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#25
「コッコッコッコケコッコ~~~~~!」
「なんだ!」
突然の大きな鶏の鳴き声に飛び起きると、腕の中であの子が言った。
「雄鶏が…縄張りを主張して鳴いてる…」
えぇ…?!
「コケ~コッコッコッコ!コケ~コッコッコッコ!」
「コケーコ・コケ~コ!」
続けとばかりに他の鶏も大騒ぎして大合唱を始める…
「…まるで、交響曲第9番だな…」
ボサボサの頭を掻きながらそう言うと、瞼を半分開いた豪ちゃんが俺の頬を撫でながら言った。
「…何、それ…?」
やや掠れ声のあの子に瞳を細めて、柔らかい髪を撫でながら教えてあげた。
「ベートーベンが作曲した。交響曲第9番 ニ短調だよ。彼の最後の交響曲だ。四つの楽章で構成されて、第四楽章では独唱と合唱が曲を盛り上げて”歓喜の歌“なんて言われてる。初めは異なるふたつの交響曲を作っていたんだけど、途中で合体させて、ひとつの交響曲にしたんだ。」
「へぇ…。惺山は…物知り…」
にっこりと微笑んでそう言ったあの子に堪らずキスをして、ムフムフと覆い被さってしまう。良いんだよ。良いんだよ。寝起きでも良いんだよ…
その時、寝室の引き戸がガタガタと音を立てて激しく揺れた…
「豪…!豪…!」
あぁ…甘えん坊の兄貴が、この子を求めている…
ガタッガタッ!
「豪~~!」
「ん…もう…」
豪ちゃんは俺の腕に掴まりながら体を起こしてぼんやりすると、ポスっと俺の胸に顔を埋めて言った。
「惺山の匂い…」
あぁ…
あぁ…!!
あぁっぁぁぁあああ!!
加齢臭じゃない事を願って止まないよ…
「豪ちゃんはお日様の匂いがするよ…?」
そう言ってあの子の髪に顔を埋めて、クンクンと鼻を鳴らしながらクスクス笑った。
ガッタン!ガッタン!
「んぁああ!豪!豪~~!」
「破壊しそうだ…」
激しく揺れる引き戸を見つめながら、徹の実家の襖の心配をした。そんな兄貴の様子に、ため息を吐いたあの子が立ち上がって、扉の前へヨロヨロと歩いて向かった。
ガタ…
開かない引き戸に首を傾げた豪ちゃんは、俺の仕掛けたつっかえ棒を見つけて、俺を振り返った。そして、じっとりと半開きの瞳で俺を見つめ続けた…
「…プライバシーを、気にしたんだ。」
そう言って肩をすくめてとぼける俺に、豪ちゃんは呆れた様に首を横に振って、扉の前の兄貴に言った。
「兄ちゃん…開けるから、ちょっと揺らさないで…」
「んぁ!豪!豪なのか?!」
はっはっは!!
他に誰が居るんだよ…!
腹痛い…
本当に、健太はある意味…俺の笑いのツボだな!
「ぷっ!くっくっくっく…!!」
お腹を押さえて笑いを堪える俺を、豪ちゃんがジト目で見て来たって…気にしない。
「兄ちゃ…」
「豪~~!兄ちゃんは心配したんだぞ!どうして、どうして開かなかったんだ!!」
豪ちゃんが襖を開けた瞬間、健太はあの子をヒシッと抱きしめて、何度も顔を覗き込んで聞いた。
「何もされてないか…?変な事、されてないか?」
「健太!昨日、約束しただろっ!俺は何もしてないぞ!」
心外だ…俺は本当に、何もしていない。
それにだ…変な事は、既に終わってる。
時すでにお寿司なんだ!
「…ご飯、作らなきゃ…」
豪ちゃんはボサボサの頭を健太に擦り付けて、甘える様にギュッと抱き付いて言った。
「…兄ちゃぁん、雨戸開いてぇ…?」
はい、ギリギリ…アウト!
こんな事、普通の18歳と15歳の兄弟は…しない!
触りもしなければ、口も利かない、目なんかあった日には…戦争が起こる様な年代だぞ?上に兄貴が、ふたりも居た俺には分る。
この兄弟は…アウトだ!
「…俺がやろう!」
そう言って立ち上がった俺は、健太の肩にわざとぶつかって豪ちゃんと引き剥がしながら、寝室から出た。
大人気ない…?
はっは、その逆だ。
大人として、健太に警告したんだ…お前はアウトだって!
俺のタックルに唖然とした健太を置き去りにして、素知らぬ顔のまま雨戸に手を掛けた。
押して開いた雨戸の隙間から朝日が差し込んで、庭に設営された(仮)鶏小屋が見えてくる…それは、俺の思った以上に立派な小屋だった。
随分…大所帯の…鶏たちが来たな…
「は!…うぁああ!」
まるで俺の対抗する様に奇声を発した健太が、若さに物を言わせながら、雨戸を開いて行く…勢いと、激しさ…そして、青く猛々しい行動力だ。
なぁに…彼は、18歳だ。
そんな子供を相手に…大人の俺が、ムキになる訳がない…
「豪ちゃん…俺が6枚開いたんだ…」
10枚ある雨戸のうち、俺が6枚開いた…それを、台所に立った豪ちゃんに報告した。すると、背後で健太が地団駄を踏んで言った。
「…卑怯者!フライングだ!」
何がだ!
勝負がついた後でそういう事を言う奴の事を…負け犬の遠吠えって言うんだぞ!
俺はどや顔で健太を見て、鼻で笑った。
「惺山…卵を拾って来て…?」
そう言って手渡された籠を受け取って頷くと、豪ちゃんは俺の腕を掴んで付け足して言った。
「…ジュリアロバーツは…気性が荒いから気を付けてね…?」
え…
ジュリアロバーツ?
どの鶏がそれなのか…俺には、分からないよ…
「分かった。」
俺は豪ちゃんに深く頷いて、縁側から鶏小屋へと向かった。
何故か…ベートーベン、交響曲第9番の第4楽章が流れ始めて…テノール歌手が頭の中で歌い始めると、目の前の鶏小屋が一気に神々しい雰囲気を醸し出した。
…何でこんなに…厳粛な雰囲気を漂わせる必要があるんだよ…!
俺の感性は死んでるのか、それとも…ふざけ過ぎてるんだな。
そんな事を思いながら鶏小屋を覗き込んで、一気にたじろいだ。総勢20匹近く居るあの子の鶏たちが、一斉に首をあげて俺を見上げたんだ。
「コケ…」
しんと静まり返った小屋の雰囲気と、訝しげに俺を見上げる感情の読めない沢山の瞳にビビった俺は、ゴクリと生唾を飲み込んで、恐る恐る小屋の扉を開いた。
「コケ~コッコッコッコ!」
そんな誰かの掛け声とともに、一斉に俺に襲い掛かって来る鶏に驚いて、そのまま尻もちを着いた。大勢の鶏に揉まれて、踏まれて、堪らず大声をあげた。
「豪ちゃぁ~~ん!」
「あぁ…!せいざぁん…!」
「あ~はっはっはっは!!豪ちゃぁん!ぴえ~ん!だって!は~はっはっは!!」
縁側で転げて大笑いする健太の頭を叩いた豪ちゃんは、裸足で俺に駆け寄って、すぐに抱き起してくれた…
「んぁあ!怖かったぁ!」
「知らない人だから…きっと、意地悪したんだ…」
ムッと頬を膨らませた豪ちゃんは、俺の服に付いた鶏の羽を手で払いながら言った。
「ごめんね…みんな、良い子なんだけど…。きっと、初めての場所に興奮しちゃったんだ。卵は僕が拾って持って行くから、惺山は座って待ってて良いよ?」
「いいや!俺はやるよ?ちゃんと、俺が卵を拾うから…見てて…!」
「ギャ~ハッハッハッハ!俺が卵を拾うから…見ててん!キリッ!だって!だってぇ~!あ~はっはっは!!」
そのまま、縁側から落ちればいい…
ゲラゲラと笑う健太を見てそう思った。
深呼吸をして、気合を入れ直すと、交響曲第9番の合唱を耳の中に轟かせたまま、再び鶏小屋の扉に手を掛けて中へと入って行く…
藁が敷いてあるんだ…
足元のふわふわの藁を踏みながら、あちこちに生み落とされた白い卵を見て、漠然と、感動する…
それは、耳の中で喜びを歌うオペラ歌手のせいじゃない…目の前に生み落とされた、多くの卵を見て…胸の奥が震える程、感動したんだ…
「豪ちゃん…こんなに、卵が…!」
そう言ってあの子を振り返ると、豪ちゃんは笑いを堪える様に頬を膨らませて、顔を真っ赤にしながらコクリと頷いた。
ひとつ手に取って手のひらの上に置くと、まだ少しだけ…温かくて、ジンとする…
あぁ…
あの子の言っていた言葉が、良く分かる。
俺の命も…あの子の命も…卵の中の命と同じ…
同じなんだ…
「惺山!ジュリアロバーツが戻って来た!早く、卵を回収して!」
そんな切羽詰まった豪ちゃんの声を背中に受けて我に返った俺は、言われた通りに白い卵を次々と回収して行く。
「コッコッコッココケ~~~~~!!」
「あぁ!ジュリアロバーツ!落ち着いて…落ち着いて…痛い!あぁ、痛い…痛い!」
全ての卵を回収し終えた俺は、急いで鶏小屋から撤退した。ふと、後ろを振り返ると、豪ちゃんが一匹の鶏に突かれて走り回っていた。
あれが…ジュリアロバーツか…
「ん!あっ…!痛い!…いたぁい!ごめん…ごめ~んってばぁ!」
豪ちゃんの飼ってる鶏は、人間の弱点を熟知してる。だって、ずっとあの子の足首を狙ってるんだ。
ひょこひょこと逃げ惑う豪ちゃんが妙に可愛くて…へらへら笑って縁側から見つめていると、パリスが自分の卵も回収しろと俺に言って来た。
「豪ちゃん…パリスの分も、拾ってくるよ…」
逃げ回るあの子にそう言って、パリスと一緒にピアノの部屋のテラスへと向かった。
「…怖いなぁ?あんなに大勢で襲い掛かって来るんだよ?群れって怖いなぁ?」
先を歩く彼女は、俺を振り返ると首を傾げて言った。
「コケココ…」
そんなの…常だって…言った気がして、おかしくてクスクス笑った。
「あぁ…パリス嬢、今日も美味しい卵をありがとうございます。」
そう言いながら卵を拾い上げる俺に彼女はコクリと頷いて見せると、背筋を伸ばして、誰よりも美しく去って行った。
はぁ…俺のパリスは、一味違う。
上品で、気品があるんだよ。
ため息を吐きながら彼女を見送って、大勢の鶏が闊歩し始めた庭をぐるりと回って縁側に戻って来た。
「ひ~ひっひっひっひ!」
未だに笑い転げている健太を素通りして、足を突かれたあの子が足をひょこひょこさせながら台所に立つ姿を見つめて言った。
「…卵持って来たよ?怪我した?大丈夫…?」
「ん~!痛かったぁ!」
「可哀想に…ペロペロしてあげるよ…」
「うぇっほん…!」
あの子の背中に抱き付いて腰をくねらせる俺に、いつもの様にわざとらしい咳ばらいをした健太は、ガン開きの瞳で俺を見つめながら首を傾げて言った。
「惺山は、30も過ぎてるのに、豪ちゃぁ~ん!なんて泣きべそかいて、ダサいな?」
はは…
っとんだ、馬鹿野郎だな!
あれはわざとだ。
鼻で笑って彼の小言を受け流すと、お鍋に野菜を入れるあの子を見下ろして言った。
「小松菜…?」
「そうだよ?旬だからたくさん食べてね…?今度、タケノコも取って来てあげる。」
あぁ…豪ちゃん…豪ちゃん…!
「うん…タケノコ…食べたぁい!」
そう言ってデレデレに甘えて、ハフハフした後…動き辛そうな腕の中のあの子を解放してあげた。
「惺山…髪を切ってやっても良いぞ?」
居間に胡坐をかいて座った健太が、俺を見上げて、突然そう言った。
「…いや、襟足は切らない事にしたんだ…」
そう言って断る俺に、彼は首を傾げて言った。
「そうじゃない。全体的に伸びて来て、汚いおっさんになりかけてるぞ…」
え…?!
確かに…ここへ来て、約3カ月。その間…ずっと、美容室に行ってない。
「…どの位、汚い?」
「なんか、絵描きに居そうな雰囲気になってる…」
健太の言葉に絶句して、立ち尽くした。俺は作曲家で絵描きじゃない。
台所でこちらの会話に聞き耳を立てている豪ちゃんに聞こえない様に小声で言った。
「切って…」
「まいど~!」
そんな健太の様子にハッと瞳を見開いた豪ちゃんは、包丁を俺に向けて言った。
「ん、せいざぁん…襟足は切らないって言ったじゃん!だぁめ!」
「後ろだけ伸ばすの…?マレットヘアじゃん…やばい、一周回って…やばい…!」
馬鹿にした様に頬を上げて笑う健太と、包丁を俺に向ける豪ちゃんの間に挟まれた。ここは…凶器を握り締めたあの子を宥めるのが先だ…!
「…整えてもらうんだ!短くする訳じゃない…。全体的に、整えてもらうんだ!」
ギロリと目の奥を光らせた豪ちゃんは、そんな俺の言葉を半信半疑に聞いている様だ…。目の奥の鋭さを残したまま、台所へと戻って行った…
可愛い豪ちゃんは、思った以上にやきもち焼きで…俺の襟足に、ただならぬ執着心を持ってる…。
可愛いじゃないか!はは!
「じゃあ…今度の休みに切ってやるよ。」
健太の言葉に頷く俺の目の前に、お味噌汁をコトンと置くと、豪ちゃんが確認する様に聞いて来た。
「…後ろは…長めにするよね…?」
ねえ…豪ちゃん、こんなに髪型に拘られると、まるで俺が好きなんじゃなくって…髪型が好きなだけなのかと…不安になって来るよ…?
「も、もちろんだよ…」
あの子の顔を見つめてそう言って、ご機嫌取りする様に重い腰を上げてお味噌汁を運ぶお手伝いをする。
「豪!兄ちゃんのどんぶり!」
「ん、もう!待ってぇ!」
全く…甘えん坊の兄貴は、ふんぞり返ったまま運ばれる朝食を当然の様に待ってるんだから。
…今どきの男じゃないね?
健太を軽蔑した瞳で見つめると、あの子が手渡す卵焼きのお皿を持って、甲斐甲斐しくテーブルへ運んだ。
「健太も何かしろよ…!」
そう言って健太の足を蹴飛ばした。
…男兄弟で育ったせいか、男に対しては、言葉と暴力はセットだと思ってる。
そんな俺の足を思いきり引っぱたき返した健太は、あろうことか…俺に中指を立てて言った。
「…うるせえ!」
はぁ~っ?!なんて奴だ!
「も…喧嘩しないで。」
健太にプルプルと怒りをため込む俺を見た豪ちゃんは、そっと背中を撫でて宥める様にそう言った…
…ふんだ!
俺を横目に見ながらニヤ付く健太なんて無視する。
膝を崩して座った豪ちゃんの隣で胡坐をかいて座って、一緒に両手を合わせて、いただきますをした。
「いただきまぁす。」
「ぷっ!」
あぁ、健太…お前は晴れて小林先生と別れて、いっぱしの男を決め込んで、豪ちゃんにデレデレの俺を見て嘲笑っているだろうが…。今に、同じ様な女に掴まって…割を食うのは目に見えてる。
今だけ…余裕の男を気取れば良いさ…
どうやって別れたら良いの…?なんて、泣きついて来たくせに…
そんな事、思っても言わないさ…だって、俺は大人だからね。
子供相手に、ムキになったりしない。
「豪ちゃん?昨日…小林先生は俺に猛烈アタックして来たよね?」
そう言ってあの子の顔を覗き込むと、ギクッと肩を震わせる健太を視界の隅に見て、ほくそ笑んだ…
「ん…どうかしてるんだ…」
豪ちゃんは短くそう言って、俺のお茶碗に卵焼きを乗せた。そして、真顔のまま俺を見上げて聞いて来た。
「次、されそうになったら…どうするんだっけぇ…?」
おほほ~!怖いなぁ、豪ちゃん!!
「薙ぎ払う…」
あの子の瞳を見つめてそう言って、あの子がコクリと頷いてご飯を口に入れるのを見届ける。
可愛い…
豪ちゃん…めちゃくちゃやきもち焼きなんだ。
真顔で威圧して来た!
「くぅ~~~!」
悶絶を打ちながら体を揺らす俺に、健太が顔を歪めて言った。
「…惺山は気持ち悪いな、豪!」
「やめてよ!怒るよ?」
そうだ。豪ちゃんは強いんだからな!
そう言ったっきり、健太と目を合わせ続けるあの子の表情は、俺の所からは見れないけど…きっと、あの真顔で健太を見つめてるに違いないんだ…
だって、健太が分が悪そうに視線を泳がせているからね。
はっは~!
「ちっ!なぁんだよ。冗談だよ…ばか豪!」
健太はそう言うと、どんぶりのご飯をかっ込みながらチラチラと豪ちゃんの顔色を窺った…
哲郎も、健太も…豪ちゃんの塩梅を分かってない。
この子は、絶妙な意地悪が大好きで、それ以外は…大嫌いなんだ。
…そして、そのピンポイントを突く事が出来るのは、俺だけだ。
「豪ちゃん?小松菜…今日も美味しいね?」
あの子の顔を覗き込んでそう言った。そうしたら、豪ちゃんは嬉しそうに瞳を細めて、笑った…。
それは、この子の家の…仏壇の母親の遺影にそっくりの…可愛らしくも美しい、可憐な笑顔。俺の大好きな…可愛い笑顔だ。
そして、いつもの様にごちそう様をして、豪ちゃんのお手伝いをそつなくこなしていく。毎日こなしているせいか、俺のお手伝いは自然と身に付いて行った。
人はこれを成長なんて呼ぶんだろうか…。
いいや、俺はただ…この子に順応してるだけさ。
「豪!兄ちゃんは行くぞ!」
縁側に座った健太が偉そうにそう言った。お皿をしまい終えた豪ちゃんは、いそいそと健太に駆け寄って行った。
「兄ちゃぁん…ポンポンしてぇ?」
あぁ…良いなぁ。
こんな弟が居たら、俺は兄貴ふたりにいじめられた鬱憤を弟を愛でる事で癒す事が出来たのに…!
頭を差し出す豪ちゃんに、ポンポンと手を乗せる健太は、瞳を細めた優しい兄貴の表情をしていた…
そう、このふたりは…兄弟。ギリギリの兄弟だ…
アウトとセーフを行き来してる様な、ギリギリ兄弟だ。
「じゃ、惺山…作曲、頑張れよ!」
そんな生意気な事を言われて、苦笑いを返して手を振ると、敷地の中からバイクのエンジン音が聞こえて、鶏が数羽、走って逃げた…
「バイクかぁ…」
あっという間に見えなくなった健太を見送ると、俺の手を握った豪ちゃんは首を傾げながら見上げて言った。
「後ろに乗った事があるけど、飛ばされそうで怖かったんだぁ。だから兄ちゃんにギュって掴まって…目を瞑ってたんだぁ。」
ギュって…捕まったら駄目だ。
豪ちゃんを後ろから抱きしめて、クスクス笑いながら一緒に洗面所へ向かった。
「豪ちゃんの歯ブラシ、可愛いね…?」
家から持って来た豪ちゃんの歯ブラシには、鶏の絵が描いてある…。それは少し不気味に滲んでいた…
豪ちゃんはそんな鶏歯ブラシを使わずに、俺の歯ブラシの隣にささったままの前使った事のある歯ブラシを手に取って言った。
「ん、こっちを使おう。」
ふふ…好きにすればいい。
小さな鏡の前で一緒に並んで、身支度を整えた。すると、ボサボサの寝癖の髪を全部濡らしてドライヤーで乾かし始める俺を見上げた豪ちゃんが、頬を赤くして言った。
「カッコいい…」
…良く分からない。
豪ちゃんが俺にトキメクポイントが、よく、分からないよ。
8割は髪の毛に関係する事が多いのは知ってる。それ以外が、良く分からない…
「…ふふ、豪ちゃんは可愛いよ?」
俺は髪を乾かしながらそう言って、胸に抱き付いて首を伸ばして来るあの子の可愛いキスを受け取った。
突然、髪の毛が抜け始めません様に…
一気に興味を失くされそうだ。
「今日は…?」
俺の顔を見上げてあの子が聞いて来るから、柔らかい頬をプニプニと手の中で揉みながら言った。
「うん…ピアノの部屋に籠るよ…」
「そう。じゃあ…コーヒーを淹れて持って行ってあげるね。」
あの子はにっこりと微笑んでそう言うと、台所でお湯を沸かし始めた。
あぁ…離れたくない。
そんな後ろ髪を引かれる思いを抱えながらピアノの部屋に入って、昨日書き上げた五線譜を手に、テラスの窓を開けた。
もう秋だ…
空気に湿気を含まない爽やかな風が吹いてる…
7月に来て…もう9月…そして、今日は月曜日…
豪ちゃんの学校は、いつ始まるんだろう…?
「はい、コーヒー持って来たよ?」
あの子が後ろでそう言うから、振り返りながら尋ねた。
「…豪ちゃん、学校行かないの?」
「行くよ?でも、今日は行かない。」
なんだと…
表情を変えないでそう言ったあの子を見つめると、首を少し傾げてもう一度聞いてみた。
「…もう、始まってるの?」
俺の言葉に同じ様に首を傾げたあの子は、あっけらかんと言ってのけた。
「うん。今日から。でも行かない。」
なんだと…?
差し出されたコーヒーを受け取って、あの子の顔を見つめたままピアノの椅子に腰かけた。そして、平静を保つため…コーヒーを一口飲んだ…
「どうして…?」
そう言ってあの子を見上げると、豪ちゃんは俺の襟足を指に絡めながらクスクス笑って言った。
「だって、惺山が心配なんだもん。」
そんな、欠席の理由が…まかり通るのか…?
「そう…」
…そう言うしかなかった。
この子にとっては、学校よりも…俺のお世話の方が大事なんだ。
「…じ、自主勉強は、ちゃんとしなさいよ?」
あの子を見上げて申し訳程度にそう言った。すると、豪ちゃんは口をへの字に曲げながらピアノの部屋を出て行った…
やれやれ…健太はこの事を知ってるのかな…?
空の五線譜の隅に“豪ちゃん学校休んだ。健太に報告する。”と、書いて鉛筆を置いた。
「さてと…」
そう呟いて昨日したためたメロディを楽譜を眺めて繋ぎ合わせながら、第一楽章を組み立てていく。
大体のお決まりとして、第一楽章はソナタ形式…
起承転結を持った形に仕上げていこう。
あの子をイメージしたフレーズ、メロディを、主題として…第一楽章の中で何度も登場させながら、お話を進めていくんだ。
起…これは、間違いなく…この子が仮死状態で母親のお腹の中に居る状態だ。
承…続けて、母親の決断と親父の逃走…なす術なく大人に翻弄された健太と、仮死状態で生まれて、息を吹き返したあの子…
転…自ずと分かった、他の人と違う自分への葛藤…父親からの激しい拒絶感。本当の事を言ってはいけないと…幼心に察してしまった、気付きの転換期だな。
結…一貫して言えることは、この子が母親に愛されて産まれて来た子だという事。特異稀なる感受性を持ち合わせて、他人に理解されなくとも…。この子は、産まれる前から、愛されていたんだ。
鍵盤の上を自然と指が走って、情景が一気に目の前に浮かんで…ドラマティックに展開されていく…。
あぁ…豪ちゃん、君は…お母さんに愛されてる。
死んでしまった今となっては、それは渇望しても手に入らない物のように映るけど、君が産まれて生きている事自体が…お母さんの愛なんだよ。
「ふふ…素敵なお母さんだ…」
口元を緩めてほほ笑みながら、頬を伝って落ちて行く涙をそのままに、踏んで行った鍵盤を五線譜に書き留めて行く。
すると、颯爽と通り抜けていく風の隙間に…少しだけの寂しさを垣間見せるソナタが完成した。
あの子の耳で聴いたら、これはガラリと様相を変えるんだ…
母親の思い、父親の葛藤、兄貴の決心…それらすべてをドラマティックに描いた…美しくも、悲しいお話に見える事だろう…
「…これで、良い…」
ポツリとそう呟くと、楽譜の初めに“#1”とナンバリングをして、ため息を吐いた…
「ねえ?」
突然隣から声を掛けられて体を跳ねさせて驚いた。いつの間にか隣に座った豪ちゃんが俺を見上げて言った。
「もう、3時だよ?そろそろお昼ご飯を食べてよ…」
「え…食べるさ…」
あの子を見下ろしてそう言うと、豪ちゃんは口をすぼめてピアノの部屋を出て、すぐにラップのかかったお皿を手に持って帰って来た。
そして、俺の隣に座り直すと、お箸で摘んだ焼きそばを口に運びながら言った。
「あ~んして…?」
「あ~ん…あ、冷たい。」
焼きそばを口に入れてそう言う俺に、豪ちゃんは困った様に眉を下げて言った。
「本当は12時くらいから何度もチャレンジしてたんだ。でも、惺山は全然気が付かないから、半分諦めてた。こんな時間にお昼ご飯なんて食べたら、夕ご飯がズレちゃうじゃない。ん、もう…」
頬を膨らませてそう言うあの子を横目に見ながら、さっき出来上がったばかりの第一楽章を鍵盤で弾いた。
「この曲は、ピッコロで主題を何度も登場させるんだ。ほら、今のメロディが”主題“だよ…?これを曲の中に何度も登場させる。」
俺の言葉に瞳を細めたあの子は、ホロリと涙を落として言った。
「さっきからずっと聴いてるから、知ってる…」
「目に映る…?」
あの子の顔を見つめてそう尋ねると、豪ちゃんは感情を堪える様に、口を一文字に食いしばって言った。
「惺山が怒ってしまったあの日…僕はあなたの音色が、言葉が、分からなくなってしまった。でも…これは、分かった…。鮮明に観えるよ?僕が産まれた時の情景だ…」
溢れて流れる涙を指先で拭ってやると、口を開いて言った。
「あ~ん…」
「…はい、どうぞ…?」
あの子が口に運んでくれる焼きそばを食べながら、もらい泣きしそうになった瞳を何度も瞬きしてやり過ごすと、胸の奥で確信する。
…伝わってる。
俺が、この曲に乗せた思いが…確かに、この子に…伝わってる。
それはまるで打てば響く様に…確実に、あの子の胸に届いて、俺の気持ちを伝えてくれた。
よし…
よし…!
良いぞ…この調子だ。
この調子で、この交響曲を完成させて…この子に贈ろう。
…もしも、俺が居なくなっても…この子が音楽から離れてしまわない様に…
この交響曲に、この子を音楽に繋ぎ留める…そんな楔になって貰おう。
「冷たくても美味しかった…」
焼きそばを完食した俺をなでなでしながら、豪ちゃんが顔を覗き込む様に可愛いキスをくれるのを待って、鼻の下を伸ばした…
「…夜ご飯は餃子にするからね?」
…餃子…?
そう言ったあの子を見上げると首を傾げながら聞いた。
「包むの?」
満面の笑顔を向けて頷いた豪ちゃんは、右手の指を数えながら楽しそうに言った。
「そうだよ。お肉と…キャベツと…ニラと、ネギも入れようね?牛脂と一緒に捏ねるから、美味しいんだよ?楽しみにしててね?」
手作りの餃子…
それは…旨そうだな…
ピアノの部屋を立ち去るあの子をぼんやりと眺めて見送ると、出来上がった第一楽章の楽譜を束ねてがら空きの本棚の上に置いた…
餃子か…
すっかり、俺の頭の中は餃子の事で一杯になった。
餃子への思いを馳せながらテラスへ視線を移すと、いつの間にか現れた…謎の黒い鶏が、俺のパリスの体の上に乗って、凄い速度で用を済ませた。
…そんな衝撃の瞬間を目撃して…絶叫した。
「ギャ~~~~!」
「何?何!どうしたの~?!」
大慌てで豪ちゃんがやって来て、絶叫したまま固まる俺の顔を掴んで自分に向けるから、俺は、何食わぬ顔でテラスの隙間に生えた草をついばむパリスを指さして言った。
「ぱ、ぱ、パリスがぁ!ファックされたぁ…!!」
「えぇ…?ファックって、何…?」
あの子はそう言うと、テラスに出て、パリスを持ち上げて、体のあちこちを見て言った。
「…どこも怪我してないよ?」
怪我なんてしない…傷付いたのは、俺の心だ…
パリスの操を守れなかった…
「…あいつが、あの…黒い鶏が、俺の可愛いパリスに…エッチな事してたんだぁ…」
そう言って項垂れると、俺の顔を覗き込んだ豪ちゃんが言った。
「有精卵が産まれるかもしれないね?いつもパリスが卵を産む所に…藁を敷いておいてあげよう。」
早漏にも程がある早さだった…あの黒い鶏は口ほどにも無い…早漏野郎だ!
見た目が良いからってモテるだけで、一回エッチをしたら女の子にフラれる…
…あいつは、そんな、早漏野郎だ!
項垂れる俺を尻目に、豪ちゃんはいつもパリス嬢が卵を産み落とす所に藁を敷いた。
そして、俺を見上げると、眉を下げて言った。
「パリスは今までだって、雄鶏と交配して有精卵を産んでる。」
あぁ…とどめを刺して来た。
夢見がちな主観に囚われて、心痛めた俺に…天使の顔をしたリアリストが現実を突き付けて来た…
「…今日はもうやらない!豪ちゃんの、餃子を見る…」
だって俺の頭の中には、餃子の事と、早漏の黒い鶏がパリスの上ですぐにイッた瞬間しか…思い浮かばなくなったんだ。
いじけた様にそう言った俺は、豪ちゃんに抱き付いて甘ったれた。そんな俺を見上げて、クスクス笑った豪ちゃんは首を傾げて言った。
「…じゃあ…餃子の皮の材料を家に取りに行こう?ついでに買い物にも行かないと。」
買い物か…
晋作の商店には、何も置いてない。トイレットペーパーしか、無い。
「車を出すから…スーパーまで行って揃えたら良い…」
俺は豪ちゃんの背中を抱きしめてそう言った。
「ほんと?じゃあ…そうしよう?」
パリスの情事を目撃したショックと、手づくり餃子への興味が…俺の創作意欲を一気に奪って行った…
簡単に戸締りを済ませて、助手席にあの子を乗せて車を出した。
目的地は、村と…町のちょうど中間にある、スーパーだ。
車を持ってる世帯は、晋作の商店を利用しないでこっちに買い物に来ているみたいだ…。でも、あいつの商店が仕入れてるベーコンは、めちゃくちゃ旨かった…
きっと養豚家から直接仕入れてるんだろう。
スーパーではお目にかかれない脂の乗り方をしていたからね…
「えっと…ニラと、キャベツと…ネギ、ニンニクとショウガも買って…後は、強力粉と薄力粉…お肉は合挽で良いや。」
スーパーに到着すると、あの子はそう言いながら籠を手に持って、サクサクと買い物かごに商品を入れてどんどん先へと進んでいく…
豪ちゃんは、目的の物以外…目もくれないタイプだな。
どんどん重たくなって行く買い物かごを代わりに持って、豆腐と油揚げをさりげなく入れた。そんな中、ふと、俺を見つめるあの子を見つめて首を傾げた。
「…持ってくれるの?」
「そうだよ…?」
俺がそう答えると、豪ちゃんは顔を真っ赤にしてもじもじしながら言った。
「うぅ…優しい…」
これが今どきの男だ…!どうだ、健太!お前には出来ないだろう?!
「当然さ…」
そう言って瞳を細めると、潤んだ瞳で俺を見つめるあの子の瞳を見つめて言った。
「重いからね…」
「あぁ…好き。」
豪ちゃんはうっとりしながらそう言うと、手に持ったひき肉を2パックかごの中に入れて、牛脂を鷲掴みしてかごに入れた…
俺にデレデレになっても…そつなく買い物をこなす姿は、まるで上級者の主婦だな!
全く、隙が無い!
「豪ちゃん…お刺身食べたいね?」
「…イカなら良いよ?」
ほらね…?隙が無い…
旦那の財布と懐事情を鑑みて、不可能な要求にも最大の譲歩を見せてくれるんだ…
「ん…」
そう言ってニコニコしながら、20パーセントオフになったイカの刺身を持って来ると、あの子が横目で確認する姿を見て、口元を緩めて笑いながら買い物かごの中に入れた。
…マグロとか持って来たら、却下されるのかな…?
自分の所得、分かってる?って冷たく言われて…かにかまを目の前に突き付けられるのかな…?あんたはね、この程度の海産物しか…食べられないの。なんて、暴言を吐かれて、足蹴に扱われるのかな…?
それは、ある意味…夜への誘いと捉えて、ご褒美に変換していく必要がある…自尊心の破壊行為だ。
はぁ…はぁはぁ…興奮しゅる…
「せいざぁん…これ、飲んでみたい…」
すっかり勝手な妄想に良からぬ思いを興奮させていると、飲み物売り場に立ち止まったあの子が俺を振り返ってそう言った…
これ…?
あの子の指さした商品を見つめると、首を傾げながら言った。
「買ったら良いじゃないの…」
「良いの?」
「…別に、どうぞ…?」
「わぁ…!」
嬉しそうにタピオカミルクティーを買い物かごに入れた豪ちゃんは、俺の腕を掴んでレジに連れて行った。
所要時間…わずか15分。
あっという間に買い物を終えた豪ちゃんは、助手席に座って、大事に抱えたタピオカミルクティーに太いストローをブスリと差した。
「これ…初めて食べる…。なんだか、カエルの卵みたいだね?」
ニコニコしながらあの子はストローに口を付けて思いきり吸い込んだ。
「んん…!見てぇ?こんなに大きい!」
「どれ…あぁ、本当だね?」
舌の上にタピオカを乗せた豪ちゃんがこれ見よがしに俺に見せて来るから、そう言いながらあの子の舌を口に入れて、タピオカを奪ってやった。
「あふっ!」
そんな声を出して俺を誘惑するあの子に首を横に振って、イケボで言った。
「だめだよ…ここじゃ、さすがにスーパーの駐車場で…エッチな事は出来ないよ…」
「ん、もう!どうして取ったの!ばぁかぁ!」
豪ちゃんは怒った様だ…。でも、俺の腕をパシパシと叩いて詰ったとしても、あの子の頬は真っ赤に染まってる。
こんなの、ツンデレのじゃれてる内だよ。
豪ちゃんが本当に怒ると、真顔になるって…知ったからね。
あの子がタピオカミルクティーを飲み終える頃…大きなボールと麺棒、それと計量カップをあの子の家に取りに寄って、徹の実家へと戻って来た。
「さてさて、まずはぁ、お湯を沸かして…」
そう言ってあの子がお湯を沸かし始めるのを居間でテレビを見ながら眺めていると、豪ちゃんは計量カップで測りながらボールの中に薄力粉と、強力粉を入れて菜箸で混ぜた。
手慣れてる…
熱湯をボールに注ぎ込んで俺の隣に座ると、豪ちゃんは菜箸を動かしながら言った。
「こうして…こうしてぇ…」
「…それが餃子の皮になるの?」
ボールの中を覗き込みながらそう尋ねた俺に、豪ちゃんはにっこり笑うと、ビニール手袋を付けて、両手で生地をこねながら言った。
「…ん!そうだよぉ!…こうして、良く捏ねるの!」
何度も体重を掛けて生地を捏ねる豪ちゃんに、何故か妙なエロさを感じた。鼻の下を伸ばしながら細い腰を抱きしめて、いつもあの子が俺に言う様に言った。
「豪ちゃんは…物知り…」
「うふふ…」
嬉しそうに頬を赤くした豪ちゃんは、手際よくラップに生地をくるんだ。そして、俺を見つめてにっこりと笑って言った。
「10~15分…寝かせます。」
「ほうほう…」
そう言って感心して頷くと、豪ちゃんは忙しなく動きながら大きなまな板を持って来て、次の準備を始めた。
「皮だけ先に作って…あんは後で作る。」
ポツリとそう言って、片栗粉をまな板にまぶしながら俺に言った。
「ねえ…?惺山が交響曲を作っている間…僕は、バイオリンをもっと弾ける様になろうと思ってるんだ。だから、何か素敵な曲を教えてよ…」
ほほ…!良い心がけじゃないか…!
「そうだな…何が良いかな…?」
にっこりと微笑んでそう言うと、大きなお皿を準備するあの子を見つめながら考える…
この子にピッタリの曲…それはショパン、ワルツ第7番…嬰ハ短調。
これは、この子に会ったすぐ後からついて回る俺の主観…
何故かこの曲を聴くと、この子を思い出すんだ。
でも…これをバイオリンで弾くのは…難しいだろうな…
でも…
どうかな…
「ショパンの…ワルツ第7番嬰ハ短調…この曲は綺麗だよ。」
「どんな曲?」
あの子は食い気味にそう言うと、準備を止めて俺の腕を引っ張って言った。
「聴かせて…?惺山、聴かせて?」
あぁ…!可愛い!!
豪ちゃんに引っ張られながら立ち上がって、一緒にピアノの部屋に向かう。そして、催促されながらピアノの椅子に腰かけた。
隣に座ったあの子を見つめると、首を傾げながら言った。
「この曲は…変則的なロンドだ。途中で転調して…主題に戻って…消え入る様に終わって行く。…ポーランドのマズルカって言う4分の3拍子の特徴的なメロディを主題にしてる曲なんだ。それを…ワルツに乗せてる。」
「…うん。」
豪ちゃんは首が捩じれそうな位頭を傾げながらそう言うと、まん丸の真剣な瞳で俺を見つめて言った。
「…聴かせて?」
色々な奏者の色々な好みが別れる中、俺は…この曲を緩急をつけて、歯切れのよいワルツに乗せて弾く事が好きだ…
メロウで…甘い、そして…官能的かつ、清らかに、力強いマズルカを強調するんだ。
鍵盤に指を置いて、自分好みのワルツを弾いて隣のあの子に聴かせ始める。
「わぁ…」
すぐにそんな感嘆の声を上げた豪ちゃんは、楽しそうに体を揺らしながら俺のピアノに耳を傾けた。
あぁ…この子と…こうして一緒にピアノに座れる日が、いつか、終わってしまうなんて考えたくもないよ…。
豪ちゃん…知ってる?
俺はね、あんなに気狂いした先生の奥さんでさえ、弾いている最中…ピアノの隣に座らせた事は無いんだ。
気が散るし…自分の指先を見て欲しくなくて、誰かに聴かせる時は、必ず、ピアノの向こう側に居て貰う事を求めたんだよ。
君は普通に俺の隣に座って、俺の体にもたれかかって、俺の指先を目で追いかけながらピアノを聴いているけど、それは…俺にとったら、とっても不思議な事なんだ。
どうして、嫌がらずに弾けるのか…自分でも分からない。
でも…全然嫌じゃないんだ。
君に見られる事も、触れられる事も、何一つ、煩わしくない。
曲に派手に緩急をつけながら転調させて、雰囲気を一変させていく。そして、優雅に揺れる様なワルツが流れて行くんだ…
うっとりとため息を吐きながら、豪ちゃんが俺の腕に頬を付けて言った。
「…素敵…」
そうだね…俺もこの転調する所が好きだよ。
でも、もっと好きな所はこの後なんだ…
徐々に鍵盤を踏み込む力を強めて、再び戻った主題を強く踏みしめて、マズルカの特徴を大きく出しながら弾き鳴らした。
「あぁ…!」
そう言ってあの子が両手を胸に当てるのを横目に見ながら、口元を緩めて、美しく…静かに、曲を弾き終えた…
「…好き。」
あの子はポツリとそう言うと、俺の顔を覗き込んでキスをくれる。
それは可愛らしい物じゃなく、貪り付くような…激しいキスだった。
あぁ…!豪ちゃん…!!
堪らず豪ちゃんを抱きしめると、同じ様に熱くてむせ返る様なキスをして、体を抱き寄せて行く…
もっと…もっと、近くへおいで…
ピピピピ…
「あ…!」
突然豪ちゃんはそう言って俺の腕の中から抜け出た。そして、何食わぬ顔をしながらピアノの部屋を去って行った…
へ…?
「惺山、こっちに来て?」
なんだ…そっちで、続きをするの…?ぐへへ…
ニヤニヤしながら急いで向かうと、豪ちゃんは寝かせて置いた生地を3等分にして、棒状に伸ばしながら言った。
「惺山も…ビニール手袋、付けてやってみて?」
「あぁ~~~っ!!」
持て余す盛り上がった気持ちを噴出させる様に、ありったけの力を込めて雄たけびを上げた。そして、気が済んだら…あの子に言われた通り、ビニール手袋を付けて生地を伸ばした…
「あそこまでしたら…普通、最後まで行くもんなんだよ…?」
上目遣いにボールを挟んだ向こう側のあの子に言うと、豪ちゃんはキョトンと首を傾げて言った。
「どこに行くの…?」
「あんなキスしたら、最後までするもんなんだよ?」
鈍感な豪ちゃんにそう言い直すと、頬を真っ赤にしたあの子が俯いてもじもじし始めたのを皮切りに、俺はズズッとあの子の隣に移動して体を押し付けながら言った。
「豪ちゃん…豪ちゃん…」
「ん…も、ダメだよぅ…皮を作ってないもん…」
あの子はもじもじしながらそう言って、棒状にした生地を二本手に抱えたまま、さっき準備したまな板が置いてある居間へと逃げて行く…
…逃がすかぁ!
「ん~~!豪ちゃん…豪ちゃぁん!」
まな板の前にしゃがみ込んだあの子の背中目がけて、ぶりっ子しながら歩いて行くと、縁側に突如現れた者の第一声に動きを止めた…
「何してんの…?」
哲郎…
グレーのスラックスに…白い半そでのシャツ…そんな、制服姿の彼は、イケメン度数を一気に上げた。
この制服を…豪ちゃんも着るのか…それは、それは…美味しそうじゃないか!!
「何にもしてないさ…餃子の皮を、仲良く作っていたんだ。」
俺はそう言うと、手を差し出した豪ちゃんに、自分の持っていた餃子の皮の生地を手渡した。
「もう…振り回すから…カピカピになっちゃったじゃない!」
豪ちゃんがそう言って俺の足を叩くから、ニヤニヤしながら豪ちゃんの隣に座って、あの子が上手に麺棒で生地を丸くしていく様子を眺めた…
「豪ちゃん…今日、学校来なかったね?」
縁側に腰かけた哲郎がそう言うと、豪ちゃんはケロッとした表情で哲郎を見つめて、首を傾げて言った。
「あれぇ?今日から学校だったっけ…?」
嘘つきだ…
嘘つきの常習犯だ…
「そうだよ。今日から学校だよ。明日はちゃんと来るんだよ?」
哲郎は優しくそう言うのに豪ちゃんは返事もしないで、ひたすら餃子の皮を作った…
全く…この子は、良くないね…
豪ちゃんは、ズルい嘘つきだ…俺の傍に居たいから学校をズル休みをした癖に…天然を装ってうまく切り抜けて…本当に、悪い子だ…。
どうせ言っても理解してもらえない。そんな気持ちが、この子を“嘘つき”にする。でも、健太に話す事が出来たあの日、豪ちゃんはとても嬉しそうだった…
きっと、こんな些細な嘘を吐く度に、良心が痛んでるんだ。
でも、この子は頑固者。自分の信念を曲げない…強者。
俺を守る…その為の嘘なら、平気で付くんだ。
「…学校はどこなのさ…」
豪ちゃんをじっと見つめる哲郎にそう尋ねると、あいつは鬱陶しそうに俺を見て言った。
「…ねえ、もしかして、ここに一緒に住んでるの…?」
もしかしても…何も…一緒に住み始めました。
庭に散らばった…あの子の鶏の数を数え出した哲郎は、縁側から部屋の中に入って、豪ちゃんの隣にドカッと座った。
そして、ひたすら餃子の皮を作る豪ちゃんの顔を覗き込むと、強い口調で言った。
「豪ちゃん…!小屋を作るって、鶏小屋の事だったの?ねえ!ここにみんな連れて来たって事は、一緒に住んでるって事なの?!ねえ…!」
「そうだよ?一緒に住んでる。」
豪ちゃんはそう言って顔を上げると、哲郎の鼻に打ち子を付けてケラケラ笑った。
「健太も…鶏と一緒に来た…」
付け加える様に俺がそう言うと、哲郎はため息を吐きながら言った。
「…はぁ、豪ちゃんも、健ちゃんも…分からないよ…」
そうだな…全くもって、健太の心情が、良く分からない。
「だって…惺山はもうすぐ帰っちゃうんだ…。交響曲を作ったら…東京へ帰っちゃうんだ…。だから、それまでずっと一緒に居るんだ…」
モゴモゴと小さい声で、あの子がそう言った。
そんな言葉を拾って目を丸くした哲郎は、俺を見つめて怪訝な表情を向けて言った。
「…本当…?」
「あぁ…本当だ…」
俺の答えに、あいつは一瞬…口元を緩めた…
分るよ。
俺が、邪魔だったもんな…
「…健ちゃんも一緒なんだな?…だったら、大丈夫か…」
哲郎の言葉に眉をひそめた豪ちゃんは、黙々と餃子の皮を作りながら言った。
「…何が、大丈夫なの?」
「え…いや、別に…」
口ごもった哲郎は、それ以上何も言わなかった。ただ、餃子の皮を熱心に作る豪ちゃんの屈んだ時に出来る、首元の隙間を眺めて視姦し始めた。
この…むっつり、ドSめ…
「…はぁ、出来たぁ…」
大量の餃子の皮を作り終えた豪ちゃんは、皮の乗った皿にラップを掛けてテーブルの上に置いて言った。
「はぁ…疲れたぁ…」
可愛い豪ちゃんが天井を見つめて仰向けに寝転がっている姿を、俺と…哲郎が、視姦し続ける中、縁側にやって来た大吉と清助…晋作が声を揃えて言った。
「豪ちゃん、ずる休みだ!」
「違うもん!忘れてただけだもん!」
豪ちゃんが…また、嘘を吐いた。
でも、どうかな…
もしかしたら、君の嘘はみんなにバレている可能性を秘めてる。だって、晋作も、清助も、大吉も…君を見て、残念そうに眉を下げているからね…
縁側に座った3人を見ながら、哲郎がケラケラと笑って言った。
「ここに…健ちゃんも、鶏も連れて来て、おっさんと一緒に住んでるらしいよ?」
「えぇ~~~!良いなぁ!僕も住みたい!」
反応の早い大吉は、俺の仕事用の3つ並んだモニターを指さして言った。
「これで、AVが見たいんだよぉ!」
…動機が、おかしいね…
「なぁんでそんな事してんの?健ちゃんは嫌がらないの?」
晋作の言葉に、哲郎があの子の代わりに言った。
「おっさんが、もうじき帰るらしい…。それで、兄弟で住み込みして世話を焼いてるみたいだ…。まぁ…健ちゃんが一緒だから、大丈夫だろう…」
「だから、何が大丈夫なの?」
豪ちゃんはそう言って寝返りを打つと、哲郎の膝の上に頭を乗せて、あいつの足を撫でた。
あぁ…豪ちゃん、お仕置きが必要だね…
鼻の下を伸ばした哲郎が返答に困っているじゃないか…
そんないちゃつきなんて慣れっこなのか…華麗にスルーして清助が俺を見上げて聞いて来た。
「いつ…?いつ帰るの?」
「あぁ…今、作ってる交響曲が出来上がったら、東京へ戻るんだ…」
俺の言葉に、縁側の3人は寂しそうに眉を下げて言った…
「えぇ…帰んないでよ…寂しくなるじゃん。」
あぁ…!
やっぱり、俺はここへ来て、子供にモテる様になったみたいだ!
こんなに別れを惜しまれるなんて…思ってもみなかった。
「なんだ…その、楽しかったよ…ありがとう。」
そんな俺の言葉に、大吉が突然泣き始めた!
「おじちゃん!東京に帰る前に…女の人のどこに挿れたら良いのかだけ、教えて行ってよ!僕、僕、知識が偏ってるんだ…だから、ちゃんとした現実を教えて行ってよ!」
大吉…お前、本当に…!
「徹叔父ちゃんは知ってるの?」
清助は腑に落ちない様子でそう言うと、哲郎の膝の上でこの様子を眺める豪ちゃんに言った。
「豪ちゃんは…なんで泣いてないの…?」
「確かに、いつもならビービー泣いて暴れ回る筈なのに…全然、ケロッとしてる…」
清助の言葉に頷いた晋作がそう言って、豪ちゃんの顔を覗き込んで言った。
「…なんで、泣いてないの?」
鋭いな…
鼻の下を伸ばして誤魔化される哲郎とは違う…
豪ちゃんは目を泳がせて、そんな彼らへの返答に困って眉を下げた。
「…泣いたさ。そりゃもう、凄い勢いでね…。だから…仕方なく、ここに住まわせてるんだ…」
咄嗟に…俺も、嘘を吐いた。
そんな俺の話に納得したのか、晋作も清助も、豪ちゃんを射る様な視線を止めた。そして、俺を見上げてポツリと言った。
「…残念だよ。おっちゃん…好きだったのに。」
子供に懐かれるのも、悪くない…
「俺も…お前たちの事が、好きだよ…?いつも、笑わせてもらったし、子供の頃、ここに住んで居たら…もっと楽しかっただろうなって…何度、思った事か…」
しみじみそう言いながら縁側に腰かけて、クスクスと笑った。そんな俺の隣に座った大吉は、眉を下げながら顔を覗き込んで聞いて来た。
「おじちゃんが僕たちと同じ年だったら、誰と友達になりたい?」
あぁ~…ははは、大吉…!
こいつは、本当に面白い事を言う子だ…!
俺は大吉の顔を覗き込むとケラケラ笑って答えた。
「…みんなと友達になりたい。晋作は状況を見極めるタイミングの天才で、清助は面倒見のいい男気のある奴だ。そして、大吉は…面白いから、一緒に居ても飽きない。豪ちゃんは…優しくて料理が上手で…哲郎は、絶対に敵わない…男の中の男だ。こんな仲間と一緒に遊べたら、それは…子供時代だけじゃない、大人になっても良い思い出になる。だから、俺はみんなと友達になりたいよ。」
ここへ来た時、まさか自分がこんな気持ちになるなんて…思いもしなかった。
他愛のない日常を送る事が、こんなにも楽しいだなんて、知らなかったんだ…
俺の言葉に一様に顔を赤くしたギャング団たちは、首を傾げながら照れ隠しをし始めた。そんな中、大吉だけは俺を見つめたまま、ニヤリと口端を上げて言った。
「…てっちゃんは、多分、おじちゃんとは仲良くしてくれないと思うよ?」
はッは~!さすが大吉だ!
パンチのある事を言った大吉を横目に見ながら、俺は彼と同じ様にニヤリと口端を上げた。すると、大吉は付け足す様に首を傾げて言った。
「だって…恋敵だからね?」
「ははっ!お前は、本当にろくでも無いな…?例えば、俺とお前がデキてるって言われたら、どうだ?」
ケラケラ笑いながら大吉にそう言ってやった。
こいつはね、勘が鋭いんだ。
だから、こうしてけん制してやらないと、どんどん他人の懐に入ってっちゃうんだ。
「…おじちゃん、僕は無理だよ…ごめんね…」
大吉は残念そうに眉を下げてそう言って、少しだけ俺から距離を取った…
「馬鹿だな!他の人も同じだ!自分が言われて嫌な事は、人に言うんじゃないよ。」
「よく言った!」
晋作がそう言ってケラケラ笑うと、清助が続けて言った。
「すぐにそう言う目で見るのも大概だな?大ちゃん!」
「んふぅ~!」
頬を膨らませて不満げに唸った大吉は、俺を見上げて言った。
「…分かったよ!おじちゃんの顔を立てて、そう言う事にしといてあげる!」
ふふ…本当に、ここの子供たちは…愛らしいな…
素直で、純粋で、心が…あったかい…
つまり、良い子たちなんだ。
「豪ちゃん…眠いの?」
「眠くないよ?」
あの子を膝枕しながら哲郎がうっとりとそう言うと、即座に否定するあの子の声が聞こえて、口元を緩めた…
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