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#18
永遠に繰り返したい毎日を送って…とうとう”音楽祭”当日を迎えた。
一張羅とまでは行かない。でも、綺麗なシャツを着た。
車で迎えに行くと、晋作の店の前…ガチガチに緊張したあの子が、バイオリンを両手に抱きしめて立っていた…。
「豪ちゃん…行くよ…?」
ハンドメイドの得意な清助の母親による、お手製の…白いブラウスと、可愛いチェックの半ズボン、サスペンダー姿を見て一気に鼻の下を伸ばしながら、あの子の前に車を停めてそう言った…
不自然な動きをして助手席に座ると、あの子は震える手を俺に見せて言った。
「止まらない…」
「大丈夫…もう止まる。俺が隣にいるから、もう止まる…」
あの子の頬を撫でてそう言うと、豪ちゃんは瞳を細めてほほ笑んだ。
「…うん。」
あぁ…!可愛い!!
フリフリのブラウスが…こんなに似合う子は居ない!
あの子の衣装を何度もチラチラ見ながら興奮していると、ふと、車の窓を開けて、顔に当たる風を気持ち良さそうに受けながら、恐怖を打ち消す様に、あの子が大声で言った。
「わ~~~っ!」
ふふ…
「わ~~~っ!」
同じ様にそう言う俺を見て、ケラケラ笑うあの子と一緒に笑って会場へと向かう。
この村自慢の…道の駅、ゆめとぴあは、先週来た時よりもさらに様変わりして、駐車場に並んだテントにはプロの出店が軒を連ねていた…
「まもるの…フィッシュアンドチップス…だって…」
窓の外を眺めながら、再び緊張し始めたあの子がポツリとそう言った。
「まもるって誰だよ…」
クスクス笑ってそう言うと、関係者様に用意された駐車場に車を停める。
「お店の人が…まもるって言うんじゃないの?」
首を傾げながらあの子がそう言うから、俺はケラケラ笑って言った。
「ださっ!」
「そんな事ないよ?分かり易いじゃない…」
意外にも肯定的な意見を言った豪ちゃんは、助手席から降りてバイオリンを胸に抱き抱えて俺が来るのを待った。
あぁ…緊張してるな…
そんなガチガチの豪ちゃんの腰に手を当てて、関係者用の通路を通って控室に向かう。
どうにかして…この子の緊張を取ってあげないと。
この子の良さが…消えてしまう…
「あ…お、お茶だぁ…」
案内された控室に入ったあの子は、おもむろにそう言うと、急須にお茶っ葉をバサバサこぼして入れて、大慌てで両手でかき集めた…
そんなあの子の震える手をギュッと握って胸に当てて、平気な表情を作るあの子の瞳の奥を見つめて言った。
「…怖い?」
そう言った瞬間、すぐに崩れ落ちる様に俺の胸に抱き付いてあの子が言った。
「怖い…!」
あぁ…どうしたものか…
発表会のような舞台。
部活動の様に団体でもない…俺と…この子のふたりきり。
しかも、この子は…人にバイオリンを聴かせた事なんて、ないんだ。
場数が物を言う、経験値が緊張を緩和してくれる…そんな場面だ…
どうしたものか…何て声を掛けて揚げたら良いのか…俺すら分からないよ。
「俺が居るよ。」
「うん…うん…」
何度もあの子の頭を撫でて、安心する様に両手に包んで温めてあげる。
どうしたものか…
「そうだ…豪ちゃん、出演まで時間があるんだ。出店を見に行って…哲郎や、清助、晋作や大吉に会って来よう…?」
俺がそう言うと、腕の中で震えるあの子が顔を上げて言った。
「うん…会いたい。」
そうだね。
きっと、俺といるよりも…彼らと話した方が、君は安心して…心が落ち着くはずだ。
「バイオリンも持ってくの?」
「うん…離したくないの…」
あの子はそう言うと、バイオリンを胸に抱いたまま俺の腕にしがみ付いて、控室を出て長い廊下を歩いて進んだ。
「惺山…?この前の子達は…こんな、格好悪く緊張する事も無いのかな…?」
ポツリとあの子がそう言ったから、俺はクスクス笑って教えてあげる。
「豪ちゃん…誰だって緊張するよ。でもね、場数を踏んでる人はしない。どうしてか分かる?」
俺の言葉に顔を上げると、豪ちゃんは首を横に振って言った。
「…分からない…」
「それはね、どうなるのか…大体予測が付くからだ。どんなものか…分かってるから緊張も緩和される。でも、初めての時は…何も分からないから…過剰に緊張する。それはね、誰でも同じ…」
そう言ってあの子の髪を撫でると、良い匂いのする髪にキスして言った。
「分からない事に対して緊張する事は…悪い事じゃないんだ。他の人と比べないで、自分が緊張している事を否定しないで、それは決して悪い事じゃない。どうしたら、いつもの様に…演奏が出来るのか…それだけを考えて、集中すれば良いんだ。」
「どうしたら…いつもの様に…演奏出来るのか…」
復唱する様にそう言うと、あの子は俺の腕にしがみ付いて言った。
「うん…」
この子は…繊細で、柔らかな感性の塊…
寄せ豆腐の様にトロけて甘いんだ。
こんな舞台に出ても平気な顔で居られるのは…子供の頃から場数を踏んでるモンスターか…カチカチの高野豆腐の様な奴ぐらいさ…
「あ…見て!惺山…!清ちゃんだぁ!」
あの子の声に指さす方を見ると、清助がキョロキョロと会場内を見渡していた…
「あっ!おっさん!あの子たちの姿が見えないんだ…」
あの子達…
あぁ…
「控室に居るんじゃないか…?そのうち出てくるよ。部長、副部長は大変なんだ。」
背中をポンポン叩いてそう言うと、清助は豪ちゃんをじっと見つめて言った。
「なんだ…豪ちゃん、緊張してんの…?」
「う、うん…」
さすが…長年の付き合いだ。
すぐに、この子の緊張が分かるんだ…
口元を緩めて二人を見下ろすと、清助が豪ちゃんをギュッと抱きしめて言った。
「豪!大丈夫だ!俺たちがいる!」
「…う、うん!」
元気にそう言ったあの子の声にホッとして、俺をジト目で見上げる清助を見下ろして言った。
「なんだよ…」
「おっさん…よろしく頼むぜ?俺のダチなんだ。しっかり面倒見てくれよ…?」
あぁ…
幼馴染って…良いな。
「わぁかってる…」
そう言って背中を叩くと、豪ちゃんと一緒ににぎわう露店へと向かった。
民芸品を売る人…手作りのアクセサリーを売る人…果ては、ペットの追跡装置を勧める獣医まで…様々な人が、露天に店を連ねていた…
「あ~!てっちゃん!」
豪ちゃんはそう言うと、俺の手を離して人ごみを走って行く。
「てっちゃん!!」
そう言って抱き付いたのは逞しい…逆三角形の背中と、引き締まったケツを持つ…哲郎氏の体…
「豪ちゃん…!あぁ、なぁんだ…緊張してるの。」
瞬時に察すると、哲郎は豪ちゃんの鼻をツンと突いて言った。
「うちの母ちゃんの焼きそばを食べな…元気が出るよ?」
「うん!てっちゃん…抱っこして!抱っこしてぇ!」
あの子はそう言うと俺を振り返ってバイオリンを渡して、哲郎に向って両手を広げた。
「はっは…仕方が無いな…」
上機嫌になった哲郎は、どや顔で俺を見て、豪ちゃんを持ち上げてギュッと抱きしめて言った。
「ほらぁ…どう…?」
「ん、もっとぉ!もっとしてぇん!」
「あはは…ほらぁ…ほらぁ!」
人混みの中、他の人の迷惑も考えずに豪ちゃんをグルグル回すと、ギュッと抱きしめてあの子の耳元で哲郎が言った。
「どう…?もう、大丈夫だろ?」
「うん…」
何を見せられているんだ…?!
いじけた訳じゃない…
すねた訳でも無い…
渡されたバイオリンを手に持たまま、俺は豪ちゃんと離れて晋作を探してみた…
「あ…叔父ちゃぁん…」
この声は…大吉だ…
振り返って見ると、大量の綿あめを持ったあいつを見て…項垂れて言った。
「どうするの…それ。」
「女の子に配るんだよぉ…探してるのに、まだ居ないんだぁ…」
大吉はそう言うと、少し寂しそうに瞳を伏せた。
どうした…!!
「なんだ…どした…」
今まで一度も見たことの無いあいつの様子に戸惑うと、大吉は俺を見上げて言った。
「豪ちゃん…緊張してない?怖がってない?僕…心配なんだ。」
おぉ…
大吉…
おぉ…俺はお前を誤解してたよ…
思わずクスッと笑みがこぼれて、首を傾げながら来た道を指さして言った。
「あっちに…哲郎といる。行って…励ましてやると良い。緊張していたからね…」
「おじちゃんは?豪ちゃんの傍に居なくて良いの?」
そんな無邪気な返しを受けて、戸惑う。
傍に居なくて良いの…?
そんな言葉に、俺はため息を吐きながら言った。
「俺よりも…哲郎や、お前たちの方が、あの子を支えてあげられるからね…」
事実…そうだ。
あの子の緊張を解せるのも、あの子を安心させられるのも…俺では敵わない。
もっと…強い絆で繋がっている人たちがいる。
それは、悲しいけど…認めざる負えない…事実だ。
「おじちゃん…自分を卑下するなよ?」
そんな難しい言葉を使った大吉は俺の背中を叩くと、大量の綿あめを両手に持ったまま哲郎と豪ちゃんの元へと向かった…
卑下するな…ねぇ。
「あ、まもちゃんの~フィッシュアンド~チップスだよぉ~!」
そんな気味の悪い声を聴きながら店の前を通り過ぎると、恰幅の良い…イケメン、いいや、イケオジが俺を見て言った…
「陰気なお兄さん…どうだい?フィッシュアンドチップスを買ってみる?」
陰気な…お兄さん…だと!!
「要らない…!」
失礼なイケオジに目を見開いて威嚇してやると、彼はキョトンと不思議そうに首を傾げて間抜け面を俺に見せつけた…
「せいざぁ~ん!あぁ~~ん!!どこ、どこぉ行ったのぉぉぉ!!あぁぁ~~~ん!!」
そんな泣き声が聴こえて、耳を澄まして視線を泳がせる。
人混みの中…周りの人をギョッとさせながら、豪ちゃんが泣きながら歩いて来るのを見つけた。
「豪ちゃん!ここだよっ!」
そう言って手を振る俺を見つけたあの子は、大泣きしながら走って駆け寄って、俺の体にぶつかる様にタックルしたかと思えば、両手でポカスカ殴って言った。
「勝手に行かないでぇ!ん、ばぁかぁ!ばぁかぁ!ん、ん~~!」
こんなへなちょこパンチなんて、痛くもかゆくもない…
豪ちゃんを見下ろしたまま、俺はムスッと頬を膨らませて言った。
「…だって、豪ちゃんがバイオリンを、ほい!って俺に渡して…哲郎とイチャ付くから…いけないんだろ!」
あぁ…分かってるよ。
俺はもうじき…31歳になる男で。哲郎は15歳の少年…
そして、目の前で目を点にする…この子も…15歳の子供。
「ん、違う!違~う!イチャ付いてなぁい!僕は惺山が大好きなの…!違うの!」
ヒシっと体に抱き付いてそう言うあの子を燻った様に口を尖らせて見下ろすと、バイオリンを見せて言った。
「…これは?要らないの?」
「ん、要るの!大事なの!返してぇん…!」
必死に手を伸ばすあの子を虐める様にバイオリンを高く掲げて、ムスくれた顔のまま言った。
「…どうかな…豪ちゃんみたいに、誰かに…ほい!って渡す子に…もう、あげたくないな!ふん!」
「んん~~!せいざぁん~!」
地団駄を踏んで怒るあの子の目じりが赤くなって行く様子を見て、十分に溜飲が下がった頃…鼻からため息を吐いて言った。
「…ほい!ってしないで!悲しくなるから…!」
「ん、も、してない…してないもん…!」
そう言って俺の胸に抱き付くと、ご機嫌取りする様に何度も背中をさすさすして、豪ちゃんはグスグスと鼻を啜った。
そして、ポツリと言った…
「まもるの…フィッシュアンドチップス…」
「いらっしゃい、おひとつ?それとも…おふたつ?」
お店のイケオジがそう言うと、豪ちゃんはおもむろにポケットからがま口の財布を取り出して言った。
「1000円分…ください。」
「ぐふっ!」
吹き出してニヤニヤ笑ったお店のイケオジは、少し冷めたフィッシュアンドチップスを手に持って言った。
「これなら…1000円で良いよ?」
「本当?でも…一個1500円もするのに…本当に、良いの…?」
豪ちゃんが満面の笑顔でそう尋ねると、お店のイケオジはクスクス笑って言った。
「良いよ。豪ちゃんは可愛いから…おまけする。」
この子が可愛いのは同意する…でも、このイケオジはいけ好かないね。
「優しい…ありがとう!素敵なクルクルの髪のおじさん…」
豪ちゃんはそうお礼を言うと、1000円を渡してフィッシュアンドチップスを手に持って満面の笑顔で言った。
「惺山…!一緒に食べてみよう?」
はぁ…
分かってる。俺は引き際の分かる男さ…
哲郎とは違うんだ…
「良いよ…行こう。」
そう言ってあの子の差し出す手を繋ぎ直して、一緒に露店を巡って歩いた。
途中…くじ引きで散財する晋作に会って…豪ちゃんを励まして貰い、綿あめと、焼きそばと、カルメ焼き…フィッシュアンドチップスを持って…会場の外に設営されたテーブルに座ってコーヒーとオレンジジュースを飲んだ…
「わぁ…良い匂いがするの、カルメ焼き…!」
嬉しそうにそう言った豪ちゃんは、カルメ焼きを手に持って俺の鼻に近付けて言った。
「甘い匂い…」
「ん、本当だね…」
瞳を細めてそう言うと、あの子の満面の笑顔と、舌先でカルメ焼きを舐める仕草を見て…ドキッとする…
可愛い…
キスしたい…
「ん、甘い…」
クスクス笑ってそう言うと、豪ちゃんはフィッシュアンドチップスを袋から取り出して割りばしを割った。そして、箱の中を開いて目を丸くしながら俺を見て言った。
「すっごい!このお魚!すんごいおっきい!!」
鼻息を荒くして興奮したまま、豪ちゃんは小さい容器に入れられたビネガーを全体に掛けて、大きな魚のフライを箸で摘んで持ち上げた。そして、ガブリとかじった口を、俺に向けて言った。
「あ~ん…」
え…?
それは…さすがに、まずいよ…豪ちゃん…!
「あ~ん…」
理性よりも…本能。
それは、人だったら、抑えきれない。抗えない行動原理だ…
唇に触れない様にパクリと魚のフライを受け取ると、もぐもぐ食べて言った。
「おいひい…」
「本当?どれどれ…」
そう言って大口で嚙り付いた豪ちゃんは、頬を一杯に膨らませてモグモグと食べながら、目をキラキラと輝かせた。
「ん~~!本当だ。美味しい!僕…1000円しか払って無いのに…おまけしてくれた、まもるは良い人だね?」
良い人…?そんな人は居ない。
ただ、豪ちゃんがベソをかいて可愛かったから、おまけしたんだ…
そして、その後も…豪ちゃんは、人目も憚らず俺に餌付けし続けた。
知ってる…この子は、お世話好きを拗らせた子なんだ。
「あ~ん…」
そう言ってかじった魚を俺に向けるから…耳を赤くしながら受け取ってモグモグと食べる…こんな凌辱プレイの繰り返しさ。
「なんだよ…可愛い彼女連れて…イチャ付きやがって…!」
そんな周りの声なんて…ミュートにする。
しかも、この子は男の子だ!
「惺山…最後の一口…あげる。」
そう言って魚のフライを箸で摘み上げたあの子は、わざわざ口に移して言った。
「あ~んしてぇ?」
あぁ…豪ちゃん…
俺を誘ってるの…?
「ふふ…」
口元を緩めて笑うと、あの子の唇にがっつりキスしながら魚を受け取る。
「美味しい…」
そう言って潤んだあの子の瞳を見つめると、頬杖をついてコーヒーを飲む…
あぁ…可愛い人。
大好きだ…
「豪ちゃん!本校の生徒が…!大勢来たよ!」
まさに…バタバタと効果音が付きそうな動きをして現れた晋作は、俺と豪ちゃんの隣に座って、意味も無く体を縮めて言った。
「…男もいた…!」
そらそうだ!女子中学校じゃないんだから…男子生徒だっているさ。
呆れた顔で晋作を見下ろす俺に、あいつは想定外の状況に狼狽えながら言った。
「これじゃあ…女の子に近付けない!」
「なぁんだ、大丈夫だよ…別に彼氏って訳じゃないんだから…」
そう言ってあいつの背中をポンポン叩いて励ますと、豪ちゃんが遠くを指さして、首を傾げて言った。
「てっちゃんが…」
ん…?
あの子の指の先を見ると、哲郎の母親の焼きそば屋に…若い女子が列を成して並んでいた…
「やっぱり…!」
年の頃…20代~30代の女が…哲郎の体を目当てに…あぁ!恐ろしい!行列を成して、焼きそば屋に並んでいるではないか…!!
「俺…手伝ってくるわ…」
急に態度を変えた晋作はそう言うと、スクッと席を立って…哲郎の元へ向かった。
何でだろう…
あいつの切り替えの早さとフットワークの軽さに、男気を感じてしまった…
きっとあいつは人生を謳歌する…そんな予知めいた感覚を抱いてしまうんだ。
「おじちゃぁん!綿あめ…要らないって言われたぁ!」
「男が付いて来るなんて…聞いてないぞ!美人局じゃないか!」
清助と大吉が半泣きでやって来て、大吉に至っては…大量の綿あめを持て余して途方に暮れていた…
「ほら…哲郎を手伝って来い…。少し、年齢が高めだけど…露出の多い女が沢山集まってるぞ?」
そう言って晋作が満面の笑顔で哲郎を手伝う様子を指を差して見せると、大吉は何も言わずに綿あめを抱えて駆けて行った…
「わぁ…やばいな。てっちゃん…」
清助はため息を吐いてそう言うと、自分の胸板と腹筋を撫でて言った。
「俺は細マッチョなんだ…」
知らんがな…
「そうか…」
静かにそう言ってコーヒーを啜ると、豪ちゃんが自分の胸と腹筋を撫でながら言った。
「豪ちゃんも…」
「ぶふっ!」
「だふっ!」
清助と同時に吹き出して笑うと、あの子は不本意そうに口を尖らせた…
豪ちゃんは…マッチョというより、エロイ体だ…
胸筋なんて物はなく…柔らかいちっぱいがあって…腰が細くて、お腹はポヨポヨしてる。
「豪ちゃん…ぐふふっ!そうだな。豪ちゃんは…細…ぐふっ!細マッチョだ。」
清助は吹き出し笑いをしながらそう言うと、満足げに眉を上げる豪ちゃんを見て、深く頷いた。そして、不自然に席を立って、ぶらりと歩く素振りをしながら哲郎の元へと向かって行った。
その後も、哲郎の店の繁盛は続き、あいつの体を視姦する女性客が後を絶たなかった…
流石だ…。
俺の、乙女心を鷲掴みにしただけはある。
俺と豪ちゃんはお昼ご飯にラーメンを食べて、広場の子供を見て和んで、一緒に輪投げをして遊んだ…。そして、景品の気持ち悪いソフビ人形を手に入れると、本校の生徒たちによる、吹奏楽部と、弦楽部の鑑賞の為…会場へと向かった。
「惺山…吹奏楽部って?」
俺と手を繋ぎながらあの子がそう言うから、首を傾げながら言った。
「そうだな…チューバ、トロンボーン、ペット、サックス、フルート、オーボエ、クラ、ホルン、などなど…息を吹き込んで演奏する楽器が集まったのが、吹奏楽部だ。パーカッションを入れて活動してる事が多いね。」
一番前の席に座って陣取った。すると、あの子は景品で手に入れたソフビ人形を指に嵌めて、俺に向けて言った。
「惺山先生…!」
え…
急な展開にジト目で豪ちゃんを見つめながら、得意げになってあの子が動かすソフビ人形のウサギを見つめて言った。
「…何、ですか…?」
「では、弦楽部とは…何ですか?うさぴょんに教えてぴょん…!」
あぁ…豪ちゃん、ここは一番前の席なんだ。
だから…後ろに座った人たちには…このやり取りが見えるんだよ。
でも…
嬉しそうに瞳を輝かせるあの子を見ると…乗らない訳には行かない…
鼻でため息を吐くと、うさぴょんを見つめて言った。
「はぁ…そうだね。…弦楽部は、弦で奏でる楽器の集まった部活だよ。」
俺が調子に合わせたのが嬉しかったのか、豪ちゃんはケラケラ笑って見せると、上機嫌に指を動かしながら言った。
「おったまげ!」
は…?!
「そう…」
ハッキリ言って引いたさ。だって…おったまげ!なんて言うんだ。
大体、ウサギは日本語を話さないし…そんなバブル時代の言葉も言わない。
「惺山先生の好きな食べ物は?」
「…ん~…豪ちゃんの、朝ご飯…」
「ふふ…!じゃあ…惺山先生の…好きな色は?」
「…そうだなぁ…豪ちゃんみたいな色。」
指先に付けた“うさぴょん”を俺の頬にツンツンしてくるあの子のごっこ遊びに付き合っていると、いよいよ目の前に楽器が並び始める。
そんな事も気が付かないくらい、うさぴょんに夢中な豪ちゃんはグフグフ笑いながら言った。
「うふぅ…!ん、もう…!じゃあ…惺山先生の好きな…曲は?」
ん…
そうだな…何が好きかな…
あぁ…そうだ。
口元を緩めて笑うと、うさぴょん越しのあの子を見つめて言った。
「今は…豪ちゃんが弾いた”きらきら星”が一番好き…」
俺の言葉に瞳を潤ませて満面の笑顔になった豪ちゃんが、嬉しそうに微笑んだ…
あぁ…可愛い…
俺の、天使…
ガタン…!
譜面台の倒れる音に驚いた豪ちゃんは、やっと目の前に並び始めた沢山の楽器に気が付いて、俺の手をギュッと掴んで言った。
「…凄い…前に、来過ぎたみたい…」
今更、遅いよ…もう満席で、後ろには退けない…
「演目は…ジャズの“シング・シング・シング”と…“宝島”…定番っちゃあ定番だ…」
隣で怯え始める豪ちゃんにそう言うと、あの子は俺の腕にしがみ付きながら膝に置いたバイオリンを胸に抱き寄せて体を縮こませた。
俺たちの目の前には…サックス…チューバ…トロンボーンが座りそうだ…
あぁ…多分、大きな音色に体を揺すられて…もっとビビるかもしれないな…
後ろの方に座れば良かった…
そんな後悔を少しだけ感じていると、BL好きの愛子ちゃんがサックスを首からぶら下げて現れて、俺にしがみ付く豪ちゃんを見つけて悶絶した。
「豪ちゃん…致死率高い…!」
そう言いながら近付いて来た愛子ちゃんは、怯えて縮こまったあの子の髪をナデナデして、顔を覗き込みながら言った。
「豪ちゃん…覚えてる?愛子だよ?今日は…こんな前に座ってくれて、とっても嬉しいよ?ぐふふ…!惺山先生の体にしっかり掴まって…ぐふっ!吹き飛ばされないようにね?ぐふふふ…!」
「えぇ…?!愛子ちゃん…豪ちゃん、怖いよう…!」
そう言って顔を見上げた豪ちゃんは、愛子ちゃんの首からぶら下がったサックスを見て言った。
「ラッパだぁ…」
「ふふ…これはね、アルトサックスだよ?中くらいの音を出すの。ラッパって言うと…どちらかというと…ちょっと来て!」
愛子ちゃんはそう言ってトランペットの男子を連れてくると、豪ちゃんの目の前に見せて言った。
「これ。トランペット。これは…よく“ラッパ”なんて言われてるよ?」
「へぇ…愛子ちゃんって…物知りだね?惺山みたい!」
満面の笑顔を向ける豪ちゃんに頬を赤く染めた愛子ちゃんは、グフグフ笑いながら言った。
「いいやぁ…あたしなんて、まだまだ…ぐふふ…」
色々癖が強いけど…愛子ちゃんは良い子だという事が分かった…
「じゃあ…また後でね。」
そう言って踵を返した愛子ちゃんは、背筋をキリッと伸ばしてチューニングする他の楽器を眺めつつ、椅子の位置の微調整に入った…
吹奏楽部…弦楽部…どちらとも、部長はコンマスの様な仕事をこなさなければならない…ある意味、一番骨の折れる…人を選ぶポジションだ。
曲の全体を統べる目を持ってる人じゃないと、なかなか難しいポジションなんだ。
「惺山…愛子ちゃん…カッコいいね?」
愛子ちゃんのお陰ですっかり怯える事を止めた豪ちゃんはそう言うと、俺の手のひらに自分の指を絡めて恋人繋ぎにして遊び始めた…
その様子を愛子ちゃんが凝視していても…その他の女子や、男子が凝視していても…豪ちゃんは俺の手のひらをナデナデしたり、指を絡めてみたり、大きさを比べて見たりした…
そうして、終いには唇に当ててハムハムしだすんだもん…
愛子ちゃんじゃなくても…悶絶するよ。
「これより、軽井沢…本校、吹奏楽部生徒による演奏をお送りします…演目は“シング・シング・シング”、”宝島“の2曲です。今夏のコンクールに置いて…金賞を受賞した演奏をお楽しみください。」
小林先生によるアナウンスが流れると、目の前に揃った楽器が音合わせを初めた。そして、愛子ちゃんが自分の席に戻ると、左端から指揮者が悠々と現れて、こちらへ向かってお辞儀をした。
「あ…」
指揮者に合わせて豪ちゃんが深々とお辞儀をして、あの子の可愛さにメロメロになった吹奏楽部の女の子がすかさずニヤリと笑った…
指揮棒を上に掲げる指揮者に合わせて、楽器が一斉に整うと、繋いだあの子の手がピクリと動いた…
さあ…豪ちゃんは、どんな反応を示すのかな…
ワクワクして仕方が無いよ。
隣のあの子を横目に見ながら様子を伺っていると、パーカッションが“シング・シング・シング”の特徴的なリズムを刻み始めた。
そして、一気に会場がわぁッと沸き始める…
トランペットの切り裂くような音色にクラリネットが混ざると、サックスの粋の良い音色が小粋なジャズを彩って…あっという間に会場に音が広がって行くんだ。
隣の豪ちゃんは、その間…じっと、斜め下を向いたまま左の耳を前に出す様に顔を傾けて笑っていた…
へぇ…
お前の利き耳は…左なのか…
握り締めるかと思った手は、指を軽く絡めたまま…微動だにしない…
体も楽しそうに揺らすかと思ったのに、微動だにしない…
ただ…ジッと聞き耳を立てて…音を聴き続けてる。
その様子に、何故か全身に鳥肌が立ったんだ…
さすが、金賞…!と言った演奏を見せると大きな拍手の中、楽器の位置を変える様にチューバとトロンボーンが席を代わって、愛子ちゃんが微調整をした後、再び椅子に腰かけた。
再び左の袖から指揮者が現れてお辞儀をすると、豪ちゃんも律儀にお辞儀を返して…やはりあの子に注目する女子がニヤリと笑った…
指揮者が指揮棒を上に掲げると、一斉に楽器が整って、“宝島”のオープニングを、パーカッションが先陣を切って幕開いて行く。
一気に押し寄せる音の波に体を揺らしながら、豪ちゃんは俺の手をギュッと握って、ニコニコの笑顔を向けて言った。
「すごい…!」
そんなあの子の笑顔に同じ様に微笑んで返すと、息の合った演奏が織りなす重厚で…整ったハーモニーに口元が緩んでいく…
確かに…凄い…上手だ。
アルトサックスのソロを愛子ちゃんが演奏し始めてあの子にウインクを贈ると、豪ちゃんは嬉しそうに体を跳ねさせて両手で手を振った。
あぁ…可愛い…!
こんなの演奏中に見たら…キュン死する…!
「凄いね…!惺山…!まるで…大海原だぁ…!」
興奮を抑えきれなくなった豪ちゃんは、本日二度目の“人目も憚らず”を実践した。無抵抗の俺に抱き付いて、頬ずりをした後、何度も何度も頬にキスを当てたんだ。
最後に…一音外した人がいたのは…きっと、この子のせいだ…
「わぁ~~~!凄い~~~!」
演奏が終わると、豪ちゃんは立ち上がって盛大な拍手を送った。
十分に満たされた…そんな表情の愛子ちゃんが、豪ちゃん目がけて手を振ると、あの子は、負けじと手が千切れんばかりに手を振り返して、満面の笑顔を向けた。
「惺山!吹奏楽ってすごいね!僕、感動しちゃった!!音が…音が…津波みたいに襲って来たんだ…!一気に…!ドバ~~~って!」
大興奮した豪ちゃんは瞳を閉じて思い出す様に言った。
「最初の曲は、聴かせる演奏をして…次の曲は、自分たちも楽しむ演奏をしていた…凄いね。そんな使い分けをするなんて…凄いね?」
へぇ…確かに…
さすがのあの子の耳に感心して、”宝島“の情景を”大海原“と表現したあの子に聞いてみた。
「豪ちゃんは”宝島“に海の情景が見えたの?」
そんな俺の質問に首を傾げたあの子は、再びうさぴょんを指に嵌めて言った。
「大きな船が見えたのじゃ。船の先端に白い水しぶきを上げて、追い風に帆をたなびかせた大きな船が、一気に大海原へ向かう姿が見えたのじゃ!」
…うさぴょんのキャラ設定が、ガバガバだな…年齢が上がったぞ。それじゃ、うさ爺だ…
「そう…そんなイメージが見えたのか…」
「惺山先生?みんなが一つのイメージを持つ瞬間がある。その時が…一番音が分厚くなるんだ…不思議だね。どうして?どうしてなの?」
あの子は食い気味にそう言うと、俺の腕を揺すって答えを求めた…
どうして…?
どうして…?
こんな時、木原先生は、いつも豪ちゃんの質問に意味深な言葉で返していたな…
俺には、そんな妙技は無理だ。
「分からないな…でも、同じイメージを共有する事の意義はあるね…」
首を傾げながら問いに答える俺を真剣な目で見つめて、豪ちゃんは何度も頷きながら俺の言葉に付け加える様にこう言った。
「…そして、別々のイメージを持つ事の意義もある。まとまりを表現するには、そうじゃない部分も表現しないといけないからだ。メリハリを付けて…グッと、引き締めるんだ…」
驚いた…
「はは…そうだね…」
豪ちゃんの頭を撫でて頷くと、さっき、魚のフライを口移しで食べさせた子と同一人物なのか…頭の中が混乱してくる。
的確かつ、もっともな意見だった。
君はやっぱり…木原先生の元へ行った方が良い…
そのくらい、俯瞰して音楽を見れる目を、感覚を、感性を…持て余さないで欲しい。
「惺山、次は?次は?もっと聴きたい!」
俺の体を揺すってそう言うあの子は、目の前に出て来たチェロとコントラバスを見て、口を大きく開けて言った…
「惺山…大きな…カブトムシが来たぁ…!ヘラクレスオオカブトだぁ…!」
「ぷぷっ!あれは…コントラバスと…チェロだよ。」
そう言って興奮して立ち上がったあの子を椅子に座らせると、顔を覗き込んで言った。
「弦楽部の演奏する初めの曲は、ピチカートを使って演奏する物だ。大騒ぎして声を出してはいけません。繊細な音色だから、よく聴いて…よく、見て…。ね?」
俺の言葉を真剣に聞いた豪ちゃんは、そのままの表情を崩さないで、コクリと頷いて答えた。
豪ちゃんは、生の演奏をとっても楽しんでるみたいだ…
そんな様子のあの子を見ていると、ふと、考えてしまう。
…こんな子供が、もしかしたら、ごまんといるのかもしれない…って。
音楽、絵画、哲学、その他もろもろ、数学、天文学…などなど、ジャンルは問わない。何かの分野において特化した子供がいる。所謂、ギフテッドなんて呼ばれる存在だ。そう言う子供は、自分が周りと違う事を恐れて、せっかくの神様からの贈り物を隠してしまい込んでしまう…
良き理解者が傍に居ないせいだ…
豪ちゃんも…もしかしたら、ギフテッドなのかもしれない。
俺と偶然出会って…この子は、音楽を知った。
その先の伸び率は驚異的で、普通じゃない事は一目瞭然だ。
この芽を…この子を…もっと自由に伸ばしてあげられれば、良いのに…
それには…この子の、良き理解者が…必要だ。
俺?
俺は無理だ…。だって、もうすぐ死ぬんだからね…
「弦楽部は…シンプルシンフォニーの第二楽章と、ドヴォルザークの弦楽のためのセレナーデホ長調 第二楽章を弾くんだ…。どちらも美しい音色だよ?」
そう言ってあの子の手のひらをポンポンと叩くと、指を間に絡めて繋いだ。豪ちゃんは、真剣な表情のままお口にチャックして、黙って頷いて答えた。
「これより、軽井沢…本校弦楽部生徒による演奏をお送りします。演目はブリテン、シンプルシンフォニー第二楽章、続けて、ドヴォルザーク、弦楽セレナーデの2曲です。どうぞお楽しみください。」
そんな小林先生のアナウンスを聞くと、豪ちゃんは嬉しそうにニヤニヤし始めて、俺の耳もとで小さな声で言った。
「惺山は…やっぱり、物知り…!」
ふふ…!ウケる!プログラムにそう書いてあったんだ!
袖から現れるバイオリンと、コントラバス、チェロを眺めてまん丸の目をもっと丸くすると、豪ちゃんは固唾を飲んで部長の敏子ちゃんの様子を見守っている。
彼女は吹部の愛子ちゃんとは違って、調整も程々に早々に椅子に腰かけると、自分を見守る豪ちゃんを見つめて、ニヤリと笑った…
敏子…不気味だよ…
だなんて、絶対言わないさ。
左から指揮者が現れてお辞儀をすると、例によって豪ちゃんも深々とお辞儀をした。
そんな豪ちゃんの様子に、目の前のバイオリンの女子が一斉に注目すると、あの子は不思議そうに首を一瞬傾げてみせる。
ふふ…!可愛い…
指揮者が指揮棒を上に掲げて、緊張感が一気に高まった瞬間。一斉にバイオリニストがバイオリンを首に挟んで、指を構えた。そして、指で弦を弾きながらピチカート演奏をして弾むような旋律を演奏し始めた。
チェロがギターの様に弦を撫でながら音を出すと、豪ちゃんは再び顔を下に向けて…左の耳で音を聴き分け始めた。
微妙に口元が緩んでいて…目は…宙をぼんやりと見つめた虚ろな視線だ…
…あぁ、俺の襟足を指で絡めてる時も…こんな顔してたな…
この子は…一点に集中してる時に、こんな遠くを見る様な目をするのかもしれない。
一曲目の演奏が終わって拍手が沸き起こっても、あの子は耳を傾けたまま微動だにしなかった…そして、次の演目が始まると、虚ろに開いていた瞳を揺らして口元をもっと緩めてほほ笑み出した。
あぁ…もしかして、この曲を気に入ったのかな…
そんな勝手な想像をしながら、物言わずに演奏に聴き入るあの子を見つめ続けた。
だって…この子の反応から、目が離せないんだ…
何を聴いて、何を感じているのか…気になって仕方が無い。
ふと、緩んだ口元をにっこりと微笑ませた豪ちゃんは、宙を見ていた視線を俺に向けて、にっこりと微笑みかけた。そして、繋いだ手をギュッとむすび直すと、俺の耳に顔を寄せて小さな声で言った。
「惺山…とっても揺らいでるね…」
ふふ…
「そうだね…」
あの子の耳元に口を近付けてそう答えた。そして、俺の腕にもたれかかるあの子を感じながら、中学生とは思えない上出来の演奏にうっとりと酔いしれた。
絶対、弦楽部には経験者しか入っていないだろうな…選ぶ曲のセンスからして…普通の中学生じゃないもの。
演奏が終わって、例によって豪ちゃんがスタンディングオベーションを送る中、あの子の手を引いて急いで舞台の袖に向かった。
忘れてた…!
この後…演奏するんだった!!
豪ちゃんと一緒にすっかり音楽鑑賞を楽しんでいたけど、俺と、この子は今から演奏をする演者のひとりだった…!!
「惺山…待ってね?」
あの子がバイオリンをケースから出して、鶏を可愛がる様にナデナデする間。アナウンスをいつ入れようか…と、こちらの様子を伺う小林先生の視線を感じつつ、無視した。
「僕ね…。もう、怖くなくなった…」
あの子はポツリとそう言うと、バイオリンを胸に抱いて俺を見上げて言った。
「あなたが傍に居るって意味が、今、分かったんだ…」
もう…豪ちゃんったら…
抱くぞ…?
うっとりとあの子を見つめてため息を吐くと、やっと整った俺たちの様子に、小林先生が間髪入れずにアナウンスを入れた。
「はい…素晴らしい演奏を聴かせて頂き、すっかり夢見心地の中、大変恐縮ではございますが…軽井沢…中学校、分校の生徒である。豪ちゃんをご紹介したいと思います。この子は、つい最近までバイオリンに触れた事の無い子でしたが、今回の”音楽祭“の為、補助金で購入したバイオリンを練習し始めました。」
「よっ!豪ちゃん!」
長々しい小林先生の話と、哲郎の親父による合の手を聞きながら一緒にピアノへ向かうと、豪ちゃんは俺の手を繋ぎながら体を揺らして言った。
「惺山…いつもの様に、あなたを見て弾いても良い?」
ふふ…
「…もちろん良いよ。」
微笑んで答える俺に、豪ちゃんは嬉しそうに笑って頷いた。
「では…お聞きください!演目は…んっ?!…えっと…んっ?!…あれ?ん~えっと…間違ってるのかな…?」
「間違ってないよ?豪ちゃんは”愛の挨拶“と”きらきら星”を弾くよ?」
マイクを持って首を傾げる小林先生に豪ちゃんがそう言うと、ドッと会場が笑いに包まれた。
そんな中、あの子は俺をじっと見つめて口元を緩めてほほ笑みかけた。
…あぁ、綺麗だ…
あんなに緊張していたのに…今の君はまるで、百戦錬磨のバイオリニストの様に凛として、落ち着き払っているじゃないか…
うっとりとあの子を見つめてピアノの椅子を引いて座ると、小林先生を見て言った。
「…良いですか?」
「あっ!ええと…演目は”愛の挨拶“と…”きらきら星“の2曲です。どうぞ…温かい気持ちで、お楽しみ下さい…」
姿勢を整えた豪ちゃんが、首にバイオリンを挟んで弓を構える姿を確認すると、俺は鍵盤の上に指を構えた。
…よし。
顔を上げてあの子の瞳を見つめながら“愛の挨拶”の伴奏を始めた。
豪ちゃんは俺を見つめたまま、弦を撫でる様に動かして”愛の挨拶”を弾き始めた。
その音色は…いつもと変わらない。心の奥まで揺さぶられる様に美しく、繊細で…あの子の、角の無いまろやかな音色を堂々と聴かせてくれた。
あぁ…綺麗だ…
心酔した様にうっとりと瞳を細めながら、会場の感嘆のため息を心地よく聞いて、美しいあの人を見つめて、ただ、愛を伝える様にピアノを弾いた。
まるで昔からそうして来た様に自在に弓を操ると、前に聴いた時よりも、もっと…もっと…音色の情緒を変えて弾きこなすあの子に、脱帽したように首を横に振る…
…天才だ…
自然と口元が緩んで行く自分の顔を抑える事もしないで、あの子を見つめながら愛しい気持ちを、言葉を、ピアノに乗せて演奏する…
あの子はそんな俺をただじっと見つめて、瞳を細めて微笑みながら、バイオリンの音色に乗せて優しい愛をくれた…
“愛の挨拶”を、弾き切った…
楽しかったのか…嬉しかったのか…豪ちゃんはお辞儀もしないまま、グランドピアノに体を乗せると、足をブラブラさせながら俺を見つめて満面の笑顔で言った。
「惺山…大好き~!」
ぷぷっ!
盛大な拍手が聴こえないのか…それとも、そんな物どうでも良いと思っているのか…
この子はじっと俺だけ見つめてそう言うと、満足げに微笑みかけた。
「うん…俺も…大好きだよ…」
顔を熱くして、俯いて、小さい声でそう返して…気持ちを入れ替える。
ここからが大舞台の山場だ…
眉を上げて豪ちゃんを見つめて、あの子が乗り気になる様に言った。
「さあ…豪ちゃん、きらきら星で…お客さんを流星群の中に連れて行ってあげよう…?」
そんな俺の言葉にニコニコの笑顔を見せた豪ちゃんは、俺の隣に立つと体を揺らしながら言った。
「良いよ?惺山が一緒なら、良いよ!」
ふふ…本当、可愛いんだ。
姿勢を正してバイオリンを首に挟んだあの子は、弓を構えながら俺を見つめて言った。…それは催眠術の暗示でもかける様な、静かで、落ち着いた、撫でる様な声色だ。
「ここは…夜の湖の畔です。新月の夜…鳥も眠る真夜中…森の影が黒く空に映って…大きな山と山の間には…数え切れない程の瞬く星が見えます…」
新月…?そりゃ…真っ暗闇だね。
俺が目でそう言うと、あの子はクスリと笑って弓を弦に当てて、輝く星を弦からはじき出す様に跳ねる音色を出して、“きらきら星”を演奏し始めた。
こんなの…初心者じゃない…
あの子の“きらきら星”に合わせて鍵盤から星をはじき出す様に鳴らして弾いて、どんどん様相を変えながら…”きらきら星変奏曲“へと旋律を移して行く…
俺の編曲した“きらきら星変奏曲”は、豪ちゃんにしか弾けない。…だって、この情景を作り出せるのは、この子しかいないんだから…!
破天荒…天然…哲学者…詩人の様でもあり、リアリストでもある…料理が上手で、お世話好きを拗らせた…なんとも愛くるしいこの人にしか、この人の想像力でしか、この”きらきら星変奏曲“は再現できないんだ!
お互いの顔を見つめ合って紡ぎ出す音色から…キラキラと星が産まれて、空に飛んでいく様子に、どんどん笑顔になって行く。
「ブラボーーー!」
そんなお客さんの感嘆の声を聞き流して、夢中になってあの子と一緒に星を産み続ける。
「惺山…!とっても綺麗な星空になったぁ!!」
あの子がそう言いながら天を見上げてバイオリンを弾くと、俺も一緒になって空を見上げてピアノを弾いた。
頭上には、いつの間にか…小さな星がひしめき合うほどに瞬いている…
あぁ…凄い…星だらけだ…!
「豪ちゃん…流星群を起こすよ!」
俺がそう言うと、あの子はケラケラ笑いながら星を落とし始める。
それは長い尾を引いた…流れ星。
頬が痛いくらい笑顔になりながら、あの子のバイオリンの音色と一緒に星を落として行くと、指が勝手に走る様に動いて、体が勝手に音色を紡ぎ始める。
抵抗なんてしない…
これは、あの子のハーモニーなんだ…
美しい旋律をいとも簡単に弾きこなしたあの子は、ニコニコと笑いながら俺を見つめて言った。
「星を落とし過ぎたみたい…!」
はは…確かに…派手に落とした。
あの子の言葉にケラケラ笑って答えると、静かに弾き続ける旋律を一気にアップテンポに持ち上げて言った。
「もう一度…沢山上げたら良い。」
「ん、分かったぁ!」
クルリと一回転をして体を屈めた豪ちゃんは、ピチカートをしながら体を伸ばして、音色を空へと高く上げていく。弾く様に奏でられた弦から…沢山の音色が、星に変わって空に舞い上がって行く…
これは…主観なんかじゃない…!
現実で…事実だ…!
「凄いぞ!」
堪らない!
堪らないんだ!
こんな、楽しい”きらきら星“終わらせたくない!
あの子は満面の笑顔でクルクル回りながらあちこちに星を飛ばし続ける。そんな様子を視覚でとらえたお客さんが、あの子の指先から弾けて飛んだ星を目で追いかけて顔を上げた。
凄い…感覚の鋭い人には、この子の飛ばした星が見えてる。
この子のイメージした情景が伝わって、図らずも影響を受けているんだ…
「惺山…!月に行こう!もう、こんなに明るくなったぁ!」
あの子はそう言って俺を見つめると、にっこりと微笑んで…息を合わせる様に俺の様子を伺って来た。
「よし、行こう…!」
笑顔で答えて頷いて、あの子の笑顔を見つめながら、鍵盤を押して弾いて一気に盛り上がって行く…
「ブラボーーー!」
「凄いぞ~~!」
知ってるさ…この子を誰だと思ってるんだ…
俺の可愛い…豪ちゃんだぞ?
「あぁ…!惺山!凄い!」
あの子がそう言って瞳を潤ませるから、俺は首を横に振って言った。
「まだだよっ!豪ちゃん…月に到着していない!」
それはまだ、大気圏までも突破していないんだ…
上空に散りばめたキラキラと輝き続ける星の間をすり抜けながら、俺と豪ちゃんは宇宙へ行って、月に着陸して、鶏の顔が描かれた…旗を立てた…!
そうして、俺と豪ちゃんは…情緒の中を泳いで”きらきら星変奏曲“を…弾き切った…!!
「あぁ…!凄い!」
ヘトヘトの豪ちゃんがバイオリンを首から離して俺に抱き付くと、観客が一気に拍手と、歓声を送って、会場が揺れる程の大喝采を貰った…
凄い…
この子は、本当に…普通の人とは違う。何か特別な物を持ってる。
「豪ちゃん…凄かったね…イキそうになったよ。」
あの子の耳元でそう呟くと、豪ちゃんはクスクス笑いながら俺の襟足を指に絡めて言った。
「僕もだ…」
「豪~~~~~!」
止まない喝采の中、客席の奥からひと際大声で叫ぶ声に顔を向けた。
豪ちゃんの兄貴だ…
酷い顔をしながらボロボロと涙を落としているのを見つけて、そっと…視線を逸らした…
「兄ちゃ~~ん!」
あの子も負けじと大声で答えて手をブンブンと振るから、抱きしめられてる俺も一緒に揺れるんだ…
お構いなしなんだ…この子はね、こういう事、お構いなしなんだ…
「ささ…俺はこの後も…控えてるんだ。」
そう言ってあの子を席に着席させて、頭を撫でて言った。
「頑張ったな…とても良かった。」
そんな俺ににっこりと頷いたあの子は、俺の手のひらに自分の手を重ねてナデナデしながら言った。
「うん…とっても、楽しかった…」
この子はよくやった…
初めてのバイオリンで、プロ以上の情緒を見せて…弾き切ったんだ。
それはまるで自然に体が動くかの様に…憑りつかれた様に…
無防備なまま、曲の情緒の中に飛び込んで行って…漂った情景をバイオリンの音色にして…アウトプットする。
凄い…表現者だ。
見る人が見たら…この子の本当の凄さに気が付くだろう。
ただの“上手さ”では得られない…この、表現力に…圧倒されるはずだ。
これを神様からの贈り物だと思わないで、何をそう呼ぶのだろう…
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