32 / 55
#24
コンコン…
背後からのノックの音に気が付くと、ピアノの音色の余韻が消えてから振り返った。
「あぁ…小林先生…」
そう…ピアノの部屋のテラスに居たのは、豪ちゃんの兄貴の…彼女。
小林先生だった。
彼女は胸に手を当てて、瞳を潤ませながら俺を見つめていた…
怖い…
そう思ったけど、仕方が無いから…窓を開いて用を伺った。
「どうされましたか…?」
「惺山先生…!”亡き王女のためのパヴァーヌ“…素敵でした…!!胸がキュンキュンして…あぁ、恋に落ちそう…!恋に落ちたぁ!恋に、今、落ちたぁ!!」
怖い…豪ちゃん、助けて…!!
ハッスルする小林先生が怖くて窓を少しだけ閉じると、離れた所からもう一度聞いた。
「…何か、御用ですか…?」
「…はっ!先日の…お礼を兼ねまして、こんな物を手土産に持って参りました。どうぞ…お受け取り下さい。」
小林先生はそう言うと、窓を強引に開いて、楽譜の散らばったピアノの部屋にズカズカと入って来た…
キャ~~~!
豪ちゃぁ~~~ん!怖い~~!
そんな乙女心をひた隠しにしながら後ずさりして、彼女との距離を保つように心がけた…
「あぁ…作曲家って…こんな感じなんだぁ~。へぇ…ふぅ~ん…。」
急に馴れ馴れしくなった小林先生とピアノを間に挟んで距離を取った。
そして、彼女が何気なく距離を詰めて来るのを、引き攣り笑いを浮かべながら逃げて、丁寧にご退室願った…
「小林先生…散らかってる様に見えて、譜面を纏めて置いています。なので、どうぞ、この部屋に…入らないで下さい…」
「あぁ…緊張してるの?」
「いいえ。ただ、出て行って欲しいんです。」
とんでもなく積極的な女だ…!
小林先生は白いパツパツのブラウスのボタンをおもむろにひとつ外すと、派手なワインレッドのブラジャーをチラ見せして、手で顔を仰ぎながら俺を横目に言った。
「熱い…」
はぁ~~~知らんがな!知らんがな!
男という物は、どうしてか…相手がどんな顔をしていても、どんな年齢でも関係なく、胸の谷間とスカートの奥を見てしまう生き物なんだ…!
これは、抗えない習性だ。別に気がある訳じゃない。
それを…はっきりと、主張したい。
必死に視線を逸らす俺を見て満足したのか、小林先生はクネクネと腰をくねらせて言った。
「この部屋…熱い…なんだか、体がほてって来ちゃった…」
それはきっと…更年期障害か、自律神経失調症か…季節の変わり目に体が付いて来ていないかだ!
「あ、あぁ…庭に…子供たちが来てるんですよ…挨拶させますか…?」
閉め切られたドアに手を掛けて押して開こうとする俺に、小林先生は瞬時に近付くと、壁ドンして胸を押し当てて言った…
「子供の…出る幕じゃないの…」
あり得ない…
俺の腹に胸を当てて首をほぼ90度に曲げて俺を見上げる小林先生を、顔を引きつらせながら見下ろすと、ピアノの部屋のドアを思いきり開けて言った。
「うぉおおおおい!みんなぁぁぁぁぁ!小林先生が、来てるぞおおおお!!」
魂からの叫びだ…
滅茶苦茶怖かったんだ…
そんな俺の様子に、庭で作業していたギャング団一同が、凍った様に手を止めて口を歪ませた…
助けろ…俺を、助けろ…!
必死に目を見開いて哲郎を見た。彼は、ほくそ笑みながらすぐに目を逸らした…。
続けて、晋作を見つめて口をパクパクさせた。彼は首を傾げて清助とおしゃべりなんて始めやがった…。
大吉はそもそも、小林先生に個人的に恨みでもあるのか…こっちを見ようともしない…!
お前ら…なんて、酷い奴らだぁ…
「あぁ~~!先生!」
豪ちゃんがそう言った。
そして、あの子が満面の笑顔で走り寄って来る姿を見て、小林先生はやっと俺から体を離してくれた。でも、うっとりと色づいた彼女の瞳は健在だ…。
「どうしたの?何で、惺山にくっ付いてたの~?」
縁側から上がって来た豪ちゃんは、これ見よがしに俺に抱き付いて、見せつける様に頬ずりして言った。
「だぁめぇ~!惺山は、豪ちゃんのだから、だめ~!」
あぁ…そうだ、俺はお前のだからね…
とっても怖かったんだ。
縮みあがる程…怖かったんだ。
「何言ってるの…もう!豪ちゃんったら…!むふふ!」
そんな不敵な笑みを浮かべると、小林先生は、手に持ったお土産をピアノの上に置いて言った。
「もう少しだったのに…邪魔が入っちゃった!」
うげ…
「はは…ははは…」
苦笑いをしながら豪ちゃんの背中を高速ナデナデして、手に当たるあの子の曲線美に、動揺した気持ちを落ち着かせた。
小林先生、どうして…こんなに、さかってるんだ…?!
欲求不満か…?!
そんな事、思っていないさ…失礼じゃないか…失礼じゃないか…
ジッと俺を見つめ続ける小林先生の首を心配して、豪ちゃんと一緒に後ずさりしてあげた。そして、豪ちゃんが傍に居てくれる内に、小林先生を直視しない様に言った。
「…まだ、何か…?」
「豪ちゃんを見て思い出しました。木原理久先生に豪ちゃんの事について聞かれたんです。先生が、ぜひ、自分の手元で育てたいとおっしゃられて、連絡先を頂いております。健ちゃんに…あ、ううん…違う、違う…!だめよ、さやか…私たち、もう…そうでしょ…?さやか、次に行くの…!昨日決めたじゃないの!…はっ!失礼しました…。お兄さんに、この話をしたいと思っているのですが、惺山先生のお考えは?」
…あぁ、木原先生…
俺が相手にしなかったからって…この教師に、あの話を持ち掛けたのか…
豪ちゃんと見つめ合う小林先生を見下ろして、ため息を吐きながら言った。
「この子は…感性の塊です。今回、上出来に演奏出来たのは、私と一緒に演奏したかったから…。この子の爆発的な伸びは、そんな理由で起きるんです。無理やりに習わせたり…他と同じような価値観では、この子は伸びないで、枯れてしまうでしょう。」
俺の言葉にコクコクと頷きながら、小林先生は遠い目をして、胸に手を当てて言った。
「豪ちゃん…本当に素敵な演奏だった!正直、あんなに素晴らしくバイオリンを弾けるなんて思っていなかったの…。あなたは…特別な才能が有る。」
急にまともな事を言った小林先生は、しみじみと頷きながら言った。
「ピアノ奏者との相性が良かったのか…それとも、この子が曲を持ち上げて行ったのか…。あの時の演奏は…今まで聴いた何よりも、心を躍らせました…」
そうだ。そうだよ。あんたは音楽教師なんだ!
手当たり次第に色目なんて使わないで、本能に打ち勝って、まともな意識を保ってくれ…!
俺は精一杯の良心を持って、心の中で小林先生の理性を応援した…
「きっと、その…両方です。この子のバイオリンは…私の気持ちを持ち上げて高めて、全く行った事の無い場所へ連れて行ってくれる。」
胸の中の豪ちゃんを見下ろして、柔らかい髪を撫でると、あの子の小さな背中をポンポンと叩いて言った。
「音楽って…楽しいなって、そんな単純な…でも、大切な感覚を思い出させてくれるんです。」
俺のそんな言葉に照れたのか、豪ちゃんは顔と耳を赤くして、俺の胸に顔を擦り付けて言った。
「んん~!もう…惺山…惺山…!」
ふふ…これは事実だ。
この子と一緒に演奏すると、否が応でも、曲の情景の中に引きずり込まれるような感覚を味わう。それは、今まで味わったことの無い…不思議な感覚だ。
まるで明晰夢の中に入ってしまったかの様に、豪ちゃんと漂う情景の中は自由なんだ。だから、あの子が飛べると思ったら、空だって飛べるし…あの子が月に行くと言ったら…月まで行けるんだ。
例えば…これが、豪ちゃんの演奏に従順な俺じゃない、癖の強い伴奏者だったら…この子は力尽くでも自分の情景の中に、相手を引っ張り込んで連れて行くのだろうか…?
それとも、相手の持つ情景をシェアして、分かち合って、手をつなぐ様に仲良く共演する事が出来るのだろうか…?
そんな好奇心が、沸々と沸いて来てしまうよ…君の可能性は、無限だ。
きっと、木原先生も…そんな君の可能性を見て、傍に置きたがっているんだ。
「…私が言える事は、先程、言った事くらいです…。どうぞ、保護者の方にも一度話してみて下さい。」
「えぇ…まぁ、そうしてみます…」
歯切れ悪くそう言った小林先生は、豪ちゃんの頭を撫でて俺を見上げて言った。
「また…来ます。」
もう…来ないでくれ…
床に散らばった楽譜を避けながらテラスへ戻った小林先生は、乱雑に脱ぎ捨てた自分のパンプスを穿いて、髪をかき上げながら俺を横目に見てセクシーポーズを取った…
あぁあああああ~~~~~!!
体中に鳥肌が立ってゾワゾワと背筋に悪寒が走って抜ける。ダメージが大きすぎて、取り繕う事も出来ないまま、引きつった笑顔を向けて手を払う様に振った。
あぁ…怖い。
どうしたんだ…健太!
彼女が欲求不満みたいだぞ…!!
若い力で満足させてやれよ、年寄に飛び火して迷惑だぁ!!
「惺山…?昨日、兄ちゃんが言ってた。小林先生とさよならしたんだって…」
俺の胸に顔を擦り付けながら、豪ちゃんがポツリとそう言った…
「あぁ…」
…そうなんだ…
だから、躍起になって…次を探してるのか。
俺は無理だ…審美眼が鋭いからな。
「うわ~~!おじちゃん!健ちゃんの後釜だぁ!穴兄弟だぁ!」
いつの間にか部屋に上がった大吉は、満面の笑顔で俺の周りを纏わり付いた。
穴兄弟…本当に、この大吉という生き物は、最悪な下ネタばかり知ってる。
俺にジト目で睨み付けられながらも大吉は意に介す様子もなく、俺を見上げながら、へらへらと口元を緩ませて腰をクネクネさせて言った。
「せんせ?片手で持って…自分の好きな様に動かして良いのよ?」
「やめなさい!馬鹿野郎!…お前は、失礼にも程があるよ?いい加減にしなさい!」
大人らしく大吉を諫めて怒った俺は、あいつのいやらしい手の動きを引っぱたいて止めさせた。
全く…こいつは、毎度毎度、どこでこんな情報を仕入れて来るんだ!
「はぁ…豪ちゃん、これ貰ったから、みんなで食べなさい…」
そう言うと、ピアノの上に置かれた小林先生の手土産を、俺に抱き付いて離れないあの子の目の前に差し出した。
「よっしゃ~~!」
そんな懐かしい言葉を言った大吉が、豪ちゃんの目の前から手土産を奪って縁側へと走って行く。
「みんな~!新しい生贄から供物のおすそ分けだよ~!」
大吉…
そんな彼の言葉にわらわらと集まり始めた子供たちを見て、俺の体からついて離れない豪ちゃんを見下ろした。そして、眉を下げながら言った。
「ほら、豪ちゃんも食べておいで…?」
「ん~~!やだったぁ!やだったのぉ!」
堰を切ったようにそう言った豪ちゃんは、俺に抱き付いたまま地団駄を踏んで怒った。
「先生がくっ付いてたのが、嫌だったのぉ!だぁめぇ!だめなのぉ!ばかぁん!」
俺は、何もしてない…
胸をバシバシと殴られながら途方に暮れて、豪ちゃんに言った。
「…あの人が…勝手にくっ付いて来たんだ…」
「ん、それでも嫌なのぉ!こうやって…こうやって…払い除ければ良いでしょ?」
眉間にしわの寄った豪ちゃんは、俺の腕を掴んでブンブンと振ってみせた…
こんな事したら…
きっと、吹っ飛んでケガさせるぞ…
「惺山のばかぁん!ん、もう!…ん、もう!!」
地団駄を踏み続ける豪ちゃんは、スッと大人しくなると俺を見上げて涙目で言った。
「…次は、ああする?」
「…する。」
しないさ…怪我させるからね。でも、触られない様に…気を付ける。
コクリと頷いた俺をジト目で見つめた豪ちゃんは、俺の胸に頬ずりしながら言った。
「ほんとぉ…?」
「ほんとさ…絶対、触られない様にする…」
やきもち焼きなんだな…
豪ちゃんは納得しきれていない様子で、頬を付けた俺の胸をナデナデすると鋭いジト目を向けて聞いて来た。
「ほんとにほんとぉ…?ぶん殴って、全力で嫌がって、ドブに捨てる?」
ほほ…!…ドブ?ドブ?
どうやら、豪ちゃんは、相当お怒りの様子だ…
にやける口元を必死に抑えて、あの子を見つめてキメ顔をして言ってあげた。
「ぷっ…ドブに捨てる…!」
「…ふん。」
俺の言葉と真剣な表情に納得したのか…あの子はニヤけそうな俺の頬をペチンと叩くと、縁側でバームクーヘンを食い荒らすギャング団の元へと戻って行った。
“ドブに捨てる”なんて…今どき、パワーワードだぞ…
豪ちゃんは…意外と嫉妬深くて、凶暴な一面を隠し持ってるのかもしれない。
…大好物だ!
惺山…僕とあの人と…どっちが気持ち良いの…?なんて、怒った顔で、頬を赤くして、よだれを垂らして、ハフハフしながら聞かれたら…
それは、もう…大興奮しちゃうだろ…?!
「…悪くない。むしろ…良い。」
キメ顔をしたままぼそりと呟いて縁側を眺めると、豪ちゃんがバームクーヘンの小袋を一つ持って来て言った。
「はい、惺山の分だよ?」
「…ん。」
心を落ち着かせる為に、柔らかい髪を撫でて深呼吸をしてから、嵐の過ぎ去ったピアノの部屋に戻った…
完成する見込みのない交響曲でも、せめて構想だけは確実な物にしておきたい…そんな気持ちでピアノに座っている。
しかし…
「はぁ…他の曲はあっという間に出来たのに、どうしたものか…全く思いつかないな…。半年の区切りが思考を止めさせてるのか…それとも…」
ふと、言いかけて…言葉にする事を止めた。
その代わりに、ピアノの上に置かれたままの豪ちゃんのバイオリンのケースを眺めて、ため息をひとつ吐いた。
ここの生活が気に入ってしまって…交響曲を完成させたくない。なんて…逆行する様な思いが、心のどこかで思考を鈍らせているのかな…
豪ちゃん…
君と離れるなんて…俺は、どうしたら良いんだよ。
健太が言った様に、もし…俺が遠く離れた土地で死んだら…君はどうするんだよ。
バイオリンも弾かなくなって…音楽も遠ざけて…せっかく芽を出した感受性のやり場を放棄して…才能を腐らせる。
そんな未来を進む君なんて、見たくないよ…
俺と約束した様に…死ぬまで、このバイオリンを弾き続けてくれるだろ…?
ねえ…
それも、これも…死んでしまったら確認のしようが無いじゃないか、馬鹿だな…俺。
あ…
ふと思い立った様に顔を上げると、意図せず溢れた涙を落として言った。
「そうだ…。この…交響曲にあの子の演奏するバイオリンパートを入れよう…。そうすれば、例え、俺が死んでも…あの子は曲の中で俺に会えるじゃないか…」
置き土産なんて物じゃない…
これは、あの子だけが分かる…俺のラブレターだ…
あの子の半生を…交響曲にして、素敵な旋律で飾り立ててあげよう。
感受性が豊かな故に翻弄された無垢な幼い日々…。他と違う事を隠す事で…自分の身を守った少年時代。そして…これからは、そんな感受性を自分の強みに変えて…生かしていくんだ。
…フィナーレには…あの子の大好きな星を沢山、降らせてあげようか…
出来上がった交響曲は、豪ちゃんへ…俺からの贈り物だ…
「良いね…洒落てる…」
ポツリとそう言うと、いつの間にか隣に座ったあの子が差し出す、味のしないチャーハンを口を開けて食べた。
「はい、あ~んして?」
「あ~ん…おっ!味がする…」
つい、うっかり、そんな要らない事を言った。見なくても分かる…頬を膨らませてムスくれてしまった豪ちゃんに、すぐさまフォローする様に言い直した。
「いつも美味しいけど…今日も美味しいね…」
「ふんだ…」
そんな声に口元を緩ませてながら、鍵盤を見つめたままあの子に聞いた。
「ねえ…親父がまだ居た…幼い頃は…何をして過ごしていたの…?」
「…ん~、兄ちゃんと一緒に居たり…ひとりで田んぼを歩いたり…湖には行っちゃダメって言われていたけど、キラキラ光る湖面が好きで…よく、遠くから眺めてた。後は…モヤモヤを体に纏わせた、大岩のばあちゃんと過ごした。はい…あ~んして?」
あの子の差し出すスプーンを口に入れてモグモグすると、何となく浮かんできたメロディを鍵盤に落としながら、再びあの子に聞いた。
「…その頃、モヤモヤが見える事で、お前が苦労した事は何?」
「全てさ!大岩のばあちゃんの家族には、石を投げられたり、怒鳴られたりした…。僕が、ばあちゃんと踊ってるのを…ボケた老人を馬鹿にしてるって思ったみたい。」
豪ちゃんは首を傾げて肩をすくめてみせると、俺の腕にもたれかかってため息を吐きながら言った。
「…ばあちゃんが井戸に落ちて行く所を見た…。まるで、逆立ちでもするみたいに…足が高く上がって…そのまま…。ねえ?…あの時、ばあちゃんの家族が言った通り…僕が付き纏いを止めていたら、ばあちゃんは死なずに済んだのかな…」
「そんな事…誰にも分からないさ…」
五線譜を眺めながらそう言って、あの子の柔らかい髪にキスをした。そして、目の前を流れ始める情景を鍵盤に落として、旋律へと変えて行く。
…豪ちゃんが傍にいると、モヤモヤを纏った誰かが、死んでしまう。
そんな話、俺は信じていないよ。
この子は、もうじき訪れる誰かの“死”が分かってしまうだけ…
だからこそ、それを止められない事に、自分を責めて無駄に胸を痛めてる。
本来なら知らなくても良い事なんだ。
だけど、分かってしまう。
それは、本人の意思関係なくだ…
「惺山…あ~んして?」
「あ~ん…モグモグ…じゃあ…逆に、モヤモヤが見えて…良かった事は?」
豪ちゃんはそう尋ねる俺を覗き込んで、クスクス笑いながら頬を赤く染めて言った。
「あなたに会えた事…」
あぁ…!豪ちゃん!!
「ふふ…ふふふ…」
不気味に笑いながら空の五線譜を見つめて、ふと、我に返って眉を上げると、あの子を見下ろして言った。
「小さい頃の話を聞かせてよ…。今じゃなくって、小さい頃の話…」
「えぇ?…ん、もう…。そうだな…ずっと傍に居たから…その人の事が良く分かったんだ。大岩のばあちゃんは、とっても優しいおばあちゃん。手遊びが上手で、僕が何度もせがんでも嫌な顔一つしなかった。いつも、ケラケラ笑ってめんこいめんこい!って頭を撫でてくれた…。」
悲しそうに下がった眉とは対照的に、やや微笑みながらあの子が言った。
「後藤のおじちゃんは、鬱陶しがって僕を追い払いたがっていたけど…。あまりにしつこく付きまとうからか…いつの間にか、とっても優しくしてくれるようになった。彼は、子供をどう扱ったら良いのか…分からなかっただけなんだ。偏屈なんかじゃない。優しい人だった…」
なる程ね…
何も言わずに頷きながら、豪ちゃんの差し出すスプーンを口に入れて、モグモグしながら言った。
「ハムが入ってる!」
「晋ちゃんが買って来てくれたんだぁ。僕のチャーハンは味がしないから…しょっぱいものを入れてくれって…言われたぁ…。」
…晋作…!お前ってやつはぁ!
「…ところで、あいつらは?帰ったの?」
俺を見上げた豪ちゃんは首を傾げながら言った。
「今日の作業はお終いだって。チャーハンを食べて、みんなで湖に釣りに行った。」
ん、作業…?
あぁ…庭に目的不明の小屋を建てているんだった…
「どこまで小屋は出来た…?」
クスクス笑いながらあの子を見下ろしてそう尋ねる俺に、あの子は口を尖らせて言った。
「まだ、屋根がないんだ…!でも…囲いは出来たから…大丈夫。」
屋根…?
思った通り、本格的な小屋を作ってるみたいだな…
哲郎が居るんだ、しっかりした造りの小屋が出来る事だろう。
秘密基地的な何かかな…。それとも、トムソーヤごっこでもするのかな…。黒い鶏を捕獲出来る罠も作ってくれないかな…
「あ~んして?」
「あ~ん…」
午後の穏やかな時間…
ピアノの前で、可愛い豪ちゃんに餌付けしてもらう…こんな風に過ごせる時間に、”死“というリミットと…”交響曲の完成“という新しいリミットが追加された。
そんな事、どうでも良い…
いつもと変わらない様に過ごして、いつもと変わらない様に味わって…楽しんでやるさ。
「ごちそうさまでした…」
そう言ってペコリと頭を下げた。豪ちゃんは俺の襟足を指に絡めながら、鍵盤の上を走り続ける俺の指先を楽しそうに眺めている。
「…ずっと弾いてるこのメロディは…なんだか、僕の幼い日の思い出みたい…」
クスクス笑ってそう言ったあの子は、俺の手に自分の手を合わせて、一緒に鍵盤を弾くみたいに指を動かしながら言った。
「…ここに足りないのは…どうして、他の子と違うのかと悩んだ葛藤…どうして、自分は愛されないのかと、苦しんだ葛藤…。大人の視線が怖かった…また、怒られると思って、また、奇妙な目で見られると思って、怖かった。」
あの子はそう言うと、俺を見上げてにっこりと微笑んでキスをくれた。
そして空いた皿を手に持つと俺の髪にキスして、ピアノの部屋を出て行った…
他の子と違うと…悩んだ葛藤。
愛されないと…苦しんだ葛藤。
“普通”や、“常識”と言う、形の無い主観にまみれた大人の…奇異な物を見る様な、視線が怖かった…
あぁ、
だから…豪ちゃんは”主観”に囚われる事を…嫌悪して、憎んで、嫌っているのかもしれない。
何も知らないのに…って、ずっと…苛立っていたのかもしれない。
「ふふ…良く分かるよ。その気持ち…」
自由にピアノを弾いては要らない音を踏んで、一方的に怒られ続けた…そんな俺と、よく似てる…
口元を緩めてほほ笑むと、あの子の付け足した要素を踏まえて、情景とあの子の心情をピアノの旋律に落として行く…
でも…それは決して♯や♭の沢山付く様な…暗い物じゃない。
軽やかな風と一緒に過ぎ去っていく情景の中で…ほんの少しの寂しさを滲ませる。そんな旋律で良い。
「迷う事無く…主旋律はバイオリンだ…」
そう言って五線譜に音符を書き込むと、いつの間にか隣に座った豪ちゃんが俺を見上げて言った。
「はい、あ~んして?」
「あ~ん…モグモグ、あ、お肉だぁ!」
久しぶりのお肉に喜ぶ俺に、豪ちゃんが首を傾げながら言った。
「大ちゃんのお父さんが持って来てくれたんだ。松坂牛だって!惺山にも声を掛けたんだけど、気が付かないみたいだったから、帰って貰った。今度、一緒にお礼に行こうね?」
「はぁ…?気付かなかった…?あちゃ…」
大人たる者が…挨拶もろくに出来ないとは、自分でも恥ずかしい事をした…
がっくりと背中を丸めておでこを撫でながら、やれやれと首を横に振った。そんな様子を見ながら、あの子はケラケラと笑って言った。
「…ねえ、美味しい?」
松坂牛なんて…初めて食べたし、とっても美味しい…
しかも、豪ちゃんは…そんな高級なお肉をいつもの味のしない野菜炒めにして出したんだ。
クールすぎるだろ…
「美味しいよ…豪ちゃんも食べてごらん?」
豪ちゃんが手に持った箸を奪って、一番大きなお肉を掴んであの子の口に向けた。
「豪ちゃん…あ~んして?」
「ふふ…あ~ん!」
頬を真っ赤に染めて可愛い口を開けるあの子を見つめた。口の中にお肉を入れて、モグモグと頬を膨らませた顔に、胸キュンしながらそっと瞳を細める…
「…ん、美味しい!」
満面の笑顔でそう言った豪ちゃんは、まるで楽しみを奪われた子供の様にいそいそと俺から箸を取り返して、再び俺に餌付けを開始した。
「はぁい、あ~んして?」
「あ~ん…」
こんなに献身的に尽くしてくれる人、いないだろ…?
こんなにやさしくお世話してくれる人、いないだろ…?
「ごちそうさまでした…」
「はい…完食だね?お利口さんだね?」
そう言って空いたお皿を手に持って、あの子がピアノの部屋から出て行くと…
”大吉の親父に松坂牛のお礼“
こんなコメントを、楽譜の隅に書き込んでうっかり忘れない様にした。
集中し過ぎると、時間があっという間に過ぎて…目の前の事以外が頭に入って来なくなる。こんな事はしょっちゅうで、独り身の生活だと、ご飯すら摂らないで昼夜逆転するなんてザラだ。
だから、豪ちゃんがお世話をしてくれないと…駄目なんだ。
だから、この子が…傍に居てくれないと、駄目なんだ…
「今日は…ここまでにしよう…」
ポツリとそう言って鍵盤から手を退かした。ふと、ピアノの上に散らばった譜面を眺めてため息を吐いた。
取捨選択は…明日の朝しよう…
頭をポリポリと掻きながらピアノの部屋を出て、目の前の居間でゴロンとくつろぐ健太を見下ろして言った。
「…何で、ここに居るの…?」
「あぁ…しばらくここでお世話になります…雨戸は俺が閉めておきました~!」
得意げにそう言って閉められた雨戸を指さす健太を見つめて、何が起きているのか…ぼんやりした頭で考えあぐねる…
「いやぁ~!クロイロコウガイビルが居るぅ!兄ちゃぁん!」
そんな豪ちゃんの叫び声が突如聞こえて、驚いて肩を揺らした。あの子の声に、すぐに反応した健太が、ガバッと体を起こしてバタバタと走って風呂場へ向かった。
「あ~!本当だ!塩だ、塩!」
健太はそう言って戻って来ると、当然の様に台所から塩を探し当てて、風呂場へと戻って行った…
クロイロコウガイビル…?
回らない頭のまま風呂場へ向かって、フルフルと震えながら湯船に浸かる豪ちゃんと、排水溝の傍でしゃがみ込んだ健太の背中を見つめて、豪ちゃんに聞いた。
「どした…」
「惺山!クロイロコウガイビルが居たんだ!うねうねして…ナメクジみたいなやつ!間違って体の中に入ると、しばらく生きてるって…てっちゃんが言ってた。う~~!気持ち悪い…!」
あの子はそう言うと、排水溝の傍で黒いナメクジの様な謎の生き物に塩をこんもりと被せる健太をじっと見つめた…
「これで…もう、こいつは誰の体の中にも入れない…!」
やけに男前にそう言って立ち上がった健太は、踵を返して俺の脇を通り過ぎて、居間へと戻って行った…
ん…?
浴槽の中で塩盛りのナメクジを見つめる豪ちゃんを首を傾げながら見て、踵を返して健太の後を追いかけた。
「って言うかさ…何?住むの?」
俺の仕事用のパソコンのモニターに勝手にケーブルを繋げたのか、健太は3つのモニターのうちのひとつでテレビを見ながらビールをガブガブと飲んでいた。
俺の問いかけに顔を向けた健太は、首を傾げながら言った。
「…交響曲ってやつが書き終わったら、東京へ戻るんでしょ?」
あぁ…そう言ったけど…
それよりも…
「そういや…お前、小林先生と別れたんだって?」
健太の隣に胡坐をかいて座り込んだ俺は、興味津々に顔を覗かせて、健太がおつまみに摘んでいた柿の種を摘んで口の中に入れた。
「えぇ…大吉が言ったの?」
…いいや、豪ちゃんが言った。
苦い顔をして肩をすくめた健太は、開き直った様に眉を下げて見せると、どや顔をしながら言った。
「人生は、一度きりしかないからな。後悔の無い選択をしないと…!」
はは…!笑える!
「そうだな…後悔しない選択が大事だ…!」
後悔しっぱなしの俺が言うんだから、間違いない…
ケラケラ笑いながら、俺とさして対格差のない健太の背中をバシバシ叩いた。
前につんのめって苦笑いをしたあいつの表情が…どことなく、あの子に似ていて、妙におかしかった…
「惺山…お風呂に先に入っちゃった!」
なんだそれ、妙にエロイ言い方だな…
湯上りの豪ちゃんは濡れた髪の毛をタオルで乾かしながら、勝手知ったる台所でお水を飲んで言った。
「…惺山が僕と離れるその日まで、ここで一日中、見守る事にした。だから、兄ちゃんと…鶏たちを連れて来た…」
へぇ…
だから…小屋を作ってたのか…
妙に冷静な頭で豪ちゃんの話を聞いている俺に、あの子は首を傾げて聞いて来た。
「…嫌だった?」
「嫌じゃない…。お前の好きにして良いよ…」
そう、それが、俺がこの子にしてあげられる、唯一の事だからね。
何だって…豪ちゃんの言う通りにするさ。
「兄ちゃんはお風呂場の前で寝るって、後…鶏たちは…庭に作った小屋の中に居る。雄鶏が、朝うるさいけど…それ以外は、普通だよ?」
普通…ね。
急な居候をあっさりと許した俺に満面の笑顔を浮かべた豪ちゃんは、嬉しそうに瞳を細めて微笑むと、ホッとした様に胸を撫でおろした。
へぇ…健太は、風呂場の前の廊下で寝るんだ。
じゃあ、豪ちゃんは俺の隣で寝るんだな…
…ぐふふ!
「本当にずっとピアノの前にいるんでビックリした。腰とか…痛くならないの?」
そう聞いて来たくせに、健太は答えなんて求めていませんとでも言うのだろうか…俺の返事を待たずに、Tシャツを脱ぎながら風呂場に行った。
仮の家主よりも…先に風呂に入る兄弟だな…
「豪ちゃんは俺と一緒にねんねするの~~?」
「そうだよ?」
濡れた髪をタオルで乾かしながら、湯上りの豪ちゃんがそう言った…
はぁはぁ…ムラムラする…
「ん、じゃあ…もう、寝ようよ…!ほらぁ、もう、寝よう…?」
俺の隣に腰かけた豪ちゃんを抱きしめて、ポカポカの体とほのかに香る石鹸の香りにクラクラして興奮して来た。
…あれ、さっきまで脳がお疲れだったのに、どうやらリカバリーしたみたいだぁ!
「ん…もう!だぁめぇ…!」
「なぁにがぁ、駄目なのぉ!」
豪ちゃんを畳の上に押し倒して、潤んだまん丸の瞳を見つめながらキスをした。湯上りのせいかな…ホカホカと温かいあの子の首筋に顔を埋めて…クンカクンカと、鼻を鳴らしながら良い匂いを嗅ぎ続けた…
「クンクン…クンクン…」
「あぁん…もう…」
あぁ…
これで、健太と鶏がセットじゃなかったら、もっと良かったのになぁ…
「なんだ…??一体、なにが起きてるんだ…??」
早くないか…?
風呂から上がるの…早くないか…?
豪ちゃんに覆い被さった俺の背中に、そんな、健太の動揺した声が聞こえて、動揺を隠す様に冷静に体を起こして言った。
「コオロギが出たから…びっくりしたんだ…!」
「え…?コオロギ…?」
健太は怪訝な顔をしたまま飲みかけのビールを手に持って煽って一口飲むと、首を傾げながら、俺を見下ろして言った。
「…へぇ。」
冷たい…へぇ…だ。
「さてと…お風呂に入ってきます…」
頬を赤くしたあの子を見つめてそう言って、俺をジト目で見つめる健太の目の前を通り過ぎて、颯爽と風呂場へ向かった。
ちゃんと体洗ってんのかな…絶対、出るの、早いと思うんだよね…
何度も首を傾げながら風呂場に入って、いつの間にか…置かれた、健太と豪ちゃんの入浴セットを横目に、眉を顰めた…
ふと、思い出したんだ…。こんな映画があった。
良い人の振りをした悪い奴が、勝手に家に上がり込んで…いつの間にか住居と、身分を奪って行くんだ…
お化けでも、世紀末でもない…身近でリアルなホラーに、当時の彼女を家に上げたくなくなった記憶がある…
豪ちゃんは良いさ。俺はあの子が大好きだからね。ただ、健太が、あまりにも自然に家に馴染んでるから…少し、不気味だったんだ。
なんて…そんな事、言わないさ…。
可愛いあの子の、兄貴だもの…
クロイロコウガイビルが流れて行った排水溝を見つめながら体を洗って、髪を洗って、手桶でお湯を掛けて泡を洗い流した。
「はぁ…疲れた…」
そんなため息を吐きながら湯船に浸かると、お湯を顔に掛けて、ぼんやりと宙を眺める。
「ギャ~ハッハッハッハ!」
「ん、もう…兄ちゃんったら…うふふ!」
風呂場の外から、健太と豪ちゃんの笑い声が聴こえて、耳に入って行く。そんな彼らの声色に、瞳を細めて自然と口元が緩んで行く。
あぁ、楽しそうだな…
「交響曲ってやつが書き終わったら、東京へ戻るんでしょ?」
そう言った健太の言葉を思い返して、首を傾げた。
半年で…出来るかな…
それとも、出来上がる前に…死ぬかな。
…そんな事、今は考えるのは止めよう。
ただ、あの子への贈り物をこさえる事だけに…専念しよう。
「第一楽章は…幼少期のあの子をソナタ形式で起承転結させて…第二楽章で、苦難の少年時代…第三楽章で、音楽と出会って…自己表現を知るんだ…。そして、第四楽章で…大きく羽ばたく…」
口元をにやけさせながらそう言うと、お風呂の縁に乗せた腕に顔を乗せて、瞳を閉じた…
「惺山…ビール飲む?枝豆茹でたけど、食べる?」
唐突に声を掛けられて瞳を半開きにすると、頬を赤くしたあの子が、俺を見て恥ずかしそうにもじもじして言った。
「…大ちゃんのお父さんが、松坂牛と一緒にビールを持って来たの…。」
どうして、豪ちゃんは…あんな事やこんな事をしているにも関わらず…俺を見て頬を赤くするんだろう…
わざとらしく微笑むと、片手で髪をかき上げながら言った。
「…はぁ、飲もうかな…」
「あ…」
ポッ…そんな音が聴こえそうなくらい、頬を一気に赤くした豪ちゃんは、もじもじしながら俺を見つめて言った。
「…格好良い…」
はは…!
「なぁんだ…豪ちゃん、一緒に入ったら良かったのに…」
最上級のキメ顔をしてそう言うと、あの子の目の前で湯船から上がって、あの子の目の前で、タオルを手に取って言った。
「俺が、綺麗に洗ってあげたのに…」
「あぁ…えっと…うんと、あ、えっとぉ…うん…」
目のやり場に困って挙動不審に眼球をキョロキョロさせるあの子を見下ろして体を拭くと、可愛いあの子に壁ドンして言った。
「豪ちゃん…」
「あぁ…惺山、だめぇ…」
ふふ…可愛い…
頬を真っ赤にしたあの子にそっとキスして、指を差して言った。
「俺の…パンツを踏んでるよ…」
「あっ!…ごめんなさぁい…」
そそくさと退きながら俺の濡れた髪をじっと見つめ続けた豪ちゃんは、嬉しそうに台所へ戻って行った…
なぁに…めっちゃ可愛いんですけど…
本当に、俺の髪が好きだな…
いいや、俺が好きなんだ。
風呂から上がって居間に戻った俺は、目を丸くして目の前の光景を眺めた…
湯気をあげた枝豆がザル事テーブルの上に置かれて、その隣には、霜で白くなった冷やされたグラスが置いてあるんだ…
あぁ…良い…
こういうのって…良い…!
「はい…惺山、ビールを注いであげるね?」
豪ちゃんはそう言って俺の隣に座り込むと、缶ビールの蓋を開けて差し出して来た。
「わぁ…至れり尽くせりだね…?」
嬉しそうに頬を赤くするあの子の顔を覗き込んで、泡だらけになって行くグラスの中を見つめてクスクス笑った。
「ん…いつもは、もっと…上手に出来るんだよ?」
耳まで赤くしたあの子が首を傾げると、その様子を見ていた健太が口をひん曲げて言った。
「あれは、哲郎の父ちゃんが上手くフォローしてんだよ。」
「ん、違うもん!」
「いただきます…」
キャンキャンと兄弟喧嘩を始めるふたりを無視して、ビールを一口飲んだ。
あぁ…労働って言うほどの労働はしてない。なのに、どうして…この飲み物は、誰にも平等に”今日も頑張ったね!お疲れさま!“を感じさせてくれるんだろう…
ビールって…優しいんだな…
喉の乾かぬうちに、茹で立ての枝付き枝豆を指さして言った。
「豪ちゃん、枝豆、食べたぁい!」
「ん、もう…ほら、あ~んして?」
待ってましたとばかりに大喜びした豪ちゃんが、開いた俺の口の中目がけて、枝豆を皮から飛ばして入れた。
「んぐっ!」
俺の喉ちんこにヒットだ!
「ごほっごほ!」
焦った豪ちゃんは、勢い良く咽た俺の背中をさすりながら顔を覗き込ませて言った。
「ごめん…ごめん…惺山、ごめんね?」
「だ、大丈夫…」
そう言ってあの子を抱き抱えると、胡坐をかいた自分の膝の上に乗せて、後ろから抱きしめて言った。
「豪ちゃん…の皮を剥いて…口の中に入れてよぉ…」
「え…」
「だぁからぁ…豪ちゃんの…皮を剥いて…俺のお口の中に…入れてよぉ…」
あの子のお腹をモミモミしながらそう言って、お腹から少しだけ手を下にズラしてサワサワと撫でた。
ギリギリ…セーフだ。
「…はい、どうぞ…?」
あの子はそう言って振り返ると、自分の手で剥いた枝豆を手のひらに乗せて、ひとつずつ摘んで、俺の舌の上に乗せた。
恥ずかしがると…すぐに顔を赤くするこの子が、可愛い…
今も猥談の様な俺の言葉に戸惑いながらも、耳まで赤くして、枝豆を口に運んでくれるんだもん…堪んないよ。
「ぐへへ…」
「…なあ、俺はあんたの事を、豪と同じ様に“惺山”って呼ぶ事にしたんだ。所で、惺山、気持ち悪いからやめてくれないか…?」
堪らず変な笑い声を出した俺にそう言った健太は、首を傾げて俺をジト目で見つめて言った。
「10が最高だとしたら…俺の前では、3だって…言っただろ?」
はは…!
膝に乗せたあの子の背中に頬ずりしながら、何度も頷いて言った。
「当り前じゃないか…!」
そんな俺をジト目で見つめ続ける健太は、おもむろにうつ伏せになって言った。
「豪!兄ちゃんの腰を揉んでくれ!!」
なんだと…?!
「はぁ~い…」
気の抜けた声で返事をした豪ちゃんは、俺の膝から抜け出て健太のお尻の上に跨って乗った。そして、テレビを見ながらゲンコツでトントンと健太の腰を叩き始めた…
あぁ…可愛いじゃないか…
「あ~~!良い!良いわぁ~!やっぱり、お前は俺の腰の塩梅をよく分かってる!」
眉を下げながらそう言うと、健太は俺を横目に見ながら…ドヤ顔をした。
…こいつ、何を、対抗してるんだ…
そんな疑問なんて…抱かないさ。
だって、こいつは豪ちゃんに負けず劣らず…変わり者だからな。
「あぁ~~~!豪、もっと…もっとだぁ~~!」
「…ん、もう!このくらい?」
「馬鹿野郎!それは痛いだろっ!」
そんなやり取りをジト目で見つめ続けると、豪ちゃんが眠たそうに目を擦りながら兄貴の背中にベッタリとくっ付いて言った。
「兄ちゃん…眠いぃ…!」
はぁ~~~~?!
これは…ギリギリだろ?…ギリギリのアウトだろっ!
「え~?もう…仕方が無いな!」
健太は満足そうにそう言って、あの子を背中に乗せたまま、勝手知ったる他人の家の寝室に入って行った…
え…
このまま、何か…始まる訳じゃないよな…
そんな一抹の不安がよぎるくらい、ギリギリアウトな兄弟を…慌てて追いかけた。
「…ふ、布団を敷いてやろう!」
足で布団を敷こうとする健太を退かして、ひとつしかない布団を丁寧に敷いてあげた。そして、豪ちゃんを負ぶったままの健太を見上げて言った。
「…どぞ?」
「…どうも。」
健太は怪訝な顔を俺に向けながら、背中におぶったあの子を布団にゴロンと転がして落とした。家から持って来たのか…見た事も無い鶏柄のブランケットをお腹に掛けてあげる健太の表情は、ギリギリのアウトだ…
穏やかに、愛でている…じゃないか!
お前ら!よもや…何か、良からぬ関係ではござらんだろうな!
疑念を抱いてしまうほどに、この兄弟は俺の思った以上に…ギリギリを行っていた。
まるで恋人同士の様なスキンシップに、兄弟の枠を超えた“何か”を…感じざるを得ない!禁じ得ない!どういうことなの…?!
「…いつも9時には寝る。今日は頑張って…11時まで起きていた…」
ポーカーフェイスの俺の頭の中の混乱なんて、分かる訳もない。
そう言って豪ちゃんの頭をナデナデした健太は、スクッと立ち上がって俺を見つめて言った。
「…惺山、変な事は、するなよ…」
どういう事だ…
“変な事”の定義を教えてくれ…!
「分かった…」
深く頷いて答えると、スヤスヤと寝息を立てるあの子をそのままにして、健太と一緒に寝室を出た。
「添い寝は“変な事”に入るのか…?」
胡坐をかいて座りながらそう聞くと、健太は首を傾げながら真剣な顔で言った。
「ギリギリだな…」
自分を棚に上げたシビアな判定だな…よし、無視しよう。
「分かった…」
彼を見つめて深く頷いた。そして、豪ちゃんが茹でてくれた枝豆を摘んで、一緒に下らないテレビを眺めた…
「…豪のバイオリンは…素人の俺からしたら素晴らしい以外…表現のしようがないくらい、上手だった。…なあ、プロの惺山には、あいつのバイオリンは、どんな風に聴こえるの…?」
テレビを見つめたまま…ポツリと健太がそう聞いて来た。
「…同じさ。素晴らしい以外の何物でもない。強いて言えば、これから伸びる可能性を感じて、驚愕して、震えるくらいだ…」
クスクス笑ってそう言うと、驚いた様に目を丸くする健太に言った。
「楽器なんて…誰でも弾ける。それが幼い内からの特訓や、教育によって培われる事は、良く知られている事だろ?豪ちゃんの場合は違う…。はっきり言ってセンスだ。才能だ。あの子は楽器と相性が良い。もっといろいろな経験をさせてあげる事は、あの子にとって…持て余す感受性の良いはけ口になるだろう。」
枝豆を摘んでテレビ画面を見つめながら、俺を見つめたまま驚いて固まってしまった健太に言った。
「この前の…”音楽祭”にあの子と顔なじみの著名な先生がやって来て、豪ちゃんの演奏を生で聴いた。感想は、俺と同じ…。お前と同じ…。先生は自分の手元で、豪ちゃんを育てたいと、小林先生に申し出たみたいだ。」
「は…?」
健太はそう言うと、口をパクパクさせて言った。
「それって…普通の事なの…?」
はは…
そんな訳無い。
俺は彼に向き直してクスクス笑うと、肩をすくめて首を横に振った。
「普通じゃないさ…。バイオリニストだったら、もろ手を挙げて喜ぶような申し出だ。そのくらい、その先生は音楽界では知らない人が居ない程、有名な人なんだ。実績も、功績もある上に、演奏も未だにアグレッシブで、ピカイチだ。今まで弟子と呼べるような人は…ひとり、いるかいないか…。その人も、今では有名なバイオリニストとして活躍している…」
「なあ、その人の所へ行ったら…豪は、自分の才能を伸ばす事が出来るのかな…」
そう話した健太は、嬉しそうに瞳を細めて微笑んでいた。
…なんだ、その気があるのか…
意外だよ…健太。
お前は、絶対豪ちゃんを手元から離したがらないと思っていたのに…
お前は、本当…弟思いの良い兄貴だな。
でも…
どうかな…あの子は…
俺は口を一文字にすると、首を傾げながら、鼻からため息を吐いて健太に言った。
「どうかな…自意識過剰かもしれないけど、あの子は…俺が死んだら、バイオリンを弾かなくなると思う。俺は…続けて欲しいけど、死んだ後じゃあ…何も出来ない。」
そんな俺の様子にクスクス笑った健太は、何度も頷きながら言った。
「…確かに、そうだな…」
…うん。
その言い回しは、自意識過剰って言った部分の事か…それとも、バイオリンを弾かなくなるかもしれないって言った所か…どちらに同意したのか…気になる所だな。
目の前で未成年飲酒を堂々とする健太を横目に、下らないテレビを見ながらビールを飲んで、あの子の茹でてくれた枝豆を食べた…
…甘くて、美味しい…
本当…ここの生活は、のんびりしていて良いな。
ここの生活って言うよりも、豪ちゃんの雰囲気が…のんびりしてるのかな…
すっかり感化された俺は、都会の喧騒に再び戻る事が出来るのか不安になって来るよ…
あぁ…
あの子と離れるなんて…最悪だ…
「なあ、交響曲ってのは…どの位で出来上がる物なの…?」
健太は俺を覗き込む様に体を向かせて首を傾げた。
…どの位ねぇ…
「ピンキリさ…。何年もかかる物もあるし、あっという間に出来上がってしまう時もある。一概に言えない…。ただ…今、書いてる曲はあの子への贈り物なんだ。だから、もしかしたら…あっという間に出来上がる可能性もある。ふふ…」
口元を緩めて笑うと、驚いた顔をした健太を見つめて、首を傾げた。
「…何?」
そんな俺の問いかけにクスクス笑った健太は、あの子によく似た笑顔を向けて言った。
「惺山は、本当…豪が好きなんだな。気持ち悪い。」
はぁ?
酷いじゃないか…聞いたか?
気持ち悪いだって…!
こんな辛辣な言葉も、ギャング団のお陰で慣れた。顔を引きつらせて笑ってやり過ごしてやるさ…
豪ちゃんが起きて来ちゃうんじゃないかと心配するくらいの大笑いをしながら、健太が言った。
「で…豪への贈り物の曲は、どんな感じなの?」
なんだよ…興味があるのか…気持ち悪いおっさんの交響曲に、興味があるのか?!
すねた様に口を尖らせた俺は、健太を横目に見て言った。
「…あの子の半生を曲にしてる。産まれてから…この先まで、どんな風に輝くのか…。どんな風になって欲しいのか…。そんな思いを込めて作ってる。だって、もし、俺が死んだら…あの子へ残してあげられる、唯一の物だからね。」
そう…あの子にしか分からない…
形の無い音楽を…まるで映画を観る様に見る事が出来る、あの子にしか分からない…あの子にしか届かない、そんな…ラブレターをしたためてるんだ。
そして、俺がもし死んでも…お前は生きて、自分の居るべき場所へ向かえ!って…そんな願いを第四楽章に、込めるんだ。
「…あいつが産まれる時…俺は3歳だった。でも、よく覚えている。産気付いて無いのに、母さんの胎盤ってやつが剝がれてしまって…。あいつは子宮の中で仮死状態になっていた。…自分は良いから…豪を助けてくれって母さんが言って…親父は必死に反対して、結局…病院を飛び出してしまった…。」
哲郎はそう言うと、ビールを飲み干して空になった缶を手の中で押しつぶした…
なる程ね…
親父はその時の、遺恨をずっと引きずっているのか。
「母さんは…豪にそっくりで頑固者だ。だから…親父の言う事も聞かないで…母体よりも、産まれてくるあいつを優先してくれって…医者に頼んだ。」
健太は手元の空き缶をテーブルに置いて、ため息を吐いた。そして、肩を落として、黙って彼の話を聞いている俺を横目に見ながら続けて言った。
「健太…健太…豪を守ってね…お兄ちゃんになるんだよ?…健太がお兄ちゃんかぁ…嬉しい。嬉しい。って…何度も言って、俺の手を強く握った、母さんの…嬉しそうな顔を、豪の笑顔を見る度に…思い出してる…。あいつは…産まれる前から、愛されてるんだ。」
…産まれる前から…愛されてる。
そう言った健太の言葉に胸を打たれると、俺は彼の背中を叩きながら…自然と溢れて来る涙をそのままにして言った。
「お母さんの言った通り…良い兄ちゃんになったじゃないか…」
そんな俺の言葉に首を横に振った健太は、ホロリと涙を落として、悔しそうに下唇を嚙んで見せた。
「豪は…人と違う。いつもあっけらかんとしていたのは、傷付いた心を隠していただけなんだって…やっと分かったんだ。頑固なあいつが…本心を話すなんて、惺山が居なかったら絶対に無理だった…。気付かないまま…過ごしてしまう所だった。」
そう言って俺を見つめた健太は、ポロポロと涙を落としながら笑って言った。
「…あいつを、見つけてくれて…ありがとう…」
あぁ…
馬鹿で、感情的で、ちょっと変な人で、流されやすい、弟に偏執的な執着心を見せるけど…素直で、良い子じゃないか!
礼を言うのは…こっちの方だ…
「いいや…俺は何もしてない。…あの子が“もうじき死ぬ人が分かる”おかげで、巡り合ったような物だし…。出会った事以外…俺はあの子に何もしてあげていない。」
そう言ってケラケラ笑いながら、重い腰を上げて言った。
「寝るよ…」
そんな俺の腕をガシッと掴んだ健太は、凄む様に凄まじい眼力を見せてドスの利いた声で俺に言った。
「…間違っても、変な事はするなよ…?」
あんな話を聞いた後だ…さすがの俺でも、感慨深くなるさ…
「分かってる…添い寝もギリギリなラインだ…」
深く頷いてそう言うと、歯磨きを済ませて台所で水を一口飲んだ。
さぁ…豪ちゃん、燃え上がる初夜だ…
そんな事、考えてもいないさ。
取り繕った表情で寝室に入った。そして、内側からつっかえ棒をして引き戸が外から開かない様にした。
え…?
何もしない。これはプライバシーを保護してるだけだ。
秋めいてきたとはいえ…寝ている間に暑くて、パンツいっちょになっちゃうかもしれないからね…
「豪ちゃん…」
すやすやと気持ち良さそうに…無防備に眠るあの子を見下ろした。そして、敷き布団からはみ出ながら隣に寝転がった…
あぁ…可愛い…
俺は芸術なんて分からないし、美容なんて物も分からない。
でも…この子の、おでこから鼻にかけてのラインと、可愛い唇と顎にかけてのラインは、黄金比ってやつなんじゃないかと、思うんだ…。
あの子のおでこを指で撫でて、そのまま鼻筋まで指を滑らせながら、少しだけ開いている唇を指で強く撫でた。
可愛い唇…ふふ、勃起しちゃう…
母親が、自分の命と引き換えに…どうしても、この世に送り出したかった命…
…父親は母親の決断に納得出来ないまま、病院を飛び出して…逃げた。
病院に残ったのは…3歳の健太だけ。
そんな中、豪ちゃんは仮死状態で産まれて…死んでいく母親と入れ替わる様に、息を吹き返した。
まるで…母親が、自分の命と引き換えに…必死に守ったみたいじゃないか…
産まれる前から…愛されていたんだね、豪ちゃん。
それなのに…父親は、自分の罪悪感を…全てこの子にぶつけた。
逃げてばかりの親父に…現実を直視する勇気なんて無かったんだ。
よっぽど、3歳の健太の方が…しっかりしている。
あいつが兄貴で…良かったね…豪ちゃん。
口元を緩めてほほ笑みながら、可愛いあの子の顔を覗き込んで、まじまじと見つめた。
この、美しい造形の顔も…お前の頑固さも…猪突猛進な所も…母親譲り。
「お前の感受性は…お母さんからの贈り物かもしれないね…」
クスクス笑ってそう言うと、不思議とあの子の口元が緩んで微笑んだ様に見えた。
可愛い…
あの子の体に寄り添って、柔らかい髪に顔を埋めた…
いつも願った。この子を抱きしめて眠れる喜びに、口元を緩めて笑顔のまま瞼を閉じる。
豪ちゃん…このまま、死んでも良いよ。
お前の傍で、死んで良い。
離れて生き続ける事よりも、こっちの方が俺にとっては幸せなんだ。
…分かるだろ。
透き通ったビー玉みたいな透明感と、翻弄される程の溢れる感性を持った、あるがままの俺を止め処なく愛してくれる…
そんな君に、出会えて良かった…
ともだちにシェアしよう!