕を見て言った。 「小林先生が、豪ちゃんが練習さぼった!って、カンカンだったよ?」 「大丈夫…ちゃんと練習してるよ?」 頭を屈めてコンセントを繋ぎながら惺山がそう言った。 そんな彼を一瞥すると、てっちゃんは僕を見て怒って言った。 「豪ちゃん!おにぎり食べたい!」 「今、作ってるのぉ~!」 おかまのお米を全ておにぎりにすると、ふたつだけ小さいお皿に取り分けて、のりを付けてあげる。 「はい、どうぞ?」 そう言って大きなお皿に乗った大量のおにぎりを縁側に置くと、自分で付けられるように半分に切ったのりを束ねて置いた。 「わ~い!」 いつの間にか、清ちゃんと晋ちゃんも縁側に座って惺山の様子を興味深そうに眺めている。 分かるよ?だって…こんなに沢山の機械を繋げてるんだもん。 不思議だよ。 作曲家なのに…まるで彼は、電気屋さんみたいなんだ。 「これで…MMOのゲームするの?」 首を傾げて指を差した晋ちゃんがそう言うと、惺山はケラケラ笑いながら言った。 「違うよ。作曲をするのさ…。ヨッコラショ…」 そんな彼の後ろを通って、人数分のコップを置いて隣に麦茶を置くと、ひとつのコップに麦茶を注いで、パソコンを繋いで並べた3つの画面と睨めっこをする彼の所に持って行く。 「惺山のは、2こだよ?お茶も全部飲んでね?」 そう言って彼の手元にお茶とおにぎりを置くと、顔を覗き込んで言った。 「良い?食べてね?」 「…ん、分かったぁ…」 そんな気の抜けた返事をする彼にため息を吐くと、縁側に戻って、みんなと一緒におにぎりを食べる。 のりをかじりながら惺山を見て、大ちゃんが縁側に座るみんなに言った。 「東京に行って来たんだって…!」 「はぁ?それで…これを持って来たの?」 呆れた様にそう言うと、てっちゃんは僕のおにぎりを一口食べて言った。 「旨い!」 ふふ…! 「豪ちゃんの、特性おかかが入ってるからね?」 時刻は…2:00 彼の言った通り…夕方前には村に帰って来る事が出来た。 初めての東京は、とっても怖かった… 見た事もない大きなビルや、沢山の車が行き交う道路…それに、コンクリートの道を足早に歩いて行く人々。 みんな綺麗な格好をして…止まる事もなく、ただひたすら前に歩き続ける姿は、魚群の様で少しだけ可哀想に見えた。 でも…どうして、そうなってしまったのか…分からなくも無いんだ。 こんな田舎で育った僕は、毎日を生きて行くだけの食料と、楽しみさえあれば満足だった。でも、今日、千疋屋のフルーツパフェを食べて、多くを知ってしまった…。 この事によって、僕は普通のパフェじゃ…満足出来なくなってしまったんだ。 …人と言うのは、多くの物を知ると…欲が出て…もっと、もっと、と求め始めてしまうみたいだ。それは、まるで、飢えの様に…次から次へと欲しがって…もう、十分にあるのに…満たされない気持ちを、もっと、枯らしていくんだ。 それに気が付く為には、惺山の様に…いったん歩みを止める事が必要なんだ。 でも、それにはきっかけが要る。 彼の場合は…不名誉な失恋で、こんな村に来た事がきっかけになった。 “都落ち”なんて、自分を卑下していたけど…目の前で汗だくでパソコンを繋いでる彼は、楽しそうに目を輝かせて、落ち込んでいる様には見えない。 彼は言ってた… 「ここで必要だったそんな事は、現実では全く役に立たなかった。」 って… 生きるか死ぬかのサバイバルな田舎では、都会とは価値観がガラリと違う。物も十分に無いし、不便で、退屈だろう…でも、そんな中でも人は楽しく生きていけるんだ。 そんな今までと違う価値観を認めた時に、雁字搦めになった気持ちに…遊びの様な余裕が出るのかもしれない。 彼をずっと見ていて…そう思ったんだ。 「豪ちゃん…おにぎり、美味しいね…」 そんな惺山の声を聞くと、縁側から彼を振り返って言った。 「豪ちゃんの、特製のおかかが入ってるからね~!」 僕の握ったおにぎりを片手に持って、黙々と画面に映った灰色の何かを見つめる彼を見て…胸がそわそわと疼くと、視線を逸らしておにぎりを頬張る。 ギュってしたいよ…惺山… あなたの体に触れていたい… ね? 彼に甘える事を知ってしまった僕は、もっともっと…と欲を出して、まるで飢えたゾンビの様に、彼を見つめてはムラムラとするんだもん。それを知る前と知った後で、こんなにも心のざわつきが違うなんて…ある意味、残酷だよ。 「よっ!豪ちゃん!」 そんな合いの手を受けながら…縁側に座るみんなを目の前に、家から持って来たバイオリンを姿勢を正しながら首に挟むと、右手に持った弓を弦に当てて音を出した。 …てっちゃんが、僕がバイオリンの練習をサボって惺山と遊びに行った!って怒り始めたんだ。だから、彼の目の前で練習をしてる… 「あぁ…豪ちゃん…!」 バイオリンの音色に胸を打たれたてっちゃんはそう言うと、僕の練習に付き合って、惺山の書いてくれた“指を置く場所が書かれた紙”を手に持って見せてくれた。 優しいんだ… 「えっと…えっとぉ…」 指を立てて…一音一音確認しながら右手で弓を引いて音を出すと、昨日よりも…少しだけ、音が出せるようになっている自分に、胸の奥が温かくなっていく… あぁ…こうやって、毎日練習したら…もしかしたら、弾ける様になるかもしれない! 希望が、全くない訳では無さそう… 彼の事も…希望を捨てては駄目だよ…豪。 僕が彼を愛した理由を考えて…? きっと…守れるって自分を信じるんだ…どんな事だって見逃さないで、どんな危険も予測して、彼の傍で目を光らせて…絶対に、死なせたりしない。 彼の交響曲を聴いただろ…あれは僕への激励曲でもあるんだ。 諦めるな!って、彼が言ってる。 あんなに素晴らしい曲を書く彼の作曲活動を止めてはいけない。 あんなに楽しそうに曲を作る彼の人生を止めてはいけない。 …僕はあなたの曲の素晴らしさを知ってしまったんだから、もっと作って、もっと聴かせて貰わないと…飢えて死んでしまうよ…惺山。 「ふふ…怖いぃ…」 今まで見た事も無い…そんな惚けた顔で僕を見つめるてっちゃんに吹き出して笑うと、彼から視線を外して、居間でパソコンの前に座りながら僕を見て微笑むあの人を見つめた。 あなたは美しい人だよ…惺山。 あなたを見つめるだけで…僕の心は、気持ち良くなって行くんだ… 絶対に、僕が、守ってみせる。 そんな思いをバイオリンの音色に乗せて彼に届けると、最後の最後で…彼を見つめたまま、にっこり笑って”愛してる“なんて言葉を乗せて、弓を引き切った… ねえ、伝わった…? 僕の音色はあなたに届いた…?

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