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#20

「さあさ…上がって?」 そう言って哲郎の母親に促されると、ペコリとお辞儀をして立派なお屋敷の重厚な木の床に足を踏み入れる。 「お邪魔しま~す…」 絶対…良い木だ。 そんな事を、足の裏でしみじみ感じながら歩いて、俺の前を元気に駆けて行く豪ちゃんの背中を見つめて、口元を緩めた。 「あれ…今日は、みんな来てるの?」 そんな豪ちゃんの兄貴の問いかけに、哲郎の母親はケラケラ笑って言った。 「あったり前だよ!今日は…あの子の出世祝いだからね!」 ふふ…豪ちゃんが頑張ったお祝いなんだ… ちんちんをすぐ触るのはどうかと思うけど、優しい女性じゃないか… 何度でも言おう…すぐに、ちんちんを触るのは、どうかと思うけど優しい女性だ。 「わ~い!豪ちゃんと…惺山と、兄ちゃんが来たよ~?」 そんな豪ちゃんの楽しそうな声が聞こえて、廊下の突き当りを曲がって中庭の見える縁側に出ると、奥のお座敷に大勢の人影を見つけて…目を丸くした。 まるで、田舎の…本家に集まる、分家の親戚の集まりだ… 大きなテーブルを2つ繋げたお座敷には大人と子供が座って、テーブルの上には寿司や刺身、唐揚げに…煮物…大きな鯛の姿焼きまであった… 「わ~!おっちゃ~ん!食い物目当てに来たのか!」 「おじちゃ~ん!酔っぱらって!フルチンして~!」 そんな下品なグルーピーには、愛想笑いを適当にして…後は、無視だ。そして、目の前を駆け回り続ける豪ちゃんを両手で捕まえて言った。 「わぁ…豪ちゃん…!凄いご馳走だよ?」 そんな俺の言葉にケラケラ笑うと、あの子はギュッと俺に抱き付いて満面の笑顔を見せて言った。 「そうだよ?豪ちゃんが言ったでしょ?」 「まま…せんせ、こちらに座って…!あの豪ちゃんにバイオリンなんて教えてくれた大先生だ。丁重におもてなししろよ?!」 哲郎の親父はそう言うと、嘘っぽい笑顔を俺に向けて着席を促した… 怖いな…田舎の大人に囲まれる席じゃないか… 生きた心地がしない。 「惺山!豪ちゃんが一緒に座ってあげる!」 豪ちゃんはそう言うと、俺の腕にしがみ付いて、狭い座布団の上にぎゅうぎゅうにお尻を入れて来た。 「ちょ…ちょっと狭い…」 「文句言わないの!もう!」 そんなワチャワチャのやり取りをしながらため息を吐いて、あの子の足が乗った自分の胡坐を見下ろす… 妙にエロいじゃないか… そんな事、思っても顔になんて出さない。 だって、着席してから、恐ろしくて…まともに正面も見れないんだ。 目の前の清助の父ちゃんが、ずっとこっちを見てニヤニヤしているんだもの。 「健ちゃんはビールくらい飲めるだろ?」 そう言った哲郎の親父の言葉にすぐに反応した豪ちゃんは、俺の胡坐の上で足を揺らして怒って言った。 「ん、もう!兄ちゃんは未成年だよ?」 「んんっ!豪…!良いんだよ、こういうのは…適当で!」 豪ちゃんの兄貴はそう言うと、哲郎の親父の隣に座ってグラスを差し出した… 「一杯だけ!一杯だけだよ、豪ちゃん!怒んないの!」 そう言った哲郎の親父は、豪ちゃんの兄貴と顔を見合わせて、ニヤニヤしながらトクトクとビールを注いだ… このやり取り…やり慣れてるな… そんな兄貴を見ると、豪ちゃんは俺の手元に置かれたグラスを手に持って、哲郎の親父に向けて言った。 「惺山にもあげて!」 「ほんっと、豪ちゃんは彼が気に入ってるな。嫁にでも行くのか?哲をやめて、作曲家に嫁ぐのか?」 ケラケラ笑ってそう言った清助の親父は、豪ちゃんの差し出したグラスにビールを注いだ。そして、俺を見つめると瞳を細めて言った。 「ふつつかな息子ですが、どうぞ、よろしくお願いします!」 「変なんだ!豪ちゃんは男の子だからお嫁には行かない!なのに、清ちゃんのお父さんは、変なんだ!」 あの子の言葉にゲラゲラ笑った清助の親父は、テーブルの向こうに座った哲郎を見て、大きな声で言った。 「哲~!もたもたしてっから!豪ちゃん、取られちゃったぞ!」 「うっるせえ!」 「はは…」 騒がしい食卓に、戦々恐々としながら苦笑いをするしかない…だって、ここは完全にアウェイなんだもの。そんな中、俺の膝に手を着いたあの子が、首を傾げながらじっと見上げて来た… 「なぁんだ…」 そう言って首を傾げると、あの子は肩をすくめて口を尖らせて言った。 「ん、もう…!本当に、惺山は…豪ちゃんがいないとダメなんだからぁ!」 呆れた様にそう言って席を立った豪ちゃんは、俺を指さして大きな声で言った。 「みんなぁ!この人が…豪ちゃんの大事な惺山だよぉ?」 「知ってるよ…おっちゃんは、フルチンで歩くんだ…」 そんな清助の合の手を無視して、豪ちゃんは俺を見つめながら大きく並んだテーブルをぐるりと回って言った。 「この…ふたりが、大ちゃんのお父さんとお母さん。夜中にイチャイチャしてる。」 …ぐふっ! 豪ちゃん!! 「ど…どうも、初めまして…森山です…」 笑いを堪えながらそう言って頭を下げると、大吉の両親は顔を真っ赤にしながら言った。 「あぁ、初めまして…。あれ?豪ちゃん…何の事かな…?」 今更…とぼけるなよ… 「惺山?このふたりが…晋ちゃんのお父さんとお母さん。お母さんは、村一番の美人だって自分で言ってる。」 …豪ちゃん! 「も、豪ちゃん!だぁめ!お、お父さんにとっては…って意味で言ったのよ!?」 今更、慌てて取り繕い出した晋作の母親を見つめて、気の利く事も言えずに苦笑いをした… 「初めまして…森山です…」 ペコリと頭を下げて挨拶をすると、晋作の親父と母親はニコニコ笑って言った。 「子供たちが世話になってるみたいで、ありがとうね?今度、店に来たら…トイレットペーパーをおまけするから!」 もう…要らないさ… 満面の笑顔を湛えたまま、豪ちゃんは俺にみんなの両親を紹介して回った… それは…まるで、自分の家族を紹介するみたいに。 あの子の得意げな表情を見つめながら瞳を細めて、紹介される大人たちに頭を下げてにこやかに挨拶をした。 大好きなあの子の顔を潰す訳には、行かないからね… 「このふたりは、清ちゃんの…お父さんとお母さん。お父さんは知ってるよね?惺山のお友達の…お兄ちゃんだ。お母さんは、手芸が得意で豪ちゃんに編み物とか…ミサンガ作りを教えてくれた。」 「ふふ!今日の一張羅もね!!気合い入れて作ったから…豪ちゃんがいつもの倍以上に可愛く見えたわ!我、自画自賛!我、自画自賛!!」 …癖が強い。 そんな清助の母親を見つめて、へらへら笑って愛想笑いをした。 「初めまして…森山です…」 ペコリと頭を下げて視線を移すと、豪ちゃんは哲郎の父親の肩に両手を置いて、嬉しそうに笑いながら言った。 「さてさて、それじゃあ…この人は、誰でしょうか?」 「…ふふ、哲郎のお父さんだね。」 俺はそう言ってあの子に微笑むと、哲郎の親父を見てぺこりと頭を下げて言った。 「森山です。よろしくお願いします…」 「あぁ…何度か話しはした。でも、こうしてのんびり顔を見合わせて話すのは初めてだ!いやぁ、豪ちゃんが面食いだって…!良く分かったよ!あっはっはっは!」 そう言って大笑いすると、哲郎の親父は俺にビールの瓶を差し出して言った。 「あの子の…恩人だ。注がせてくれ…!」 …恩人? その逆さ。 俺が、この子に救われたんだ… 「そんな…」 頭を下げてそう言うと、手元のグラスを差し出してビールを注いでもらう。 哲郎の親父は、息子の哲郎によく似て…男前だ。 見た目じゃない…この、貫禄が…まさに、哲郎そのものだ… 注いでもらったビールを一口飲むと、ニカッと豪気に笑いかけて来る、男気の塊に応える様に笑顔を向けた。 植木屋の…大将。 生まれ持ったリーダーの資質と、貫禄を持っている男だ。 「惺山?はい。これ…あと、こっちの唐揚げも…それと、サラダも貰おうね?」 豪ちゃんは忙しそうに目移りさせながら、いつもの様に俺の為に甲斐甲斐しく給仕を始めた。 手際よく小皿に料理を取り分けて、隣に座った兄貴をお尻で押し退けながら、俺に向き直って言った。 「はい、あ~んして?」 あぁ…豪ちゃん… そんな、さすがに…こんなに沢山の大人の前で、そんな事出来ないよ… 「自分で、出来るよ…」 そう言ってあの子から箸を取り上げようとすると、豪ちゃんはムスッと頬を膨らませて怒った顔をして言った。 「なぁんで!嘘つき!何も出来ないでしょ!!」 あぁ…!もう!豪ちゃん!! 「そうだよ…いつもみたいに、食べさせてもらえよ。おっさん…。今更、取り繕うなよ。見苦しいぞ…」 ジト目を向けた哲郎は、そう言って鼻で笑うと、メラメラと燃え盛った嫉妬を俺にぶつける様に、ニヤリと口元を上げて情けない声を出して言った。 「豪ちゃぁん!お茶入れてぇん!」 「だ~はっはっはっは!!」 あいつの過剰で悪意のある俺の物まねに子供たちがゲラゲラ笑い、すぐに悪乗りをする晋作が続けとばかりに、体をクネクネさせながら言った。 「ぐふふっ!豪ちゃぁん!食べさせてぇん!ん、やだぁ!しょっぱいぃ!」 俺は…そんな事言ってない。 捏造だ…! 「あぁ…そっか、惺山は大人の前で格好付けたいのか。ごめんね?豪ちゃん…つい、いつもみたいにしちゃったぁ。はい…自分でどうぞ?」 眉を下げた豪ちゃんは、俺の手に丁寧に箸を持たせて、背中をトントンと叩いて、慰める様に撫でた…。そんな状況にいたたまれなくなった俺は、顔を真っ赤にしながら俯くと…そのまま、箸をテーブルに置いた… ん、はずかちい… ボキボキに折られた自尊心を必死に修復する様に深呼吸をして、取り繕って涼しい顔をしながらビールを一口飲んだ。 「ま、まあ…豪ちゃんは…お世話好きだから…ね。」 大吉の母親がそう言うと、晋作の母親も頷いて言った。 「そうそう、うちの父ちゃんにも餌付けしてたもん。ね?」 「お、お…おう!」 はぁ…気を利かせて、フォローされてる… 「…食事を抜いてしまう事が多くて…この子には感謝してるんですよ。毎日、食事の時間を教えてくれて…。お陰で、毎日、決まった時間に起きて、寝られるようになった…」 肩の力を抜いてそう言う俺に、大吉の親父がケラケラ笑って言った。 「そうかぁ。豪ちゃんの付き纏いは、それなりに…役に立ってたんだな?ははは!」 役に立つどころか…俺はこの子がいないと何も出来ないさ… 「はい、あ~ん…」 「あ~ん…モグモグ…おいひい!」 気の緩みかな…それとも、久しぶりのアルコールのせいかな… つい… 咄嗟に… いつもの調子で、あの子の差し出した唐揚げをかじって食べて…そう言った… 「おいひい!だって…ぐふふっ!可愛い!」 晋作の母親がそう言って笑うと、豪ちゃんはクスクス笑いながら言った。 「この前なんて、そうめんを食べさせたらね?ここら辺を、び、び、びちゃびちゃにして…!あ~はっはっは!」 豪ちゃん… 「ダメよ~!そうめんを食べさすなら、短く切ってあげないと!あ~はっはっはっは!」 清助の母親がそう言って大笑いして教えると、豪ちゃんは身を乗り出して言った。 「えぇ?!そうなのぉ?じゃあ…今度はそうしよう…!」 豪ちゃんの言葉に被せる様に、大吉の母親がケラケラ笑って言った… 「そうよ?麺類は短くしてからあげるの。赤ちゃんにはね?」 「あ~はっはっはっは!」 大笑いして俺の背中をバンバン叩く豪ちゃんは…十分、この逞しい女たちの中で嫁として生きていける…豪快さと、快活さを備えていた… 末恐ろしい… 「で…先生は、いつ頃お帰りになるの?」 忙しなく給仕を済ませた哲郎の母親は、親父の隣に座ると、俺を見つめてそう聞いて来た… いつ…? 死ぬまで…かな。 だって、俺はもうじき、死ぬから… それまでは…あの子の傍に居たいんだ。 「…これと言って、決めてないんですよ。」 そう言って首を傾げて答えると、じっと俺の奥を見つめ続ける哲郎の母親の視線に…察した。 きっと…豪ちゃんを見てるんだ。 あの子の変化を…この母親は感じてる。 それは…きっと、ずっと前から… 俺の傍に居るこの子の淡い恋心の様なものを…感じてる。 そして、母親心に…この子が傷付くような展開を、心配している様に見えた。 「んふぅ…お腹いっぱいだぁ!」 隣でお腹をポンポン叩いた豪ちゃんは、箸の進んでいない俺を見て鼻息を荒くすると頬を膨らませて言った。 「あぁん…惺山、ほらぁ!…やっぱり、食べてないんだからぁ!」 まぁ、大人はそんなにもともと食べないさ… そんな事なんてお構いなしに、豪ちゃんは俺の箸を掴むと口に食べ物を押し付けて言った。 「あ~んして!あ~んしてよぉ!」 やれやれだ… 「あ~ん…」 観念して口を開いた俺に満面の笑顔を向けたあの子が、醤油の付いていない刺身を顔を覗き込みながら入れて来た。 「味がしない…」 そう言ってムスッとすると、あの子はデレデレに鼻の下を伸ばして言った。 「ん、もう!ん、もう!」 本当に…この子は、拗らせた…世話好きなんだ… 「分かるよ…存分に、相手してやってくれ…」 そんな哲郎の親父の言葉に力なく頷いて、あの子が醤油を付けた刺身を俺に近付けてくるのを目で見つめた… 「はい…あ~んしてぇ?」 「あ~ん…」 「美味しい?」 「ん、美味しい…」 「次は…ホタテを取ってあげる。」 「ん…」 そんな俺たちのやり取りを、母親たちは嬉々として見つめ…父親たちは見ないようにした… この子は男の子だからな…まあ、そうなるさ。 自然と…見ちゃいけない物の様に、感じるのだろう。 「ほら、豪ちゃん…もう、先生のお世話は良いから、向こうで花火しておいで!」 哲郎の母親がそう言って差し出した花火セットを手に持つと、豪ちゃんとギャング団ご一行は、嬉々として縁側へと走って行った。 「ひゃっは~~~!祭りじゃあ!」 はぁ… 解放された… 凌辱プレイが…終わった。 バツが悪そうな俺を横目に見ながら、哲郎の親父がケラケラ笑って言った。 「あの子の好きにさせてくれて、ありがとうよ。あの子は…ちょっと変わってて、性別、年齢、関係なしに人懐こい所があってね…。特に…気に入った人には、しつこいくらいに付きまとうんだ。」 そう言ってビールの瓶を俺に差し出して、俺のグラスにトクトクとビールを注いで言った。 「大岩のばあさんの時は…あの子が2歳くらいだったかな。ボケた婆さんの後ろを付いて歩いて、家族が怒って言ったんだ。馬鹿にしてるのかって…。それを仁君…あの子の父親が、毎日の様に謝って歩いて…」 え… そうなんだ… あの子の為に…謝るなんて事、出来たんだ…あのクズ。 「いくらあの子に言い聞かせても…分かるだろう?聞く耳なんて持たないんだ。ケラケラ笑って、次の日も…そのまた次の日も…ボケた婆さんの後ろを付いて歩いて、一緒に踊ったり…歌ったりして…。俺が親でも…途方に暮れたかもしれない。」 これは…主観?それとも…事実? 親父側の話では、まるであの子の為に…それなりに父親をしていた様に聞こえる。 幼馴染だから…庇いたいのかな。 そんな哲郎の親父の主観が入った、あの子の親父に都合の良い話をただ黙って聞くと、口に当てた指を軽く噛んだ。 「程なくして…井戸の傍で泣きじゃくるあの子を見つけた…」 刺身を掴んだ手を止める事も無く、哲郎の親父はそのままパクリと口の中に入れて、鼻からため息を吐いて続けて話した。 「その井戸の中から婆さんが見つかると、ばあさんの家族はカンカンに怒って言った。あの子が…突き落したんだって…」 「ろくずっぽ面倒も見やしないで、怒る事は一丁前なんだ…あそこの嫁は!」 そう言って鼻息を荒くした清助の母親は、急に眉を下げて俺を見つめて言った。 「あの子は…そんな事しない。」 あぁ…知ってるさ。 あの子は、助けようとしたんだ… 「マタギの爺さんに撃たれた後藤のおっちゃんも…あの子に気に入られた。気の荒い爺さんで…付き纏う豪ちゃんを蹴飛ばして追い払おうとするのに、あの子は首を傾げながら付いて行くんだ。あんまりしつこいから…爺さんの方が音を上げて…いつの間にか孫の様に可愛がってた…」 大吉の親父はそう言うと、首を横に振って言った。 「俺が一番に見つけたんだ。猟が解禁されて間もない時期…山の中で熊と間違ったマタギの爺さんが、後藤のおっちゃんを撃った。そんな撃たれた爺さんの傷口を、小さな手で抑えてるあの子を見つけたんだ…。俺に気が付くと…ボロボロ泣いて…助けてって…言った。まだ…3歳だったのに、必死に止血しようとしていて、その時の光景が、未だに…忘れられない。」 あぁ…それは、可哀想だ。 けど…実にあの子らしい… 3歳でも分かったんだ。 血を止めないと死ぬって…だから、必死に傷口を抑えていた。 普通の子供なら怖くて泣くだけなのに… あの子は…勇敢で、優しい子だから…死に行く人の体に触れても、怖がらずに…血の溢れる傷口を抑えていたんだ。 哲郎の親父はビールをグビッと飲み干して、空いたグラスに氷を入れながらため息を吐いて言った。 「あの子は…仁君が言う様な子じゃない…仁君は、奥さんの…薫ちゃんが死んで…心を病んでしまったんだ…。とっても仲の良い…夫婦だったから。」 「豪ちゃん!振り回すなっ!火傷するだろっ!」 「ん、だぁってぇ!怖いんだもん!」 …豪ちゃんの兄貴の指導の元、縁側で子供たちが花火を始めた。 焼ける火薬の匂いと、子供の楽しそうな笑い声が聞こえて来て、暗い表情だった大人の視線を一気に奪った。 鉄砲の形の花火を持った豪ちゃんはへっぴり腰で花火を持って、怖がって足をバンビの様に振るわせている…。そんな姿にジワジワと笑いがこみ上げそうになると、すかさず真後ろに来た哲郎が…あの子の体を包み込む様に一緒に花火を掴んだ… 妬いてないさ… ただ、触り過ぎなんじゃないのかなって…思っただけだ。 「あの子は…とっても、優しい子…!」 哲郎の母親は空気を換える様に明るくそう言った。そして、俺を見つめて眉を下げると、懇願する様に瞳を歪めて見せた。 「この村にだって…あの子の事を酷く言う人がいる。死を呼ぶとか…死神とか…悪魔とか…。それは、あの子の優しさを知らない人が…勝手に恐れて、勝手に言ってるだけなんだ。どうか、そんな噂を聞いても…あの子をそんな目で見ないでやって…!とっても良い子なんだ…!」 「分かってます…」 悲痛な面持ちの彼女の瞳を見つめ返して、深く何度も頷いて…そう言った。 …人の口に戸は立てられない。とはよく言う。 俺もそんな状況が怖くて…都会から逃げてきた口だ… 哲郎の母親は、そんなろくでもない噂を俺が聞いて、あの子を変な色眼鏡で見て…傷つけるんじゃないかと心配していた様だ。 ちんちんをやたら触りたがる所を除けば…大吉の言う通り、心の優しい良い女だ。 「せいざぁん!怖いの!来てよ~!」 そんな豪ちゃんの悲鳴が部屋中を響き渡って、ケラケラ笑って見送る大人に愛想笑いをしながら立ち上がって…可愛いあの子の元へ向かう。 俺を見上げて眉を下げるあの子を見つめながら、いつもよりも立派な縁側に腰かけた。そして、嬉しそうに近付いて来る豪ちゃんを見つめながら尋ねた。 「何が怖いの…?」 首を傾げる俺に、あの子はまん丸の瞳でじっと俺の瞳の奥を見つめて来た。そして、小さな声でポツリと言った。 「あなたが…死ぬ事が怖い…」 え…? 「あぁ~~~!清ちゃん!やったぁ~~~!」 そんな大声に視線を移すと、調子に乗った清助が哲郎の家の中庭にある大きな池にボトンと体ごと落ちる瞬間を見て、盛大に吹きだして笑った。 「ぐふっ!」 「ふふふ!清ちゃんはよく落ちるんだぁ!」 あの子はクスクス笑ってそう言うと、さっきの呟きの事なんて忘れた様に、俺の手を握ってゆらゆらと揺らした。 そして、繋いだ両手を高く上げると、クルリと体を回して俺の膝の間に体を入れて…すっぽりと背中から納まった… ジト目を向ける哲郎の視線もこの子は気にしないみたいに、俺に体を預けて、繋いだ両手で自分の体をギュッと抱きしめた。 「ほらぁ…見てよ。これが…カレカノ感だ。」 大吉がそう言って指を差しても、豪ちゃんは俺の手に頬ずりする事をやめないで、クスクス笑って言った。 「カレカノ感って…なんだか、早口言葉みたい…!」 そうか…? 「どっちかって言うと…ジンギスカンみたいだね…」 腕の中のあの子にそう言うと、吹き出して笑いながら俺を見上げて言った。 「惺山は、物知り!」 「どこがだよっ!」 そんな哲郎の嫉妬による激しい突込みを華麗に無視した豪ちゃんは、線香花火を取りに行って、俺の目の前に掲げて言った。 「脳みそみたいで、面白いよ?やってみる?惺山…」 脳みそ…? やっぱり…この子の感性は、計り知れない… 「…やる。」 手を出した俺の腕をそっと掴んだ豪ちゃんは、ニッコリと微笑みながら子供たちが花火をする輪の中に俺を連れて行った。子供たちに混ざってしゃがみ込んだ俺は、体を風避けにしながら…線香花火に火をつけた。 「パチパチ…って聴こえるね?」 顔を寄せてあの子がそう言うから、俺は黙って頷いて答えた。 花火なんて…何年ぶりかな… 「落ちる…?」 線香花火の先に大きな丸い火の玉が付くと、あの子を横目に見てそう聞いた。 すると、あの子はにっこりと微笑んで、俺の腕に顎を乗せて言った… 「まだまだ!これから…もっと綺麗になる…」 あの子の言った通り…大きな火の玉はグラグラと揺らぎながら…いくつにも枝分かれして美しい閃光を放った。 「綺麗だ…」 うっとりと瞳を細めてそう言うと、あの子は俺の顔をじっと見つめて、静かに涙を落した… どうしてかな… 胸騒ぎがするんだ。 この子の様子に…そこはかとない、不安を感じてる。 「ごちそうさまでした…!」 豪ちゃんの兄貴と、豪ちゃんと一緒にそう言うと、豪快で快活…そして優しい、そんな哲郎の母親に手を振って、哲郎のお屋敷を後にした。 「お腹いっぱいだぁ~!」 元気いっぱいの豪ちゃんはお腹をポンポンと叩いてみせると、月に向かってタヌキの様に腹太鼓を打って、へんてこなダンスを踊り始めた…一言で言うなら、右足と右手…左足と左手を、同時に出してあべこべになってしまった人の様な、ダンスだ… 君がそうやって、黄色く照らされる月を見せれば見せる程、俺は不安になるよ。 ねえ、何を隠してるの… そんな疑問が、ずっと頭の中を駆け巡るっているんだ。 何を考えてるの… 何を思ってるの… どうして…そんな顔をするの? どうして、泣いたりしたの…? そんな思いを込めて豪ちゃんを見つめ続けると、そんな視線に気が付いたのか、あの子は優しく微笑みかけて、俺に手を伸ばした。そして、繋いだ手をギュッと固く結んだ。 「じゃあ…また明日ね?」 そう言って豪ちゃんの家の前であの子と兄貴と別れ、いつもの様に、振り返って俺を見つめるまんまるの瞳を見つめ返した。 胸騒ぎがする… 杞憂であって欲しいと願うけど…どうにもこうにも、落ち着かないんだ。 「漠然と、お前がいなくなりそうな気がする…」 ポツリとそう言うと、踵を返して徹の実家へと戻った… この胸騒ぎの正体はなんだ…感覚的な物なのか、それとも…知らずに目にした何かが主観で見えなくなって、分からないだけなのか。 急いで原因を探らないと… あの子が、俺の目の前から、居なくなってしまいそうな気がするんだ。 …そんな事、感覚で感じる訳がない。 きっと、目にした…耳にした何かを、主観が覆い隠して…取りこぼしているんだ。 「パリス…ただいま…ご馳走だったよ。」 「コッコッコッコ…コッコッコッコ…」 足元に寄って来るパリスの頭を撫でて、目いっぱいの可愛がりをした後、玄関に入って電気をつけた。 そして、いつもの様に風呂にお湯を入れて、台所に戻って水を一杯飲み干す… この村のバスは…一日に数本しかない… ふと、そんな考えが頭をよぎって、壁に張ったバス停の時刻表を眺めて、ポツリと言った。 「始発は、朝の…5:54…」 どうしてか分からないけど…その時間に、バス停に行こうと思った… 風呂のお湯を止めて服を脱ぐと、丸い石のタイルの上を歩いて、湯船のお湯を頭から被った… あの子がくれたシャンプーとコンディショナー…ボディソープは半分以上無くなった。 …もう、そんなに…ここに居るんだ。 漠然とそう思いながら、湯船のお湯を体にかけて泡を落とした。 この入浴スタイルも…板に付いて来たな。 こんな事、成長なんて思わないさ…ただ、生きているだけ。 順応して…生きているだけだ。 「えぇ…きんもち悪い…」 風呂場の壁に着いたナメクジの様な、ヒルの様な黒い生き物に体を震わせると、桶でお湯をかけて、流れて行く様子を湯船の中からじっと見つめる… 田舎の暮らしは…意外と危険なんだ。 こんな正体不明の生き物と、対峙する瞬間なんて沢山ある… トイレに現れる…やたら手足の長い虫が…怖い。 豪ちゃんはあれを、コオロギの亜種だと思ってるけど…絶対に違う。 凄い跳躍力を見せて襲い掛かって来るんだ…!! 気持ち悪いったらありゃしないよ… 排水溝に流れて行く黒いナメクジを見送ると、やっと安心して湯船に浸かった。 「豪ちゃん…どして…そんな顔するのさ…」 ぼんやりとそう呟くと、指先に付いた水滴を湯沸かし器の煙突にぶつけて、プツプツと弾ける水の音を聴いた… 風呂から出て、いつもの様に部屋着に着替えて、台所で水を飲んだ。 あの子が洗った食器を棚にしまって、あの子が炊いたお米を覗き込んで、バタンと炊飯器を閉じて、寝室へ向かう… 携帯電話で5:00にアラームをセットすると、布団に潜り込んで、あの子の代わりに掛け布団を抱きしめて言った。 「豪ちゃん…どして…内緒にするのさ…」 俺にだけは…本当の事を言って良いんだって…言ったじゃないか。 そうしたら、君は…うんって…頷いたじゃないか…。 やるせないよ… 歯がゆいよ… どうして、こんなに…胸騒ぎがするのか…その理由が、分からない。 布団の中で悶々と過ごすと、いつの間にか…目を閉じて、眠りに落ちていた… ピピピピ… アラームの音に携帯電話を掴むと、パリスが小言を言う前に体を起こして、ボサボサ頭のまま…家を出た。 フラフラといつもの様にあの子の家へ向かう途中…バス停の前に突っ立つと、時刻表を再度確認してから、あの子の家へと向かう… コンコン… ノックをして引き戸の玄関を開けると、目の前には呆然と立ち尽くすあの子の兄貴と、荒れ果てた部屋があった… 「ど…どした…?」 寝ぼけた頭をフル回転させてそう尋ねると同時に、あの子の姿を探して目を泳がせた。 「…出てった…」 ポツリとそう言って豪ちゃんの兄貴は、手に持った紙を俺に掲げて見せて言った。 「あいつが、出て行った!!」 ”兄ちゃんへ。僕は自立します。探さないでください。豪。“ そう書かれた書置きを読むと、まだハッキリしない頭で行き先を思いつく限り考えて巡らせる… あぁ… 豪ちゃん…どこへ行ったんだよ… 「…ふっざけやがって!なんだ!何で出て行ったんだ!!」 豪ちゃんの兄貴は突然の豪ちゃんの家出に、動揺して、感情的になってる。あの子の書置きの紙をビリビリに破いてゴミ箱に放り込むと、ドカドカと足音を鳴らして、あの子の部屋の襖を思いきり開いた。そして、どったんバッタンと…物取りの様に部屋中をかき回しながら大声で言った。 「服と…俺のパーカー…あと、あんたのバイオリンが無い!!」 …バイオリン… それを聞いた瞬間、ゾクゾクと背筋に鳥肌が立って行く感覚がして…もう、あの子に、二度と会えない気がした… 豪… 馬鹿野郎… どこに行ったんだ…! 喉の奥を絞って、込み上げてくる恐怖を必死に堪える…目の前で、動揺して取り乱したあの子の兄貴に言った。 「落ち着け…始発のバス停に姿は無かった…歩いて行ってるんだとしたら、そんなに遠くへは行っていない筈だ…。車で、車で、町の方まで探しに行って来る…!」 そんな俺の言葉が耳に届いているのか…どうなのか…豪ちゃんの兄貴は苛立って暴れ始めた。そんな彼の腕を掴んで、目に力を込めて彼を見つめて言った。 「まだ近くにいるからっ!俺が必ず見つけるからっ!他の誰にも言わないでやってくれ…!頼む!」 …大騒ぎしたら、きっとあの子は戻り辛くなる。親父がそうした様に、自分のせいで謝って回る兄貴の背中を見て、胸を苦しめるんだ… 親父…? …悪魔から離れたら…助かるんだ… 悪魔… もしかしたら… あぁ、そうか…そうだったのか… 「悪魔から離れたら助かる…昨日、君たちの親父はそう言った。それを聞いてから、豪ちゃんは塞ぎ込んだ様に様子がおかしくなったんだ。…もしかしたら、あの子の親父にも…例のモヤモヤが見えていたのかもしれない…。だから、死なずに生きている親父を見て、驚いた顔をして言ったんだ。死んでないって…。つまりだ、あの子は自分と離れれば…俺が助かると思っている。親父の言った言葉を、鵜呑みにしてるんだ。だから、俺に何も言わずに…」 あの子は、なすすべなく死んでしまったモヤモヤを身に纏った人達を…結果的に、自分が殺してしまったと…思ったんだ。 それが怖くて…逃げ出した。 そして、俺を殺したくなくて…逃げたんだ。 あの子は…今、恐怖に我を忘れてる… 呆然とする俺を鼻息を荒く見つめる兄貴は、腑に落ちない様子を伺わせながらも、コクリと頷いて言った。 「今日は仕事を休めない…。俺は反対側の道路をバイクで探すけど…時間になったら、仕事へ行かなくちゃいけない…。だから、どうか…あいつを見つけて下さい…!」 「わ、分かった!」 すぐに豪ちゃんの家の玄関を出て、焦る気持ちを沈めながら自分に言い聞かせる。 …バスには乗ってない。 …歩いて行っているなら…道すがら、必ず見つけるはずだ… 大丈夫… 大丈夫… あの子が変に賢い子でも、大丈夫。 すぐに…見つかる! 徹の実家、玄関の靴箱の上に置いた車の鍵を手に持って、すぐに車に乗り込んだ… 片手でバックミラーを直すと、恐怖に歪んだ自分の瞳と目が合った。 …酷い顔だ…狼狽、とは…この事だ… 事故に遭って…死ぬ訳にはいかない。そんな事になったら、あの子の心に大きな傷を作る事だろう… 「はぁ…落ち着け…落ち着け…」 深呼吸をしながら自分自身にそう言い聞かせると、エンジンを掛けて車を出した。 「豪ちゃん…怖いんだね。何も一人で抱え込む必要なんてないんだ…。俺が一緒に、背負ってあげる。だから…出ておいで…」 胸が、苦しくて、張り裂けそうだ…

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