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#19
「す…す…素晴らしい…ううっ…!胸が揺さぶられる…そんな、ううっううう…演奏でした。豪ちゃん…頑張ったね…うううううう…」
マイクを持ったまま極まって泣き始める小林先生の代わりに、校長がマイクを手に取って言った。
「続きまして…作曲家であられる“森山惺山先生”のご講演をお聞きください。本日は、質疑応答の形式で題目など決めずに、皆さんと…先生と…楽しい時間を共有できたらと思っております。それでは…よろしくお願いします。」
ご紹介を受けて特設されたテーブルに案内されると、大勢の観客を目の前に…ひとり、ぽつんと座った。
目の前にマイクを置かれ、さてさて…と椅子に腰かけ直すと、舞台袖から先ほどの素晴らしい演奏を聴かせてくれた、本校の吹奏楽部、弦楽部の生徒がわらわらとやって来て、体育座りをして俺を見上げた…
はは…左から2番目の女子…パンツが丸見えだ…
ちゃんと足を閉じなさい…
パチパチと、ずっと拍手をやめない豪ちゃんを見つめてため息を吐いて、片手を抑える様に動かすと、あの子の止まらない拍手を止めた。
「えぇっと…初めまして。森山惺山と申します。」
「おっちゃ~~~~ん!!気合い入れろよっ!」
話し始めた途端に…清助の激励が飛んで会場がドッと笑いに包まれる。
苦笑いをしながら目の前に出されたコップの水を一口飲むと、ぼんやりと前を見て話し始めた…
「あぁ…はは。どうも…どうも。では…今回は少し…音楽について話してから…質疑応答をしたいと思います。ふふ…うん。そうだね。漠然と…”音楽”なんて言っても、掴めないよね。ジャンルも多いし、好き嫌いもある。でも…全てに共通する物もあるんだ。」
俺がそう言うと、何故か…豪ちゃんが胸の前で控えめに手を挙げた…
ん…?
質疑応答は…後でするんだけど…
「…ご、豪ちゃん…」
戸惑いながらそう言うと、あの子は姿勢良く起立して、顔を赤くして言った。
「惺山…格好良い…」
ぶほっ!
会場が大爆笑に包まれる中、吹き出して咳き込んだ息を整えて、手であの子を座らせた。豪ちゃんは頬を真っ赤にしながら、もじもじと椅子に座り直して熱い視線で俺を見つめた…。
そんなあの子から逃げる様に視線を逸らして、話の続きを始める。
「聴かせる人と…聴く人がいる事。それは、どの音楽でも共通する事です。そして、今も…現に、聴かせる側と…こちらの席に座った…聴く側の人に分かれました。これは、どの音楽にも共通する事です。こちらを踏まえまして…では、聴かせる側の何に興味を持って…聴く側の人は音楽を楽しむのか…」
俺がそう言うと、再び豪ちゃんが控えめに手を挙げてニヤニヤした…
もう…駄目だよ!
そんな目つきであの子を見つめると、豪ちゃんはクスクス笑いながら…挙げた手を引っ込めた…
確信犯だな、この子は…全く。
「これは…所謂”主観”の話です。その人が何に興味があるのか…何を楽しいと思うのか…何が好きで…何が嫌いか…その理由が、聴こえてくる音楽を何倍にも素敵で、楽しい物に変えて行きます。超絶技巧を感嘆しながら楽しみたい人は、技巧を極めた人の演奏を聴いて喜ぶし…ボリュームのある音楽が好きな人は、オケや、交響曲を聴いて喜ぶ。様々なんです。でも…ここにも共通する事があります。」
そう言って足元の子供たちを見ると、お互い顔を見合わせてゴニョゴニョ話し合っている様子に、口元を緩めて言った。
「知らず知らずに…演奏して音楽を聴かせる側の情緒を…聴く側の人は感じて、一緒に曲の高まりを共有していきます。これを“共感覚”なんて呼んだりします。そして、人には少なからずそう言うセンスがある。例えば…泣いている人の傍に行くと、同じ様に眉を下げて悲しむのと同じでね…」
目の前の豪ちゃんは、理解してるのか…やけに真剣な顔をして、俺の話にジッと耳を傾けている。
共感覚の…伝道師…
そう…豪ちゃんは表現力もさることながら、この共感覚を伝えていく力に長けているんだ。だから…俺はこの子の聴こえる音楽が聴こえるし…この子が見ている光景が目に映る。それは…超能力でも何でもない。ただ…あの子の強い感性の影響を…知らず知らずに受けて、振動する様に共鳴しているんだ…
「吹奏楽部の演奏を聴いて…彼らが笑顔で楽しい音楽を聴かせてくれた時、私は笑顔になりました。弦楽部の繊細で優雅に揺らぐ様な演奏を聴いて…旋律の美しさに…心を打たれました。そして、豪ちゃんの…自由な演奏を聴いて、音楽って、楽しいって…心の底から楽しむ事が出来ました。」
何故か泣き始める吹奏楽部の女子と、弦楽部の女子から視線を外すと、同じ様にボロボロと泣き始める豪ちゃんに眉をひそめながら話し続ける。
「知らずのうちに聴く側の人は、そんな物をひとつの楽しみとして…演奏を聴いているのかもしれません。…と言う、まあ…私の、感想なんですけどね。では…質疑応答を…」
そう言って話にオチを付けると、首を傾げながらあたりを見渡した。
あ…
例の如く人一倍姿勢を正した豪ちゃんが挙手をして、俺をジッと見つめて来る…
はぁ…どうせ、惺山…格好いい!って言うんだろ…?
あの子から視線を逸らすと、ムスッと頬を膨らませる瞬間を横目に、目の前で手を挙げる女子中学生を指さして言った。
「どうぞ…?」
「あ…あの、音楽家になるには…どんな経歴が必要ですか…?」
ほほ、リアルだ!
にっこりと微笑んでその女の子を見ると、彼女の素朴な疑問に答える。
「そうだな…漠然と言うなら、君はもう音楽家だ。ただ、社会で“音楽家”なんて呼ばれる人たちを言うならば…それこそ、音大を出て…年に数回のリサイタルなんて開けたら…良いんじゃないかな?」
そう言ってほほ笑むと、彼女は首を傾げて言った。
「私も…漠然と言ったら”音楽家”なんですか?」
彼女の質問に頷いて応えると、付け足す様に言った。
「例えば…夜の街で演奏をするミュージシャンだって…“音楽家”だ。そして、みんなの好きなテーマパークでマーチを演奏する人たちだって…”音楽家”。趣味で楽器を続けて、たまの休みに弾き語るお父さんだって…立派な”音楽家“だよ?音楽を聴くことが好きな人も…良い耳を培った…”音楽家“。」
そう言って彼女を見つめると、首を傾げながら言った。
「楽器を演奏して…誰かに聴かせたら、もう”音楽家“だと、私は思ってるよ。」
「好き…!」
そんな女子の好感度の高い言葉を頂戴すると、澄ました顔をして次の質問者を目で探した。もちろん…顔を赤くして手をこちらに伸ばす…豪ちゃんをスルーしながら…
「はい…では、そちらの…お父さん…」
後ろの方で手を挙げたお父さんを指名すると、彼はケラケラ笑いながら言った。
「たまの休みに、エレキギターを弾いてる者です!”音楽家“だなんて言われて、はっはっは!嬉しくって、手を挙げちゃった!ありがとな!大先生!」
そんな景気の良い男性に苦笑いして頷くと、目の前で手を挙げる男子中学生を手のひらで指して言った。
「どうぞ?」
「僕は、幼い頃から両親の勧めでバイオリンを習って来ました。でも、本当はバスケットボールがしたかった。バイオリンの練習は休みの日も続いて、自分の自由なんて無い。そんな僕は、音楽を楽しいなんて思えません。」
おぉ…これは、また…切実な…
この子の質問は…ここに来ている両親には痛いな…
「そうだね…そういう人は、ごまんといる。」
そう相槌を打って、彼の顔をじっと見つめて言った。
「弦楽部に入ったのは、誰の意思?」
「そうするべきだと思って…僕が選びました。」
「では…そうしない選択も出来た訳だ。」
俺がそう言うと、彼は少しだけムッとして首を傾げて言った。
「えぇ…でも、そうしない未来は、予想が付いた。どうせ…ガミガミと言われるんだって。バスケ部に入って突き指でもしたらどうするの?とか、練習の時間はどうするの?とか…うんざりする様な事ばかり言われるんだ。だから、消去法で弦楽部に入りました。」
なる程ね…
無理やりやらされた気持ちが強いんだ…
「実際…幼い頃から無理やり楽器を持たせる理由が、私にも分からない。かくいう私も、そんな環境で育ってきたけど…両親の期待なんて何もなかった。持て余した時間で悪さをしない様にって…無理やり習わされただけだからね…?」
そう言ってクスクス笑った俺を見て、彼はため息を吐いた。だから、俺は彼を見つめたまま…ひとつ、提案してみた。
「全く…楽器を演奏しない誰かに、何か…一曲プレゼントしてみたらどうかな…?友達でも良いし、彼女でも良い。その人のその時の表情を見て…もう一度、自分の心境に変化が無かったら…すっぱり止めるのもありだと思う。もし…少しでも、バイオリン…やってて良かったなって思うんなら、分厚い雲を突き抜けるまで…行って欲しい。」
俺の言葉に、彼は諦めた様な…複雑な表情をして頷いた…
分かってるよ。
自分でも…今更、音楽の無い人生なんて考えられないくらい…浸食されちゃってるんだよな…。でも、他の事をあまりに犠牲にしすぎて…納得がいかないんだ。
だったら、せめて…誰かに聴かせて、自分の存在意義を見出して欲しい。
幼い頃から弾いて来たっていう証を示して…それを自信に変える事が出来たら、きっと見えてくる景色も違ってくるだろう…
「そんな事しか言えなくて…ごめんね…」
腑に落ちない表情のままの彼は、それでも納得しようとしているのか…何度も頷いてから、ポツリと言った。
「はい…」
「せいざぁん!」
あの子の元気な声が聞こえて、観念した様に顔を向けるとにっこり笑ってあの子を見て言った。
「豪ちゃん、どうぞ?」
どうせ…”惺山、格好いい!“って言うんだ。
この子で終いにして…公演を終わろう。
そんな事を考えながらあの子を見つめると、やっと指名して貰えて嬉しいのか、得意げな笑顔を見せて悠々と起立して言った。
「好き、嫌いで音楽の良し悪しが決まるなんて、不公平だ!だって、嫌われていても素敵な音楽を作れる人がいる。そして、好かれていても…大した事ない人もいる。そんな物に左右されて、真実を見誤りたくない!」
…はぁん!?
あの子の質問に、なんて返したら良いのか…頭の中を真っ白にしながら、呆然とまん丸の瞳を見つめて固まった…
不公平…?
主観に…左右されずに、良い物を良いと言いたい…か、そんなの…
好きにすればいいじゃないか!答えなんて、無い!
「…じゃあ、豪ちゃんは…どうやって真実を見抜くの?」
どこからともなくそんな声が聞こえて来た。
その瞬間、豪ちゃんはにっこりと微笑んで、俺から視線を外した。そして、後ろを振り返りながら、ケラケラと楽しそうに笑って言った。
「やっぱり、先生だぁ~!」
そう、あの子の視線の先には…木原先生が居た。
眼鏡の奥の細い瞳を細めると、豪ちゃんに手を振ってにっこりと微笑んで見せた。
何で先生がここに居るんだよ…!
そんな思いを外には出さない様に、先生を振り返って話始めるあの子の背中を見つめた。
「ん、豪ちゃんは…聴けば分かる。その人が素敵か、どうか、聴けば分かる。でも…他の人は、誰かの噂だったり…好き、嫌いで、判断する。そして、世の中は…そんな物が中心に回ってる。だから、そんなの不公平だって言ってる!」
どうしたものか…豪ちゃんは派手に地団駄を踏んで怒り始めた。そんなあの子を見ながら、客席の脇に立った先生はクスクス笑って言った。
「では、豪ちゃんは、誰にも感情移入しないで、いつでも、聴き分けられるの?」
「…そんな事は、出来ない!豪ちゃんは…だってぇ…んっとぉ…惺山が好きなんだもん!」
もじもじするあの子を見て肩をすくめた先生は、俺を見て首を傾げて言った。
「だって!」
だって…じゃない…!!
全く…!
このふたりのやり取りは…的を得ていない様で…妙に考えさせられて、翻弄されるんだ…
まったくもって、調子が狂うんだ。
言葉を選ばないで言うなら…厄介なふたり組なんだ!
「豪ちゃん…その話は、また今度…」
そう言って場を仕切り直すと、絶妙なタイミングで校長が助け舟を出してくれた。
「それでは…以上を持ちまして、森山惺山先生の公演を終了させていただきます。なかなか興味深いお話を聞けて、実際に疑問を投げかけて、答えてもらう…有意義な時間を持てたのではないかと思います。ありがとうございました。」
あぁ…終わったぁ…
ペコリと礼をして立ち上がると、先生に駆け寄るあの子の背中を横目に、自分の席に着席してため息を吐いた。
あのふたりは…妙だ。
先生が…1を返すと…豪ちゃんが3を返して、いつの間にか…10まで揃ってる様な、わざと紆余曲折をする様な…難解な会話をするんだ…
ある意味…気が合ってる…それも、絶妙に…だ。
年齢の差を超えた…“ずっ友”ってやつなのか…?
演奏会と公演を終えた会場は人がどんどん退けて行って、会場はまばらな人と、後片付けに入る音響スタッフが忙しなく動き回っている。
「…ん、だってぇ、人は嘘つきだぁ。」
「ふふ…そうだね。人は嘘つきだ。」
豪ちゃんがそう言うと、先生がオウム返しの様にそう言って、楽しそうな声色を弾ませながら、ふたりでケラケラと笑い始める…
意味不明すぎて…近付きたくないよ。
だって、頭を悩ませるだけになりそうだからね…
「豪ちゃん!上手だったぞ~~!」
そんな中…いつもの仲間が飛び切りの笑顔で豪ちゃんに駆け寄って、大きな歓声を上げた。
「豪ちゃんは、僕の幼馴染なんだ…!」
「天才だな!」
そう言った晋作や大吉、清助の後ろには…疲れ切った顔をした哲郎が豪ちゃんを見て、何も言わずに微笑んでいる…
なんだかんだ言って…きっと、あの子の演奏を…あの子以上に緊張して見ていたんだな…
そんな様子を遠目からニヤけた顔で眺めて決心を付けると、重い腰を上げて先生にご挨拶に向かった。
「…木原先生、本日はわざわざ…ありがとうございます。まさか、いらっしゃってるとは…」
そう言って頭を下げると、先生は豪ちゃんの頭をナデナデして言った。
「豪ちゃんと約束したからね…来たんだ。そして、この子の素晴らしい…言葉に出来ない、美しい演奏を聴いて確信した…。私は、この子が、欲しい!」
あぁ…やっぱり…
そう言うと思ってたんだ…
「豪ちゃんは惺山のお弟子さんだからね?ばぁ~か!」
豪ちゃんはそう言うと、先生にアッカンベーをして、お尻ペンペンをして、ケラケラ笑った。
…あぁ…
この人に、こんな事が出来るのは…多分、今の所…豪ちゃんしかいない…
「なぁんで!豪ちゃん!毎日パフェを買ってあげるのに!」
体をくねらせてそう言った先生は、豪ちゃんの体をギュッと抱きしめながら言った。
「奥さんと別れてしまった…。豪ちゃんが先生の寂しさを埋めてよ…!」
へ…?!
「せ…先生…」
震える体をそのままにして手を伸ばしながらガクガクする俺に、木原先生はケラケラと笑いながら言った。
「別に、お前が原因じゃないさ…。彼女は私の金が目当てで、私は彼女の見た目が目当てだった。そのバランスが崩れたんだ。醜い女は要らない。」
何て事だ…!
「えぇ?やっと、別れたのぉ?ん…もう!」
あの子はそんな意味深な言い回しをしてため息を吐くと、自分を抱きしめる先生の手を掴んで、手のひらを合わせながら言った。
「豪ちゃんは…毎日、鶏のお世話をしなくちゃダメなんだぁ…。それと、兄ちゃんのお世話と…惺山のお世話をしなくちゃダメなの…だから、先生のお世話は出来ない…。飼育崩壊しちゃうからぁ…!」
そんなあの子にデレデレになった先生は、豪ちゃんの首に顔を埋めて言った。
「そんな事ない。そんな事ない。先生は自立してるからね…豪ちゃんのお世話が無くても大丈夫なの。だから、飼育崩壊しないの。」
何を見せられているんだ…?!
師の崩壊と…恋人の欺きを…同時に見せられている…!
「それに、先生なら、バイオリンをもっと教えてあげられるよ?」
そんな木原先生のどや顔の言葉に首を傾げた豪ちゃんは、先生の頬をなでなでしながら眼鏡の奥を覗き込んで言った。
「良いの。惺山が笑顔になれば…それで良いの。だから、先生は他の人と遊んだらいいよ?豪ちゃんは忙しいんだ!」
惨敗だ…
今回も…木原先生は、豪ちゃんにフラれ続けた…
「惺山!みんなと一緒に…シェイク飲みたい!」
え…?
当然の顔をしながら、当然の如く、俺に手を差しだした豪ちゃんに、首を傾げながら財布から1000円を取り出して手渡した。そして、当然の様にケラケラ笑いながらギャング団と一緒に会場を走って出て行くあの子の後姿を見つめて、思った…
豪ちゃん…がま口の財布、持って来てたじゃん!!
そ、そんなケチ臭い事言わないさ…ただ、少し思っただけ…
残念そうに眉を下げたまま豪ちゃんの後姿をジト目で見つめ続けた…。そんな俺の隣で木原先生が不気味に笑い始めた。
「ふふふ…あぁ!素晴らしい…!あの子は感性の塊だ!本当にバイオリンを習いたてなの?信じられない…!確かに奏法自体は至ってシンプルだった。でも…どうして…?あんなに繊細で、奥行きのある音色が出せるんだ…!これは…奇跡だ。」
熱のこもった先生を見つめて眉を下げながら何度も頷いた。だって、そんな事を言い出すなんて、俺は予想済みだったからね…。先生は興奮冷めやらぬまま、俺に震える手を見せて言った。
「あの子は…あるべき場所に収まるべきだ…!」
あぁ…俺も、そう思いますよ…
先生の予想通りの言葉に、眉を寄せて口を一文字に結んで言った。
「あの子が…それを望んでいないんです。無理やり…というのは、きっと豪ちゃんの良い所を、全てを削いでしまう事態を招くだけです。」
そんな俺の言葉に顔を歪めた木原先生は、声色を落として真剣な表情で言った。
「…あの子はなんて言ったと思う?私が感情移入しないで、誰の音楽でも平等に聴き分けられるのか…そう聞いたら、あの子はなんて言ったと思う?」
…は?
そんなの、さっき聞いた…惺山が好きだもん!…だろ。
先生の真剣なまなざしをため息混じりに見つめると、先生は嬉々とした表情で言った。
「…出来るって、そう言ったんだ。…痺れるだろ?」
へ…?
「だって、さっきは違う事言ってたじゃないですか…惺山が好きなんだもん!って…おどけて言ってたじゃないですか!」
ケラケラ笑ってそう言う俺に、先生は首を傾げて言った。
「あんなの…話をぼやかせる為のポーズさ。あの子は、他の人に聞かれたくなかったんだ。だから、私の前に来て、私にだけ、そう言った。賢い子だよ。そして、秘密主義なんだ…。」
あぁ…数回会っただけなのに、先生はあの子の本質を、見抜いてる。
先生の話を頷きながら聞いていると、先生はまるで俺を説得する様に話し始めた。
「あの子はギフテッドだ。そして、あの子の才能は芽吹いたばかり…。今、手を打たないでどうする…。今、教え込まないで、どうする。腐ってしまっては元もこうも無いぞ…。お前も音楽家なら分かるだろう…?世の中にあふれる“どうでもいい音”と“そうでない音”。あの子の音色は…飛び切りの輝きを放っている。それを、潰してしまって…良いのか?」
眼鏡の奥の細い瞳が…めいっぱいに開かれた様子を見つめて、ため息を吐きながら唸った…
「う~…ん、どうかなぁ…」
先生の言ってる事は分かるし、俺も出来れば…あの子の才能が輝ける場所へと連れて行って欲しいと願っている。
でも、豪ちゃんが…それを、望まないんだ…
煮え切らない俺の態度に呆れた様に首を振ると、先生は口をへの字に曲げてため息を吐いて言った。
「惺山…?豪ちゃんは、お前の弟子なんだろ?一緒に東京に連れて来たら良い…!そしたら、私はフランスの家を取っ払って、日本に戻って来よう。毎日の様に私の所に連れて来て貰って…一緒にパフェを食べ様じゃないか!わぁ~い!わぁ~い!老後の楽しみが出来たぁ~!毎日、豪ちゃんと…パフェだぁ!」
瞳を輝かせてそう言う先生は、あの子を説得する難しさを知らないんだ!
押しに弱い豪ちゃんは、自分の事となると全く聞く耳を持たない。台風の中俺の元へ来た時も、東京へ荷物を取りに行く時も、あの子は誰の言う事も聞かなかった…。ただ、自分の思うままに、自分だけ信じて。
頑固者で、テコでも動かない…可愛い見た目にそぐわず、そんな、気難しさを兼ね備えてる。ずっと、ひとりで…本音を隠しながら生きてきた弊害だ。他人を信用出来なくて、自分の中だけで、結論を急いでしまう。
「…まるで、音色の様な子だ…」
こんな俺の葛藤などつゆ知らず、先生はうっとりと呟くと、自分の言った言葉に感激したのか…胸ポケットから手帳を取り出して、いそいそと書き留めた。
東京に連れて行く…ね…
もうじき俺は死んでしまうのに、あんな危ない場所に…あの子を置き去りに出来る訳がない。
…駄目だ。
「はは…まあ、無理ですね…!」
鼻で笑ってそう言うと、ムッと頬を膨らませる先生を見て眉を上げて言った。
「だって、あの子には約20匹の鶏たちが居て…何も出来ない兄ちゃんが居て、幼馴染の友達がいる。絶対に、ここから離れたりしませんよ。ははは…!」
そう言うしかなかった。
…あの子はバイオリンを習いたいなんて…思っていない。俺が勝手に決められるような事でもない。それに、こんなに上手に弾けたのは…ただ一つ。
俺の為に…俺を喜ばせる為に、その思いだけで…弾いたのだから。
だから…飛び切りの”愛の挨拶“を弾けたんだから…
「あの…木原理久先生ですか…?私、この村の分校の、音楽と数学の教師をしています小林と申します!先生の…大フアンです~~!先日のコンサートも、前列をキープしておりましたぁ!はぁ~!どうしましょ~う!サインを頂けますか?あの…私の楽譜入れに…サインを、頂けますかぁ?!」
「あぁ…これは、どうも…」
さすが、小林先生は…音楽の先生なだけあって、この人の偉さを認知している様だ…。
黄色い声を上げて乙女心を全開にする小林先生が、ふわふわと浮ついた渡辺先生と話し始めるのを横に聞きながら視線を泳がすと、鋭い眼光で誰かと話し込む…豪ちゃんの兄貴の姿を見つけた。
誰と話してるんだ…?
白髪交じりの短髪、中年の男性…後ろには家族らしき…女性と…小さい子供2人。
あんなに怖い顔をして…失礼だろうに。
米信者の抗争か…?
首を傾げながら豪ちゃんの兄貴の元に近付いて、様子を伺う様に彼を見つめて首を傾げると、ピタリと口を噤んで押し黙ってしまった豪ちゃんの兄貴に尋ねた。
「どうした…?」
「…こいつが…!」
そう言って彼が指さした先の男性は、俺を横目に見てぶっきらぼうに言った。
「…この子の、父親ですが…。」
え…?
豪ちゃんを山に捨てて…
首を絞めて、殺そうとした…
今まで、行方知らずだった…父親?
「…はぁ。詳しい事情は分かりませんが…何の御用ですか?」
そう言って豪ちゃんの兄貴の前に立って、睨み付ける様に目に力を込めながら…目の落ちくぼんだ男性を見つめた。
「…いえ、ただ…元気にしてるかと…声を、掛けただけです…」
あの子を…”悪魔”と罵って…首を絞めた癖に…よくも…
「早く…消えてくれ。豪が…あんたを見たら、動揺する!」
兄貴は怒りに震える押し殺した声を出して、ギリッと奥歯を噛み締める音をさせた…そして、父親の背後の女性と…子供たちを、ただ何も言わずに見つめた。
豪ちゃんと兄貴…ふたりの子供を捨てて、逃げた癖に…
全く別の場所で、新しい家庭を築いていたんだ。
それは…ムカつくよな…
「…仁君?…帰って来たのか…!?」
そんな誰かの驚いた声に視線を向けると、そこには哲郎の親父と、その後ろに…いつものギャング団たちと、あの子がいた…
「豪ちゃん…おいで…!」
すかさずあの子の体を持ち上げて一目散に控室に連れて行く。
見た…
見てた…
驚いた様に目を丸くして…口を開けて、この子は…自分の親父を見つめていた…
「おっと…すみません…」
「豪ちゃ~ん!またね~!あぁ…!やっぱり、あの二人…デキてるって!」
そんな愛子ちゃん達ご一行が帰路に着く廊下を、体を避けながら進んで控室に戻ると、あの子を下ろして扉を閉めた。
「豪ちゃん!お茶、淹れて!」
気を紛らわせたい。はぐらかしたい。見なかった事にして欲しい…。そんな焦る気持ちを隠し切れずに、声を裏返しながらあの子にお茶を催促した。
そんな俺を見つめると、豪ちゃんは虚ろな瞳で宙を見て、嬉しそうに口元を緩めて言った。
「…死んでない…」
はぁ?
まあ…死んでくれって思っていたとしても…当然だが…
「死んでない!」
もう一度そう言って満面の笑顔になると、豪ちゃんは俺の脇をくぐり抜けて一目散に来た道を駆けて戻って行く。
あぁ…!!
どうしたんだよ…
まさか、親父に会えて…嬉しい、なんて…思って無いだろっ?!
だとしたら…悲劇だ。
「豪ちゃん!」
そんな俺の声にも振り返る事もしないで、ただ前を駆けて行くあの子の背中を見つめながら、必死に走って追いかけた…でも、絶対傷付けられる…そんな相手の元へ走って向かうあの子の背中を、止める事が出来ないんだ。
…俺の足が、段違いに遅い!!
ガランと人の居なくなった会場に戻ると…自分の父親の元へと迷う事無く走って向かう、あの子の背中を…早く捕まえて止めたいのに…!
全然追いつけない!
そして、走って戻って来たあの子と、その後ろをゼエゼエ…と息を切らして追いかける俺の姿を見付けたギャング団が、一様にギョッとした顔をした。
分かってる…でも、追いつけないんだ!
「なんで今更、戻って来たんだ!この子らが…健ちゃんが…どれほど苦労したか…!分かってんのかよっ!…ふっざけんなよっ!」
そんな言葉を豪ちゃんの親父に投げつける哲郎の親父の声が聞こえて、やっと足を止めたあの子に追いついた…
目の前では、哲郎の親父によって胸ぐらを掴まれた豪ちゃんの親父が、力なく揺すられている。そして、がっくりと項垂れた豪ちゃんの親父が力なくポツリと言った。
「…悪かったよ…浩ちゃん…」
なんだ…ここも…幼馴染なのか…
いつの間にか集まった…清助、晋作、大吉の親父の悲痛な表情と、哲郎の親父の激怒した顔を見て…そう、察した。
「謝るんならっ!子供たちに謝れっ!馬鹿野郎!!」
怒り心頭の哲郎の親父は、フルスイングで豪ちゃんの親父をぶん殴った。
すかさず、傍に居た妻らしき女性が駆け寄って…連れていた幼い子供たちが…その様子を見て、声を出して泣いた…
そんな中、何も言わずに地面に倒れ込んだ親父を間近に見下ろした豪ちゃんは、首を何度も傾げて不思議そうに見つめ続けた…
…何してんだよっ…!もう!
「…豪ちゃん!」
細い肩を掴んで強引に抱き寄せて、豪ちゃんの親父からあの子を隠す様に体の中にしまい込んでしまうと、腕の中のあの子を見下ろして、いつもの様に笑顔を見せて言った。
「焼きとうもろこしを買ってあげるから…向こうへ行こう…?」
「え…どうして…?」
信じられない…そう言った表情をした豪ちゃんは、俺の腕の中から身を捩って抜け出ると、ヨロヨロと体を起こす親父の目の前に立って、不思議そうに見つめ続けた…
そんなあの子に気が付いたのか、豪ちゃんの親父は、自分の妻と子供を手で遠くに追い払う仕草をして…自分から離した。
…それは、まるで、まだ…この子の事を…“悪魔”だなんて妄信している。そんな、様子に映った…
自分勝手に…幼い子供を捨てた…人でなしの癖に…!
悪魔はどっちだよ…
「死んでないじゃん…」
静まった会場で、親父を見つめてそう言ったあの子の声は、どことなく…嬉しそうに聴こえた。
「…はんっ!」
鼻息を荒くしてそう言うと、豪ちゃんの親父はあの子の肩を小突いて押した…。そして、眉をひそめて忌々しそうに表情を歪めると…あの子を睨みつけながら…押し殺した声で言った。
「お前が…悪魔だからだよ…!悪魔から逃げれば、助かるんだ…!!」
最低だろ…?
これが父親で…悪魔だなんて罵られているのは、彼の息子なんだ…
こんなの、聞いてられないよ…
「あんた!良い加減にしろよ!幼い子供をふたり残して、自分はのうのうと新しい家庭なんて築きやがって!子供なんて…よく、作れたな!」
怒りに任せて思いきり顔面をぶん殴ると、再び床に倒れ込んだあの子の親父を蹴飛ばしながら、怒鳴って言った。
「この子は、悪魔なんかじゃない!お前の方が…!悪魔だ!!この、人でなし!」
そして、鼻息荒く振り返ると呆然と立ち尽くす豪ちゃんを抱きかかえて、大事に両手に持って、控室に足早に戻る…
クッタリと力が抜けた様に俺にもたれかかるあの子を、ただ、涙を堪えながら…控室に運搬する。
久しぶりに会っても…”悪魔”なんて…罵られるなんて…
この子は”もうじき死ぬ人“が分かってしまう…
理解されないが故に…生まれる誤解を取り除くには…この子のそんな秘密を話すしかない。
でも、それは諸刃の剣なんだ…
俺や、豪ちゃんの兄貴の様に、自然に受け入れる人もいれば…そうでない人も居る。
受け止める側によっては、あの…くそ親父の様に…この子を”悪魔”だなんて、呼び始める人が出てしまう。そんな…危険をはらんでいる。
…哲郎や、晋作や、大吉、清助…その両親が…そんな風にあの子を思ってしまったら、それは、この子の居場所がなくなってしまう事になる。
この子は、そんな事態を避ける為に…ずっと、ひとりで…この事実をひた隠しにして来たんだ。
“本当の事を言って良い事なんて、何もない…”
あの子が悲しそうにそう言った言葉を思い出して、喉の奥を絞りながら瞳を歪める。
…こんなの、残酷だ。
息を切らしながら控室に戻ると、あの子を床にそっと下ろして、いつもの様に甘ったれて言った。
「…豪ちゃん、お茶、淹れて…」
「…もう。」
弱々しくそう言ったあの子は、膝から崩れ落ちる様に畳に座り込むと、虚ろな眼差しのまま…お茶っ葉を急須に入れて…ポットからお湯を注いだ…
どうして…今更、家族連れで話しかけようなんて思うんだ…?
どうして、今更…この村に来れると…思ったんだ…
理解なんて出来ない。
クズの思考だ…理解なんてしなくて良いんだ。
ただ…とても、胸糞が悪い…
「豪ちゃんの親父は…とんでもないクズ野郎だな…」
あの子の正面にへたり込んで座って…あの子の淹れてくれたお茶を啜って飲んだ…
「うん…。でも、死んでない…」
あの子はポツリとそう呟いた後、俺を伺う様にじっと見つめて来た。
それは…何かを考えこむ様な、何かを天秤にかけている様な…そんな目つきだ。
「豪ちゃん…湯呑に入れるのが早かったみたいだね…味がしない。」
そう言ってあの子に空になった湯飲みを渡すと、あの子は表情を変えずに再び急須にお湯を入れて蓋をした…
そして俺を見つめると、さっきと同じ様に…グラグラと瞳の奥を揺らした。
何を考えてるの…?
どうして、そんな顔をするの…?
「どしたの…?」
堪らず身を乗り出してあの子の頬を撫でてそう聞くと、豪ちゃんは俺の瞳を見つめて言った。
「…知らない。」
嘘つきだな…
絶対、何か…思考を巡らせてる。
それを俺に言わないのは…どうして?
どうして…?
コンコン…
ノックの音に我に返るとおずおずとドアへ向かって、神妙な面持ちを止めて俺を見上げるあの子を見下ろした。
コンコン…
再びノックされて、あの子から視線を外してそっと扉を開いた。そして、ドアの向こうの人を確認して、ため息を吐きながらドアを開いた。
「豪…!」
豪ちゃんの兄貴がなだれ込む様に控室に入って、そのままの勢いであの子を抱きしめた。そんな様子を、脱力した体で見下ろしていると、すぐ隣で哲郎の親父が鼻を啜った…
悲しそうに眉を下げた彼の背中の向こうに…こちらの様子を伺う哲郎…清助、晋作、大吉の姿を捉えて、今までにない悲しい顔をしたあいつらの様子に、胸が苦しくなった。
この子達は…みんなに愛されている…
こんなに、心配してくれる友達もいるんだ…
親父が群を抜いて屑でも、こうして守ってくれる誰かが…傍に居る。
それを可哀想と思う…?
それとも…恵まれていると思う…?
「…豪ちゃんの…バイオリン、とっても上手だったろ?」
魂が抜けてしまった様な表情をして、豪ちゃんを見つめ続ける哲郎にそう声を掛けると、あいつは涙をポタポタと落としながら、笑顔で頷いて言った。
「凄かった…!」
「俺も…!びっくりした!」
晋作はそう言いながら哲郎の肩をポンポンと叩いて、顔を覗き込んでニカッと笑った。
「僕も、周りの人に自慢しちゃった!あの子、僕の…幼馴染なんだって!」
「ふふっ!豪ちゃん!凄かったぞ!さすが…豪ちゃんだ!!」
そんな大吉と清助の声にケラケラと笑顔を見せた豪ちゃんは、泣きじゃくる兄貴の腕の中で、はにかみ笑いをして言った。
「…ん、もう!」
この子の晴れ舞台となった“音楽祭”…
豪ちゃんは、緊張を乗り越えていつもの様に…情景の中を映し出す様な素晴らしい演奏が出来た。そして…観客を沸かせて、止まない喝采を頂いた。
豪ちゃんの才能を目の当たりにした木原先生が、本気であの子にオファーして…今回も、ことごとくフラれた。
そして、行方知れずだった豪ちゃんの親父が現れて…楽しかったみんなの心を、一瞬でボロボロにして行った…
終わり良ければ全て良し…
その真逆だ。
終わりが悪すぎて、全てが台無しにされた気分だ…
「まもる…帰るの?」
日の暮れた夕方…片付けを始めたフィッシュアンドチップス屋の前を通ると、あの子は立ち止まってイケオジの店員にそう言った。
「…ぶふっ!呼び捨て…。ウケる。そら、帰るよ。豪ちゃん…。それにしても、凄いバイオリンを弾くんだ。まもちゃんはびっくりしたよ?まもちゃんの大ちゅきな人もバイオリニストでね…“俺のバイオリンは護が作る。そうだろ?!”って…会う度に威嚇してくるんだけど…。その人に…君を会わせてあげたいって思っちゃったよ。」
ケラケラ笑ってそう言うイケオジに、豪ちゃんはペコリとお辞儀をして言った。
「お魚、とっても美味しかったよ?まもる。500円まけてくれて、ありがとう…」
「あぁ…なんだ、可愛いな…」
胸キュンするなよ…張り倒すぞ…
胸に手を当てて豪ちゃんを見つめるイケオジを無視して、すっかり元気の無くなってしまった豪ちゃんの腰に手を当てて言った。
「…帰ろう。豪ちゃん…」
「うん…」
力なく俺にもたれかかるあの子を抱きかかえる様に腕の中にしまうと、車へ歩いて向かう。
死んでないじゃん…
そう…自分の親父に言った時のこの子の表情と、その後から俺を見つめる目つきに…そこはかとない違和感と胸騒ぎを覚えるんだ。
一体…何を考えて、何を思ってるの…
豪ちゃん…
教えてくれよ…
「…今日の“きらきら星”は、今までで最高の出来だったね?」
運転席に腰かけてそんな声を掛けると、朧げに窓の外を見つめていた豪ちゃんが、我に返った様に俺を見て言った。
「う…うん!綺麗だったぁ!」
おかしい…
様子が変だよ、豪ちゃん…
クズな親父に会ってショックだったの…?
それとも、子供を2人も他所でこさえていて…ショックだったの?
いいや、違う。
何か…俺に隠している。
知られたくない事を、ひとりで考えて…悩んでいる…
あの子の柔らかい髪を撫でて、そっとキスすると、顔を覗き込んで言った。
「豪ちゃん…惺山には本当の事だけを言って良いんだよ?」
そんな俺の言葉に、揺れ動くあの子の瞳を見つめて、あの子の返事を待った。
すると、豪ちゃんは瞳を歪めながら、無理して微笑んで言った。
「…ん、分かってるぅ…!」
嘘つきだな…
何かを隠してる…
俺に言えない、何かを隠していて…必死に、考えてる。
でも…話さないみたいだ。
どうして?
どうしてだよ…
あの子を助手席に乗せて車を走らせると、朧げな表情で窓の外を眺めるあの子の後頭部を見つめて、何も言えないまま…徹の実家に戻って来た。
「豪ちゃん…お茶、入れて…」
家に帰ろうとするあの子の腕を掴むと、そう言って玄関に引っ張って連れていく。
…このままひとりで、家に帰すなんて…出来なかった。
「ん、もう…惺山は…!」
そんなツンデレを見せながらも、豪ちゃんはいつもの様に台所でお茶とコップを手に取って、トクトクと注ぎ始めた。そして、顔を上げると、雨戸を開く俺を見て聞いて来た。
「ね、先生は…僕の為に来てくれたの?」
「…ん、その様だ…」
縁側に腰かけて、あの子が注いでくれたコップのお茶を飲みながら、横目で豪ちゃんの様子を伺い続ける。
夕方の縁側…髪を撫でて抜けていく風は秋めいて、心地よい…
ふと、隣に腰かけたあの子を見つめて、何気なく自分の膝に置かれたあの子の手をポンポンと叩きながら口元を緩めて言った。
「先生は…豪ちゃんの感性にべた惚れしたみたいだ…」
そんな俺の言葉にため息を吐きながら首を傾げると、あの子は膝の上に置いた手を何度も動かしながら遠くを見つめて言った。
「そう…」
そう…?
いつもなら…“僕は惺山のお弟子さんだもんね!”って…笑い飛ばすのに。
「変だな…何だか、ずっと様子が変だ。」
そう言って、あの子の頬を撫でると自分を向かせて、じっと瞳の奥を見つめて聞いた。
「…親父に会ったのが…嫌だったの?」
そんな俺の問いかけに瞳をグラグラ揺らすと、あの子は何も言わずに俺の胸に顔を沈めて、そっと背中を抱きしめて来た。
おかしい…
「教えてよ…豪ちゃん。どうして、そんなに滅入った様な顔をするのさ…。俺にだけは本当の事を教えてよ…」
あの子の顔を覗き込んでそう聞くと、まるで…話したくない。とでも言う様に…俺の胸に顔を擦り付けながら、何度も何度も首を横に振って唸り声をあげた。
はぁ…
「豪ちゃん…」
「…ん、もう…知らない!」
問い詰める様な俺の言葉から逃げる様にそう言うと、あの子は俺の腕の中からすり抜けて…庭で草をついばむパリスの元へ行ってしまった…
そして、俺の様子をチラッチラッと伺い見ると、しゃがみ込んで鶏と話し始めた。
「こんなに沢山…!凄い働き者だねぇ?ここは…つるっぱげになっちゃった!あはは!せいざぁん!パリスがスイカの芽を食べちゃった!」
何を隠してるの…何を考えてるの…何を思って、何に心を悩ませてるの…
問い詰めたい…
あの子の本心を聴いて…この胸騒ぎを解消したい。
でも、この様子じゃあ…何も話さないだろうな。
はぁ…
「あ~あ…清助が泣くな。」
神妙な表情を止めて伸びをしながらそう言うと、縁側にゴロンと寝転がった。そして、ケラケラと笑うあの子の声を聴きながら、縁側にせり出した屋根の裏側を見つめて、住人が巣立った後の燕の巣を眺めた。
いつか…俺に話してくれるだろう…?
諦めた訳じゃない。
ただ、今…これ以上問い詰めても、頑なになるだけだと思ったんだ。
超が付くほどの頑固者で、自分の中で最悪の結論を出して、周りが見えなくなって、頑なになってしまうのは…この子の常。
「パリス!ん、もう!突っつかないでぇん!ん~!パリス!」
「コッコッココケ~コ!コッコッココケ~コ!」
ゴロンと体を横に寝返りを打たせて、パリスと遊ぶ豪ちゃんを眺めて瞳を細めた。
逃げ惑うあの子のくるぶし目がけて、しつこくくちばしを落とす…そんなパリスは、絶対にドSだ…だから、パリスと俺は気が合うのかな…
そんなどうでも良い事を考えながら、あの子が縁側に置いたバイオリンのケースを眺めて、黒いボディに書かれた自分のイニシャルを指先でなぞった。
「あの子は…あるべき場所に収まるべきだ…!」
木原先生が…そう言った。
あの木原先生が…
幼い頃から”著名なバイオリニスト、“藤森北斗”を育てあげた、あの先生が…よだれを垂らして欲しがった…
それは普通の人にとったら名誉な事で、誇らしい事なのに、あの子にとったら…何の価値もない、ただのパフェ仲間の遊びのお誘い程度でしかないんだ。
でも、先生が言った通り…今、この波に乗らなかったら…あの子の才能の芽は潰れるだろう。
俺が死んだ後なら…尚更、難しくなる。
“うわぁん!せいざぁん!”なんて言いながら毎日泣いて…あげたCDも聴けずに、バイオリンにも触れられずに…音楽を遠ざけてしまうかもしれない…
それは…嫌だな。
でも、この子は欲が無いんだ。
バイオリンで有名になってやるとか、もっと上手くなってやるとか、そういった欲がない。あるとするなら…俺と一緒に演奏したいって…可愛い欲くらい。
そんな豪ちゃんに…先生への弟子入りなんて打診しても…首を縦に振る訳がないさ…
しかしながら、このまま眠らせておくのは勿体ないのは事実。
でもな~…どうかな~…
「惺山!鈴虫が鳴いてる!聴こえる?コオロギもいるみたいだぁ!」
そう言うと、あの子は草むらで耳を澄ませながら鈴虫の真似をして両手を背中に当てて言った。
「リンリ~ン!リンリ~ン!」
「ぐふっ!」
その光景に吹き出して笑いながら、熱心に鈴虫の擬態をするあの子から視線を外して、パリスを眺めた。
パリス…お前のご主人様は…分からんな。
こんなバカみたいな事をしたかと思ったら、心の芯が揺さぶられるようなバイオリンを弾いたり…ケラケラ笑って、湖に飛び込んだり…
意味深に隠し事をしたり…
分からんな…
動きの無いパリスを見つめて、ウトウトしながら思慮を巡らせていると、いつの間にか豪ちゃんが俺のすぐ隣に座って顔を見上げて空を眺めていた。
「ふんふ~んふふんふふんふ~…」
“赤とんぼ”を歌い始めたあの子の可愛い声に口元を緩めながら、そのまま…ぽっくりと寝た。
昨日…ちょっとだけ緊張したみたいで、寝られなかったんだ…ふふ。
こんなに大喝采を頂く結果になる事が分かっていたら…あんなにドキドキする事も無かったのに…
豪ちゃんが緊張し過ぎたりしないか…心配だったんだ…
「惺山…?惺山…?ん、おばちゃん…惺山が起きないのぉ。」
「どれ…貸してみな…」
豪ちゃんと、誰かの声が聞こえて…うすぼんやりと瞳を開いた瞬間、股間に衝撃を受けて飛び起きた。
「あ~はっはっはっは!ほらぁ!男はね、こうやって起こすんだ!」
目の前でガハガハ大笑いする哲郎の母親に目を点にして、その奥で股間を抑えたまま内股になっている豪ちゃんを見つめて言った。
「何された…俺、今…何されたの…?!」
豪ちゃんは瞳をウルウルさせながら俺に抱き付くと、両手を首にかけて俺の顔を覗き込んで言った。
「あ…あぁ…おちんちんを…グイッてされてたぁ…!」
えぇ…?!最悪じゃん!
体を震わせて顔を歪める俺を見ると、彼女は肩をすくめて悪びれる様子もなく言った。
「起きないから…」
哲郎の家では、なかなか起きない男はちんちんを掴まれる様だ…!
きっと、あいつもやられている筈だ…!
「そんな事より、今日の“お疲れ様会”をするから、うちに来て頂戴な。なぁに、野暮な事は聞かないよ、豪ちゃん。」
心配そうな顔でもしていたのか…俺からは見えないあの子の顔を見つめてそう言うと、哲郎の母親はあの子の頭をポンポンと叩いて撫でた。
「惺山…?行く?僕の…大事な家族だよ?」
「…そうだね…お邪魔させてもらおう。」
眉を下げる豪ちゃんを見つめてそう答えて、哲郎の母親を見上げると、彼女は目を見開いて、絶句したまま固まっていた…
あぁ…きっと、この子が…”僕”と言ったからだ…
「さて…じゃあ…雨戸でも閉めるか…豪ちゃん、手伝って…」
そんな事、気付かぬ素振りでそう言うと、重い体を起こして雨戸に手を掛けた。
「わぁ~い!惺山と一緒だぁ~!」
ズズッズズッと重たい雨戸を閉めながら、あの子の身に起きている事態を予測する…
あんなに守って来た鉄の仮面をうっかり被る事を忘れるくらい、この子は何かをずっと考えて…悩んでる。
それが、今回の親父の出現と関係があるのか…
あるんだろうな…
「よし…行こうか。」
そう言って手を差し出す俺に、あの子はいつもの様に笑顔を向けると手を握り返して言った。
「うん!」
哲郎の母親と、俺と豪ちゃんの3人で、てくてく歩いて向かうのは、豪ちゃんの家。
「兄ちゃぁん…ん、起きてぇ!」
あの子がいくら揺すっても全く起きる気配のない兄貴は、むにゃむにゃと口を動かしながらポツリと言った。
「豪!ん、もう!駄目だろぉ!…まぁったく…」
体を揺すり続ける豪ちゃんを両手で抱きかかえた兄貴は、あの子を足に挟んで抱きしめて、さわさわと体をまさぐり始めた…
何て事だ!犯罪だぞっ!
「ん、もう!兄ちゃんの…!ばかぁ!」
豪ちゃんがそう言って顔を引っぱたくと、変態の兄貴は寝ながらへらへら笑った…
「どれ…」
真打登場とばかりに前に出た哲郎の母親は、豪ちゃんの兄貴の股間を躊躇する事なく、むんずと掴んだ。
「ん~~~っ!!豪!もっと、優しく触るんだぁ!」
そう叫びながら目を丸くして飛び起きる豪ちゃんの兄貴に、さっきと同じ様にガハガハと大笑いを浴びせると、哲郎の母親は首を傾げて言った。
「健ちゃんは…この先生よりも、大きいね?」
…やだ…酷い!
「…若いから、夕方に寝ても…朝勃ち、してるんだよね…」
彼を見下ろしてそう言った俺に、豪ちゃんの兄貴は顔を真っ赤にしながら言った。
「違う!」
違う…だと?
ありえない。
夕暮れの田舎道…意図不明の4人組で歩いて哲郎の家へと向かう。
その中、ひとりだけウロチョロと歩き回る豪ちゃんは、耳に聴こえる鈴虫の羽音に合わせて、相変わらずのクオリティで鈴虫の擬態をしていた。
「ご馳走が出るリンリン!惺山はお酒も飲めるリンリン!」
あぁ…そうかい。
あの子の得意げな顔を見つめて頭を撫でてあげる。そして、未だに腑に落ちない表情を浮かべる兄貴を横目に見て言った。
「豪ちゃんの…バイオリン、凄かっただろ?」
その言葉に我に返ったのか、豪ちゃんの兄貴は一気に表情を崩して瞳を細めて言った。
「すごかった…!俺は、バイオリンなんて分からないけど…すごく綺麗だった…!あんなの初心者でも弾けるものなの?」
豪ちゃんの兄貴は、チョロチョロと動き回る豪ちゃんを捕まえて後ろから抱きしめると、あの子の髪に顔をスリスリさせて、満面の笑顔で俺を見てそう聞いて来た。
だから、俺は肩をすくめてはっきりと言ってやった。
「弾けない。はっきり言って…この子は、特別だ。才能って物を持ってる。著名な先生とも顔見知りになって、特に、気に入られてる。」
俺がそう言うと、豪ちゃんの兄貴は嬉しそうに表情を明るくして言った。
「凄いな…豪。やっぱり…お前は凄いんだ…!」
「えっへへぇ~!」
兄貴に褒められて嬉しいんだ。顔を赤くして笑うあの子を見て、自然と笑顔になる。
…良かったね。豪ちゃん…
そう…この子は、凄いんだ。ただ、その芽を出す場所が分からなかっただけ…
持て余す程の豊かな感性をどこに持って行ったら良いのか、分からなかったんだ。
キャッキャと喜ぶ豪ちゃんをグリグリと撫でまわす兄貴を見つめながら、心の底から思った。
クズな父親に会って…嫌な思いをしただろうが、この子の事をもっともっと褒めてあげてくれ…。俺の隣でバイオリンを弾く事を夢見て…未経験の事に取り組んで、とっても頑張ったんだ。
「惺山の一歩は…?」
俺の隣に来た豪ちゃんは、大股で一歩を踏み込んで見せると、俺の顔を見上げた。だから、俺は限界ギリギリまで踏み込んで、大きな一歩を踏んで見せた。
「どうだ~!」
そう言って胸を張って威張る俺を鼻で笑う様に、兄貴はもっと大きな一歩を踏んで言った。
「あれぇ…俺の方が足が長いのかな…?」
なんだと!
やる気かっ?!
「は~はっはっはっは…、これでどうだ~!」
大人気なくないさ。
全力で物事に取り組んでいるだけ…
さっきよりも大きく踏み込むと、腰がピキッと悲鳴を上げるのを必死に堪えて、豪ちゃんの兄貴よりも大きな一歩を踏んでやった!
「わぁ~!凄い~~!やっぱり、惺山が一番だね!」
「年なんだ…無理しないで…」
そんな哲郎の母親の現実を突きつける言葉に、表立っては落ち込んだりしないさ…でも、内心シュンとした…。年だからって言葉が…身にしみて来る年齢だもの。
落ち込んだ気持ちを忘れる様に、豪ちゃんが掴む自分の腕を見下ろして、そっと、反対の手のひらであの子の手を撫でた。
腕に感じるあの子の柔らかい髪が心地よい。
このまま…チュッとしたい気持ちを我慢して、俺の歩幅に合わせるあの子と、ケラケラ笑いながら一緒に歩いた。
…この子は…チェロも弾けるのだろうか…コントラバスも…弾けるのだろうか…
バイオリンを自在に操った様に、ピアノや…他の楽器たちも、容易に操る事が出来るのだろうか…
初めの取っ掛かりさえ手伝ってあげれば…どんどん自分で吸収していくんだ。
それは教えるこちらが驚愕して畏れ慄くほどの…驚異的なスピードで、だ…
好きこそ物の上手なれ…なんて、そんな言葉を体現している。
そして…無理やりにやらせる事の是非を…目の前に叩きつけて、問うてくる。
苦しい事の先に待つのは…苦しい事でしかない。
今日の質疑応答でやり取りした少年が、最後に見せた諦めた様な表情が…まさに、それだ。
この子なら…そんな思いなど抱かずに”好き“のままで…バイオリンを弾き続ける事が出来るのだろうか…
あぁ、馬鹿だな…こんな風に、豪ちゃんの先の未来を夢見ても、無駄なんだ…
だって、この子の爆発的な伸びの原動力は…バイオリンじゃない。音楽でもない。
俺なんだ…
俺が音楽を好きだから、豪ちゃんも音楽を好きになって…
俺がピアノを弾くから、豪ちゃんはバイオリンを弾いている…
だから…俺が死んだ後は、必然的に、この子は音楽を続ける意義も意味も無してしまうだろう。そして、せっかくの才能とセンスを、再び土に埋めてしまうんだ。
この子に…バイオリンを弾かせ続けるには…俺が生き続ける必要がある…そして、それは俺の努力だけでは叶わない事。つまり、豪ちゃんの音楽家の未来を夢見た所で、そんな物…儚い夢でしかないって事だ…
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