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#21 豪ちゃん
兄ちゃんへ。
僕は自立します。探さないでください。
豪。
早朝…4:30
そんな書置きをちゃぶ台の上に置くと、兄ちゃんのパーカーを羽織って家を出た。
鶏もまだ目を覚まさない時間、コソコソと玄関の引き戸を静かに閉めると、手に持った彼のバイオリンと、背中のリュックを背負い直して前へと進む…
首を絞められて死にかけた…あの時、確かに、お父さんの体にはモヤモヤが見えていたんだ…
なのに、昨日見たあいつにはモヤモヤなんて掛かっていなかった。
“悪魔から逃げれば…助かるんだ…”
そんな言葉を信じた。
僕から離れれば…惺山が、助かるかもしれない。
…だったら、僕はそれに賭ける。
湖への三叉路の道を通過すると、村のバス停を通り過ぎて黙々と次のバス停まで歩いて向かう。
ここは、人目に付きやすいんだ…
手に持った彼のバイオリンを胸に抱きしめて、苦しくなる胸を押さえつけると、祈る様に呟いた…
「せいざぁん…どうか、どうか、長生きして…」
ポロポロと涙が落ちていくのをそのままにして、締め付けてやまない胸を抱きしめながら足を止めないでひたすら歩いて向かう…
時刻は…5:00
そろそろ雄鶏が鳴き声をあげる時間…
始発のバスが5:54で…家を早く出過ぎた僕は、既にバス停をふたつも通り過ぎてしまっていた。
もしかしたら、このまま歩いて町まで行ってしまうかもしれない…
そんな不安を抱えながら、交通量のまだ少ない山なりの県道をひたすら歩いて町へと向かう。
「あれ~?どうしたの?」
そんな軽々しい声に体を震わせて視線を移すと、そこには若い男の人たちが乗った黒い車が、僕の歩く速度に合わせて並走していた…
何…?
「え…」
歩みを止めないで訝しがる僕にへらへらと微笑みかけると、後部座席のスライドドアが開いて、大きな体の男が飛び出して来た…
「…ん、いやぁ!」
僕を捕まえようと、大ぶりに両手を広げる男から身を屈めて逃げた。そのまま走って、胸に抱いたバイオリンと一緒に、必死に山に登った。
急斜面の山肌は、身を屈めて根っこがしっかりした草を掴みながら登るんだ…!
「なぁんだ、サルみたいな女の子だぞ!」
運転席の男はそう言うと、山に登って下を見下ろす僕を見上げて口を開いた…
「あ~あ!可愛かったのに!逃がしたぁ!」
「博、お前行って捕まえてこいよ!まわそうぜ!やっぱり、早起きは三文の徳だ!」
へらへら笑いながら口々にそう言う男を見下ろしてゾクッと背筋を震わせる。身の危険を感じた僕は、山の中へ向かって、もっと急斜面を上った…
こんな山登り、ちょろい…
…人通りと車通りの少ない道路は危険だという事が分かったから、僕は山を登って一時避難する事にした。
「女の子じゃない…」
奥歯を噛み締めてそう呟いて、身を屈めながら山の奥へと逃げた。そして、背の高い楠木に登った。
太い枝に腰かけて大きな幹に背を持たれると、眼下に広がった美しい景色を眺めながら彼を思って涙を流す…
惺山…怖いよ。
変な人が追いかけて来るんだ…
惺山…怖いよ。
きっと…今頃、僕が居ない事に気が付いて兄ちゃんが大騒ぎを始めてる筈だ…
朝ご飯を食べに来たあなたも…きっと、心配している事でしょう。
ごめんなさい…
あなたに話さなかったのは、きっと、反対すると思ったから…
自惚れかもしれないけど…僕と離れるくらいなら、死んだ方が良いなんて…言い出しそうだと思ったんだ。
だから…黙って出て来た。
「あれ~?どこ行っちゃったの?カワイ子ちゃん!」
そんな不気味な声に体を縮めて木の上から下を見下ろした。キョロキョロと僕を探す大人の男の姿を見つけて、じっと息を潜めた…
しつこい…
どうしてそんなに追いかけて来るの?
僕の、お金を取る気…?!
「うぉ~い!博~!いたか~?」
道路の方からそんな声が聞こえて、答える様に木の下でキョロキョロする男が言った。
「いない~!あれは…お猿の姫だ!お猿の姫を見たんだ!」
…えぇ…?!
怖い…
「なぁんだよっ!もう、行こうぜ!車が増えて来た!」
道路の方から誰かが呼びかけて、博と呼ばれた男はおずおずと山を下りて行った…
はぁ…大人って、怖い…
何が目的か分からないけど、こんな所まで追いかけて来るなんて、よっぽどだ…
車が増えて来た…?
惺山も…僕が居なくなった事に気が付いただろうか…
このまま…道路沿いを進のは、危険だ。
でも、山の中を抜けて行く事は不可能だ。
一番近くのバス停まで、山のヘリを歩いて向かって、バスに乗って町まで行こう。
周りを警戒しながら木を下りて、先程、黒い車が停まった路肩が見える所まで下山した。そして、あの車が居なくなった事を確認すると、道路を見下ろしながら山のヘリを歩き始めた。
…6:00 始発のバスがそろそろここら辺を通るだろう。
その前に次のバス停まで行かないと…
ほどほどの交通量の道路を右に見下ろしながら山を歩いて進むと、目の前に屋根付きのバス停を発見して、ホッと胸をなで下ろした。
その時…
眼下の道路を、凄いスピードを走って抜ける見慣れた車を見つけた。
あ…、あれは、惺山だ…
心臓が痛い…
息が出来ない…!
胸にバイオリンを抱えたまましゃがみ込んで、苦しい呼吸を整える様に深呼吸しながら、何度も何度もバイオリンに頬ずりして言った。
「惺山、ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!」
あなたは僕の様子がおかしいって、気が付いていたよね…
だから、何回も僕を見つめては、胸の内を探ろうとして来た。
なのに、僕は…怖くて話す事が出来なかったんだ。
自分を“悪魔”と認める事も…あなたが”死“を選ぶ事も…怖かった。
溢れて流れ落ちて行く涙を拭って、胸の奥から込み上げる泣き声を堪えながら歩き始める。
決めたんだ…あなたから離れるって…
生きて欲しいから…そう、決めた。
バス停の上まで歩いて来ると、山を下りてポケットからがま口財布を取り出した。使い慣れた口金をいつもの様に開いて、中を確認する…
「一万円と…500円…」
大金だよ…
道の向こうからバスが来るのを見つけて、そわそわしながら目の前に停まるのを待った…
「軽井沢行き…」
目的地の書かれた場所を確認して、目の前に停まったバスの後部ドアから乗り込むと、券を引き抜いて窓側の席に腰かけて座った。
ここからだと…130円で町まで行ける…
良かった。すこしだけ、節約出来た…
これから、がま口財布の中のお金だけで暮らさなきゃダメなんだ。
無駄遣いなんて出来ないよ…
流石、車は早く進んで、あっという間に町のロータリーまでやって来た。
「終点~軽井沢です~」
そんな運転手の声に座席から立ち上ると、彼のバイオリンを胸の中に硬く抱きしめて、運転手の脇の運賃箱に130円と券を一緒に入れた。
初めてひとりで来た町に降り立って…辺りをキョロキョロしながら目的地へと向かう。
“従業員募集!健康ランド…寮完備、16歳からOK!健康と一緒にお金を手に入れよう!”
そんなうたい文句が書かれたチラシをポケットから取り出すと、チラシの中の地図を見ながら町を歩いて抜ける…
昨日の”音楽祭“の露店のひとつで、健康ランドが”温泉の素“を売っていたんだ。その時渡されたチラシを見て、これだ!って思った…
住み込みで働けば、住む所を探さなくても良いし、健康とお金が手に入る…
「一石二鳥だね…?惺山…」
胸の中のバイオリンを撫でながらそう言うと、目の前に見えて来た目的地を見上げて息を飲む…
「大きい…」
それは気持ち悪い河童の絵が看板に描かれた健康ランド…
意を決してエントランスへ向かうと、訝しげに僕を見つめるおじさんに近付いて、両手を固く結びながら頭を下げて言った。
「…ここで働かせて下さい!」
「え…?」
「ここで働かせてください!」
「え…?」
「ここで働きたいんです!」
「…俺は…お客だから…」
あぁ…一番高そうな服を着ているから、偉い人なのかと思った…
恥ずかしい。
耳と顔を熱くしながら、紛らわしい男性にペコペコと頭を下げて受付に向かった。
「あの…ここで働きたいんですけど…」
オドオドとしながら受付のお姉さんを見つめてそう言うと、彼女は僕を見つめて首を傾げて言った。
「…何歳なの?」
「…16歳…」
嘘をまた吐いた…本当は、来年にならないと16歳にはならない。
俯き加減にそう言った僕をじろじろと見ると、お姉さんは受付の奥に行って、忙しそうに指示を飛ばす男性を連れて戻って来た。
「支配人、この子、16歳って言ってるけど…絶対、違うと思う。」
バレてる…
お姉さんはそう言うと、僕の半ズボンを指さして言った。
「16歳はこんな短パン穿かないし、こんなタンクトップも着ない。」
そうなの…?そうなの…?
俯いたまま目だけ動かして、目の前の支配人と呼ばれる男性を見上げると、その人はため息を吐きながら手を出して言った。
「…保険証とか、身分証明書。例えば、高校の学生証とかある?」
えぇ…??
「無い…です。」
蚊の鳴くような声しか出なくて…体を縮こませてそう言った。そんな僕を見ながら、ため息を吐くと、支配人は肩をすくめて言った。
「じゃ、ダメだ…。訳アリの家出少女を預かる訳に行かないからね?うちはね、懲りてるんだ。寮完備なんて書いてあるせいか、君みたいな飛び込みの家出少年やら家出少女が良く来るんだよ。その度に連れ戻しに来た親やら、警察やらと大騒ぎを起こして、お客様に迷惑をかけるからね。それに、今の時代。身分証明も無いのに、住み込みで働かせてくれるような所はない。諦めて、家に帰んなさい。」
あぁ…そうなんだ…知らなかった。
自分の無知を恥じるべきか…自分の無謀さを嘆くべきか…僕は項垂れて頷くと、踵を返してトボトボと健康ランドを出た。
途方に暮れて目的も無く…町を歩いた。時刻は…11:00
町は人出も増えて、日も登り切った…
残念な事に、当初のあてが外れ…完全に僕の予定が狂った。
てっきり…すぐに働けると思っていたのに、世の中は僕の想像以上に、年齢という括りに支配されていた。
「あぁ…惺山…どうしよう…」
胸に抱えたバイオリンを撫でながら、心細くなってそう呟いた。家に帰るつもりなんて無いのに、足が自然と来た道を戻って進んで行く…。
そんな時、どこからともなく漂って来た美味しそうな匂いに鼻をクンクンさせる。
「わぁ…なんの匂いだろう…?」
匂いを追いかけて町を歩いて進むと、兄ちゃんの働く美容室の前を偶然にも通りかかってしまった…!
「…豪!!」
名前を呼ばれて気が付いたんだ…
それまでは”おいしそうな匂い“の事しか…考えていなかった。
お客さんの髪をタオルで乾かしながら僕を見つけた兄ちゃんは、グングン顔を赤くして眉を吊り上げた…
…やばい!!
逃げろっ!!
バイオリンを胸に抱えながらダッシュして逃げた。でも、凄い速さで、タオルを手に持った兄ちゃんが後ろから追いかけて来るんだ…!
「豪!待て!」
「さ、さ、探さないでぇ!!」
振り返ってそう言った瞬間、勢い余って足がもつれてバランスを崩した。
ダメだ…転んじゃう!!
惺山!!
必死に胸に抱えたバイオリンを両手で高く持ち上げて、胸から転んで息が出来なくなって、顔を歪めて悶絶した。
「ぐっ…はぁはぁ…はぁはぁ…!」
「豪!この野郎っ!」
そうして、僕は…あえなく兄ちゃんに掴まってしまった…。怒りに我を忘れてゴリラになった兄ちゃんは、僕の頭を引っぱたいて、思いきり怒鳴った…
「何考えてんだ!自立します。じゃねえだろっ!」
自立…出来ると思ったんだ…
「あの人が朝からずっとお前を必死に探してる…連絡しないと…!」
兄ちゃんは、そう言いながら僕を掴んだ手を離して、携帯電話を耳に当てた。
「あぁ…!だめぇ!」
両手で突っぱねて兄ちゃんの体から離れると、ダッシュして入り組んだ町の中へと逃げて行く…
こんなんじゃ…すぐに、彼の所へと戻ってしまう…
木に縛られて捨てられた時の様に…すぐに彼の所へ戻って…彼の命を奪ってしまう…!
「ん~~~!!いやぁだぁ!」
泣きながら町を走り続けて、古い写真館の前にたどり着いた…ふと、ショーウインドウに飾られた一枚の写真に目が行って…そのまま、じっと見つめた。
「…まもるだ…」
そう、そこにはフィッシュアンドチップス屋のまもると、知らない男の子が写っていた…
椅子に座ったまもると、後ろから抱きしめる様に覆い被さった男の子が顔を見合わせて…とても幸せそう…。
…良いな。
写真の中のふたりの笑顔につられて口元を緩ませると、彼の手に持たれたバイオリンを見つめた…
まもるの…好きな人も、バイオリニストだって言ってた…。
この人が、そうなんだ。
この人も…まもるの事が大好きみたい…
だから、ふたりとも…こんなに幸せそうな顔をしてるんだ。
良いな…
良いな…
「惺山…」
自然と目頭が熱くなって、ポロリと涙が落ちて、喉の奥が痛くなった…
会いたい…
会いたいよ…
僕の…大好きな人。
でも、僕は決めたんだ。
彼から離れて…彼に長生きしてもらうって…決めたじゃないか。
”悪魔から逃げると…助かるんだ…“
認めたくないけど…お父さんの言う通り、僕は、悪魔なのかもしれない…
救おうと思った人達は、僕が傍に居たせいで死んでしまったのかもしれない…
そんな思いが、あなたに本当の事を伝える勇気を削いで行った。
認めたくなかった…そんな事。
…認めたくなかった。
僕のせいで大岩のばあちゃんも、後藤のおじちゃんも、自殺してしまったお姉さんも…死んでしまったなんて…
認めたくなかったんだ…
でも…分かったんだ。
これが、主観を蹴散らす程の…ぐうの音の出ない事実だという事に。
あいつは生きて僕の目の前に現れて、昔と同じ様に、汚いものを見る様な目で、僕を見た。
死んだと思っていたのに…生きていたんだ。
僕から、逃げて、離れたから…生き延びる事が出来た…
酷いよ…お母さん。
どうして僕を産んだの…?
どうして、僕を、生かしたの…?
両手で顔を覆いながら、堪え切れない嗚咽を漏らして…まもるの写真の前で泣いた…
こんな風に…笑顔で一緒に居られたら、どんなに…良かったか。
「はぁはぁ…豪ちゃん…!」
「ダメだぁ…こっちに来ないでぇ…!」
顔を覆ったままそう言うと、息を切らした彼の息遣いを耳に聴きながら、背中を向けて歩き始めた。
「待てって…!」
彼がそう言った瞬間…再びダッシュしてもっともっと…遠くへ行く。
町なんかじゃダメだ…もっと、遠くへ行かないと…すぐに見つかってしまう…!!
「…豪ちゃん!豪ちゃん!」
キキーーーーッ!
僕を呼ぶ彼の声と重なる様に、耳をつんざくような車の急ブレーキの音が響いた。
思わず振り返って、彼の姿を目で探した…
「惺山…?」
すぐ後ろを追いかけて来ていた彼の姿が見えない…
その代わりに、電柱にぶつかったのか…車が歩道に乗り上げたまま、白い煙を上げていた…
その光景を見た瞬間…頭の中が真っ白になって…悲鳴を上げた…!!
「あぁーーーーっ!惺山!!」
踵を返して来た道をダッシュして戻って、車の影で小さな女の子を抱き抱えたまま、うずくまって動かない彼を見つけて…血の気が一気に引いていく…
嘘だ…嘘だ…!
こんなのって…無いよ…
僕のせいで…逃げた僕を追いかけたせいで…愛する彼が、死んでしまった。
もっと…生きて欲しくて離れたのに…それが彼の死を招く因子になったみたいだ…
最悪だ…
「惺山…せいざぁん…!!」
急いで彼に駆け寄って抱きしめた。すると、腕の中から幼稚園生くらいの女の子が泣きながら出て来て、駆け寄ったお母さんに抱きかかえられた…
「ありがとうございます…!ありがとうございます…!!」
何度もそう言って泣きながら頭を下げる母親を、ただ呆然と見上げていると、僕の腕を掴んだ彼が言った。
「はは、やっと、捕まえた…」
あぁ…もう…
「惺山…惺山…良かった!良かったぁ!怪我は無い?どこも…どこもぶつけてないの?」
彼に抱き付いてそう言うと、必死に体のあちこちを確かめて、血が流れていない事を何度も確認する。
はぁ…
良かった…死んでない…
ホッとして腰が抜けて、彼の胸に顔を埋めて力を抜いた。
これ以上、逃げるのは…危ない。
僕の心臓が…持たない。
「豪ちゃん…どうして、逃げるんだ…訳を話してよ…」
僕を抱きしめて惺山が優しい声でそう言った。だから、僕は観念して…いつもの様に髪を撫でてくれる彼の胸に顔を擦り付けて言った。
「…うん…うん…」
もう、言うよ…
それが例え、僕の認めたくないぐうの音の出ない事実でも…
あなたに言うよ…
惺山と手を繋いでテクテクと歩きながら、健康ランドの求人のチラシを彼に手渡した。
「これに…応募しようとしたら、ダメって言われた…」
「そうだね…16歳からって書いてある。」
彼はそう言うと、チラシを町のゴミ箱に捨てて僕を見下ろして言った。
「…まぁったく!心臓が止まるかと思ったんだぞ!」
「うん…」
しょんぼりと項垂れてそう言った僕の手を、再び繋ぎ直した彼は、それ以上何も言わなくなった…
正午過ぎの町は楽しそうな笑い声に包まれているのに…僕だけ、いいや、僕と彼だけ…浮かない顔をしたまま、そんな明るい雰囲気の中を黒い点みたいに移動して歩いて進む。
「…どこに、行くの…?」
そう聞いて来た彼を見上げて、僕は首を傾げて答えた。
「惺山…いっそのこと、一緒に死んでみよう?」
「はぁ?!」
一気に顔を歪めた彼は、首を横に振りながら僕を抱き抱えた。そして、来た道をズンズンと凄い勢いで戻って行くんだ。おみこしの上にでも乗ったみたいに、グングン進んで行く景色を彼の背中越しに眺めた。
程なくして、僕はいつもの彼の車の助手席に乗った。シートベルトを付けながら、惺山は僕を見下ろして、威嚇する様に口を歪めて言った。
「逃げるなよっ!?」
「…逃げない…」
こうなってしまったら、もう、逃げる事なんて出来ない。
彼の視線が痛くて、バツが悪くて、視線を外すしか、無かった。
運転席に座った惺山はいそいそと携帯電話を取り出すと、兄ちゃんに電話を掛けて、事の顛末を知らせた。電話口から漏れ聞こえる兄ちゃんの怒鳴り声は、いつにもましてヒートアップしているみたいだ…
「豪!この野郎!!帰ったら、帰ったら、めっためったにしてやるからなっ!!」
「まぁまぁ…めためたにする前に、話を聞こうじゃないか…。じゃ、保護したんで帰ります。」
彼は短くそう言うと電話を切って、僕を横目に見て言った。
「哲郎たちには伝えていないよ…。きっと、俺と出かけたと思ってる…」
あぁ…そうなんだ…
良かった…
また、騒ぎを起こしたと思われるのが、少しだけ嫌だった…
少しだけ…?
いいや…かなり、気にしているのかもしれない。
だって、こんなに…ホッとするんだもの。
走り出した車の窓を開けると、強く顔に当たる風に目を閉じて、短い間の逃避行を思い出して、胸が苦しくなった…
「惺山から…離れるつもりだった…」
そんな僕の言葉に動揺する素振りも見せない彼は、前を見据えたまま静かに言った。
「親父が変な事を言ったのを…真に受けたんだろ…?」
「惺山…僕は助けたかった。でも…結果的に、僕が傍に居たせいで、多くの人が死んだ。あいつが言った通り…僕から離れないと、死んでしまうのかもしれない…!!」
彼に話し始めた途端に、込み上げてくる嗚咽を抑えきれなくなった。両手で顔を覆いながら、ぐちゃぐちゃに歪んで行く顔を隠して、震えてしまう背中を持て余しながら、ただ、興奮が冷めていくのをひたすら待った…
悪魔から逃げれば…助かる
僕さえ傍に居なければ、惺山も、助かるかもしれない…
そう思うと…今も、こうして…隣に居る事が怖くて堪らないんだ…!
「あなただけは…守りたいんだ…!今までの人たちだって…守りたかった。でも、そんな思いじゃない…!周りの事なんてどうでも良くなる程に、あなただけ…生きてくれたら…それで良かった。僕の傍に居たら…ダメなんだっ!」
僕は込み上げる思いを隠す事もしないで、泣きじゃくりながらそう言った。彼はじっと黙ったまま前を見据えて、眉をひそめた…
「…俺は、そんな風には思わないよ…」
悲しそうにそう言った彼の言葉が、僕の胸の中に沁みて、広がって、ザラザラになった気持ちを潤してくれるのに…ただ、ただ、辛かった…
「ぐうの音も出ない事実だ…惺山は主観で物を見る目が濁ってる。だから事実を見ようとしないんだ…。これが、事実。モヤモヤが見えた人は、僕から離れなければいけない。さもなくば、死んでしまう。」
喉の奥で涙を堪えながらそう言うと、彼を見上げて毅然とした態度で言った。
「…惺山、東京に戻って…!」
彼はそんな僕を横目に見て、表情も変えずに…淡々と言った。
「…もし、違かったら?もし、東京に着いた後、俺が死んだら…お前は、後悔するんじゃないの?」
後悔どころじゃない…多分、僕も死ぬでしょう…
それでも…それでも…望みがあるのなら、彼の“死”を止める希望があるのなら、僕はそれに賭けたい。
彼の左手に自分の手を重ねて、綺麗な長い指を撫でながら彼の顔を見つめて言った。
「…希望があるのに諦める方が後悔する。僕はあなたに生きて欲しい…だから、僕の言う事を聞いてよ。お願いだよ…お願いだから…僕の言う事を聞いて…!」
「はぁ…」
ため息を吐いたまま…押し黙って、それっきり、彼は何も話さなくなった…
僕はただ、彼の左手の上に…自分の手のひらを重ねて置いて、彼の温かさを感じながら涙を落とし続けた。
もう触れられないって思った彼に触れて、もう話せないって思った彼と話して、もう乗れないって思った彼の運転する車に乗っている。
あんなに決心して家を出た癖に…そんな事を、喜んでいる自分が、弱くて嫌いだ…
…彼が生き残る為なら…僕は、何でもする。
そう…心に誓った。
自分の気持ちなんてどうでも良いんだ…彼さえ生き続けてくれるのなら…それで良い。
もっと…
もっと遠くへ行かないと、ダメだ。
「豪ちゃん…考えさせて…時間が欲しい。」
雨戸も開いていない彼の家に戻って来た…どちらとも車を降りないままの静まった車内で、彼は悲しそうにそう言って僕を見下ろした。
時間…?
時間なんて無い…
僕の言っている事が分かっていない彼に、泣きながら怒って言った。
「だぁめ!今すぐ、東京に戻ってよっ!じゃなかったら、僕が遠くへ行く!!」
そう言って助手席のドアを開こうとすると、彼が僕の腰を掴んで止めた。
「…待って、待って…!」
項垂れて下がった顔から表情を見る事は出来なかったけど…彼が泣いているって、すぐに分かった…
お母さん…僕はどうして、大好きで、愛している人を、泣かせて、傷付けているんだろう…
「惺山…惺山…分かってよ…。僕は、あなたが生きてさえすればそれで良いんだ…。素敵な曲を沢山書いてよ…。あなたの曲を聴けば…僕にはあなたが分かるんだ…だから、寂しくなんて…無い。」
彼の髪を撫でながら、なるべく優しい声で、彼が泣いてしまわない様にそう言った。そうしたら、僕の背中に抱き付いた彼が、鼻を啜ってこう言った…
「交響曲をひとつ…書くから…。それまで、待って…」
え…?交響曲…?
「そ、それって…何時間くらいで出来るの?」
首を傾げながら彼を振り返ってそう尋ねると、彼はとぼける様に視線を逸らして言った。
「…早くて、半年…かな?」
…え。
僕の背中に覆い被さった彼と正面から向かい合う様に座り直して、彼の長い前髪を掻き分けた。そして、視線を逸らし続ける瞳を覗き込んで、確認する様に聞いてみた。
「…ふざけてるの…?惺山…」
そんな僕の言葉に口元を緩めた彼は、僕の胸に顔を沈めて抱き付いて言った。
「ふざけてない…。それが終わったら、東京へ戻る事にするっ!」
「だぁめ!遅いの…!半年なんて、だぁめぇ!」
半年なんて…とんでもない!
今すぐにでも離れてしまいたいのに…!!
僕の傍に居たら…ダメなのに…
この人は、やっぱり…こういう選択をするんだ!
瞳から涙が伝って落ちて、どうしようもなく…辛くなって、彼の顔を両手で押し退けると、彼の体を足で蹴飛ばして、遠くへ離そうともがいた。
「…ん、いやぁ!だぁめぇん!」
「なぁんでだよぉ!」
「おじちゃん…流石に、それはマズいよ…」
そんな声と共に、車の窓から中を覗き込む大ちゃんが、鼻の穴を広げる姿を見上げると、焦った様に惺山が言った。
「…誤解するな。別に変な事をしてる訳じゃない!」
あぁ…下から見上げる彼は…とても、素敵で大好きだ…
この髪も、この肩も…この胸も…どれも、大好き。
でも、トクトクと心臓が動いて、呼吸をして、動く体を持つのは、生きている内だけ…
死んだら、お終いだと…僕は十分すぎる程知っている。
「惺山…退いてよ。」
そう言って彼の胸を撫でながら押し返すと、彼は僕を見下ろして言った。
「だめだよ。豪ちゃん、話の決着が付いていない。お前はすぐに自分の頭の中だけで、自己完結して行動しがちだ。俺はそんなお前をこの車から降ろす事が出来ない。なぜなら、またどこか遠くへ行くって分かり切ってるからな!」
「ねえ!何?なんの話してるの?!ねえ!」
そう言って窓をドンドン叩き続ける大ちゃんに…彼は鬱陶しそうに口を尖らせると、手で払う様な仕草をした…
…僕は惺山に死んで欲しくない一心で、一縷の望みがあるのならそれに賭けたかった。すぐにでも彼から離れて、彼の死の因子を減らしたい。それは、彼を愛してるからこそ、彼に生きて欲しいからこそ、選択した未来だった…
…でも、彼はやっぱり、僕が心配した未来を選択した。
半年もかかるであろう交響曲を作ったら…なんて、僕の言葉が通じていない様な期限を付けて来た。
そんな長い時間を僕と共に過ごしたら、きっと、あなたは死んでしまうよ…
大岩のばあちゃんはモヤモヤが見えて、2カ月もしない内に死んだ。後藤のおじちゃんはぴったり3週間後に死んだ。そして、大学生のお兄さんはモヤモヤが見えてすぐに死んで、あの、お姉さんは…1カ月後に死んだ…
惺山…あなたの目は、主観に曇ってる。
事実を見る事を拒んで、自分の命を危険に晒している…
そんなの、ダメだ。
彼の瞳をじっと見つめたまま思慮を巡らせて、ふと、僕を見下ろした彼ににっこりと微笑みかけて言った。
「…ん、分かったぁ。もう、どこにも行かないよ?」
「嘘だな…」
え…?
僕の取り繕った笑顔に、彼は一気に瞳を歪めた。
そして、怒った顔をしながら、右手首のミサンガを僕に見せて言った。
「…これを外す!嘘つきの物は、要らない!」
「ん…だぁめぇ!」
必死に彼の右手首を抑えて、体を引いて行く彼の体の上に覆い被さった。そして、無我夢中に彼の右手首を掴んで泣きながら言った。
「だぁめぇ!外さないでっ!僕が作ったんだぁ…!僕が、あなたの為に作ったんだからぁ!あなたが死なない様に、願を掛けた物なんだからぁ!だぁめぇ!」
「…もう行かないなんて、嘘だろ…?昨日だって何度も聞いた筈だぞ…。それなのに、何も言わないで居なくなって…どう思ったと思ってるの…?俺が怒っていないとでも思っているの…?」
低くて、落ち着いていて、静かで、強い…とっても、怒っている声だと、すぐに分かった…
そんな彼を目の当たりにして、動揺した。怖い訳じゃない…。ただ、怒らせてしまった彼を、どうしたら良いのか…分からなかった。
呆然と彼を見つめて固まってしまった僕は、右手首を掴んだ手を緩めてしまった。その瞬間、彼は運転席を降りて行った…
「あ…せいざぁん!せいざぁん!」
後を追いかける様に運転席から転がり落ちて、彼がピシャリと玄関を閉めた音と、鍵を掛けた音に…地団駄を踏んで怒った。
「ん~~!あ~けてっ!開けてよ~!!」
彼の足音がどんどん遠のいていくのが聞こえて、焦った僕は玄関を叩きながら言った。
「…ん、外さないでっ!せいざぁん!だぁめぇ!ばぁかぁ!!」
「コッコッコッコ…コッコッコッコ…」
パリスが顔をのぞかせたピアノの部屋のテラスへ向かって、いつも無施錠の窓を開けようと手を掛けて引っ張った。
…鍵が掛かってる!
「ん~~~!惺山…惺山…!開けてよぉ!開けてよぉ!」
そう言って泣き喚きながら地団駄を踏んで、テラスにへたり込みながら体を揺らして怒った。
「ばぁかぁ!!惺山の馬鹿ぁ!どうして言う事を聞いてくれないのっ!!そんなんだから、そんなんだから、馬鹿なんだぁ!」
「豪ちゃん…取り込み中の様だから僕は帰るけど、おじちゃんを怒らせちゃったなら…怒る前に…ちゃんと謝った方が良いよ…」
どぎまぎした様子の大ちゃんがそう言って僕の頭をポンポンと叩くと、心配そうに眉毛を下げて帰って行った…
謝る…?
だって、僕は彼に生き続けて欲しいんだ…
どうして、謝らなくちゃいけないの。
どうして…
溢れて来る大粒の涙をそのまま地面に落とし続けて、勢いよく振ってしまったバイオリンのケースを胸に抱え直した。すると、ピアノの部屋のドアが開くのが見えて、すぐに前のめりになって中を覗き込んだ。
「…惺山…開けてよ。ここ…開けてよぉ…!ミサンガ…外さないでぇ…ねえ、ねえ!」
窓をノックしながらそう言う僕を、彼はガン無視して窓のカーテンを閉じた…
とっても、怒ってる…
僕が…軽々しく嘘を吐いたから?
それとも…勝手に家出したから…?
「せいざぁん…」
力なくそう呟いてコツンと窓に頭を押し付けながら、部屋の中から聴こえてくるピアノの音に耳を澄ませた…
彼のピアノの音色を聴けば…彼がどう思っているのか、彼の気持ちも…言葉も…全て、分かる…
こんな風に僕を締め出したって…僕を無視したって…無駄なんだ…。
あなたのピアノを聴けば、僕には…分かるんだから…
…そう、思っていた。
なのに…どうしてかな、全然分からないんだ…
彼のピアノの音色を聴いても、ただの美しい旋律にしか聴こえなくて…
余りのショックに、見開いた瞳から、ボロボロと涙を落とす以外、僕は何も出来なくなった…
彼が、分からない。
彼の胸の内の声が聴こえない…
「惺山…惺山…開けてよ…分かんないよ、なんて言ってるのか…分かんない。ねぇ…ねぇ、惺山…僕のミサンガ、外さないでよ…ねえ…ねえ…」
窓をカリカリと爪で擦りながらそう言っても、彼はピアノを弾くのを止めないで…ただ、ひたすら美しいだけの音色を僕に届けた…
彼の音色が分からなくなった。
それは、僕にだけ分かる言葉の筈なのに…
彼の声が…聴こえなくなった。
どのくらいここに居たんだろう…いつの間にか聞こえなくなったピアノの音色と…いつの間にか夕暮れに色を染め始めた空を見上げると、いつの間にか止まった涙を探す様に頬に指をあてた…
彼の声が聴こえなくなってしまったら…僕の命綱は断たれたも同然だ。
惺山の作った曲を聴けば…彼の演奏を聴けば…まるですぐ傍に居るかの様に…彼を感じる事が出来る。だから、彼と離れても大丈夫なんだと、自分に言い聞かせた。それだけが…僕の命綱だったのに…
バッサリと、絶たれてしまった。
それは彼が僕を拒絶したからなの…?
それとも…僕が、彼を拒絶したからなの…?
お母さん…
もう、嫌になっちゃうよ…
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