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#14
豪ちゃんは…凄い耳を持ってる。
それは五感なんて呼ばれるものよりも…どちらかと言えば…第六感に分類されるもの。
そのくらい、この子の感性は、飛びぬけて優れている。
だって…俺の交響曲を聴いて…つぶさに思考や意図を読み取ったんだ。
驚愕…?いいや、畏れるレベルさ。
曲に込めた思いは…淡く…じんわりと滲み出る物だと思っていた。
なのに、あの子はクリティカルヒットを連続で出すんだ。
まるで…奏者の手紙でも読む様に、曲を読んでいる。
いいや…違う。
奏者が上映する映画を観る様に…奏でられる曲の旋律を観て楽しんでいるんだ。
それはもはや…超能力のレベルだ。
…この子は、特別な…悲しみを背負った子。
“もうじき死ぬ人が分かる”なんて…そんな宿命を背負った子。
だから…きっと、神様が…その代償に贈り物をくれたんだ。
きっと、そうだ…そうじゃなかったら、割に合わなすぎる…
バイオリンの練習を始めたあの子を見つめて、瞳を細めてほほ笑むと、俺を見つめながらにっこりと微笑んで弓を引き切ったあの子が言った。
「…分かった?」
え…
そうだな…多分…
「分かった…」
そう言ってあの子に微笑みかけると、嬉しそうに顔を赤くしてもじもじしたあの子を見つめて、きっと…“愛してる”ってバイオリンで言ったんだと分かった。
可愛いんだ…
不思議そうに俺と豪ちゃんを見ると、哲郎が不満げに口を曲げて言った。
「何が…?」
「音色の違いさ…」
もっともそうな嘘を吐いて彼を見ると、いそいそと体を戻してパソコンに向かった。
いつ、死ぬのかも分からないから…早めに曲のひな型を作りたいんだ…
せっかく出来あがった上出来な作品をお披露目する前に、お蔵入りなんて…最悪だからね。
豪ちゃんのバイオリンの練習を耳に聴きながら、パソコン画面を見つめて作業を進め、時折、おにぎりを食べて音符を入力して行くと…いつの間にか、ギャング団たちが庭から姿を消していた…
「あれ…あいつらは帰ったの?」
俺がそう聞くと、あの子はクスクス笑って言った。
「とっくのとうに、小林先生に連れられて“音楽祭”の準備に連れて行かれたよ!」
そうなのか…
全然、気が付かなかった…
「ねえ、惺山。弓って…押して引いて、良く分からない…その違いを教えて?」
縁側の下であの子がそう聞いてくるから、根っこの生えたお尻を持ち上げて、縁側の下へ下りて行く。
「違いはない。強いて言えば…戻す時の方が音が大きくなりがちだから、均一になる様に加減しながら弾くんだ。」
俺がそう言うと、豪ちゃんは首を傾げて言った。
「あの、お姉さんが”愛の挨拶“を弾いていた時は…こうして何回も下からクイクイしてたよ?僕はしないの?」
クイクイ…?
あぁ…
クスクス笑ってあの子を見下ろすと、バイオリンを首に挟んだ様な仕草をして、右手で弓を持っている様に動かしながら、動きを見せて教えてあげる。
「弓の上げ下げをボーイングって言う。弦の上を跳ねる様に弾く…スピッカート。弦を指で弾く…ピチカート…弓の真ん中から先っぽを使って弾く…デターシェ、強く弦を押し込んで引く…マルトレ。基本的な動きはこんな感じで、全て曲を表現する時に必要な奏法だ。きっと、彼女は”愛の挨拶”を表現するうえで、必要な奏法をしたんだよ。」
丸出しの額に汗を滲ませて俺を見つめて頷くと、豪ちゃんは再びバイオリンを首に挟んで弓を動かし始めた。
「この音の違いは…僕の右手の加減なんだ…へぇ…」
ポツリとそう言うと、あの子は綺麗に音を繋いで伸ばしていく。
「あぁ…凄い、上手だね…。どこまで伸びるのか…やってみてよ。」
ケラケラ笑ってそう言うと、縁側に座ってあの子の弓が上下に動く様子を見つめた。
幼い内から楽器を習わせる事の利点って何だろう…
この子を見てるとそんな思いが沸々と沸き起こる。
それこそ…とびぬけたセンスを持ってる子なら、幼い頃から頭角を現すだろう…
でも、普通の子なら…話せば分かる年頃から始めたって…何の問題もない。
むしろ、無理やり習わされて…楽器を嫌いになるなんて、本末転倒な危険性を回避出来るのに…
「凄いな…」
思った以上にあの子の右手は安定して、音をブラさず伸ばし続ける。
人はこれを、センスなんて呼ぶんだろうか。だとしたら、この子のセンスは驚異的だ。
「つ、疲れたぁ…」
そう言って弓を離すあの子を見つめて微笑むと、バイオリンを弾く様に右手を動かして言った。
「こう…グッと抑えながら弾いてごらん?」
「…こう?」
「ふふ…強い。もう少し…ピンポイントで力を入れるんだ。そうだな…まるで、こぶしを入れて歌い始めるような感じに…」
俺の言葉に目を丸くすると、ニッコリ笑って伏し目がちにバイオリンのネックに指を置いて、あの子が弓を引いた…
「こう?」
あぁ…凄い!
たった一言二言言っただけで、それが出来るんだ…
「お上手!」
そう言ってパチパチと拍手を送ると、あの子は嬉しそうにはにかんで笑った。
きっとこの子は”愛の挨拶”が弾けるようになるだろう。
そして、それは…とても美しいだろう。
自宅から持って帰ったバイオリンは、弦の張替えと弓の毛を張り替える作業をしたら、目の前のこの子に…譲る。
この子が、俺の目の前でバイオリンを鳴らした時から…そう、心に決めていたんだ。
譲るなら、この子にって…
どうしてか、そうするべきだって…強く思ったんだ。
生前の形見分けの様で…豪ちゃんは、絶対…嫌がるって分かっていた。
でも、絶対、貰ってくれるとも、分かっていた。
「指で弾くの?」
「そうだよ…こうして弾く。左手で弾いちゃう人も居る。」
「えぇ~?」
ピチカートの練習をするあの子を見つめると、あの子の首からバイオリンを外して、自分の首に挟んで、指で弾いた音を聴かせてみる。
「ほら…これで演奏をするんだ。可愛い音がするだろう?」
「ははっ!魚が飛び跳ねてるみたい!」
…魚?
まぁ、それで良い。
吊るされたバイオリンを干物と言っても…あめ色のバイオリンをみりん付けの干物と言っても…
この子の感性がそう言うなら、それで良い。
「惺山…そろそろ、ご飯を作らないと…」
豪ちゃんは寂しそうにそう言うと、縁側に腰かけた俺の目の前に来て、バイオリンを首から外して言った。
「キスして良い?」
あぁ…可愛い…
この子は…ツンデレをやめて、デレデレ期に入っている。
「…良いよ?」
そう言って首を伸ばしてあの子に唇を向けると、そっと柔らかいあの子のキスを受け取った。
堪らないんだ…
可愛い?愛しい?恋しい?…どれも違う。どれも当てはまらない。
苦しいんだ…
辛いんだ…
この子にときめく度に…堪らなく辛くなる。
それは、俺が、もうじき死んでしまうからなのかな…
離れて行く事が、怖い。なんて思って、豪ちゃんに会えなくなる日が来る事を…認めたくないんだ…
「また、明日ね…?夜更かししないでね?ご飯も、ちゃんと食べてね?」
沢山の注意を受けて何度も頷くと、あの子が俺を振り返る限り…手を振って見送った。
「豪ちゃん…不思議な子。俺の愛しい、可愛い人…」
ポツリとそう言うと、踵を返して縁側から居間に上がる。そして、再び持って来たパソコンに作ったメロディを入れて行く…
頭の中で作られたハーモニーを他の人と共有する為に、こうして…ラフ画の様な前段階の完成図を作る。細かな情景や強弱なんかは楽譜に書き込むけど、曲の大体のイメージを作り上げるんだ。
面倒臭い?
いいや、その逆だよ…
最近の作曲家は手間が省けて、ラクチンしてる。
…こうしてパソコンの中で、楽器を指示して…鳴るタイミングを自分で調整して、テンポも、強弱も、指先ひとつでコントロール出来て、曲の全体像を見る事が出来るんだから。
もちろん、これは機械の音…決して生の楽器の様な表現力には及ばない。
「ここで…ティンパニー…」
でも、それでも…全体像が見えてからの添削は必要だからね。
重宝しているんだ。
「あ。ご飯食べないと…」
画面を見つめたままぶつぶつ言うだけで、まったく立ち上がる気配のない自分に、ため息を吐く。
結局、俺はあの子がいないと、何も出来ない。
…一度夢中になってしまうと、自分の食事さえ摂る事がままならないんだ。
「ん、もう…!やっぱり…!」
そんな声が縁側から聞こえると、画面を見つめたまま口元を緩めて笑う。
…来てくれた。
豪ちゃんが、心配して来てくれた…
「豪ちゃん…お腹空いた…」
隣に座ったあの子にそう言って頬ずりすると、あの子は顔を赤くして、美味しそうな野菜炒めとおにぎりを俺の目の前に置きながら言った。
「ゲーム廃人って…きっと、こんな感じだよ…?そのうち、トイレにも行かなくなる。」
ぷっ!
「あっはっはっは!」
大笑いして後ろに転げる俺を呆れた様に見下ろすあの子を眺めながら、目の前の剥き出しのおみ足を撫でて言った。
「介護して…」
「ん、もう!惺山はおじいちゃんなの?それとも…赤ちゃんなの?」
その、どちらでもない。
俺は今年で31歳になる…生きる事に無頓着な成人男性だ。
そして、過剰な世話好きの15歳に甘ったれて、ごろにゃんする…ダメ人間だ。
「はい、あ~んして…?」
「あ~ん…」
恥なんて…とっくのとうに捨てて、俺はあの子に鼻の下を伸ばしながら、ご飯を食べさせてもらう…
ぼんやり眺める画面を見つめると、エンターキーを押して、入力した分の曲を再生させて聴いてみた。
「わぁ…それって、そんな事が出来るんだね…?技術の進歩はめまぐるしいね?」
感心した豪ちゃんの取って付けた様な言葉を口元を緩めて聞くと、足らない何かを考える様にぼんやりと宙を見上げる。
「はい、あ~ん…」
「あ~ん…」
何かが足らないんだ…
この野菜炒めと同じ。
決め手がなくて、ぼんやりしてる…
「…美味しい?」
俺の顔を覗き込みながらあの子が聞いて来るから、視線を動かしてあの子の顔をぼんやりと眺めた。
…可愛い。
おもむろに伸ばした指先で、鼻筋を撫で下ろすと、可愛いあの子が…顔を赤くして言った。
「ん、やぁだ!」
…ぶほっ!可愛い…!
「ん、もう…ちゃんと、食べて?」
そう言って俺の口におにぎりを押し付けてくるから、だらしなく口を開いておにぎりをかじって食べる。
…美味しい。
この子を見ながら食べると、何でも美味しい…
味のほぼしない、素材の良さを際立たせたこの野菜炒めも、この子を見ながら食べると…美味しい…
あぁ、足らないんじゃなくって…入れすぎて、まとまりが無くなってるのかもしれない…
ふと、そう思うと、いくつかの音を消して再び再生させてみた。
「うん…悪くない…」
「はい、あ~ん…」
「あ~ん…もぐもぐ、これをこうして…こうして…」
キーボードを打ちながら微調整をして行くと、だいぶ良くなった曲に満足して豪ちゃんに言った。
「良い出来になりそうだ…」
そんな俺を見つめると、口を尖らせながら眉を下げたあの子が言った。
「原田のおじちゃんがね、すっぽんを捕まえて血抜きしてた。スープを作るって言ってたから、明日、少し分けてもらうね?こんな根を詰める作業してたら…ヘトヘトになっちゃうよ…?」
…すっぽん!?
怪訝な表情で豪ちゃんを見つめると、口を歪めて言った。
「うえぇ~~!」
「うえっ!じゃないよ?ずっと前、この時期に…兄ちゃんが夏バテしたから、試しに飲ませてみたんだ。そうしたら、あっという間にとっても元気になって、その時の“音楽祭”の準備を人一倍頑張ってくれたんだから!」
音楽祭の準備…すっぽん…
あぁ…きっと、その時…あの先生と…してしまったのか…
すっぽんは滋養強壮なんていうけど、あっちの方も元気になるみたいだから、見境なく…手を出してしまったんだろうな…。
渋い顔をしながら豪ちゃんを見つめると、あの子は首を傾げて俺を見つめ返した。
「すっぽんなんて飲んだら…元気になっちゃうよ?」
「良いじゃん。元気になる事がどうして悪いの?」
「ち~がう…!下半身が元気になるんだよ~!」
そう言ってあの子に抱き付くと、クンクンと匂いを嗅いで、お風呂上がりの石鹸のいい香りにうっとりとした。
…この子が、女の子だったら…俺はこの子を妊娠させて、子供を作りたい…
もし、俺が死んでも…この子が、死んでしまわない様に、お世話が必要な“誰か”を代わりに置いて行きたい…
それも叶わない。
だから代わりに…バイオリンをあげて、ずっと弾いてって…言った。
泣いてしまうのなんて分かっていたさ…
でも、きっと…
俺は死んでしまうだろう。
この子もきっと、そう思って…誰よりも悲しんでいる。
…残酷だよ。
まだ、15歳の子供に…あまりにも残酷な事をさせる神様に、死んだ後会うことが出来たなら…一言、文句のひとつも言ってやりたい。
産まれてきた瞬間からこの子は苦しんでいる。
母親が死んで…父親に疎まれて、人と違う事をひた隠しにして…
体の周りにモヤモヤが見える人を、1人で…救おうとして来た。
そんなこの子を思うと、可哀想で…辛くて、涙が出て来るんだ。
類いまれなる感性を代償で受け取ったとしても、生かす場所が無いんじゃあ…宝の持ち腐れになってしまう…
あぁ…だから、俺と出会ったのかな…
俺を通じて音楽を知って…自分の居るべき場所を見つけて行くのかな…?
まるでそうなる様に…この子は木原先生のお気に入りになって…今ではすっかり仲良くフルーツパフェを突く仲にまでなった。
お弟子さんになる…?なんて…冗談でもそんな事を言わなかった先生が、あの子に向かってそう言った。それは、ただ単に豪ちゃんの見た目が可愛いからじゃない。
あの人は、この子に…無限の可能性を見たんだ。
半端ない伸び率を見て…自分の手元で育てたいと、そう思ったんだ。
俺が死んだ後、その繋がりが…この子を昇華させて行く事を願って止まない。
「惺山…ご飯、食べて?」
体に抱き付く俺にそう言うと、豪ちゃんはお箸で野菜を摘まんで自分の胸の中でぼんやりする俺の口元に運んで言った。
「あ~ん、して?」
…可愛い、可愛いんだ…
「あ~ん…」
大人しく言う事を聞いて口を開けると、あの子の課したノルマをクリアするために、必死に顎を動かした。
「夜更かししないでね?雨戸を閉めてね?」
家の前まで送り届けてそんな注意に頷いて応えると、話声が聴こえたのか…玄関から顔を出した兄貴に言った。
「送りに来ました…」
「はぁ…どうも、今日は…美味しいパフェをご馳走になって…バイオリンまで頂くみたいで…申し訳ないです。」
豪ちゃんの兄貴はそう言うとぺこりと頭を下げて、伺い見る様な目つきで俺を見た。
あぁ…そうか…
やけに俺に優しくなったあの子の兄貴に、彼が昨日…この子の“もうじき死ぬ人が分かる”…という、秘密を聞いた人だという事を思い出した。
必然的に…俺の命が、長くない事も知ったんだろう…
だから、この子の夜間外出を認めたんだ。
だから、俺と居る事を…許してくれたんだ。
まぁ…高級パフェを驕ったのは木原先生だけど、細かい事は抜きにして…俺はにっこり笑うと、兄貴に言った。
「良いんだよ…」
「あの…朝ご飯、良かったら、一緒に食べませんか…?栄養が…偏ってるって聞いたんで、もし、良かったら…」
え…?
突然の兄貴の申し出に目を点にすると、俺の手を握って豪ちゃんが言った。
「惺山…!早起きだから、大丈夫だよね?ここまで…歩いて来れるよね?」
えぇ…?
「パリスの…卵があるから…遠慮するよ…」
そう言った瞬間、豪ちゃんは体を揺らしてごねて言った。
「ん~~!惺山!僕の朝ご飯を食べて!」
「…分かったよ。」
…そう、俺はこの子の言う事は、断れない。
「じゃあね…」
踵を返して来た道を戻ると、ふと、後ろを振り返った…
…やっぱり…
少しだけ開いた玄関の隙間から、まん丸の瞳がふたつ…俺を見つめ続けていた。目が合って手を振る俺に、あの子は悲しそうに眉を下げながら小さく手を振り返した…
…死ぬ事は怖くない…
ただ、あの子を…置いて行く事が…怖い。
こんなにも愛されてしまうと、あの子の事が心配で堪らなくなるんだ。
…豪ちゃんは天真爛漫であどけない“変わった子供”なんかじゃない…普通よりも大人びていて、老人と楽しく哲学を語る…“変わった15歳”だ。
洞察力も、人を欺く方法も心得ている…それは自分を守る為に自然と培われた、あの子の…無敵の鎧だ。
そんな鎧の中身は…柔らかくて…傷つきやすい、感性の塊の様な…あの子の本体が入ってる。そして、俺の前だけ…鎧を脱いだ姿を見せてくれて、俺の前だけ…飾らない本音を話してくれるんだ。
そんなあの子が…俺を失った時、どうなってしまうのか…怖くて堪らないんだ。
後追いなんてしやしないか…不安で堪らない。
でも、兄貴と言う理解者を得た今…少しだけ、安心したのも事実だ。
「コッコココッココ…」
「パリス…ただいま…もう風呂に入って寝るよ…」
豪ちゃんの分身にそう言って玄関をあがると、縁側の雨戸を閉めて、風呂にお湯を溜めた。そして、暗い部屋に煌々と光るモニターの電源を切って、台所へ目的もなく向かうと、あの子が洗ったお皿を指先で撫でた…
ピカピカだな…綺麗好きだ…
「あ…そうだ…!」
ふと、大事な事を思い出して、自宅から持って来たバイオリンのケースを開いた。
そして、中から弓を取り出すと、黄色く汚れた弓毛を外して、弓を綺麗な布巾で拭いてあげる。買って来た新品の弓毛を手に取って、高く掲げて見つめた。
「真っ白…あなたの様だね…」
慣れた手つきで弓毛を張り替えてあげると、表面に松脂を塗って、ケースに再びしまった。
幼い頃から、ピアノ…バイオリン…チェロ…フルート、オーボエなんかを習った。
親が金持ち?
いいや…普通の、どこにでもある…共働きの中流家庭だ。
音楽が好きな家庭?
いいや…3人兄弟の末っ子で、上の兄貴は二人とも出来が良かったのに対して、俺があちこちウロチョロしては悪い事ばかりするので…親が、俺の平日の午後を習い事漬けにしたんだよ。
そうして…こんな大人になった。
ちょうど良いタイミングでお風呂のお湯を止めると、さっさと服を脱いで、湯船のお湯を頭から被った。
音大に居た時は、所謂… “お金持ちのおぼっちゃん、お嬢ちゃん”も居た事は居た…でも、徹や俺みたいに…普通の家庭の、音楽好きも居たんだ。
簡単に高価な楽器を買い替える連中を見て、面白くなかったのは否定出来ない。
だって、高校生の時から使っているバイオリンと…小学校から使っているフルート、オーボエ…これが俺の持ってるスタッフ。俺のツールであって、俺の全財産だったんだ。
嫌になるだろ?
200万もするバイオリンの隣で、長年愛用のバイオリンを鳴らすんだ…
趣味でやってる様なこいつらにだけは、負けたくないって…劣等感をこじらせたハングリー精神をむき出しにして、いつもギラギラしていた。
音大なんて、優雅で上品なんかじゃないさ。
いつも虎視眈々とチャンスを狙って…自分の音楽を見せ付けて、飛び抜けてやる!って…中流家庭の俺のような奴らが、金持ちを睨みつけてギラ付いてるんだもの。
自分の子供は…無理してでも海外の音楽院に行かせてやりたい。
あんな怖い所に…通わせたくない。
豪ちゃんにちゃんと言っておこう…俺の娘か息子は、海外に行かせてくれって…
はっ!
「馬鹿だな…そんな事、心配しなくても…はは…!」
湯船に浸かって顔にお湯をかけると、クスクスひとりで笑って煙突に水滴を飛ばして言った。
「精子を提供して、代理出産して貰って…豪ちゃんに子供を育てて貰おうかな…?」
馬鹿だろ?
ほんと、自分でも笑っちゃうくらい…あの子にお世話し続けて欲しいんだ。
俺の代わりの誰かをさ…
風呂から出ると、台所で水を飲みながら、いつの間にか新しくなっている食器洗いのスポンジを見つめて思った。
俺が居なくなっても、あの子には、哲郎も仲間も、兄貴も居る…だから、心配する事は無いんだ…。きっと、これまでの様に…乗り越えてくれるはずなんだ。
言い聞かせる様に何度も胸の奥でそう言うと、寝室に入ってガンガンについたクーラーの設定温度を少しだけ上げた。
秋めいて来た空気は、真夏のそれとは変わって…涼しいくらいの時がある。
風邪なんて引いてる場合じゃないんだ…
可愛いあの子を思い出しながら布団を抱きしめて、ため息をひとつ吐き出して、眠りに落ちた…
「コッコココ…クケェェェ!コケ~ココココ…」
「あ、朝だぁ…」
パリス嬢の朝の大きなボヤキを聴いてむくりと体を起こすと、ボサボサの頭のまま、フラフラと玄関を出る。
もちろん…パンツの上には、ちゃんとズボンを穿いてる。
道なりにフラフラ行くと、三差路を右に曲がって…フラリフラリと体を揺らしながら、寝起きと共に、可愛いあの子に会いに行くんだ…
コンコン…
「あぁ~!惺山!寝起きなの?凄い髪だね?」
そう言って俺に抱き付くあの子の背中を抱きしめると、ぬくぬくの温かい体に顔を埋めてヒシっと抱きしめる。
「豪ちゃぁん…眠いよう…眠いよう…」
そう言ってあの子の髪に顔をグリグリすると、チュチュチュと何度もキスして、あの子の体ごと抱き上げて玄関から部屋に上がった。
「はっ!」
強烈な視線を感じて顔を向けると、そこには…あの子の兄貴が布団にくるまってダンゴムシの様になりながら、俺をじっと見ていた。
…やばい!
寝ぼけて…いつもの調子で、この子に甘ったれてしまった!
「はぁ…やれやれ…」
そう言って豪ちゃんを体から離すと、不自然なくらいに取り繕って言った。
「朝ご飯を食べに…来たよ?」
「座ってて?」
あの子はそう言うと、いそいそと籠とハサミを持って台所の勝手口から外へと行ってしまった…
居間に取り残され…強烈な視線をずっと向けて来る兄貴を、気付かない振りしてやり過ごしていると、ふと、布団がモゾモゾと動いて近づいてくる気配に気が付いた。
やだ!こわい!
そんな乙女心をひた隠しにすると、足元までやって来た豪ちゃんの兄貴を見下ろして言った。
「あぁ…おはようございます…」
芋虫だ…
まるで芋虫の様に布団にくるまったまま…這って近づいて来た…
「お…おはようございます…」
兄貴はそう言うと、俺の後ろを回り込みながら芋虫のまま食卓に着いた。
そして、何も言わないままじっと俺を見つめて来るんだ…
あぁ…!豪ちゃん!早く戻って来て!この人、怖い!!
「わぁ…!兄ちゃん、今日は早起きだね?いつもはずっと寝てる癖に…」
勝手口から戻って来たあの子は、両手に沢山の野菜と卵を抱えてそう言うと、いそいそと台所に立って朝ご飯を作り始めた。
「…て、てて、手伝うよ!豪ちゃん…!」
居心地の悪い兄貴の前から立ち上がって、俺は逃げる様に台所へと避難した。
「惺山…野菜を洗ってくれる?」
「ん、良いよ…」
お手伝い…それは、母親にも、彼女にもしてこなかった事。
でも、君の為なら…何でもしてあげる。
流しで野菜を洗って豪ちゃんに渡すと、あの子がそれをトントンと切って、フライパンへ入れて行く…
ジュージューと気持ちの良い音を出しながら炒められる野菜を見つめて、可愛いあの子の背中にくっ付くと、柔らかい髪にキスしながら言った。
「豪ちゃぁん!俺も炒めてよぅ!」
「あははっ!良いよ?じゅ~じゅ~!じゅ~じゅ~!」
「うぇっほん…グホッグホ…!」
しまった…!
また、やってしまった…
兄貴のわざとらしい咳払いに我に返ると、豪ちゃんの背中から離れて、あの子が裏庭から持って来た焼き魚を見て言った。
「これは?」
「お隣のおばちゃんがくれたんだ。高知に嫁いで行った娘さんが、大量にお魚を送って来てくれたんだって…。でも、おばちゃんは1人暮らしだから…食べきれないって、お裾分け貰ったんだ。」
あの子はそう言うと、冷蔵庫から味噌を取り出して言った。
「ねえ、この味噌は自分で作ったんだよ?ねえ、舐めてみて?」
そう言って、お玉に取った味噌を指先に付けると、豪ちゃんは俺の口の中に躊躇なく入れて、舌を撫でて行く…
あぁ…!!豪ちゃん!!
「ねえ、ちょうど良い塩梅でしょ?手前みそなんて言葉があるけど、ほんとそうだよ?僕が作った味噌が一番、美味しい!甘くて…大豆が荒くて、ちょうど良いの。ね?惺山もそう思うでしょ?僕のお味噌が一番美味しいでしょ?」
「うん…美味しい…」
鼻の下を伸ばしてそう言うと、あの子の背中に抱き付いて、味噌をとかすあの子を上から見下ろした。
「とけたね…」
「うん…どう…?濃い?」
お味噌汁をお玉で少しすくうと、ふうふうして俺の口元に運んでくるから…自然と首を前に出してあの子の作ったばかりの味噌汁を飲んだ。
あぁ…豪ちゃん…良いよぉ…
「とっても、ちょうどいい…」
そう言って微笑むと、満面の笑顔になったあの子の頬にキスした。
「ウエッホホホ~~ン!」
はっ!
いけない!!
「どれ…運びますか…」
豪ちゃんが次々とよそっていくお味噌汁とご飯を食卓に運ぶと、目力の入る兄貴から視線を逸らして、あの子の隣に座った。
「いただきます。」
両手を合わせるあの子と一緒に両手を合わせると、可愛いあの子の温もりを感じながら、湯気の立つお味噌汁とお米を前に…その奥に居る兄貴の鋭い視線を見ない様に、焦点のピントをずらして…美味しくご飯を食べる。
難易度の高い技だが、俺の様な大人なら、きっと、みんなこなせる…
「あぁ…見て?惺山…お魚が肉厚だね?てっちゃんの腹筋みたいだね?」
焼き魚をさばきながらあの子がそう言うから、俺は一緒になって覗き込んで言った。
「ふふ…シックスパックだからね…」
「はぁい…食べて?」
そう言って俺のお茶碗の上に焼き魚の切り身を置くと、豪ちゃんはお醤油を少し垂らしてくれた…
「うん…」
鼻の下を伸ばして素直に頷いて、お米と一緒に魚を食べて言った。
「美味しいぃ…!」
「そう?良かったぁ…!」
大きなどんぶり越しに、俺と豪ちゃんのやり取りをじっと見つめる兄貴と目が合う度に、背中に汗を流しながら言った。
「い、いつも…こんな朝ご飯が充実してるなんて…健康的ですね?」
「ふん!」
知ってる?彼は18歳で…俺は30歳だ。
なのに、どうだ…
まるで、箱入り娘と父親…そして、甲斐性の無いミュージシャンの彼氏…なんて、構図の様なパワーバランスになっているじゃないか!
「兄ちゃんは、朝、機嫌が悪いんだ。低気圧?って言ってたぁ…」
「あぁ…低血圧ね…」
そう言ってきゅうりの漬物を箸で摘まむと、あの子に向けて言った。
「豪ちゃん…あ~んして?」
「ん、ん~!もう!!」
顔を真っ赤にして体を揺らして唸ると、あの子はうるんだ瞳で俺を見つめて口を開けて言った。
「あ~ん…」
はっ!悩殺だ!
「豪!お代わり…!」
怒鳴り声だ!ほぼほぼ、怒鳴り声で、兄貴がおかわりを催促した!
空になった大きなどんぶりを豪ちゃんに差し出した兄貴は、あの子の顔を睨みつけて言った。
「いちゃつくなぁ!うがぁ!」
「はぁ~?いちゃついて無いし!」
…いや、俺はいちゃ付いてる自覚はある…ただ、止められないんだ。
豪ちゃんが可愛くって…自分を止める事が出来ないんだ!!
「す、すみません…」
18歳の少年にしょんぼりと背中を丸めながら謝ると、彼は俺を見ようともしないで、フン!と鼻を鳴らしてそっぽを向いた…
「…気にしなくて良いよぉ?兄ちゃんは低気圧だから…」
もう、指摘する気すらないよ。
君の感性がそう言うのなら、お兄さんは低血圧じゃなくって…低気圧で良い。そんな寛大な心であの子に頷いて答えると、お味噌汁を飲んで、ジン…と感動する…
だって…美味しいんだ。
「豪ちゃぁん!お味噌汁!美味しいよぉ!」
「え~…ほんとぉ?ほんとにほんとぉ?」
「卵焼きの方が旨い…」
ポツリとそう言った兄貴は、あの子からどんぶりを受け取ると、得意げな顔を俺に向けて豪ちゃんに向かって言った。
「上手に作れるんだ。こんな分厚い…卵焼きを、な~?豪~?兄ちゃんはいっつも食べてるもんな~?美味し!美味し!って食べてるもんな~?」
「ふふふ…うん。そうだね。兄ちゃん。」
豪ちゃんの照れ笑いが可愛くてあの子を見つめて惚けていると、そんな俺を見た兄貴は口をひん曲げながら言った。
「…あのぉ、本当に30歳ですか…?もしかして…赤ちゃんですか?」
はっは~!
18歳の子供に…ジャブをかまされた!
「ふふ…30歳です…」
ニヤニヤしながらそう答えた俺に、フン!と鼻息を浴びせると、豪ちゃんの兄貴はどんぶり越しの監視を再び始めた…
この子は…随分、前と…印象が違うな…
これを内っ面とでもいうんだろうか…幼稚、稚拙、馬鹿、柄が悪い…その他もろもろ…
まるでどんぶりと一体となった様な兄貴とジト目で見つめあうと、彼があの小林先生と間違いを犯した男だという事を思い出して、心の中でほくそ笑んでやった。
「…豪ちゃんのお兄さんは、年上の女性が…好きなんですかね…?」
人の事なんて言えないさ…俺だって、ついこの前まで“年上の女性”とやらに弄ばれていたんだからな!!
俺の言葉に顔を真っ赤にした兄貴は、ぐぬぬ…!と声が漏れ聞こえそうに歯を食いしばると、更に目力を強力な物に変えて俺を睨みつけ始めた。
やった…やっちゃった…!
どうやら、俺は、彼の感情を逆撫でしてしまった様だ…
「兄ちゃん?見て?これ、惺山だよ?凄いでしょ?僕、この曲を昨日聴かせてもらったんだ…。とっても、綺麗で…とっても、可愛らしかった。4つまでしかないのが残念なの…。もっと沢山作って。もっと沢山聴かせて?」
豪ちゃんがそう言って俺の背中に抱き付いて来ると、兄貴は不自然な程に視線を逸らして味噌汁をかきこみ始めた。口の端から流れて行く味噌汁の行方が気になる所だが…俺は敢えてそこには言及しないでおくよ。
「今…作ってるんだ。出来上がったら一番に聴かせてあげるよ…」
そう言うと背中のあの子を後ろ手に抱きしめて、ゆらゆらと揺れながらあの子のクスクスと聴こえて来る笑い声に、口元を緩めて笑った。
「うん…」
あの子の声が涙声でも、あの子の目じりに涙が見えても、気が付かない振りをするよ…。ただ、目の前に出された…美味しい朝食を、笑顔で一緒に食べるんだ。
「あぁ…お腹いっぱいになった…」
いつも、パリス嬢の卵かけご飯しか食べて来なかった。
あれでも十分に満足したけど、豪ちゃんの朝食は、どれも美味しくて…いつも以上に、腹も胸も満たされた。
「惺山、お茶碗片付けるの手伝って!」
手際よく空いた茶碗を片付け始めるあの子にそう言われると、慌ててお手伝いを始める。
「ほいほい…」
兄貴のどんぶりは…空になってもずっしりと重かった…!
「これ…デカすぎないか…?」
流しでお茶碗を洗い始めるあの子にそう言うと、吹き出し笑いしながら豪ちゃんが言った。
「そうなんだ。本当はうどんとか食べるどんぶりなのに…!兄ちゃんは、これでお米を食べるのが好きなんだ…!ぷぷっ!変でしょ?」
「変じゃない!男はどんぶり飯を二杯食べれば生きていけるんだ!」
朝の支度を始めた兄貴が、仁王立ちしながら偉そうにそう言った。
女も男も変わらんだろうに…馬鹿な奴だ!
適当に相槌を打って頷くと、食卓の上を布巾で拭いて豪ちゃんに持って行く。
「拭くの、出来たぁ~!」
ナヨナヨしながらそう言って、背中にベッタリくっ付くと、あの子の首に顔を埋めてクンクン鼻を鳴らしながら、匂いを嗅いだ。
はぁ…お腹もいっぱいで、胸いっぱい…
幸せだな…
「うぇっほおん…!」
いがらっぽい豪ちゃんの兄貴の喉が心配になるよ…
彼のわざとらしい咳ばらいを背中に聞きながら、あの子の髪に顔を乗せて言った。
「豪ちゃん…?後でバイオリンの弦を張り替えるよ。弓は昨日のうちに張り替えておいたから…そうだな、明日には使えるかも…。」
「ほんと?嬉しい…。あなたのバイオリンが弾けるなんて、嬉しい…」
そう言ったっきり、顔を上げなくなったあの子の髪にキスすると、流しを流れて行く水を見つめながら、この時が止まってしまえば良いのになんて…少女漫画みたいな事を本気で思った。
「愛してるよ…」
「うん…僕も、愛してる…」
2人にしか聞こえない声でそう言うと、あの子の体をぎゅっと抱きしめて、踵を返した。
「ご馳走様でした~。」
ギラ付いた瞳を向ける兄貴に挨拶を済ませて、ニコニコ笑いながら台所で振り返って俺を見つめるあの子を見つめて手を振った。
「また…後でね、豪ちゃん…」
「うん…」
ガララ…ピシャン…
玄関の扉を閉めた途端…家の中で、豪ちゃんの兄貴がグズグズ駄々をこね始める声が聴こえて来る…
「ん、豪!なぁんで、兄ちゃんのどんぶりを触らせたのぉ!」
…下らない!
駄々をこねるポイントが幼稚すぎる!
「嫌だったのぉ~!嫌だったのぉ~!も、兄ちゃん…すっごい我慢したんだからぁ!」
「…ダセえ!ぷぷっ!」
そんな言葉と一緒に吹き出すと、抑えきれない気持ちをそのままに、ケラケラとひとりで笑った。
あぁ…そうか…
あの子は、兄貴のお世話係なんだ…だから、俺のお世話を甲斐甲斐しくするあの子の姿に、焼きもちを焼いたんだ。
ははっ!可愛らしい兄貴だな…
俺はあそこまで豪ちゃんにベッタリじゃないもんね…
ベッドの中なら…いいや、布団の中なら、俺があの子をリードするんだから!
「ははっ!」
終いに妙な高笑いをすると、まだまだ朝の気配を残す空気を顔に浴びながら、パリスの待つ徹の実家へと戻った。
「コッコッコッコココ…」
「パリス、おはよう…今日は朝ご飯を一杯食べたよ。あぁ…お前の卵が嫌いな訳じゃないよ?毎朝、美味しい卵を産んでくれる事には感謝してるんだ。」
首を傾げる鶏に良い訳をして取り繕うと、ケラケラ笑って玄関に入った。そして、閉め切ったままの雨戸を開けて、朝の新鮮な空気を部屋の中に入れて行く。
…なんで兄ちゃんのどんぶりを触らせたの!
だって…!
「プッ!クククク…!」
ひとりで腹を抱えて笑いながら、縁側から入って来る気持ちの良い風に瞳を細めた。
あの兄貴は…結婚出来ないな。
あんなに可愛い弟がいて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだもの。
彼女が出来ても…比較しちゃうだろ?自分の弟と…
「ぐふふふ!羨ましいけど、ある意味、可哀想だな。千疋屋のパフェが当たり前…そんな環境で過ごしていた訳だからな…。他を食べても、きっと、満足できないだろうな!」
縁側に座って腰を落ち着かせると、バイオリンの弦を外しながら庭を歩くパリスを眺めた。
久しぶりに戻った東京は、変わらず…忙しなく動き続けているというのに…ここは穏やかな時間が流れてる。
これは…主観?それとも事実?
流れる時間に季節の様な移ろいなんて無いのに、どうして…ここで過ごす時間は穏やかに感じるのだろう…
「お?おっちゃん…何してんの?」
そんな声と共に現れたのは…豪ちゃんじゃない、清助だ…
「バイオリンの…弦を張り替えてる…」
そう言いながら張られていた弦を全て外すと、綺麗な布でペグとボディを拭いて行く。
そんな俺を、いつもと違う…そわそわした様子で見つめて来る清助に言った。
「なんだよ…」
「あ、あのさ…」
もじもじしながら俺の目の前に来ると、清助は小さい声で言った。
「女の子って…どういう事が好きなの…?」
はぁ~~~?!
俺に…この、俺に…清助が…!
女子の口説き方を聞きに来た…!!
「…さあ…この前、晋作が言ってたみたいな、“ワイルドな俺たち”を売りにしてみたら良いんじゃないか?」
大笑いしたいのを堪えながらそう言うと、ネックの指板の反りを確認する様にバイオリンを持ってじっと眺めた。
「絶対、てっちゃんがモテるんだ!それは分かってる!だって、てっちゃんはイケメンだし、背も高いし…何より、声変わりしてる!」
あ~はっはっはっは!!
腹が痛い!!
下唇を噛んで笑わない努力をしながらあいつの話を聞いていると、ひょこッと顔を覗かせた大吉がニヤニヤしながら近づいて来て言った。
「あぁ…清ちゃん、抜け駆けしたね?僕も、おじちゃんに聞きに来た所だったんだよ?」
大吉はそう言うと、いやらしく揉み手をしながら俺の隣に座って、顔を覗き込んで言った。
「女の子と、エッチは…どうやってするの?」
は~はっはっはっは!
展開が早すぎだろう!
そんな事心配しなくても…たった数時間いるだけなんだ!
っほんと、馬鹿みたいだな!
「ぶふっ!そ、そ、そんな事…聞いてどうするんだよ…」
弦を取り出してペグに巻きつけながらそう聞くと、大吉は胸を張って言った。
「もしもの時の為に、聞いておきたいんだよ。」
…大吉、きっと…それは杞憂だ。
「あ~…おっさん、みんな…何してんの…?」
やけにわざとらしい声を出しながらやって来た晋作を見て、清助と大吉はため息を吐いて言った。
「なぁんだ、晋ちゃんもエッチの仕方を習いに来たの?」
腹が痛い…!
表向きには大笑いする事も出来ず、俺はずっとインナーマッスルを使って大笑いし続けているんだ…
もうそろそろ…攣りそうだぜ…大吉。
「ちっげ~よ!大ちゃんってやばい!俺はただ…きっかけ作りの相談に来ただけなんだ。」
気取った様子でそう言うと、晋作は俺の隣に腰かけて格好つけて言った。
「俺は…木登り得意だぜ?」
腹痛い…もうダメ…!
晋作は、この前から、ずっと…こういう決め台詞を吐いては、どや顔をするなんて事を繰り返してる。それが実践で役に立つのか…試してみるのも、経験のうちだろう。
町の本校からやって来る女子なんて…一期一会だ。
存分に恥をかけば良い。
「俺…魚、素手で捕まえられるよ?」
「何それ…?」
豪ちゃんはそう言って呆れた顔をすると、バイオリンの弦を張る俺の顔を覗き込んで言った。
「惺山!桃を貰ったから、あとで剥いてあげるね?」
「剥くと言えばさ…」
「大ちゃん、もう良いよ!どうせ俺たちは被ってる!だから何だよ!」
大吉の猥談をシャットアウトすると、清助は格好つけの晋作を押し退けて俺の隣に座って言った。
「例えばだ…例えば、綿あめ、ただで食べても良いよ?って言うのは…気があるって思われちゃうのかな…?それとも、社交辞令だって…そう思うのかな?」
…綿あめ?!
「あ~、清ちゃんはお父さんが綿あめの屋台するからって…物で釣ろうとしてる。僕はそんな事しなくても行けるよ?女の子なんて、こうして誘ったら良いんだよ?」
大吉はそう言うと、中指を立てていやらしく動かしながら言った。
「ぐちょぐちょの…」
「お前はどこでそんな情報を仕入れて来るんだよ!」
慌てて最後まで言わせないで大吉の発言を止めると、ため息を吐きながら言った。
「出会いなんて…いつ訪れるかなんて分からないさ。当たって砕けろ!自分のやり方でやってみたら良いだろ?」
…ただ、大吉のやり方だけは警察が来る可能性を秘めてる…わいせつ罪だ。
「どうせ、てっちゃんのひとり勝ちだ。」
頬を膨らませてそう言うと、清助は晋作の決め台詞を正面から眺めて、ダメ出しを始めた。
「なんかキモい!」
可哀想な晋作…
いいや、清助の気持ちだって分からなくもないさ。
圧倒的なサラブレッドの哲郎を前に、なす術がないんだ。
でも、大丈夫…あいつは町の女の子なんて…目に入らないさ…
「豪ちゃん、おはよう。あぁ…皆、来てたんだ。おっさん…何してんの…?」
噂をすれば…真打登場だ。
「バイオリンの弦を交換してるんだ。で…彼らは、女の子の口説き方を俺に聞きに来てる。」
俺がそう言うと、哲郎は苦笑いをしながら、ハッと表情を一変させて言った。
「…豪ちゃんも?!」
はは…違う。豪ちゃんは…俺に会いに来てるんだ。
「豪ちゃんは、惺山に会いに来たんだよ?桃を持って来てあげたの。」
あの子はそう言うと、俺の隣に座って桃を俺の鼻に付けて言った。
「良い匂いする…」
「あぁ…本当だ…」
甘い香りに口元を緩めて笑ってそう言うと、2本目の弦をペグに巻いて行く。
「…これだ!!」
突然何かを閃いた清助は、晋作を相手に見立てて練習を始めた…
手に持った綿あめらしきものを晋作の前に出すと、イケボで言った。
「これ…匂い、嗅いでごらん?」
「ん、甘~い!好き~!」
晋作…ちょっと軽すぎやしないか?そんな女の子…逆に大丈夫なのか?
「はぁ…何してんだか…」
哲郎はそう言うと、桃を手に持って匂いを嗅ぎ続ける豪ちゃんの目の前に立って、そっとあの子の桃の匂いを嗅ぎながら上目遣いで言った。
「…ん、良い匂いがするね?」
俺が女子なら撃ち抜かれてる…
間違いない!
「そうなんだぁ、だからずっと匂いを嗅いでるの…」
足をブラブラさせて哲郎の足を蹴りながらそう言うと、豪ちゃんは一気に彼の体を足で掴んで自分に引き寄せた。
「んおっ!」
そう言って前のめりになった哲郎が、豪ちゃんに覆い被さって行くのがスローモーションで見える…
こ、これは…!
由々しき事態ですよ!?
「豪ちゃん!危ないよ?哲郎がケガするじゃないか!」
そう言ってあの子に覆い被さったまま機能停止する哲郎を片手で払い退けると、下敷きになってケラケラ笑うあの子が言った。
「てっちゃん、弱え!豪ちゃんに負けてやんの!」
「ん、だっ!な…ちが!ん、だぁ!」
一気に言語能力を失った哲郎は、顔を真っ赤にして怒ると、地団太を踏みながら庭のパリスを追いかけ始めた。
「ん、だぁめ!てっちゃん!やぁだぁ!豪ちゃんの方が強いからって、パリス虐めちゃだめぇ!」
豪ちゃんはそう言うと、俺に桃を渡してパリスを追いかける哲郎に飛び乗った。
そう…あの子は、意外と…気性が荒い子でもあるんだ。
「ばぁか!ん、もう!怒ったぞ!…パリス、逃げてぇ!」
「コ・コココ…!」
背中に豪ちゃんを付けたままパリスを追いかけ続ける哲郎…
彼は引き際を誤る男…きっと、豪ちゃんを怒らせるまで、パリスを追いかけるんだ。
「これ…良い匂いするよ?」
「好き~!カッコいい!」
清助と晋作の茶番を目の前で見せられ続けると、ニヤニヤした表情の大吉が俺の隣に座って言った。
「あれ…3つも画面があったらさぁ、別々のAV流したら、4Pしてるみたいじゃん。」
そう言って俺が設置した3つのモニターを指さすと、顔を近づけて言った。
「見たいなぁ…」
最低だな…!30歳の大人でもドン引きだよ!
「大吉は…少し、そう言う事から離れるべきだよ…ほわわんと…タヌキみたいに化けの皮を被って生きていた方が良い…」
そう言って最後の弦を張り終えると、駒を両手で調整して調弦して行く。耳を澄ませて弦を弾きながら、ペグを絞って音を合わせて行けば、弦の交換の…お終いだ。
「豪ちゃん…こっちにおいで!」
「ん、だぁめぇ!パリス!逃げてぇん!あぁ~~ん!酷い~~!せいざぁ~~ん!」
大泣きした豪ちゃんが俺に走って来ると、バツが悪そうにして、哲郎はパリスを追いかける事をやめた。
やっぱり…
はぁ…
「ほら、もう追いかけてない…それに、最初に悪戯したのは豪ちゃんだろ?」
そうだ、俺というものがありながら、目の前で他の男の腰をあろうことか両足の間に入れて引き寄せるなんて…!
後でお仕置きしないと駄目だな!
あの子の顔を覗き込んでそう言うと、ボロボロと涙を落としながら豪ちゃんが言った。
「ん、でぇもぉ…でぇもぉ!」
「はは…ほら、バイオリンが出来た…今、使ってる弓で弾いてごらん…?」
そう言ってあの子にバイオリンを渡すと、グスグスと鼻をすすりながら大事そうに抱えて持って、小林先生から預かったバイオリンのケースから弓を取り出した。
…ふふ、様になってる。
口元を緩めて笑うと、あの子が姿勢を正してバイオリンを首に挟むのを見つめながら縁側に足を垂らして腰かける。
「ひっく、ひ、ひ、弾いてみます…」
しゃくりあげながらそう言うと、豪ちゃんは左手の指を弦の上に置いて右手の弓を上から当ててゆっくりと弓を引いた。
「あぁ…良いね…凄く良い…」
目じりが下がって、頬が自然と上に上がって行く…
だって、とっても良い音色を出すんだ。
「豪ちゃん、弾ける所まで弾いてごらん…」
…おや、いつの間に、こんなに運指が上達したんだろう…?
そんな疑問を抱きながら堪らず縁側から立ち上がると、バイオリンで”愛の挨拶“を弾き始めたあの子をもっと近くで見たくて、近付いて行く。
「ふぇ…豪ちゃん…すげぇ…!」
そんなギャング団の感嘆の声を素通りして、瞳を閉じて”愛の挨拶”を弾くあの子の目の前に立って、左手の運指と右手で操られる弓の動きを観察する。
右手は、もう少し練習が必要だけど、確実に左手の指の動きが良くなってる…
でも…どうしてだろう…
弾けているんだ。
「驚いた…」
ポツリとそう呟いて、目を丸くして豪ちゃんを見つめていると、自分のバイオリンを弾いているせいかな…涙があふれて来るんだ。
いいや…この子の音色に…やられてる…
ゆっくりで穏やかで…まるでこの子自身の様な…優しくて朗らかな“愛の挨拶”に、胸を鷲摑みされてる。
あまりの心地よさに、思わず手を動かして音の抑揚を表現しながらあの子に言った。
「良いよ…そこはもっと膨らませる様に…あぁ、綺麗だ…!」
そんな俺の声に耳を澄ませて眉を上げると、あの子は体ごと右手の弓をゆったりと動かし始めた。
「あぁ…凄い…!」
すると、途端に音に幅が出た様に、音色に厚みが増して行くんだ…
これが…センスというものなのか…
こんな音色…真似、出来ない。
…この子は…普通じゃない。
「ん~…この先は、まだ分かんない…」
そう言って瞳を開けるあの子の目の前に立ち尽くすと、ボロボロと落ちてくる涙をそのままに感嘆の言葉を贈った。
「素晴らしい…!」
嬉しそうに頬を赤くしてもじもじする豪ちゃんに、両手が痛くなるくらい拍手を送ってあげた。そんな俺の様子に、ギャング団が我に返った様に一緒に拍手を送って、哲郎にいたってはポカンとしたまま…ただただ、あの子に見惚れていた…。
凄い…この子の紡ぐ音色は…普通のバイオリンの音色じゃない。
これは、技術云々の話とは全く違う次元の違いだ。
音色が…あったかいんだ。
…こんな感覚、初めて体験した。
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