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#16
「惺山…バイオリン、返して…」
そう言って再び姿を現したふくれっ面のあの子を見ると、ピアノを弾きながら言った。
「この曲…好きなんだ…聴いて行って…」
落ち着きを取り戻した俺を見ると、あの子は口を尖らせながら俺の隣に座って、ピアノの音色に耳を澄ませた。
「ごめんね…豪ちゃん…」
ピアノを見つめたままそう言うと、あの子は俺を見上げて言った。
「どうして…あんなに怒るの…?あなたの為だけに弾いてはどうしていけないの?」
「いけなくない…」
俯いてそう言うと、“ワルツ第17番イ短調”を弾きながら言った。
「俺が間違っていた…」
「僕は…”愛の挨拶“がどうしても弾きたかった。あなたが初めて教えてくれた曲だから…どうしても弾きたかった。そして、あなたがピアノを弾く時の様に…思いや気持ち…言葉を乗せて…バイオリンを弾いてみたかった…。惺山のくれたバイオリンを弾くと、まるで歌う様にそれが出来て、嬉しかった…。自分の手足の様に感じて、声を出すみたいに音色が鳴り響くんだ…。それを、僕は…あなただけの為に…弾きたい。」
あの子はそう言うと、俺の腕にもたれかかって顔を擦り付けながら言った。
「僕の心は、あなただけに届けば良い…。それが例え…びっくりするくらい上手に聴こえたとしても…それは、あなたにだけ、届けば良い物なんだ。」
「そうだね…全くもって…その通りだ…」
項垂れてそう言うと、あの子の髪にキスをして言った。
「ごめんなさい…」
「良いの…惺山は、良いの…」
そう言って俺を抱きしめたあの子は、くったりと俺の腕に頬を付けて言った。
「シシリエンヌを聴かせてよ…僕、あの曲が好き…」
「良いよ…」
にっこり笑ってそう言うと、あの子の為だけに…”シシリエンヌ“をピアノで弾いて聴かせる。
「この曲は…”ペレアスとメリザンド“って言う劇で使われた曲なんだ…」
「どんなお話なの…?」
あの子の問いかけに首を傾げて…要約して言った。
「兄ちゃんの好きな人を弟も好きになって…こそこそ密会をしていた。そして、兄ちゃんにふたりで居る所を見られて、逃げた…。女の人は刺されて死んで…逃げた弟も死んだ…。彼女のお腹の中に居た弟の子供は何とか助かって…兄ちゃんが育てるって…そんな、気持ちの悪い話だ。」
「うげ…」
あの子はそう言って顔を歪めると、ため息を吐いて言った。
「逃げた弟はクズじゃん…」
ふふ…そうだね。俺もそう思ってる。
クスクス笑って”シシリエンヌ”を弾き終えると、鍵盤から手を下ろして隣に座るあの子にもたれかかって体中の力を抜きながら、ため息をひとつ吐いた…
温かい…
この子は…怒って部屋を飛び出したとしても…
結局、俺が心配で…すぐに戻って来ちゃうんだ。
「豪ちゃん…一緒に合わせて見よう…?ピアノで伴奏を弾くから“愛の挨拶”を弾いてごらん…。もう、さっきみたいに大騒ぎしないから…」
そう言ってあの子のお尻を持ち上げてピアノの椅子から退かしてしまうと、バイオリンを手に取ったあの子に言った。
「お前に合せるから…俺のピアノに合わせようとしないで…自由に弾いて…?」
「…うん。」
渋々…といった顔をしたあの子は、バイオリンを首に挟んで口を尖らせながら俺を見下ろした。
鍵盤の上に指を置いて、ゆっくりと静かな”愛の挨拶“の伴奏を弾き始めると、あの子はじっと俺を見て固まってしまった…
「豪ちゃん…?」
前奏が終わってメロディが入る筈の場所を通り過ぎると、いつまでも入って来ないあの子を見つめて首を傾げた。
「どしたの…?」
「あぁ…惺山が…格好良くって、見惚れちゃったの…」
「ぶほっ!」
恥ずかしそうに、もじもじしながら、豪ちゃんがそんな爆弾を俺に寄越した…。まんまと爆発した俺は、あの子から視線を外して真っ赤になった顔を隠す様に俯いて言った。
「じゃ、じゃ、じゃあ…後ろを向いて…弾いたら良いじゃない…」
「う…うん…えへへ…」
クルリと後ろを向いた豪ちゃんの背中を見つめて、バイオリンを構え直すあの子の伏し目がちな目元に…胸の奥が締め付けられる。
「…じゃあ、弾くよ…」
「うん…」
さっきと同じ様に”愛の挨拶“をピアノで弾き始めると、あの子が入って来た瞬間、まろやかで滑らかなバイオリンの上質な音色に、一気に頭の中がパニックを起こした。
あぁ…凄いんだ…
上品で、角の無い音色…慎ましくて、穏やかで…優しい音色。
「豪ちゃん…合わせ様と思わないで…俺にもたれかかるみたいに…信じて、任せるんだ…」
節々で俺の伴奏を待とうとするあの子にそう言うと、コクリと頷いた小さな頭を見つめて様子を伺いながら、ピアノを弾いた。
次の瞬間、あの子は俺の言った通り身を委ねて…まるで、大きな翼を広げた白鳥の様に、音色を爆発させた…
…凄い
…気を抜いたら、うっかり聴き入って手が止まってしまいそうだ…
「上手だ…惚れ惚れする音色だ…」
”愛の挨拶”を弾き終えてしみじみ噛み締めながらそう言うと、あの子を見上げて言った。
「豪ちゃん…”愛の挨拶“は弾けるようになってしまった…まだ来週の末まで時間がある。他に弾きたい曲は無いの…?」
俺の言葉にピンと来たような顔をした豪ちゃんは、急に、恥ずかしそうにもじもじしながら視線を逸らして言った。
「惺山の曲…」
…俺の曲?
作曲したばかりの曲は、ポルカの調子をバリバリにバイオリンで奏でる為に、超絶技巧がいくつも使われていて…いくらの豪ちゃんでも無理だ。
「あれは…ポルカ調に独特な奏法をしないとダメなんだ…あれ、以外は…?」
俺がそう言うと、あの子は首を傾げながら言った。
「…きらきら星…惺山の曲…」
へ…?
「俺の曲が…きらきら星なの?」
首を傾げてあの子にそう聞くと、豪ちゃんは深く頷いて指を差しながら漢字を宙に書いて言った。
「森…山…惺…山…きらきら星…」
あぁ、全く…可愛い奴だ…
「あっはっはっは!確かにそうだったね?ふふっ!あっはっはっは!!」
以前、あの子が言った…
俺の名前は麓に森の広がった…山と山の間に、小さな星が瞬いてるって…そんな情景が俺の名前にはあるって…言っていたんだ。
素敵な感性だと思わないかい?
俺はこの子の美しい感性が…大好きだ…
「じゃあ…きらきら星の楽譜もあるし、弾いてみようか?」
あの子の顔を見てそう言うと、豪ちゃんは首を横に振って言った。
「この前の…満点の星空が良いの…」
え…?
あぁ…なる程、この子は…”きらきら星“じゃなくて、”きらきら星変奏曲“を弾きたいのか…
「どんなイメージにしたいの…?」
首を傾げてそう尋ねた俺に食い付いた様に瞳を輝かせると、豪ちゃんは俺の隣に座り込んで、身振り手振りを交えながらイメージを伝えて来た。
「あのね…あのね…ふふ、あのね…うんと…えっとぉ…ふふ!どうしようかなぁ…恥ずかしいんだ…うんと、えっとぉ…」
豪ちゃんはそんな長い前説を繰り広げて俺を横目に見ると、恥ずかしそうに顔を赤く染めながらモゾモゾと小さい声で言った。
「まるで…星が瞬くみたいに…僕が弾くと…あなたが弾いて…あなたが弾くと…僕が弾くみたいに…キラキラする様な音色を、作りたいの…」
漠然としている…
しかし、あの子の意思を汲み取るのも…伴奏者の、俺の、役目だ…
「交互に弾くって事?」
「ん~…違うの…何て言うかぁ…キラッ!キラッ!みたいな…」
あぁ…まずい…
感性の人…豪ちゃんのイメージは彼単体なら容易に表現出来るだろう。ただ、それを誰かに伝えたり…共有する事に慣れていないせいか、漠然とした擬音を繰り返すという…感性強い人あるあるを繰り広げ始めた。
「キララ…みたいな…」
「あぁ…なる程ね…」
「キラッ!キラッ!キララ…みたいな…」
「ふんふん…なる程ね…」
意味なんて分からないさ…
ただ、あの子が話している間、一生懸命頭をフル回転させて、豪ちゃんの頭の中のイメージを取捨選択して行くだけだ。
こんな事、仕事でもよくある…クライアントのイメージは漠然とし過ぎているから、話を聞くだけ聞いて、相手のイメージをゼロから探っていくんだ。
「こんな感じ…?」
「違う。」
ピアノでいくつかのフレーズを弾いて、聴かせて、あの子の好みを探りながら”きらきら星変奏曲“を編曲していく…
隣に座った豪ちゃんは、至って真剣な表情のまま…漠然としたイメージを伝えては首を傾げて眉間にしわを寄せて行く。それが…結構、可愛い。
「じゃあ…こんな感じ…?」
「もっと…もっとなの!」
「…キスして欲しいの?」
そう言って豪ちゃんの顔を覗き込んでクスクス笑いながら、顔を真っ赤にして…口を噤んでしまったあの子の唇にチュッとキスをする。
こんなおまけが無い限り…こんな骨の折れる作業は心が折れちゃう。
だって、何でか分かんないけど…全然、妥協して来ないんだ!
苛ついてなんかないさ…可愛い豪ちゃんの為だからね?
…でもさ、ある程度…すり合わせって言うの…?そういう妥協ってするもんだろ?!
なのに、この子は、漠然としたイメージしか伝えてこない癖に、全然妥協しないんだ!
「駄目だ…疲れた…!今日はここまで。また、明日教えてよ…」
あの子を抱きしめて、両手を上げて早々に降参した…
キレてないですよ…
ただ…汲み取ろうとする、集中力が途切れたんだ。
項垂れて体に圧し掛かる俺を肩に乗せながら、おもむろに、あの子が鍵盤に指を置いて、きらきら星をたどたどしく弾き始めた…
「ふふ…お上手…」
そう言ってクッタリとあの子に甘えると、右手の指だけで弾くきらきら星を耳の奥にしまい込んだ。
この子の弾いた…ピアノ。
可愛らしい音色は、ピアノでも同じだった…
連弾する様に、あの子の右手に合わせて左手を鍵盤の上に走らせると、満面の笑顔で俺を見上げるあの子を見下ろして、優しくおでこにキスをして抱きしめた。
「惺山…お上手…!」
褒められて気を良くした俺は、さっきの疲れも吹っ飛んで、あの子の目の前で”きらきら星変奏曲“を弾いて聴かせてあげる。
「わぁ…!星が…降って来るみたい!!」
そう言ってあの子が笑うから、俺も笑いながら言った。
「流星群だな…!」
「隕石は…?」
へ…?
豪ちゃんのそんな言葉にケラケラ笑うと、左手の甲を鍵盤に押し当てて、高音から一気に滑らせて言った。
「これが…隕石だ!」
「あ~はっはっはっは!!」
そう…音楽って…こういう物。
情景にも、音にも、形なんてないんだから…どう表現したって構わないんだ。
それを受け止める人の…感受性に任せて、自分の表現したい物に制限なんて付けないで、思う様に音を奏でて、イメージを送り込めば良いんだ。
この”きらきら星“だって…星なんて見えない深海を想像しながら弾いたって構わない。だって、それが、情景となって音色を変えて、聴く人を魅了するんだから。
それが、音を楽しむって事なんだから…
「あぁ…もう、月に行っちゃったぁ…」
豪ちゃんがポツリとそう言うと、ちょうど…”きらきら星変奏曲”を弾き終えた…
「また明日来るね…?ご飯、食べてね…?ちゃんと寝てね?」
そんなあの子の注意を何度も頷いて応えると、家路を急いで帰るあの子の後姿を見つめた…
「そろそろ…振り返る…」
ポツリとそう言うと同時に、あの子が振り返って俺を見て手を振った。
「ふふ…やっぱり…」
口元を緩めて微笑みながら手を振り返して、再びあの子が歩き始める姿を見つめて…ため息を吐く。
豪ちゃん…離れたくないよ。
死ぬのが…怖くなって来たんだ。
君と離れるのが辛すぎるんだ…
「ココッコッコッコケーコ…」
足元に寄って来たパリスの頭を撫でて、気持ち良さそうに伸ばした首の下を指先で撫でながら、物を言わぬパリスに胸の内を話した。
「一緒に居る時間が長くなる程…どんどん好きになっていくんだ…」
もうじき、死ぬのにな…
離れたくないんだよ。
慰めも、同情もしない。そんな冷徹で大人なパリスと別れて、玄関を上がって、あの子が立っていた台所で炊飯器のおかまを開きながら中を覗き込んだ。
ちゃんとお米を炊いておいてくれるんだもん…豪ちゃんは優しい。
”冷蔵庫に入れておいた。はぁと“
ふと、炊飯器の脇にそんなメモを見つけて、首を傾げながら冷蔵庫を開いてみた。
「あぁ…桃だ…」
それはあの子がいつの間にか剥いて、切って、置いておいてくれた…桃。
卵かけご飯と桃を手に取って、縁側で月を眺めながらご飯を食べていると、耳の奥に不思議とケルト民謡が流れ始めて、口元を緩めて笑った。
豪ちゃん?これはまるで、ウイルスの様に…伝染していく物なのかな…?
俺の耳にも…音楽が聴こえる様になったよ。今も軽やかなバイオリンの音色が軽快な旋律を踊る様に流れているんだ。
止まる事無く紡がれ続ける旋律に瞳を閉じると、湖で見たあの子の姿を思い出す。
五線譜を身に纏った天使だった…
「ぷぷっ!んな訳無い!あの子は確かに天使だけど、五線譜の羽衣は俺の主観が絶対に混じってる!」
ひとりそう言って卵かけご飯を食べ終えると、あの子が切ってくれた桃を一つ手に取って口に入れた。
「甘~い…」
明日も…あの子の朝ご飯をご馳走になりに行こう…
あの子のこれからの長い時間の中、この瞬間だけでも…あの子の愛する人で居たいんだ…
いつもの様に風呂に入って…布団に潜りこんで、あの子を思いながら…いつもの様に眠りについた。
「コッコッコッコケーコ!コッコッコッコケーコ!」
パリスの鳴き声に目を覚ますと、携帯電話で時間を確認して、木原先生からのメールを受信した事を知った…
「あぁ…どうしよう…」
携帯電話を手に持ちながら布団の上で正座して、頭の中が真っ白になって、ジッと身動きが取れなくなった…
どうしてかって…?
何て書いてあるのか…怖くて見られないんだ。
ケチョンケチョンに言われていたら…どうしようって、怖いんだ…
カチカチと時計の鳴る音が耳の奥に響いて携帯をそのまま握り締めると、立ち上がってスウェットを穿いた。
玄関を出て、フラフラと歩いて向かうのは…可愛いあの人の家。
夜這いじゃない…朝ご飯を食べに行くんだ…
コンコン…
「惺山!おはよう?あれ…?どうしたの…?ここが…凄い、強いよ?」
俺の体に抱き付きながら無邪気に眉間のしわをグリグリと撫でるあの子に言った。
「豪ちゃぁ~ん!木原先生がメールをくれたんだよう!怖いの!怖いの!豪ちゃんが読んでぇ~!」
細くて頼りない体に抱き付いて、メソメソした…すると、再び敷きっぱなしの布団から、鋭い視線を感じて、そっと…顔を逸らした。
兄貴だ…きっと、昨日みたいにギラついた目で俺を睨んでる…
「どれどれ…見せてみてぇ?」
豪ちゃんは首を傾げて俺の携帯電話を手に取ると、受信した先生からのメールを読み始めた。
はぁはぁ…怖い…!
「うわぁん!酷い事が書かれていたら…ごみ箱に捨てて!ごみ箱に捨てて!!」
そう言いながら他人の家の畳の上でうつ伏せに突っ伏すと、メールを読みながら俺の隣で背中を撫でてくれる豪ちゃんに甘ったれて言った。
「なんて書いてあるの?ねえ!なんて書いてあるの?あ…!だめ!怖い事が書いてあるなら…そのまま、ごみ箱に捨ててぇん!」
畳の上でゴロゴロと転がりながら駄々をこねる俺の頭を撫でて、メールを読み終えた豪ちゃんが口元を緩めて笑った。
「…先生は、素敵な曲だねって言ってるよ?」
そう言って俺の頭をわしゃわしゃと撫でると、携帯電話をポンと置いて、台所へ行ってしまった。
なんだ…リアクションが薄いな…
豪ちゃんの反応に首を傾げながら、怖くなくなった先生からのメールを読んだ。
“良い出来だ。正直、こっちに居た時よりも冴えてる。そんな事より、豪ちゃんのバイオリンをぜひ聴きたい。あの子は天性の感性を持ってる。”聴き手“として私の傍に置きたい。ただ、あの子が望まないなら…強制はしない。”
あぁ…
俺の作品への感想の何倍も…豪ちゃんへの熱い思いを綴ったメールだったのか…
「…木原先生は、変態だね?」
台所のあの子にそう言うと、豪ちゃんは背中を向けたまま言った。
「先生は変態だけど、面白い人だよ…」
ふぅん…
嫉妬した訳じゃない…ただ、面白くなかった…
ズ…ズズ…ズズ…
不気味な音を立てながら何かが近付いて来て、うつ伏せに突っ伏した俺の足を小突いて来た。
何…!怖い!
そんな乙女心を露わにして顔を歪めると、ジロリと足元を見た…
「あ…お兄さん、おはようございます…」
すぐに起き上がって正座し直して、俺の後ろを昨日と同じ様に布団に包まりながら芋虫の様に這いずって来る…豪ちゃんの兄貴に朝の挨拶をした。
「…随分、朝から、大騒ぎをするんですね…」
そんな冷たい声と冷たい視線を…頂いた。俺は眉を上げてそんなご厚意に答えると、立ち上がって豪ちゃんの元へと一目散に逃げた。
「…手伝うよ?」
「ふふ…じゃあ…お願い。」
口元を緩めて、嬉しそうに微笑むこの子が可愛い…
そんな豪ちゃんの穏やかな笑顔につられて、子供の様にあの子を見つめて微笑み返しながら言った。
「うん…」
豪ちゃんは手慣れた様子で、四角いフライパンに卵を入れて上手に薄い卵焼きをクルクルと巻きつけて行く。そんな、迷う事も無い見事なあの子の手つきに感嘆して言った。
「上手…豪ちゃんは、なんでも上手だね…」
そんな誉め言葉に顔を真っ赤に染めて、豪ちゃんはもじもじしながらツンデレを発揮した。
「…ん、もう!」
はぁぁぁぁぁ!!可愛い!!
「惺山…昨日ね、漬物を付けておいたんだ…冷蔵庫に入ってるから、お皿に移して?」
「ほい!」
キビキビとあの子の指示に従って動くと、食卓の上に両肘をついて…どこかのお父さんの様にジロジロと俺を見つめる兄貴の視線をかわしていく…
「…この、お皿で良い?」
「うん…良いよ。」
豪ちゃんの漬けた茄子の漬物をお皿に移すと、あの子がひとつ摘んでポリっと食べて、残りの半分を俺の口に持って来て言った。
「お味を見てよ…」
あぁ…!もう、もう!
堪らず豪ちゃんの腰を掴んで抱き寄せてあの子の指ごと口の中に入れると、鼻の下を伸ばしながらデレデレになって言った。
「…豪ちゃんが、美味しい!!」
「ウエッホォン!ゲフゲフ!なんだ、ここは空気が悪いな!」
兄貴の喉のいがらっぽさは、今日も治っていない様だ…
わざとらしい咳払いの声を背中に聞きながら豪ちゃんの体を解放してあげると、茄子の漬物を兄貴の目の前に置いた。
「随分!スキンシップが…!強いんですね?」
「いやぁ…そんな、ははは…」
鋭い兄貴の言葉に見当違いな照れ笑いをすると、台所へ一目散に引き返した。
怒ってる…!今日も、いがらっぽく怒ってる!
でも、そんな事、俺はあんまり気にしない…だって、豪ちゃんの美味しい朝ご飯を食べられるんだもん。
焼き上がった卵焼きを四等分に切り分ける豪ちゃんの体に寄り添いながら、あの子の手元を見つめて言った。
「美味しそうだね…」
「…美味しいよ?だって、生みたての卵だもん…」
そう言って俺を見つめると、豪ちゃんは、まるで甘える猫みたいに俺の腕にスリスリしてくるから、あの子の髪に顔を埋めて何度もキスしながら言った。
「食べたい…」
「…っだぁ!豪!米!早く!」
そんな兄貴の声に我に返った豪ちゃんは、頬を真っ赤にしながら俺に卵焼きを手渡して言った。
「持って行って…!」
「ほいほい…」
昨日と同じ様に、食卓には沢山のおかずが並べられて、豆腐の入ったお味噌汁と、卵焼き…そして、漬物と昨日のご飯の残り…なんて朝ご飯が小さなちゃぶ台の上に埋め尽くされた。
「いただきます…」
豪ちゃんと一緒に両手を合わせて、兄貴の鋭い眼光を受け流しながら、可愛いあの子と一緒に朝ご飯を食べる。
「わぁ…ふわふわの卵焼きだ。とっても美味しい…!」
一口かじってそう言った俺に、あの子は嬉しそうに瞳を細めて微笑んで言った。
「…嬉しい。」
あぁ…こんな生活がいつまでも、いつまでも、続いてくれたら良いのに…
「…ん、兄ちゃんは、豪のオムレツも好きだぞ?お肉の代わりに大豆が入ってて、ヘルシーなんだよね~?ね~?」
今日も大きなどんぶりを肩手に持った豪ちゃんの兄貴は、どや顔を俺に向けてまるで対抗する様に言った。
「オムライスも、カレーも、筑前煮だって作れるんだ!うちの豪は、料理上手で気立てが良いからな!」
…はは、まるで父親の様じゃないか…
「えぇ…えぇ…まったく、その通りで…」
体を縮こませてそう言って、あの子が茶碗の中に入れた茄子の漬物をポリポリとかじって食べた。
舅と同居すると、きっとこんな感じなんだ…
あの魚介一家の婿も…きっと、こんな感じなんだ。可哀そうだな…
俺をジロジロ見つめる兄貴を上目遣いに見て様子を伺うと、目が合った瞬間…クワッ!と見開く様子にビビって、視線を可愛いあの子に戻した。
「豪ちゃん…お味噌汁も美味しい…」
余りの居心地の悪さに、豪ちゃんを向いてご飯を食べ始めた俺に、あの子は眉を下げて言った。
「…お行儀が悪いよ?ちゃんと…こうして…こうして、テーブルに体を向けて…」
あ…違うんだ…豪ちゃん、君のお兄さんが…俺をジト目で…
そんな事言える訳もなく…あの子によって正しく姿勢を直されると、再び目の前の兄貴と目が合った…
「惺山さんは…30歳にもなるのに…お行儀が悪いうえに、すぐに体を触りたがるみたいだ…。豪?こう言う人を…何て言うか知ってる?…どスケベって言うんだ。」
両眼をガン開きさせながら俺を見つめてそう言った兄貴は、どんぶりの米を大口にかっ込みながら、器用に視線をそのままにして睨み続けた。
流石の豪ちゃんも兄貴の素行の悪さに気が付いた様子で、彼の頬を持って俺から視線を逸らさせた。そして、怒った様に頬を膨らませて言った。
「兄ちゃん?惺山をそんな風に睨まないで?可哀想でしょ?もう…!明日、来たくなくなっちゃうよ?」
「…睨んでない!」
豪ちゃんの言葉に、顔を歪めた兄貴は、事実とは違う事を言ってとぼけた…
嘘つきめ…!俺はお前の鋭い眼光を受けて、体中穴だらけだぞっ!
「そうだ、豪。兄ちゃんも…来週の土日は仕事を休んで、“音楽祭”の手伝いをする事になった…」
俺を睨む事を止めた兄貴は、そう言って豪ちゃんに空のコップを手渡すと、漬物をポリポリ食べて言った。
「で…弾けるようになったの?」
はは…きっと驚くぞ…!
ニヤニヤしながらあの子を見ると、豪ちゃんは浮かない顔をして首を傾げてみせる。
どうしたの…?
あぁ…もしかして…
「弾けますよ…それも、とっても上手に。」
あの子の代わりにそう言うと、伺う様に俺を見つめる豪ちゃんに言った。
「兄貴には…本当の事を伝え続けるんだ。良いね?俺の様に騒ぎ出したら…俺に言ったみたいに、ちゃんと気持ちを伝えて…嫌だって言えば良い。…そうだろ?」
俺のそんな言葉に、不思議そうな顔をして豪ちゃんを見つめる兄貴に言った。
「とっても上手で…騒いでしまったんです。これは才能だ!って…。この子はそれが嫌だった…。だから、きっと、上手に弾ける事を隠そうとした…。」
「だってぇ…ん、だってぇ…」
もじもじしながら体を揺らした豪ちゃんは、俺の体にもたれかかって言った。
「僕は…惺山に聴かせる為に上手になりたかったんだもの…」
そうだね…
そう言っていたね、でも…やっぱりお前のバイオリンは…特別だ。
木原先生のメールを読んでも浮かない顔をしていたね。
自分の意思に反して、周りの状況が変わって行くのを…怖がっているみたいだ。
「そうだね…」
あの子を見つめて深く頷いて、首を傾げ続ける豪ちゃんの兄貴に、唐突に聞いた。
「…お兄さんは、小林先生とは長いんですか?」
「へ…?!」
話題を急転換させて、そう尋ねた。…だって、豪ちゃんは、これ以上この話を続けたく無さそうだったんだ。意に反してもてはやされる事への不安を感じてる…
俺の問いかけに、豪ちゃんの兄貴はしどろもどろになりながら、面倒臭そうに頭をかき上げて言った。
「別に…付き合ってる訳じゃなくって…彼女って言うか…ベタベタする訳でも無くって…」
あぁ…やっぱり、ひと時の…“すっぽんでの過ち”を後悔してるんだ…ぷぷっ!
挙動不審にどんぶりを揺らす兄貴を豪ちゃんは不思議そうな目で見ている。
きっと…流されて付き合う…なんて事、この子には想像もつかないんだ。
何となく…エッチしたから…
そんな流れで付き合い始めて…トキメク様な物も感じなかったんだろう。
まるで…俺が、先生の奥さんと付き合っていた時の様に…意固地になってるんだ。
そうするもんだと思って…何となく…
そんな気持ちで続いている関係なんだ。
「ごちそうさま~!」
両手を合わせてそう言って、いそいそと立ち上がるあの子の小さなお尻をすかさず眺めた。
「惺山…お茶碗持って来て?」
「ほ~い!」
空いたお皿をまとめて、兄貴のどんぶりに手を掛けようと手を伸ばして…止めた。そして、口をひん曲げて俺を見つめる兄貴を見て、首を傾げながら聞いた。
「…ぷぷ、どうします…?」
「…え?ど、どうぞ…」
あんなに豪ちゃんに駄々をこねていた癖に、兄貴はそう言うと、俺に空いたどんぶりを手渡した。
はっは~!
なぁにが、兄ちゃんのどんぶり、どうして触らせたのぉ~!だ!
はっはっは!
「はい…俺が、持って来たよ?」
流しでお茶碗を洗い始めるあの子にちゃんとアピールして、洗い物を手渡した。そして、小さな背中にぴったりくっついて、あの子の動きを体の中に感じて、口元を緩めてニヤける。
「…今日は…“きらきら星”の続きをしようね?」
「え…良いのぉ?作曲しなくても良いの?」
俺を見上げて豪ちゃんがそう聞いてくるから、あの子の体をギュッと抱きしめて、チュッとキスして言った。
「豪ちゃんと“きらきら星”してる方が楽しい…」
俺の言葉に顔を真っ赤にすると、豪ちゃんはすぐに顔を下ろして、お茶碗を一心不乱に洗い始めた。
耳まで赤い…恥ずかしいんだ…
「可愛い…大好き…」
そう言ってあの子の耳たぶを食むと、腰がお尻にくっ付く様に体を押し付けながら、あの子の首元に唇を這わせた。
バシン!
急な衝撃に驚いて振り返って目を見開くと、豪ちゃんの兄貴が凄い剣幕で俺を睨みつけて言った。
「こ、こ、この家の中では…!やめろっ!この…どスケベ!」
「兄ちゃん…」
残念そうに眉を下げたあの子が手を拭きながらそう言うと、鼻息を荒くしたまま手に持った新聞紙を俺に向けて兄貴が言った。
「大体だ!ちょっと触れるくらいなら仕方が無いさ!でも、このおっさんは、ベタベタした挙句に…!まるで…!まるで…!何かが始まりそうな事を平気でするじゃないか!!それが、俺は許せない!」
はは…何かは、いつもどこかで始まってるんだ!
「すみません!気を付けます!」
姿勢を正してキリッとそう言って、兄貴の手から凶器の新聞紙を取り上げてしまうと、食卓の上に置いた。そして、凄い形相で俺を睨み続ける豪ちゃんの兄貴を見て言った。
「…あぁ、別れるなら早い方が良いです。流れで付き合っても…良い事ない。どうぞ、ご英断を!じゃ、ごちそうさまでした。豪ちゃん、美味しかったよ。また後でね?」
そう言って俺を見送るあの子に手を振ると、愕然としたままの表情で俺を見つめる兄貴に、ペコリと頭を下げてあの子の家を後にした…
まだ18歳の少年を食べちゃうなんて…小林先生は見た目に寄らずアグレッシブだ。
若い体を欲しいままにして…田舎って、意外と性に奔放なのかな…?
そんなどうでも良い事を考えながら帰り道の空を見上げると、顔を撫でて行く爽やかな風に瞳を閉じた。そして、歩き慣れた帰り道を深呼吸しながら…徹の実家へと戻った。
“正直…こっちに居た時よりも、冴えてる”…
そんな木原先生の言葉を…噛み締めながら…
俺もそう思ってるんだ…
東京に居た時よりも、自分の思いをメロディに出来ているって。
分かり易い激しい感情だけじゃなく…繊細で、優しくて…胸が締め付けられるような感情や、ノスタルジーな雰囲気を、自分なりに表現出来ている。
きっと…あの子に、出会ったから。
あの子に愛して貰っているから…俺のささくれ立ってしまっていた感性に、潤いと…柔軟性と、優しさが戻って来たんだ。
「コッコッコッコ…コケーコッコッコッコ…」
俺の帰りを出迎えてくれたパリスを抱きかかえて、あったかい体を優しく撫でながら、うっとりと体を揺らす。
「“きらきら星”は俺の曲なんだって…。可愛い事を言うだろ?あの人は俺の可愛い人だよ?あんな堪らない感性と、鋭敏な感受性を持ってる。なあ、素敵な人だろ…?」
そんな俺を呆れた様に半開きの瞳で見つめたパリスは、喉の奥を短く鳴らして鼻で笑った。
…周りと比較したり、ギラギラした感情では拾えなかった…そんな物を、ここに来て見つけた気がする。
穏やかさ…なんてもんじゃない。もっと、原始的で…もっと、シンプルな物だ。
生きる…という事。
それが他愛もない生活の一部分だったとしても、俺には欠落していた物さ。
少しの事で喜んだり…風にそよめく畑の稲を綺麗だと胸を打たせたり、暑い日には汗をかきながらアイスを食べたり…縁側でのんびりと月を眺めたり…
愛しい人を…心の奥から…大切だと思ったり。
そんな、シンプルで…不変の物が俺には欠けていた。
「おっちゃん!今!今~!」
感慨深げに縁側の雨戸を開いていると、晋作が大慌てでやって来た…
「どしたの…?」
彼を見下ろして首を傾げた俺に、晋作の後からやって来た大吉が、へらへら笑いながら大きな声で言った。
「ほ、ほ、本校の生徒が来たぁ!」
ほほ!
それは…一大イベントじゃないか…!
「そう…」
好奇心をひた隠しにして興味なさげにそう言った俺に、ニヤニヤの止まらない大吉はまるで揺さぶりをかける様に言った。
「そういや、昨日…おじちゃんが豪ちゃんを怒らせたんだぁ…!」
ふっ!
それは…もう、終わった話だ!馬鹿め!
「仲直りした…」
ムッと頬を膨らませてそう言うと、大吉はニヤニヤしたまま首を傾げた。
…こいつ!
「ま、町の本校の生徒が、当日の下見で…“ゆめとぴあ”にやって来たぞ!」
そんな雄たけびを上げながら庭に走り込んで来た清助は、晋作と大吉に目配せをして大きく頷くと、俺をじっと見つめた瞳を輝かせて言った。
「みんなぁ!見に行こうぜ!!」
あぁ…行って来れば良い…そして、妄想を打ち砕いて来い!
お前たちが望むような“優しい女の子”なんて存在しないと、早く気付け!
「おっちゃん!送ってってよ!歩きだと、意外と遠いんだ!」
いきり立った晋作は止まらない様だ…。俺にアッシー君を頼んで、おもむろに中古車の助手席のドアをガチャガチャと握って鳴らし始めた。
え…怖いな…ちょっと落ち着け…
「ご、豪ちゃんが来たら送ってやるよ…」
晋作の動向に注意を払いながら縁側に腰かけて、妄想に耽っていきり立つ大吉と清助を微笑ましく、嘲笑いながら眺めた。
馬鹿だ…こいつらは、馬鹿だ…
「きっと…ミニスカート穿いてて…パンツが見えるんだ!」
大吉がそう言うと、清助は瞳をキラキラさせて両手をニギニギしながら言った。
「あぁ…もしかしたら、その奥まで見えるかもしれない!」
そんな女の子…居ない。
目の血走った晋作はそんな二人に駆け寄ると、両手を大降りに振ってジェスチャーを交えながら、頭の中の“ありえない妄想”をトクトクと語り始めた…
「ちっげ~よ!きっと…ボインで、シャツが…こう…ボタンの所がパッツンパッツンになってて、赤いブラジャーが見えるんだ…!」
そんな…中学生はいない…。それは、熟女だ。
「何が…?」
庭で弾ける友達を横目に見ながら現れると、豪ちゃんは首を傾げて俺を見つめた。そして、隣に腰かけて相変わらず傾げたままの首をもっと傾げて聞いて来た。
「…何の話、してるの?」
「道の駅に…音楽祭の下見に、町の生徒が数名、来たみたいだ…」
「え…そう…なんだぁ…」
あぁ…緊張してるのかな。可愛いんだから…
急にしょんぼりして元気の無くなった豪ちゃんの横顔を見つめて、目の前で繰り広げられる晋作と清助のコントと呼べるやり取りと、大吉のワンマン猥談ショーを、豪ちゃんの頭を撫でながら横目に眺めた…
「お~い、やっぱりここに居た。うちの父ちゃんが、これから“ゆめとぴあ”に行くって言うんだけど…みんなも行く?」
いつもの様に爽やかな風と共に現れて、みんなの期待を一身に受ける事を言うと、哲郎は俺の隣に座る豪ちゃんを見て言った。
「豪ちゃんもおいで…?父ちゃんがシェイク買ってくれるって…」
「…豪ちゃんは、行かない…」
哲郎の誘いを即答で断った豪ちゃんは、物言いたげな、恨めしそうな目で、俺を見上げて瞳を潤ませた…
あぁ…そっか…俺と離れたくないのか…
でも、みんなと一緒に、ゆめとぴあに行ってみたいんだな。
「豪ちゃんは俺が乗せて行こう。そもそも…こんな大人数、一台の車じゃ乗りきらないだろ…?」
豪ちゃんの頭を撫でて、嬉しそうに体を弾ませるあの子を見て口元を緩ませる。
まどろっこしい…そんな風に思わないさ。あの子の気持ちを汲めたんだ。それは、俺にとったら、喜ばしい事で、嬉しい事なんだ。
「やった~!てっちゃんの家の車だったら、このボロ車より、断然良い乗り心地だもんね~!」
そんな…晋作の辛辣な声なんて…右から左に流すさ。
俺にはこの子がいるもんね…ふんだ。
腑に落ちない表情をして哲郎がみんなを引き連れて帰る中、開けたばかりの雨戸を閉めると、いそいそと居間に上がって俺に抱き付いて来るあの子を見下ろして言った。
「卵焼き…めちゃくちゃ美味しかったね…?」
「うふふ…良かったぁ…」
あの子はそう言って微笑んだまま、俺の頬を撫でて優しくキスをくれた。
あぁ…ゆめとぴあなんてどうでも良い。
このまま…この子と…イチャイチャしたいな…
そう思ってあの子の体をいやらしく撫でまわし始めると、豪ちゃんは俺の顔を見上げて、満面の笑顔を向けて言った。
「ゆめとぴあにはシェイクが売ってるんだぁ!後はぁ…地域の農家が卸した野菜も売ってる。惺山に食べさせてあげる!特に、この季節は…トマトと、茄子、きゅうり…が旬だから、旬の物をいっぱい食べるんだよ?栄養が満点だからね?」
体を揺らしてソワソワし始めた豪ちゃんは、俺の腕を引っ張って瞳を潤ませて言った。
「ん、ほらぁ、早く行こうよぉ~!」
なんだよ…ちぇっ!
甘ったれたい気持ちを胸の中にしまって、不満なんて感じさせない様に口を尖らせて言った。
「へいへい…」
お揃いの麦わら帽子を被って急かされながら玄関を出ると、車のドアを開けて、ムワッと顔に襲い掛かる熱風を感じながら、顔をしかめた。
「んあぁ…熱い!」
「あ、こうして…風を送ってぇ…」
あの子が助手席のドアをブンブン開けたり閉めたりするのを眺めながら、未だに直射日光が差すとジリジリと肌を焼いていく、まだまだ絶好調な太陽に顔を歪める。
「こりゃ…暑い…日陰って尊いな…」
「ん、も、ダメだぁ!エンジン掛けて…クーラー付けちゃって!」
豪ちゃんの的確な指示に促されて、言われた通りエンジンを掛けて、クーラーを強めに付けた…
顔に当たる風が熱風から冷風に変わると、豪ちゃんを助手席に乗せて、この村自慢の道の駅…“ゆめとぴあ”へ向かう。
「とうもろこし…売ってるかなぁ…?」
楽しそうにそう言うあの子を横目に、あっという間に着いたゆめとぴあの広大な駐車場を回ると、出店用に確保されたスペースを迂回しながら言った。
「随分…派手にやるつもりだな…」
「ほんとぉ…去年は公民館で済んだ事なのに…」
窓の外を眺めてそう呟いた豪ちゃんは、フイッと俺を振り返って言った。
「ねえ、緊張する…?」
ふふ…俺?
俺は緊張なんてしない…
「しないよ…?豪ちゃんは?」
ハンドルを切りながらそう尋ねると、豪ちゃんはもじもじと体を揺らして言った。
「ちょっとだけぇ…」
あぁ…可愛い…
「大丈夫だよ。俺が傍に居るからね?」
可愛いんだ…
この、嬉しそうに微笑む表情が…堪らなく好き…
「おい!おっさん!どこ見てんだよっ!早く停めろよ!」
そんな乱暴な言葉を吐きながら、哲郎はまるで駐車場内を誘導する警備員の様に俺を誘導して、店の前に車を停めさせた。
そして、まだ開き切らないドアをこじ開けて、助手席から可愛い豪ちゃんを奪って行った。
「いったい何回グルグル回ってんだよ…!試運転場じゃねえぞ?」
そんな暴言吐き捨てる事も忘れていない。彼は…紳士だ。
哲郎がいきり立っている…その理由は明確だ。
豪ちゃんが俺の車で来た事が、解せないんだ…
まぁ、哲郎君のお家のカッコいい車は…お父さんが運転するからね?
僕の様に…この子を助手席に乗せて、連れて来る事なんて出来ないさ。
自転車の二人乗りなら…出来るけどね?
はっは~!車はまだ無理だろっ!はっはっは~!
そんな下らないマウントを心の中で取りながら、上機嫌で運転席を降りた。
開けた場所を風が走り抜けて…頭に被った麦わら帽子を飛ばそうとしてくる。
「おっと…」
自分の麦わら帽子を右手で抑えると、目の前の豪ちゃんの頭から飛んで行く麦わら帽子を左手で受け止めて、あの子の頭に乗せ直してあげる。
「…ここは、風が強い!」
「んふぅ…!惺山…運動神経が良いんだね?」
俺の類稀なる運動能力にデレデレに喜ぶ豪ちゃんを見て、哲郎が頬を膨らませて呆れた様に言った。
「偶然だよ…!」
その通りだ…!
俺は運動音痴も良い所。体育の授業はいつも“2”なんて点数を頂いていた。
運動が嫌いな訳じゃない。ただ、みんなと一緒にやる事に苦痛を感じたんだ。
例えば、長縄跳び!
どうして?何で?あんな大人数で縄を飛ぼうと思うの?
…まず、そこの疑問から始まるから、率先してやりたいなんて思った事なんて、一度も無かった。
一番嫌だったのは、体育の授業だ。
背が高い…そんな馬鹿みたいな理由で、バスケットゴールの下に置かれて、バスケ部に入ってる勉強の出来ない脳筋に怒鳴られるんだ。
「惺山!リバウンド取れって!」
はは…何でだよ。
お前の輝く舞台を演出する為に、どうして、俺が、こんな体育の授業如きに、真剣に、たった一個のボールを、取り合わにゃならんのだ…
馬鹿らしい…
見てみろ!他にもボールはある!奪い合う必要なんてないじゃないか!
そんな感じで内申も悪く、体育の成績だけはすこぶる悪かった。
あいつらは体を動かしてなんぼの生き物…所謂、脳筋だ。
脳も筋肉で出来てるから…馬鹿で、ひとつのボールを奪い合うなんて、不毛な事に意義を感じてる。
可愛そうな生き物なんだ…
「せいざぁ~ん!おいでぇ~?」
いつの間にか哲郎によって連れて行かれた豪ちゃんに声を掛けられて我に返ると、あの子の元へと急ぎ足で向かった。
来週の週末、ちょうど一週間後に開催される”音楽祭“の準備は着々と進行していて、他に催し物も無いこの道の駅…”ゆめとぴあ“は、のんびりと長い時間をかけて、会場を設営していた。
「うわぁ…凄いね…?」
そう言った豪ちゃんの笑顔を見下ろしながら、不貞腐れたままの哲郎を見て視線を逸らす。
…まったく、いつまでも切り替えの出来ない男は、損をするぞ?
「うぉい!こ、こっちに居るみたいだぞ!」
嗅覚の鋭い清助のそんな言葉に、我を忘れた大吉と晋作は、意気揚々と会場の奥へと足早に走って行った。
「どれ…豪ちゃん、俺たちも挨拶へ行こうか…?だって、当日は彼らの後に演奏するんだから。」
そう言った俺を見上げて豪ちゃんは急にドギマギしだすと、しきりに瞬きをしながら言った。
「え…挨拶…?」
そうだ。
同じイベントで同じ演者になるんだから、挨拶は常識だろう。
「そうだよ。ほら、おいで…?」
そう言って手を差し出すと、あの子は躊躇しながら俺の手を握り返して、顔を見上げて言った。
「…ん、なんて言ったら良い…?」
「そんなの…適当に、俺が言うから黙ってたら言い。」
顔を真っ赤にした豪ちゃんにそう言って、横目で俺を睨みつけて来る哲郎を無視しながら、会場の奥へと進んで行く。
「これどこに置く~?」
「…さあ?」
そんな会場設営スタッフの会話を聴きながら奥へ進むと、小林先生とその周りに集まる5名の初々しい女子たちを確認した。
あれ?
…先に行ったあいつらは…どこへ行ったんだ…?
目だけ動かして晋作と、清助と、大吉を探すも、見つける事が出来ないまま、小林先生の前にやって来た。
「…こんにちは。小林先生。随分立派な会場になりましたね。」
そう爽やかに声を掛けた。その瞬間、繋いだ手の先のあの子がビクッと体を揺らすのが分かった。
…女の子を前に緊張するのは、豪ちゃんでも同じなんだな。
きっとあんなに友達が盛り上がった”町から来た女子”という物に、過剰に緊張して、いつもの破天荒さが封印されちゃったんだ。
可愛い…!
「あぁ!惺山先生!丁度良かった!ご紹介します。こちらが本校の吹奏楽部、部長と…副部長。そして、弦楽部の部長と、副部長さんです。後は、生徒会長さん…。今日は当日の楽器を置く場所と、待機場所を下見に来たんですよ?熱心でしょ?」
小林先生に紹介された女子生徒たちにペコリと挨拶すると、彼女たちが一様に哲郎に視線を奪われている事に気が付いて、口元が緩む。
そうだろ?この男は良い男だぞ?体力もあるし、シックスパックを持ってる。
そして、ドSだ…!
君たちは、ほらぁ、好きだろ?ドSが…あははははは!
「ん、せいざぁん…豪ちゃん、ちょっと、恥ずかしい…」
俺の左腕にしがみ付いてもじもじしたあの子がそう言った瞬間、彼女たちの視線が一気に豪ちゃんに集まって、あの子を見つけた女子たちの口元が、ニヤけて行く様子を眺めて悦に入った。
…あぁ、やっぱり…この子は女の子にモテる。
「可愛い…」
「豪ちゃんだって…」
「もじもじして、可愛い…」
「BL要素高い。」
「せいざぁん…だって…」
一気に視線を集めた豪ちゃんは俺の背中に隠れると、ギュッと腰に掴まりながら言った。
「ん、恥ずかしい…!」
「パねえ…」
女子たちはあの子の可愛さにそう言うと、すっかり豪ちゃんの一挙手一投足に目を奪われて、ニヤニヤの止まらない顔をそのままに言った。
「豪ちゃん…私たちと、会場を一回りしてみようよ…」
そんな女子からのお誘いにたじろいだ豪ちゃんは、俺の背中に顔を擦り付けながら言った。
「え…、でもぉ…えっとぉ、うんとぉ…でもぉ…惺山が…一緒なら、良いよぉ…?」
「なぁんだよ!豪ちゃん!水臭いな!俺たちがいるだろっ!」
来た…
どこからともなく現れると、豪ちゃんの肩に腕を置いた晋作が満面の笑顔で言った。
「この子、俺の幼馴染!」
すかさず現れて、満面の笑顔を女子に向けた清助も、いつもよりも張りのある声で言った。
「俺も、この子の、幼馴染!」
「僕も!豪ちゃんの幼馴染だよぉ?」
どこに隠れていたんだ…そして、どこで様子を伺っていたんだ…
タイミングよく現れてそう言った彼らは、女子生徒と楽しそうに話しながら会場を回り始めた。
なんだ…思っていたのと違う。
結構、上手くやってるじゃないか…
それに…あのタイミングの良さは、侮れない。
「当日は本校の吹奏楽部、弦楽部、その保護者も来場します。後は…分校の校長に…教育委員会…そのほか、地元の人や、地元のテレビ局も来る予定なんですよ?」
得意げにそう言う小林先生を横目に、豪ちゃんが女子に翻弄される様子を見て、口元を緩めて笑った。
「豪ちゃんって可愛いカッコ良いね?」
一人の女の子がそう言って豪ちゃんの顔を覗き込むと、あの子は顔を真っ赤にして両手を振って言った。
「へっ!?…豪ちゃん…そんな事言われた事ないよぉ…!」
あぁ…可愛い。
可愛いだろ?女子たちよ。その子は俺の可愛い人だ。愛でろ、全力で愛でるんだ!
強引な女の子たちにベタベタと体を触られて、眉を下げるあの子にデレデレになると、小林先生に言った。
「…バイオリンは2曲、演奏出来そうです。」
「あぁ…“かっこう”と、“きらきら星”ですね…。まあ”愛の挨拶“は無理だと思ってました。でも!2曲だったら、ボリュームもあるし、初心者としては上出来だと思いますよ?」
彼女がそう言うのを黙って聞いて頷くと、短く挨拶を済ませて豪ちゃんの元へと向かった。
「…仲良くなったね?」
そう言って声を掛ける俺に、デレデレになった大吉が満面の笑顔を向けて言った。
「あぁ…先生。」
はっは~~!!
どうしたんだ!大吉!おじちゃんといつもの様に、なぜ呼ばないんだ?!
腹が捩れるのを堪えながらあいつを見てプルプル震えると、女子に囲まれた豪ちゃんが言った。
「惺山!女の子って…良い匂いがするね?」
「きゃ~!豪ちゃんってば可愛い!」
腕を掴まれ…体に抱き付かれ…翻弄され続けながらも、豪ちゃんはいつもの様にニコニコと笑顔を見せて、彼女たちに哲郎の母親の焼きそばの自慢話をしてる。
シュールだ…
「てっちゃんのお母さんはね、いつも隠し味を使うんだぁ。それがとっても美味しいの。だから、皆も食べてね?」
あの子がそう言うと、ひとりの女子があの子の髪を撫でながら言った。
「食べる~!絶対、食べる!」
「ふふっ!わぁ~い!」
盲点だったな…
まだ中学生の女子たちには、下半身が強そうや、腹筋が6つに分かれている事よりも…見た目の可愛さの方が、ウケるんだ。
良い男の哲郎よりも、俄然人気の豪ちゃんに、清助と晋作、大吉の留飲も下がって、楽しそうに彼女たちと話をしている様子に安心した。
良くある話だよ…
あんまり良い男と仲良くなりすぎると、女が絡んだ瞬間、見向きもされない状況に劣等感が生まれるなんて…よくある話。
ここで、哲郎じゃなくて…豪ちゃんがモテた事は、ある意味…彼らギャング団にとっては良い事だ。
「豪ちゃんは、犬かきなら出来るんだよぉ?」
「きゃ~!可愛い!」
得意げに自慢するあの子に、不貞腐れていた哲郎も機嫌を直したのか、優しい瞳を向けて、一緒になってケラケラ笑ってる。
…お前は、本当…女の子、そっちのけだな。
哲郎を横目に呆れた様にため息を吐いて肩の力を抜くと、女の子に揉みくちゃにされ続ける豪ちゃんが俺を見て言った。
「そうだ!シェイクを一緒に飲もうよ。惺山が買ってくれるんだぁ!」
なんだと…!
豪ちゃん!
豪ちゃんを渾身の力で見つめて、頭の中でここに居る子供の数を数えながら瞬時に計算する。
1個500円のシェイクを…10人に買ったら…5000円無くなるじゃないか…
豪ちゃん!どうしたんだい!
女の子に囲まれて、浮足立っちゃったのかい?!
「え、良いよ~。私たち…お小遣い貰って来たから。自分で買える。ね~?」
「うん。豪ちゃん、一緒に行こう?」
さすが、育ちの良い子達だ…たかろうなんて気が全くない。
そんな彼女たちの様子に胸を撫で下ろす俺に、隣に近付いて来た晋作が小声で言った。
「豪ちゃんがモテるなんて…大穴だ!」
いいや、当然の結果だ。
「…そうか?俺はそう思ってたよ?」
そう言ってあいつを見下ろすと、晋作は肩をすくめて俺の背中を一発叩いた。そして、ニヤニヤの止まらない顔で、女子に囲まれた豪ちゃんを追いかけて行った。
「おじちゃん、僕はね…あの…豪ちゃんの腕に絡まり付いてる子が良い!だって、おっぱいがおっきいんだ…」
大吉は興奮した様子でそう言いながら、両手をあげてニギニギ動かして言った。
「や、や、柔らかそう!!」
「やめなさい!絶対、彼女たちの前で、お前の本当の姿を見せるんじゃない!分かったな!」
すぐに大吉の手を叩き下とすと、注意喚起の為に思いきり顔を歪めてあいつを見た。
「悪くない…悪くない展開だ…!そう思うだろ?おっちゃん!」
清助は今まで見た事も無い様な満面の笑顔を向けて、俺の腕をバシバシと叩きながら鬱陶しそうに髪をかき上げて言った。
「俺…明日、髪切って来るわ。豪ちゃん位、短くしてくる!」
「止めとけ…」
あの子のベリーショートは…あの子の顔があっての可愛さだ…
お前がしたら…ちんちくりんになる…
「なぁんだよ。馬鹿!」
崩れない満面の笑顔でそう言った清助は、道の駅の外に設けられた店の前で、女子たちにシェイクの種類を説明し始めた。
「緑のが…ずんだ味だよ。そして、ピンクは…いちご。シロはバニラで…」
「え~~!絶対ずんだにする~!」
彼女たちも…こんなに男子にがっつかれて、まんざらでも無い様子だ…
いつの時代も…男と女は分からんね。
ませてんだ…
快晴の空、太陽が照り付ける中…しみじみそう思って彼らの後姿を眺めていると、豪ちゃんが俺に駆け寄って、腰に抱き付きながら言った。
「惺山!豪ちゃん…ずんだぁ!」
「はいはい…」
「まじ、天然の受け、キュン死する…」
は…!?
聞こえたぞ!女子たち!
お前らはこの子にBL要素を見出してるだろっ!
さりげなく彼女たちを見ると、“女子―ズ”5名中の3名が…俺と豪ちゃんのイチャ付きをおかずにニヤけた顔をしているではないか…!
ふん、なる程ね…
期待に応えてやろうじゃないか…!はっは~!
おじさんに任せなさい!
嬉しそうにケラケラ笑い続ける豪ちゃんの背中を抱きしめながら、えっちらおっちらと店の前まで行くと、正面に抱き付いたままのあの子を見下ろして、おでこを撫でながら言った。
「ずんだ…?」
「うん!ずんだぁ~!」
「あぁ…マジで鼻血出る…」
聞こえたぞ!
まだまだだぞ!
爆死させてやるからな!
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