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#22 豪ちゃん

「豪ちゃん…大ちゃんから聞いたよ。おっさんと町に行って、喧嘩して、帰って来たんだって?もう…6時になるから…今日は家に帰った方が良いよ…」 お父さんの手伝いの後なのか…作業着姿のてっちゃんは僕の顔を覗き込んでそう言うと、背中を優しく撫でてくれた。 「てっちゃん…」 僕はホロリと涙を落として、てっちゃんに抱き付いた。そして、堪え切れない恐怖に体を震わせながら彼に言った。 「…この窓、壊してぇ!」 「だめだよ。豪ちゃん…。ほら、帰るよ…」 そう言って、てっちゃんは、背中にリュック、手にはバイオリンのケースを持った、荷物ばかり多い僕を抱き抱えて運んでくれた…。てっちゃんの背中越しに見えた、閉め切ったままのカーテンを見つめて、鍵のかかった玄関を見て…閉じたままの雨戸を見て、まるで…今の彼の様だと思った… 怒らせてしまった… 僕が勝手に家出したから…僕が、見え透いた嘘を吐いたから。 怒ってしまった。 このまま、彼があの中で…死んでしまっていたらどうしよう。 僕を嫌いなまま…死んでしまったら、どうしたら良いの… 「てっちゃん…てっちゃん…行かないで…」 家に連れ帰られた僕は、僕の体を下ろそうとするてっちゃんにしがみ付いてそう言った。 布団の敷きっぱなしの部屋は、朝の混乱を伺わせる様にぐちゃぐちゃになっていた… 兄ちゃんの行動が、手に取るように分る。 書置きを破って捨てたゴミ箱を蹴飛ばして…ちゃぶ台をひっくり返した…そして、僕の部屋の少なくなった荷物を見て…惺山に助けを求めたんだ… 「…豪ちゃん、随分、家が荒れてるね…」 耳のすぐ横で、てっちゃんがそう言うから、僕は彼の首に顔を埋めて言った。 「…知らない。」 惺山を怒らせた… 仕事を終えて家に戻ったら、兄ちゃんも、きっと、僕を怒る。 もう、嫌になっちゃうよ… 「てっちゃん…ここに居たくない…」 てっちゃんの背中を撫でながらそう言う僕に、彼は何も言葉を発せず、困った様に唸るばかりだった…そんな彼の顔を覗き込んで、冗談半分、本気半分で言った。 「遠くへ行きたい…一緒に行こう?」 僕は、ただ…愛する人を助けたかっただけなのに…賭けた望みも、理解して貰えない… もう…全てが、自分を責める為に用意された物の様に感じて、大好きなあの人の事も、自分の不遇な体質も、どうでも良くなった… 惺山… 死んでしまいたいよ。 あぁ、あなたは僕の命なのに… あなたを助ける為に離れようとしたのに、こんなにも死んでしまいたいだなんて… 矛盾してるね… 「本気で言ってるの…?」 いつもより疲れた顔をしたてっちゃんは、僕の頬を撫でて首を傾げた… てっちゃん… いつも、僕を守ってくれる。お兄さんみたいな…人。 「うん…。豪ちゃん、本気で言ってる…」 僕は、てっちゃんの体にしがみ付いたまま、顔を擦り付けながらうんうん唸った。彼はそんな僕を抱っこしたまま…何も言わないで、家を出た。 見たくない現実から逃げる… お父さんがそうした様に、僕も…逃げ出すんだ。 「豪ちゃん、後ろに乗って…!」 てっちゃんは家まで僕を連れて行くと、自宅の前に停めた自転車に跨って僕にそう言った。迷う事なんて無い…僕は現実から目を背けて逃げ出すんだから、乗ってと言われたら…乗るんだ。 「う…うん!」 バイオリンを胸に抱き抱えたまま自転車の後ろに跨って、てっちゃんに抱き付いて掴まる。僕は、自転車の荷台は持たない…だって、振り落とされそうで怖いから、いつもてっちゃんに掴まって二人乗りをするんだ… 「…お?哲、何してんだ?夕ご飯出来たって…おかみさんが探してたぞ?」 そんな声を掛けて来た植木職人のおじちゃんの言葉を無視して、てっちゃんは自転車を漕いで家を出た… 「豪ちゃん!どこまで行くの…?」 頬を付けた彼の背中がそう聞いて来るから、僕は目の前を通り過ぎて行く景色を眺めながら言った。 「遠く!ずっと…遠くまで行くの!」 本日、二度目の家出… 今回はてっちゃんを巻き込んだ… きっと、僕はこっぴどく怒られる。 もし…捕まったら…の話だ。 道路をグングン進んでいく自転車と、それを漕ぐてっちゃんの背中… 空には月が昇って…そんな僕らを見下ろして笑ってるみたいだ。 「てっちゃん…満月だね?」 僕がそう言うと、てっちゃんは空を見上げて言った。 「本当だ…だから星があんまり見えないのか…」 へぇ… 満月で空が明るいと、小さな星が見えなくなる。 逆に新月に近い、空が暗い時は…キラキラと瞬く小さな星が…あたり一面に広がって… あぁ…惺山… あなたと弾いた、“きらきら星”の情景が目の中に映って…胸が苦しいよ。 とっても素敵だった…あんな事が出来るなんて、音楽って素晴らしいって思ったのに、あなたの、とっておきの笑顔が見れて…幸せだったのに… …僕は、何をしてるんだろう… 「あれ~~?今朝のお猿のお姫様じゃん!」 すぐ隣を走り抜けた黒い車が急に減速して、開いた窓から顔を覗かせた男が、にやにや笑いながらそう言った。 「あ…」 気持ちの悪い笑顔に血の気が引くと、てっちゃんのお腹を抱きしめた腕に力を込めて、強く抱きしめた。 「…ん、何だ?」 自転車と並走する車を横目に見たてっちゃんは、怪訝な表情を相手に向けながら、首を傾げた。でも、すぐに、血相を変えた。だって、窓を開けてニヤけた顔を覗かせた男が、僕に手を伸ばして来たからだ… 「豪ちゃん!椅子に掴まれ!立ち漕ぎするぞ!」 そんなてっちゃんの声と、持ち上がる背中から体を離すと、椅子に両手で掴まって飛ばされない様に体を屈めた。 「わ~!彼氏、早いなぁ~~!」 車に乗った男たちは楽しそうにケラケラ笑って、頑張って立ち漕ぎするてっちゃんの自転車の隣を同じスピードで並走しながら、僕に言った。 「お猿のお姫様の彼氏は、良い体をしてるね?毎日セックスしてるの?」 何…? 怖い… 怖い…! 「豪ちゃん!脇道に入るから、一瞬揺れるよ…!」 そんなてっちゃんの声に頷くと、再び座り直した彼の腰に抱き付いて彼が腰を浮かせるタイミングに合わせて、一緒に腰を浮かせた。 ガッタンガタガタガタ!! 凄い衝撃を受けながら遊歩道への階段を自転車で駆け降りて、振り切った車を後ろに見ながら言った。 「…何、あれ…怖いぃ…!」 「大学生だよ…。夏になると、湖の向こうの別荘に来て、水上バイクとか…マナー悪く乗り散らかして、散々問題になってる。そんな、危ない奴らだ…」 てっちゃんはそう言うと、片手を後ろに回して、僕の体を撫でて言った… 「もう、大丈夫だからね…」 「うん…うん…」 何度も頷いて、てっちゃんの背中に頬を付けながら安堵のため息を吐いた… 昔、湖の別荘に観光に来た、大学生のお兄さんに言った事がある。 …湖には入らない方が良いよって。 だって、彼の体の周りに、モヤモヤが見えたんだ… でもお兄さんは、僕の目の前で水上バイクに乗って、僕の目の前で運転操作を誤って…僕の目の前で、水上バイクの下敷きになりながら…湖の奥に沈んで行った… あの時…止めていれば良かったって、ずっと思ったいたんだ。 でも… あの時、何も話しかけないで…近付かないで…離れて居れば、良かったんだ。 だって、そうすれば、その大学生のお兄さんは、死ななくて済んだのかもしれないもの… 良かれと思ってやっていた事の全てが、全ての”死“の因子だったかもしれないなんて…皮肉だよね。 神様は…きっと、僕の事が好きじゃないんだ… てっちゃんの背中から香って来る青葉の匂いと、燻した様な匂いを嗅ぎながらそんな事を考えると、ぼんやりと流れて行く景色を眺めた。 大分遠くまで来た… この遊歩道は…もうじき終わる。湖を回る観覧船の船着き場へ行く遊歩道なんだ… 「豪ちゃん…そろそろ階段があるから、降りて…」 「うん…」 胸に抱いたバイオリンを片手で抱きしめると、自転車の後ろから降りてトントンとジャンプしながら言った。 「お尻、痛い…」 「はは…ずっと乗ってるからね…」 そう言って微笑んだてっちゃんの顔が、少しだけ不安な色を付けていた。 きっと…お父さんとお母さんの事を気にしているんだ… 今頃、帰らないてっちゃんを心配しているに違いない。 「てっちゃん…?豪ちゃん、もう…ひとりで行ける…だから、てっちゃんは帰っても良いよ?」 自転車を持ち上げながら遊歩道の階段を上って行く彼を見上げてそう言うと、てっちゃんはハッとしたように目を丸くした。そして、すぐにムッとムスくれると、口を尖らせて言った。 「…居る!お前と一緒に居る!」 「見~つけたっ!」 そんな声が真後ろから聴こえたと思ったら、僕は誰かに抱き抱えられた。 え…? 僕を見上げたてっちゃんが驚いた顔を一変させて怒鳴りながら言った。 「おいっ!何すんだぁっ!離せっ!」 「うるっせえよっ!どうする?彼氏の前でまわしちゃおっか?それとも、夜の湖の上から捨てちゃおっか?!あははは!」 真っ暗な道路…話す声の多さと、どこに誰が居るのか分からない気味悪さと、どんどんてっちゃんから遠ざかっていく事に、恐怖を感じて、暴れながら言った。 「てっちゃぁん!てっちゃぁん!」 「豪ちゃん!くそっ!」 僕に駆け寄るてっちゃんの前に誰かが立ちふさがる様に立って、右手を振り上げると…勢い良くてっちゃんが転がって行くのが見えた… 殴ってる… 「やめてぇ!ん、やめてぇっ!!」 体を揺らして暴れて抵抗するも、全く歯が立たない。すると、僕を抱えた人が車の中に僕を押し込んで言った。 「…彼氏が殴られるのが嫌だったら…お兄さんたちと仲良く遊ぼう?」 は… 「ほらぁ!お猿のお姫様…こっちにおいで!」 誰かがそう言って僕のリュックと、バイオリンを車の外に放り投げた… ガシャンと酷い音がして…目の前が真っ暗になって…彼のバイオリンが、壊れた事を知った。 「うわぁ~!せいざぁん!せいざぁん!」 「うるっせえ!」 右の頬を殴られて項垂れると、後ろの誰かに羽交い絞めにされて、タンクトップを捲り上げられた。 「はぁ~~~~?!なぁんだ!こいつ、男じゃん!!」 そんな声と共に、頭を小突かれて体を蹴飛ばされた… こんな奴ら…死ねば良いのに…どうして生きてるんだろう。 「豪ちゃん!この野郎!あの子を放せっ!!」 てっちゃんの怒鳴り声が車の外から聴こえて…ケラケラ笑う男たちの声にかき消されて消えて行く… 「…はは、男でも良いよ。こんなに可愛いんだ。ちっぱいの女だと思えば良いだろ?」 後ろから羽交い絞めにして来た男はそう言うと、僕の胸を撫でながら首に顔を埋めて、汚い息を吹きかけた… 「まじか~…俺は無理だ。」 「お猿のお姫様じゃなくって…ジョージだったのかぁ…ま、いっか…」 次々と車に乗り込んでくる男の背後で、道にうずくまって倒れたてっちゃんを見つけると、大粒の涙を落として言った。 「てっちゃぁん…てっちゃぁん…!」 「ホモだちなのかな…?てっちゃんとジョージはホモだちなのかな…?」 そんな言葉を投げつけてへらへら笑う男は、僕のズボンを掴んでズルズルと脱がせていく。 「…ん、いやぁ!止めてぇ!」 体を捩って嫌がると、誰かが僕の髪を掴んで顔を持ち上げた…そして、ニヤニヤ笑う白い歯を見せて、気持ちの悪い声を出して言った… 「この子…ジェンダーフリーなのかな?なんか女の子をレイプしてる気になって来る…」 「あはは…!顔は女でも飛びぬけて可愛い顔してる。ぶっちゃけ、フェラだけでも良い。」 そう言った誰かはズボンのチャックを下げると、中から自分のモノを取り出して、僕の口の中に無理やり入れた… 「ん~~!ん…んんっ!!」 頭を押さえつけられて、無理やり口の中で動き始める誰かのモノに顔を歪めると、体を撫でる誰かの手つきに鳥肌を立てて怯えた。 気持ち悪い…!! 「ほらぁ…お兄さんがここを、うんと、気持ち良くしてあげるよ~?」 誰かがそう言って僕のモノを手で撫でて扱き始めて…気持ちが悪くて、足が震えた。 「んん…やらぁ…!」 「ほらぁ!もっとしゃぶれよっ!馬鹿ちんがぁ!」 頬を引っぱたかれて口から汚いモノが抜け出ると、僕は歯を食いしばりながら必死に抵抗して、股の間の人を足で思いきり蹴り飛ばした。 「おおッと…!さすが、男の子だ!もう、薬使っちゃおうぜ、面倒くさいから…!」 誰かがそう言って、僕の口を無理やり開けると、ラムネみたいな物を放り込んで口を押えて言った。 「飲んで!豪ちゃん!」 「てっちゃんの前で、いつもより乱れた所を見せてあげようよ!」 これは飲んだらダメな物だ… でも、口の中でどんどん溶けていって…唾液と一緒に喉の奥に垂れて落ちて行く… 「んん…んん!ん~~!や、やぁだぁ!」 再び僕の足の間に体を入れて、誰かが僕のモノを口の中に入れてしゃぶり始めると、気持ち悪くて体を捩って嫌がる。 そんな僕の髪を掴んだ誰かは、再び強引に口の中にモノを入れて、グリグリと頬の内側に擦り付けた。 「てっちゃんのおちんちんをペロペロするみたいに、上手にするんだよ?」 …惺山… 僕は馬鹿をやったみたいだ… てっちゃんを巻き込んで、こんな目に遭って…知らない男に、体を汚されてる… 「あぁ…見て?勃起してる。豪ちゃんはエッチだね?気持ち良いの?」 股の間の男がクスクス笑ってそう言った…それを見ていた誰かが、同じ様にケラケラ笑いながら言った。 「彼氏としてんだろ。あいつさ、強ええんだよ。殴られたけど、いっぱしに腰の入ったパンチすんの、田舎の子供は怖いね?性は乱れてても、腕っぷしが良いんだ。」 「堪んない…挿れちゃおっかな…」 そう言って僕の口の中のモノを取り出した誰かが、おもむろに僕の足の間に入って、お尻を触って言った。 「豪ちゃんは…彼氏と本番してるの?それとも、フェラだけしてあげてるの?」 「はぁはぁ…や、やめてぇ…」 体に力が入らなくなって、弱々しい声で嫌がる事しか出来なくなった。そんな僕に、再び誰かが髪を掴んで、自分のモノを口の中に入れ始める。 「コンドーム、コンドーム!」 「マジか…マジで挿れるのか…!」 体の中に知らない誰かの指が入って来ると、背筋が緊張したみたいに反り上がって、体中が得も言われぬ快感で一杯になった。 「ん~~!」 「すっげ…めちゃめちゃ気持ち良さそうじゃん…!この子、ここ…やり慣れてる!」 「なぁんだ、豪ちゃんはてっちゃんとそんな事までしてたのかぁ~!あぁ~、いけない子だね~?ませてんだ。はっはっは!」 耳に聴こえてくる最悪な声を聴きながら、意に添わなくてもビクビクと感じる体に嫌悪感と…あの人の体の温もりを思い出して…涙が止まらなくなる。 惺山…どうしてこんな事になったんだろう… あの時、大人しく…あなたに謝れていたら、知らない男たちにこんな酷い事をされずに済んだのかな…? あなただけの温もりしか知らないまま、居られたのかな… 「豪ちゃん…気持ち良さそうだね…?これなら心置きなく遊べるよ…?そうだろ?」 僕の中にグイグイと勃起したモノを入れながら、口元を緩ませた男がそう言った… 「ん~~~!んふぅ!んんっ!ん…んん!!」 奥まで一気に押し寄せてくる圧迫感に顔を歪めて、知らない男の知らない動きで、汚くなっていく自分が最悪に思えて、誰かのモノを口の中に入れたまま泣いた。 「あ~…気持ちいい…!」 「すっげ…なんか、めちゃくちゃエロイな…?」 大きな手で腰を掴まれながら、ズンズンと押し寄せてくる快感に体を捩らせて、必死に嫌がって呻いた。 「豪ちゃんの乳首可愛いね…?お兄さんが、ペロペロしてあげる。」 「ん、いやぁ!やぁだぁ…あっああ!らめぇ!んん…はぁはぁ…だめぇ!やぁん…」 「ぐがっ!」 ガキィン… 鈍い金属音が車内に響いた。 男が頭を抑えて倒れたのを横目に見る僕に、覆い被さって来た男がケラケラ笑いながら言った。 「豪ちゃんの彼ぴっぴが怒った~~!」 「ん、なろっ!クソガキがっ!」 息まいた下半身を出した男たちが一斉に車を降りて行く。そんな中、僕の中を犯し続ける男はニヤニヤ笑いながら言った。 「大人のちんちんの方が気持ち良いだろ…?ん?さっきから…何回もイッてるよ…?可愛いね…豪ちゃん。クスリが無くても…これならアナルファックでイケちゃうね?どうすんの…こんなに、可愛くてエッチじゃあ…田舎の男、みんなゲイになっちゃうよ。ははは…!」 ガキィン… 見上げていたヘラヘラ顔の男の後頭部に鉄の棒が当たって…僕の中からあいつのモノが出されると、何も出来ないで…ただ、呆然と車の天井を見上げたまま…死にたいって思った… 「あぁ…!!豪ちゃぁん!」 泣き声を出しながら僕に駆け寄ったてっちゃんが、服を直してくれて、僕を車の外に抱きかかえながら、連れ出した… 道端には、頭を抑えて呻いてうずくまる男が散らばっていた… きっと、てっちゃんがどこからか持って来た鉄の棒を振り回して、やっつけたんだ。 「豪ちゃん…ごめん…ごめんね…可哀想に、可哀想に…!!俺が弱いせいで、お前が…酷い目に遭ってしまった…!!」 そう言って涙をボロボロと流すてっちゃんを、フラフラの頭で見つめ続けると彼に項垂れて倒れ込んだ。 「豪ちゃぁん…!!」 そんな僕を抱き抱えて、放り投げられた荷物を肩に掛けると、てっちゃんは黙々と歩き始めた… 「てっちゃ…気持ち悪い…」 「うん…うん…ひっく、ひっく…!」 体に入れられた薬のせいか…山道の街灯が、やけに眩しく見えて…瞳を閉じた。 夜風が頬を撫でて行くのに、いつもの様な気持ち良さなんて感じなくて、ただ…自分がとんでもなく汚いものになってしまったと…漠然と理解して、思考を止めた。 …惺山、会いたいよ… 泣きじゃくりながら僕を抱き抱えたてっちゃんは、どこかの施設にやって来た… 「…豪ちゃん、ここで少し休もう…」 地面に下ろされて頷いて答えると、てっちゃんが僕のリュックから、がま口の財布を取り出して言った。 「…一万円…」 大金だよ…てっちゃん… 「てっちゃ…気持ち悪い…」 財布の中を見つめて固まるてっちゃんにそう言って、彼の胸に顔を埋めた。 「横になりたい…」 「あぁ…そうだね…」 僕の荷物を肩に掛けて僕を抱き抱えたてっちゃんは、ドアを開いて中に入った… ガチャリ… 施錠にしては重々しい音を響かせてドアが閉まった。クラクラする様なピンクの照明が付いた部屋の中をフラフラと進んで、丸いベッドに突っ伏した。 最悪だ… 気持ち悪い男に、体を好きにされた… 「…てっちゃん、怪我した…?」 ふと我に返って、てっちゃんを見上げてそう尋ねると、彼は未だに泣きじゃくりながら僕を見下ろして言った。 「豪ちゃん…ごめんね…ごめんね…」 「謝らないで…。悪いのは、僕なんだ…。てっちゃんを巻き込んで…こんな怖い目に遭わせてしまった…。きっと、きっと…みんな心配してる…ごめんなさい。てっちゃん…僕を許して…」 抱き付いたてっちゃんは、僕が酷い目に遭ってしまった事を悲しむ様に、体を小刻みに震わせていた…でも、どうしてか…僕は、涙なんて出ないんだ。 ただ、淡々と…自分の身に起きた事を考えて、打ちひしがれる思いで、後悔してるだけ…それも、これも、変な薬を飲まされたせいかもしれない… ふと、目に見えた備え付けの紙に書いてある文字を読んで気が付いた… 「…ピンクゴジラ…」 そう、それは町からの帰り道…ピンクのゴジラが手を動かすネオンを見て、惺山に聞いた”ピンクゴジラ“と同じ名前だった… 惺山…会いたいよ… フラフラとてっちゃんから離れて、リュックと一緒に置かれたバイオリンのケースを開いた。そして、弦が飛び散った角の折れたカブトムシを見て、項垂れて、絶望した… 壊れた… 彼のバイオリンを壊してしまった… 「…どうしよう…どうしよう…どうしよう…どうしよう…」 口元に指をあてながら何度もそう言うと、後悔なんて言葉じゃ追いつかないくらい…自分の行動に嫌気がさして…自分の頬を引っぱたきながら言った。 「何してんだよっ!…お前はっ!何してんだよっ!!彼の…彼の、大事な物を壊して…!!クソッタレがぁっ!!何が生きて欲しいだよ…っ!何が、愛してるだよっ!彼を怒らせて…彼から貰った…大切な物を壊したぁ…!大嫌いだ…大っ嫌いだ!人殺しで、嘘つきで、どうしようもなくって…あの時、死んでいれば良かったのにぃっ!!」 「豪ちゃん…!!」 取り乱して頬を引っぱたきまくる僕の手を止めると、てっちゃんが強く抱きしめながら言った… 「豪ちゃん…豪ちゃん…大丈夫、落ち着いて…」 最悪だ… 最悪だ… こんなの…最悪だ… クラクラする頭をてっちゃんに預けて、涙を流しながら言った… 「てっちゃぁん…僕は、嘘を吐いて来た…君にも、清ちゃんや大ちゃん、晋ちゃんに、嘘を吐いて来た…。僕は、もうじき死ぬ人が分かるんだ…。だから、その人の傍に居て…何とか、助けようとして来た…。そのつもりだった…。その…つもりだったんだぁ…!!」 おんおんと泣きながら彼を見つめて、青くなってしまった頬を撫でて、瞳を歪める。 「僕は…お父さんが言った様に…”悪魔”なのかもしれない…!!だって、僕と兄ちゃんを置いて、お父さんが出て行ったあの日…僕はあいつに言ったんだ…。お父さん、もうじき死ぬよって…でも、でも、でも…!生きていた!!あいつの体の周りに…もうじき死ぬ人に纏わり付く、モヤモヤが見えていたのに…!!昨日会った時は、綺麗に消えてなくなっていたんだ!!どうして…どうしてぇ…!」 ボロボロとこぼれて落ちる涙をそのままに、呆然と僕を見つめるてっちゃんを、ただ、縋るように見つめて言った。 「あいつと同じ様に…僕から逃げれば、彼だって死なずに助かるかもしれない…。なのに、彼は…、彼は…離れようとしなかった…。てっちゃんまで、こんな酷い目に遭わせて…本当、最悪だ…。僕と関わると…ろくな事が無いね。本当…どうして産まれて来たんだろう…どうして、生きているんだろう?!」 もう…どうしようもない…もう、何も…出来ない… もう、苦しみたくない… てっちゃんの顔を見つめたまま呆けて、もう、無駄な思考を止めたいと思った。 「豪ちゃん…それじゃあ…おっさんも、もうじき死ぬの…?」 「そうだよ…死ぬんだ。僕から離れない限り…いつ死ぬのか、どうやって死ぬのか、分からない。今も…こうしてる今でも、彼が死んでしまうんじゃないかって…怖くて怖くて、堪らない…!初めて…初めて、僕の事を話した人…初めて、本当の僕を、見せても良いって…思えたあの人を失うのが怖いんだ…!!」 そう言って震える声で泣き喚くと、てっちゃんの胸に抱き付いてやり場のない思いを泣き声に乗せて…体の外に吐き出した… 彼を失う恐怖を…これ以上、味わいたくないんだ。 彼が死んでしまう恐怖から、逃げ出したい… 彼が…冷たくなるなんて…死んでしまうなんて…考えたくない。 壊れたバイオリンを見つめながら、彼の大事な物を大切に出来なかった…守れなかった自分が、ほとほと嫌になって…唇を噛み締めて…死んでしまいたいと強く思った。 「うっうう…せいざぁん…ごめんなさぁい…ごめんなさぁいぃ…!!」 あの時、こうして謝れていたら…嘘なんて吐かないで、自分の意思ばかり主張しないで…彼の話を聞けていたら…未来は違かったのに。 今頃…交響曲を作曲し始めた彼に…夜ご飯を食べさせてあげていたのに。 何してるんだろう…僕は… 「豪ちゃん…とりあえず、今日は風呂に入って寝よう。あんな事をされたんだ…きっと、動揺してる…。ね…?」 僕の顔を覗き込んだてっちゃんは、そう言って僕の髪を撫でた… あんな事… あぁ、当然の罰だ。 自分一人で何とかしようとした結果…てっちゃんにまで怖い思いをさせて、怪我を負わせた。 自分勝手で…意固地で、人の話を聞けない僕が招いた…最悪の結果だ… あの時…惺山に素直になれていたら、怖がらずに…彼の話を聞けていたら… こんなに…怖い思いなんてしなくて済んだのに… 僕なんて、自分で自分の首を絞めて、勝手に死んだら良いのに。 ガラス張りのお風呂場に入ると、服を脱ぎながら、不自然にベタベタになった体を見て、瞳を歪める… 「…フラフラする?」 てっちゃんがそう言って僕を支えてくれるから、彼を見上げて言った。 「ん…眩暈する…」 きっと、あのへんな薬のせいだ… ずっと、フワフワしている様な…ずっと、クラクラしている様な…変な気分が続いてる。 「一緒に入ってぇ…!」 「えぇ…?!嫌だよ…!」 嫌がるてっちゃんの作業着を脱がして行くと、殴られたのか…赤くなってしまった彼の腹筋を撫でながら言った。 「てっちゃん…痛い…?」 「…痛くない。」 どうしてかな…なんだか、無性に触れていたいんだ。 「これは…痛い?」 そう言いながらてっちゃんを見上げると、もう片方の胸に付いた赤い痣を押して撫でた。 「…豪ちゃん…」 そう言った彼の唇を見つめると、中から出てくる息を吸い込んでしまいたくなる… 「てっちゃん…キスしても良い…?」 「豪ちゃん…ダメだよ…きっと、きっと、動揺してるんだ…離れた方が良い…」 瞳を歪めてそう言うてっちゃんに口端を上げて、僕は彼の股間を撫でながら顔を見つめて言った。 「…なぁんで?」 どんどん大きくなって行くてっちゃんの股間を撫でながら、彼の胸に顔を埋めると、惺山と違う男の肌に…舌を這わせて言った。 「気持ち良いのに…したら良いのに…豪ちゃんは嫌じゃないのに…」 「豪ちゃん…!」 そう言って僕を押し退けて、てっちゃんは涙を流しながら言った。 「やめろよ…こんな事、するなよぉ!」 彼は…嫌がってる… 僕の事を…軽蔑して、汚いものを見るような目で見て、拒絶した… あぁ… 僕は… 優しいお兄ちゃんの、心を、傷付けてしまったみたいだ。 「変な薬を飲んでしまったから…」 ポツリとそう言って、てっちゃんから体を離すと彼を横目に見て言った。 「ひとりで入る…」 きっとその方が良いって思った… 何故か…てっちゃんの体が無性に堪らなく、欲しくなってしまうんだ。 きっと、変な薬を飲まされたせいだ… それとも…僕は、大好きな惺山以外の人にも、簡単に体を求めてしまう様な…そんな性質を持っているのかな。 つくづく…最悪だ。 「最悪だ…」 シャワーで体を流しながら、何度もそう言って…涙を流す。 石鹸で洗っても…舐められた感触や、触れられた感覚を思い出して、自分のモノが反応するのを見つめて、蔑んだ瞳で絶望する… 惺山…あなたに、会いたい…僕を抱いて。僕を好きだって言って。 僕だけを見つめて、僕の中で、僕だけを気持ち良くして… あなただけの…僕で居たかったのにな…バカやっちゃった… 「うっうう…うう…せいざぁん…せいざぁん…!!うう…うっうう…僕を助けてよぉ…どうしたら良いのか、分からないんだ…分からない…助けて、助けて!」 体に力が入らなくなってへたり込むと、頭に打ち付けるシャワーをそのまま浴び続けて項垂れて…震える手を見つめて言った… 「助けて…惺山…僕を、僕を…助けてよぉ…!」 あなたの両手に抱きしめられて、あなたの声を一番間近に聴いて、あなたの体の温もりで、全身を温めて貰って…安らぎたい… 突っ伏した浴室の床にシャワーが打ち付けるのを見つめながら、力なく瞼を落とした。 ただ、彼の…ピアノが…聴きたい。 「豪ちゃん…?豪ちゃん!」 体を揺すられて目を開くと、目の前に白いカーテンが閉じられた窓の格子が見えた… 恐る恐る顔を上げると、僕を呼び続けたのか、呆れた顔を僕に向けた…てっちゃんがため息をひとつ吐いた。 「…てっちゃん…?」 どこも怪我をしていない彼を見つめると、涙がポロリと落ちて頬を伝って落ちた… 夢…だったの… それにしては…リアルだったし、とても…怖かった… ぼんやりとする僕を見下ろしたてっちゃんは、やれやれと肩をすくめて言った。 「豪ちゃん…そんな泣かなくても、あのおっさんなら…豪ちゃんが謝ったら許してくれるだろ?大ちゃんが言ってたよ?怒ったおっさんに、豪ちゃんが謝りもしないで、馬鹿とか…間抜けとか…言ってたって。はぁ…、それは…流石に良くないよ…」 あぁ…そうだね。そうだよね… 「うん…」 そう言って頷くとヨロヨロと立ち上がって、カーテンの向こうの彼に言った。 「…惺山、ごめんなさい…また、明日来ます…」 てっちゃんが差し出した手を見つめて握り返す事を躊躇する僕に、彼は怪訝な顔をしながら僕の手を掴んで言った。 「何してんの…ほら、帰るよ…」 帰る… その声が…その言葉が、やけに嬉しくて…心が震えて痛くなった。 「うん…帰る…」 背負ったリュックと、手に持ったバイオリンを抱きしめながら、自分の家までてっちゃんに送って貰って、彼に手を振って言った。 「あ、ありがとう…てっちゃん。」 「ん~!」 いつもの様にそう言って帰って行く彼の背中を見送りながら、これが…夢なんじゃないかと不安になって、頬をつねった。 「…痛い…」 夢の中では痛みは感じない、なんて言うけど… さっきまでの胸の痛みを抱えたままの僕は、いったい…何を見ていたんだろう。 これも…感受性が成せる業なのかな… それとも… 玄関を開いて部屋の中を見て、夢で見たままの荒れぷりに…ゾッとした。 「…あの時と同じ…ゴミ箱が倒れていて…ちゃぶ台がひっくり返されて、僕の部屋が…荒らされている…はっ!」 思い出した様にバイオリンのケースを開いて壊れていない彼のバイオリンを見つめて、押し寄せて来る感情のままに、ボロボロと涙を落として言った。 「あぁあああ…!良かったぁ…!!良かったぁ…!!」 彼の大切なバイオリンが壊れていなかった… 僕の、命よりも大切なバイオリンが…壊れていなかった…! まるで固まってしまったかのように胸にバイオリンを抱き抱えたまま、しばらく動けないで放心した。すると、そんな僕の事なんてお構いなしの様に…家の裏からいつもの様にジョボビッチの鳴き声が聞こえて、嬉しくて…口元を緩めてほほ笑んだ。 あぁ…帰って来たんだ… 裏返しになってしまったちゃぶ台を直して、ごみ箱を元に戻した。そして、敷きっぱなしの兄ちゃんの布団を畳んでしまうと、仏壇の前に座って優しく微笑み続けるお母さんに言った。 「…とても、怖かった…。あんな思いしたくない。ねえ、お母さん…。僕に、未来を見せてくれたの…?意固地になったまま…彼の話を聞かないで迎える未来を…見せてくれたの?だとしたら…効果覿面だ。僕は、もう…あんな馬鹿な真似はしない…。」 光が無ければ影が無い様に…僕は、最悪の未来を見せつけられなければ、今が幸せだと気が付けなかった… 僕は、愚かだった。 どうしてかな…あなたが僕に教えてくれた。そんな気がするんだ… ケースから取り出したバイオリンを首に挟んで、弓を右手に持った。 姿勢を正してじっと耳を澄ますと…彼のピアノが耳の奥に聴こえて、口元を緩めてほほ笑みながら弾き始める。 “愛の挨拶”… お母さんに、心を込めて送るよ。僕の大好きなこの曲を… あなたの顔も、あなたの声も、あなたの温もりも知らないけど…でも、僕を愛してくれているって…痛い程に、苦しい程に、分かってる。 自分の命と…引き換えに、僕をこの世に産み落としてくれたお母さん… 理解されなくて生き辛くても、僕は、生きているからこそ…最愛の人に巡り合う事が出来たんだ。 どうして僕を生んだの…?なんて、言ってごめんなさい… そして…馬鹿な僕を、諭してくれて…ありがとう。 そんな思いを音色に乗せて…お母さんを見つめて、涙を落としながら…バイオリンを弾いた… この涙は…悲しみの涙じゃない。 嬉しいんだ… お母さんの愛を感じて、嬉しくて…涙が零れて来るんだ… 最期まで弾き終えると、弓をゆっくりと外してお母さんにペコリとお辞儀をした。 「綺麗でしょ…?彼のバイオリン…。高校生の時から一緒なんだって…ふふ。そんな大切な子を貰ったんだ。大事にしなくちゃダメなんだ…。」 仏壇にそう言いながら、バイオリンを布で綺麗に拭いて、弓に松脂を塗りながら言った。 「…彼との演奏を、お母さんにも聴かせてあげたかった…」 優しく撫でる様な彼のピアノと、僕のバイオリンの旋律が、ひとつの曲を作ったんだ。それは、僕が思っていたよりも…ずっと、ずっと…素敵な時間だった。 お互いの瞳を見つめたまま…愛を語り合う様に、甘くて、濃い…そんな一曲を弾き上げたんだ。 それは、きっと…彼以外の人とは出来ない事。 僕には惺山しか…居ない。 お母さん、彼が僕の…唯一無二の、愛する人だよ。 バイオリンを仏壇の前に置いて、リュックの中にまとめた荷物を自分の部屋に戻した。そして、籠を手に持って鶏小屋の卵と茄子を収穫する。 「豪ちゃん、さっきのバイオリン…豪ちゃんが弾いたの?」 隣のおばちゃんが首を傾げながらそう聞いて来るから、僕はにっこり笑って答えた。 「そうだよ?”愛の挨拶“って曲だよ?」 「あらぁ~~!すっごい上手で、おばちゃん…涙が出ちゃった…」 目じりを拭いながら、おばちゃんは嬉しそうに微笑んで言った。 「…何だか…無性に娘に会いたくなって来ちゃったの。不思議よね?ふふ…。素敵な曲を…ありがとう。」 え… 優しく微笑んだおばちゃんの笑顔が…今まで見て来たおばちゃんのそれと全く違くて、僕は驚いて目を丸くしたままおばちゃんを見つめ続けた。だって、とっても…幸せそうで、とっても…あったかくて…美しかったんだ。 その笑顔が、とっても嬉しかった… 自然と笑顔になっていく顔をそのままにして、おばちゃんにぎこちなくお辞儀をした。 「ど、どういたしまして…!」 「ふふふ!可愛い!」 音楽って凄いな… 僕のお母さんへの感謝の思いが音色に乗って…隣のおばちゃんに届いたみたいだ。 彼のピアノの音色の様に…僕も思いや言葉を音色に変えて相手に伝える事が出来る様になったのかもしれない…惺山はこれを情緒を込める…なんて言っていた。 収穫を済ませた僕は、勝手口から家の中に戻って、いつもの調子で炊飯器の中を覗き込んだ。手の付いていないお米は、今朝の兄ちゃんの混乱を僕に教えてくれる… 「あぁ…ご飯食べていないんだ…兄ちゃん…」 眉を下げながらそう呟いて炊飯器を閉じた… 水洗いした茄子を四等分にして、黒い膨らみに幾つも切れ込みを入れていく。 流しに置いたザルに水を張ると、アクを抜くため次々と切れ込みを入れた茄子を入れていく。 手際よくフライパンに油を敷いてコンロに火をつけた。水気を取った茄子を皮の方を下にして入れて、しばらく焼いて行く。 きっと…兄ちゃんはカンカンに怒ってる。 でも、僕はそれだけの事をしたんだ…。 …彼を失うかもしれない恐怖に負けて、ひとりで焦って、動揺して、心を頑なにして、誰にも何も言わないまま…ひとりで最悪の行動を起こしたんだ。 怒って…当然なんだ。 茄子に火が通ると、すりおろしたショウガと、出汁と醤油…みりんと砂糖を入れて、ひと煮立ちさせる…。 「あぁ…良い匂い…彼も好きかな、なすの煮びたし…」 そんな独り言をつぶやきながら菜箸で茄子を転がして、右手のミサンガを外すと怒って言った彼の顔を思い出して…眉を下げる。 「ふぅ…。惺山…ごめんなさい…」 あんなに怒った彼を見たのは、初めてだ。 きっと…とっても心配してくれたんだ…昨日も、ずっと気にかけてくれていた。 僕は、愚かだった… 愛しているからこそ、失いたくないからこそ、あなたに言うべきだったんだ。 「あぁ…惺山、ごめんなさい…僕は、怖かったんだ…。怖かったんだ…。だから、言えなかった…。弱虫の、泣き虫の…情けない奴なんだ…うっうう…」 ポタポタ落ちる涙を拭いながら火を止めて、フライパンに蓋をした。そして、鼻を啜りながらお味噌汁を作り始める… ガララ… 玄関の開く音が聞こえて、僕はすぐに振り返った…そして、真っ先に兄ちゃんの前に行って土下座して言った。 「に、兄ちゃん…!ご、ご、ごめんなさい!!」 「…」 何も言わない兄ちゃんに、両手を着いて土下座しながら言った… 「…お、お父さんに…モヤモヤが見えていたんだ。それを言ったら、僕は首を絞められた。居なくなった後…きっと、どこかで死んでいると思っていたのに…昨日、元気な姿で現れて、その時…悪魔から逃げると助かるんだって…言われて、僕は…僕は…」 「…はぁ、あの人が言った通りだな…」 ため息を吐いてそう言った兄ちゃんは、僕の頭をバンバン叩きながら言った。 「今朝…いつもの様に寝ぼけながら彼が家に来て…お前の書置きを見て暴れ回る俺に言ったんだ…。昨日から様子がおかしかったと…きっと、親父に会って…言われた事を…鵜呑みにしてるんだって…」 あぁ…惺山… 「彼の言った通りです…」 喉の奥から出る言葉が震えてしまうのは、どうしてだろう… 目から熱い涙が落ちて止まないのは、どうしてだろう… そんな事、どうでも良い… 僕は喉を鳴らしながらつばを飲み込むと、兄ちゃんを見上げて言った。 「本当は…昨日、何度も惺山に問い詰められたんだ。でも…僕は、自分が…悪魔だなんて思いたくなくて、今まで助けようと…ひっく…助けようとして来た事が、ひっく…間違いだったなんて、認めたくなくて…ひっく、ひっく…彼に言えなかったぁ…!それに…それに、惺山は…僕と離れるくらいなら…死んでも良いって…言うと思って、そう思って…えっく、ひっく…彼に相談しないで…勝手に、うっうう…勝手に、ひとりで決めて行動したぁ…」 「それで…どうなった…」 悲しそうに眉を下げた兄ちゃんはヅカヅカと家に上がって、胡坐をかいて座りながら僕を見つめた。 「…彼を怒らせてしまった…。彼の言葉も聞かないで…また、家出をしようと…嘘を吐いて、怒らせてしまった…!」 ポロポロと涙を落としてそう言うと、兄ちゃんの目の前に座り直して涙を拭って言った。 「…明日、謝ろうと思ってる…」 「今すぐ…行って来い。」 そう言った兄ちゃんは僕を見つめたまま眉を下げて続けて言った… 「とても…心配していた。俺の手前…動揺を隠していたけど、ずっと、震えていた…。反省したなら、今すぐに謝って来い!」 「うっうう…うう…うわぁぁあん!!」 胸が、とても痛い… 大泣きしながら台所まで行って、小皿に茄子の煮びたしを取り分けてサランラップを掛けた。そのままバイオリンと一緒に手に抱えて玄関に向かうと、兄ちゃんを振り返って言った。 「ごめんなさい…ありがとう…行ってきます。」 「…おう…」 こちらも見ずにそう言った兄ちゃんに、ペコリと頭を下げて玄関を出た。そして、止まらない涙をそのままにして、彼の元へと走って向かった。 惺山…ごめんなさい…ごめんなさい…僕を許して… 臆病で、わがままで、自分勝手で、弱虫で、泣き虫で…どうしようもなく意地っ張りな僕を許して…! 鍵がかけっぱなしだった彼の家の玄関をすぐに諦めて、庭に回って雨戸を覗いて見る…。でも、閉じられたままの雨戸は、中の様子を伺わせてはくれなかった。 「…惺山…」 彼の名前をポツリと呟いて肩を下げると、思い出した様に顔を上げて急いでピアノの部屋のテラスへ向かった。 オレンジの明かりが漏れるテラスは、カーテン越しに揺れる彼の影を落としていた。 「惺山…!」 窓の前に来たは良いものの…どうしたら良いのか途方に暮れて下唇を噛んだ。 どうしよう…どうしたら、良い…?なんて言おう、なんて… コンコン… 思うより先に体が動いて…いつの間にか窓をノックしていた。 「惺山…惺山…ごめんなさい…」 夜の暗闇の中…窓に向かって話す僕を、彼のピアノの部屋から漏れた明かりは優しく包み込んでくれるのに、彼は何も答えないまま…僕の言葉を無視し続けた。 …彼がこんなに怒ってしまった理由を、僕は知っているんだ。 俺にだけは、本当の事を言って良いんだよ… そう言った彼の言葉を、無視して、無碍にしたからだ。 僕の口から紡いで吐き出す言葉は、嘘ばかりだ…って、彼は怒ってるんだ。 そうだね…僕は嘘つきだ。 でも、あなたの前では、僕はありのままの自分で居られた。 そんな大切な人の差し出してくれた手を払い除けてしまったのは、僕の弱さだ… 弱さゆえに嘘を吐いて、あなたの信用を失った僕は、どうやってこの気持ちをあなたへ伝えたら良いの…?口から紡ぐ言葉以外に、どうやって…伝えたら良いの…? 心の内の真実だけを、あなたに伝える事が出来たら良いのに… 手に持った茄子の煮びたしをテラスの上に置いて、バイオリンをケースから取り出した。そして、美しく姿勢を直してバイオリンを首に挟んだ。 「…これが…僕の気持ちです…」 右手に構えた弓を優しく弦に置いて、瞳を閉じて弾き始めたのは“シシリエンヌ”… この曲が好きで…何度もピアノで弾いて貰って…耳で覚えた。 それを、大好きな彼に…心を込めて贈ります… 愛しています… ただ、傍に居ると…あなたを殺してしまうかもしれない。 僕はそれがとても怖い… もし、あなたが生き続ける希望があるのなら…全てを捨ててでも、それに賭けたかった。 でも…僕は間違っていたみたい… 僕があなたを愛しているのと同じ様に…あなたも僕を思っていてくれるという事を、蔑ろにしてしまった。そして、あなたが何度も差し出してくれた手を、払い除けてしまった… 恐怖に負けて…我を忘れて…周りが見えなくなってしまっていた… どうか…この美しい旋律よ、この後悔する思いを…音色に乗せて彼に届けて。 誰かの弾いた”シシリエンヌ“じゃない… これは、僕の…”シシリエンヌ“だ。 愛しい人に…胸の奥の思いを乗せて奏でる、僕だけの”シシリエンヌ“… いつの間にか聴こえて来た彼のピアノの音色は、僕のバイオリンの音色を優しく包み込んで、重くて暗かった音の色を、透き通った美しい色へと変えて行ってくれる。 不思議だね…あなたの音色を聞くと、とても…安心する。 「惺山…ごめんなさい…僕を許して…」 弦を指で弾きながらピチカートをして、水の上を走り抜けて行く様な音色を紡ぎ出すと、伸びやかな旋律に身を任せて…曲を弾き終えた… 目の前のカーテンが開いて…弓を下した僕の目の前に、彼が見えた… 目の下を真っ赤にした彼を見つめてバイオリンを首から離すと、開いた窓から…彼の胸に顔を埋めて、彼の温もりを感じながら言った。 「…ごめんなさい…僕を許して…怖くて、我を失っていた…。どうかしていた…後悔してる。どうか…許して…惺山…」 彼の匂いと、彼の温かさと、僕を抱きしめてくれる彼の両手を感じて、堪らなく嬉しくて…涙がポロポロと落ちて、口元が緩んで行く… 夢でも…あんな怖い未来を見せつけられないと、僕は素直になる事が出来なかった…これは、僕の悪い所だ… もっと…早くに、彼に謝れていたら…話す事が出来ていたら…良かったのに。 本当に…馬鹿だった。 「シシリエンヌが弾ける様になったの…?」 頬を付けた彼の胸が震えてそう言った… 「…うん。」 そう言って答えると、バイオリンを持ったまま彼を抱きしめて彼の体に埋もれていく… それは、まるで…僕の居場所の様に…落ち着いて温かくて、安らいだ。 「惺山…ごめんなさい…」 「…分かってる。」 彼の言葉と一緒に、彼の優しい手が僕の頭を抱きしめて…優しく撫でてくれて、全てを包み込む様に体中を覆い被して行く。 あぁ…あの夢がとても怖かったんだ… 僕の、有り得る未来がとても怖かった。 でも… そのお陰で、僕は…今、こうしてあなたに触れる事を、とても幸せに感じるんだ。 「交響曲を…書き終えるまで、傍に居たい…」 彼の胸に唇を付けたまま、そう言った。 安心したのか、体中の力が抜けて、彼の中に溶けて行ってしまいそうなんだ。 「…豪ちゃん、俺を助ける為に遠くへ行こうとしたんだね。でもね、俺はお前のお願いには弱いんだ…。だから、わざわざお前が遠くに行かなくても、喜んで遠くに行ってあげるさ。」 惺山は、大きな手のひらで僕の頬を撫でると、顔を覗き込んでそう言った。僕は、彼の赤くなってしまった目じりを指先でそっと撫でて、彼の瞳を見つめて言った。 「…確かに、あいつにはモヤモヤが見えていたんだ。だけど、僕から離れたら…消えてなくなった。…これはぐうの音の出ない事実だよ…。」 そんな僕の言葉に悲しそうに眉を下げて頷いた彼は、そっと優しいキスをくれた。 「お前が怖い様に…俺も怖いんだ。離れた後…もし、死んでしまったら。きっと、お前は酷く後悔して、大げさかもしれないけど…生きる事を止めてしまいそうな気がして、怖いんだ。」 …大げさなんかじゃない。 あなたが死んだら、僕も死ぬ事でしょう… 「…豪ちゃん。俺のわがままを聞いて。交響曲が書き終わるまで…傍に居てくれ…。俺の世話をして…俺に、ご飯を食べさせてよ…」 大好きな彼の腕の中で優しく抱きしめられて、彼の声を一番前で聴いて、彼の耳に聴こえる音を一緒に聴いて、彼の奏でる言葉の様なメロディを一番初めに耳に出来る。 それが、あなたのくれる僕への愛なら…命を賭してでも与えたい愛なら… 僕は、喜んで受ける。 「もちろんだよ…惺山…」 彼の体に纏わり付いて離れないモヤモヤを見つめながら、諦めでもなく…拒絶でもなく、ただ…ありのままの状況を受け入れて、穏やかな気持ちのまま瞳を閉じた。 運を天に任せる…そんな言葉に願をかけて、あなたの傍にいる選択をしよう。 「あ~んして?」 「…あ~ん、モグモグ…おいひい!」 ピアノに座ったままの彼の口に、茄子の煮びたしを一口に切って運んであげると、パクッと口に入れた彼が満面の笑顔で僕を見下ろして喜んだ。 こんな…他愛もない時間の他愛もない幸せが、僕のこれからの糧になる。 だから、あなたが遠く離れて行っても、大丈夫なんだ。 「小松菜が育って来たから、明日は小松菜のお味噌汁を作ろうかな…」 そう言いながらお米を箸で掴むと、彼の口に運んで言った。 「あ~んして?」 「あ~ん…モグモグ」 可愛いな…惺山… こんなに大人なのに…こんなに格好良いのに…こんなに胸がドキドキするのに、無防備で、だらしなくて、甘えん坊で…可愛い。 人はこれを…ギャップ萌えとでも言うんだろうか… 彼しか勝たん…なんて、この人を見てると…そんな言葉ばかり頭の中を駆け巡るんだ。 「ごちそうさまでした…!」 両手を合わせてそう言うと、彼は僕に顔を向けて言った。 「豪ちゃん…キスして…」 あぁ…!もう…!! 「ん、もう…」 顔と耳を熱くしながらデレた僕は、大好きな彼の肩に両手を置いてキスをした。 そんな僕の腰を抱きしめると、彼は甘えるみたいに僕の胸に顔を埋めてグフグフ言い始めた… …可愛い… 「“シシリエンヌ”の次は…何を覚えようか…?」 僕の胸の中で彼がそう聞いて来るから、彼の襟足の毛を指に絡ませながら言った。 「…さあ、僕は何も知らないもん。」 …そう、彼が教えてくれる曲しか知らないし、彼が教えてくれる曲が、好きなんだ… 「また教えて…」 そう言ってギュッと抱きしめると、グフグフ笑いながら彼が言った。 「…分かった!」 あぁ…良かった…彼と仲直りが出来た。 本当に、良かった… 恐怖に我を忘れてしまうのは僕のいけない所だ。 危うく怖い未来を辿って行く所だった… 「変な夢、見たことある…?」 手を繋いだ彼にそう聞くと、惺山は満月を見ながら首を傾げて言った。 「たまに…」 へぇ… 「どんな…?」 彼の顔を仰ぎ見てそう尋ねる僕に、彼はクスクス笑いながら言った。 「ターミネーターに…追いかけられる夢。飼っていた猫が外に居てさ、慌てて抱きかかえながら玄関に入って、ターミネーターが居なくなるのを息を潜めて待つんだ…」 ターミネーター…? 「それって…宇宙人?」 僕の言葉に吹き出した彼は、ケラケラと笑いながら言った。 「違う!未来から来たロボットだ!」 え…?! 「怖い…」 宇宙人は非現実的だ…でも、ロボットはあり得る未来。無きにしも非ずな未来だ… 彼の腕を掴んでギュッと抱きしめながら、頬ずりして言った。 「もっと…楽しい夢は無いの?」 「あるよ…」 即答した彼は、おもむろに真上に登った月を指さして言った。 「月から階段が降りて来て、ひたすら上って行く夢だ…!」 えぇ…? 「…怖いじゃん…」 手すりも無いのにひたすら高い場所を登って行くなんて…恐怖でしかない。 惺山の感覚は、少し…変わってるみたい。 「怖くない。だって…月に歩いて行けるんだよ?」 ケラケラ笑ってそう言うと、僕の家の玄関をノックして彼が言った。 「行けないと思っていた所に、案外、簡単に行けると分かって…嬉しかったんだ。」 へぇ… 「ふふ…可愛らしい人…」 目じりの下がった笑顔で僕を見下ろす彼に、飛び切りの笑顔を向けてそう言うと、玄関を開いて目の前で仁王立ちして僕を見下ろす兄ちゃんに言った。 「…兄ちゃん、ちゃんと謝る事が出来た。ありがとう…」 「…お、おぅ…」 「ありがとう。惺山、また、明日ね?」 いつもの様にそう言って、彼がにっこりと微笑んで踵を返した背中を見つめる。 明日も…会える。 あなたを失う恐怖がなくなった訳じゃない。 あなたを心配して不安に駆られない訳じゃない。 今すぐにでも離れてしまいたい気持ちはそのままだけど、でも、僕は…あなたが命を賭してでも僕に与えようとする愛を、受け取る事にしたんだ。 …それに、夢でもあんな怖い思いを経験した僕は…しばらくの間、あなたと離れるなんて考えられないくらいに、怖くて、ビビってしまった… 玄関の扉を少しだけ開いて彼の後姿をじっと見つめ続ける…そんな僕の視線に気が付いたのか…彼が振り返って僕を見た。 そして、いつもの様に心配そうに微笑んで手を振って来る彼を見つめて、僕はいつもと違う…満面の笑顔で、手を振り返した。

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