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#26

「じゃあ…豪ちゃんが餃子を作る間…俺たちは鶏小屋に屋根でも付けるか…」 清助の言葉を皮切りに、しんみりとしてしまった空気が、いつものワチャワチャへと戻って行く。 …俺は、この子供たちの、ワチャワチャが好きだ… 晋作がどこからともなく道具を運んでくると、大吉がベニヤ板を運びながらこちらを見て言った。 「てっちゃん!もう、豪ちゃんから離れて…こっちを手伝ってよ!!」 「え…あぁ…あ、あぁ…分かった…」 しどろもどろになった哲郎は、寂しそうに豪ちゃんの頭を自分の膝から畳の上に置いた。そして、うつろに瞳を開く豪ちゃんの顔を覗き込んで言った。 「豪ちゃん…屋根、付けるよ?」 「うん。てっちゃん…屋根、付けて?」 ニッコリと微笑んでそう言った豪ちゃんの笑顔に鼻の下を伸ばした哲郎は、颯爽と縁側を下りて行くのであった… 「豪、明日は学校へ行きなさいよ…」 哲郎のお膝で十分に休憩した豪ちゃんは、さてさて…と台所へ向かおうとした。そんなあの子に、そう言って釘を刺した。すると、豪ちゃんはムッとした表情を向けて俺を見るので、同じ様にムッとした顔をして言った。 「具合が悪くないのに休んだりするのは無しだ。ちゃんと学校へ行って、勉強しなさい。そうじゃないなら、この家に居る事を許可しないぞ?」 攻めだ!この子のこの強情には、攻めの姿勢が大事なんだ。 俺の言葉に、豪ちゃんは口を尖らせると体を捩って駄々をこね始めた。 「ん、だってぇ!」 「俺が心配なんだろ?分かってるよ。でも、俺も、お前が心配なんだ。それを忘れないでくれよ。」 怯まない。たじろがない。可愛い顔に騙されて言う事なんて聞くもんか! 潤んだ瞳に絆されてしまいそうな心を律する様に、そんな強い気持ちを持って、正論であの子を諭した。 すると、豪ちゃんは、何も言えなくなったのか…黙ってコクリと頷いた。 制服姿のお前が見たいなんて、言わない… そんな事は主要な目的じゃないんだ。 出来る環境にあるのなら、きちんと教育は受けた方が良い。 大人の俺が言うんだ…間違いない。 ザクッザクッ… ムスくれた顔をしながら、豪ちゃんがキャベツを刻み始めた。ニラ、ネギと…次々と刻んでは大きなボールに入れて行く。そんな様子に瞳を細めて、すぐにお手伝いに向かった。 「…はは、これは…店でも開くくらいの量だぞ?」 ボールの中に入った材料を覗き込んで俺がそう言うと、豪ちゃんは全身の力を込めて、ボールの中のあんをこね始めた。グラグラと揺れるボールを両手で抑えて、ムスくれた顔の豪ちゃんを見上げた。すると、あの子は、頬を膨らませたまま俺を見下ろして、口を尖らせて言った。 「…惺山と、ずっと、一緒に居たい…!」 まん丸の瞳からボロボロと涙が溢れて来るから、俺はそれを手のひらで受け止めて言った。 「…俺も同じ気持ちだよ…分かるだろう?」 「ん、分かるぅ!」 語気が強いのは…ご愛敬だ。 やりきれない気持ちを餃子のあんにぶつける様に、豪ちゃんは熱心にかき混ぜ続けた。 …まさか、このタイミングで彼らに俺が東京へ戻る事を話すとは思わなかった。 それは、まるで、俺のはしごを外していく様な、逃げ道を断って行く様な… 覚悟を揺るがせない為に、俺を追い詰めて行っている様に感じるよ。 …豪ちゃん、君は、思った以上に厳しいね。 これで俺は…交響曲を作り終えたら東京へ戻る男として、周知された。 やっぱりや~めた!…なんて、反故にする事だって出来るけど、そんな事俺はしないと踏んでるんだろう。 厳しいね…豪。 「ふふ…どうすんだ、こんなに大量に作って…!」 ケラケラ笑いながら、俺は怒った顔のあの子の顎を撫でて、瞳を細めて言った。 「本当に…お料理上手だな…」 あんが出来上がると、豪ちゃん特性の皮にスプーン一杯分のあんを乗せて、水を付けた皮のふちをひだを作りながら閉じていく。 これが…なかなか難しいんだ… 「ん…ヨッと…あらら…こぼれて行く…ここを、こうして…あらら…破れた…」 苦戦する俺を見てクスクス笑った豪ちゃんは、もう怒った顔を止めたみたいだ。俺の手の中でぐちゃぐちゃになった餃子を、指で押さえながら一緒に手伝ってくれる。 「んふぅ…もう…力任せにしないの…。引っ張りながら…こうして、ひだを作って、止めて行くの…。あぁ…だぁめ…こうして、優しく摘んで止めるの…。ふふ…もう、惺山はせっかちなんだからぁ…!」 あぁ…ウフフ… 耳の奥で”調子のいい鍛冶屋“が流れ始めたのは…きっと、豪ちゃんに教えて貰っているから。…どうしてか、俺はこの子が料理を始めると、この曲がBGMで流れ始めるんだ。 それは、手際の良いこの子の手つきに、小気味の良い”調子のいい鍛冶屋“の運指を重ねているのかもしれない… それとも、細かく運指を運ぶこの曲に…ちょこまかと忙しなく動き回るあの子を重ねているからなのかもしれない… …ただ、いつもこの曲が流れ始めるんだ。 「上手く出来ないよ…」 甘ったれてそう言うと、あの子は俺の隣に座り直して、両手で俺の手を包み込んで教えてくれた… 「…だからね?こうしてあんを乗せるでしょ?そうしたら、ふちに…こうしてお水を付けて、ここから手をこうして…こっちの皮を軽く引っ張りながら、ひだを作って…止めていくの。こんな感じに…。ほらぁ…!惺山…上手に出来たじゃない。」 あぁ…ウフフ…! 「豪ちゃんがずっと手を包んでくれたら…上手に出来るのに…」 デレデレしながら隣に座ったあの子にそう言うと、豪ちゃんは頬を真っ赤に染めて嬉しそうに俺の体にくっ付いて言った。 「ん…だぁめぇ…惺山はこんなに指が綺麗なんだもの…きっと上手に包めるよぉ?」 いいや、正直、無理だ。 お皿に乗った餃子たちを見れば良く分かる。 形の整った売り物のような豪ちゃんが作った餃子と…何個作っても上達する事なくグチャグチャのままの俺の餃子… 「豪ちゃんの手加減が良いんだ…だから、ずっと手を包んでてよ…」 そう言ってあの子の頭に頬ずりすると、豪ちゃんはクスクス笑いながら言った。 「ん、もう…次で最後だよ?」 そう言うと、俺の手のひらを包み込みながら、再び餃子を作り始めた… あぁ…ウフフ 「おじちゃん…幸せそうだね?」 そんな大吉の声なんて…どうでも良いさ。 「ほんとだな…天に召してる。」 そんな晋作の冗談にもならない物騒な言葉なんて…どうでも良いさ。 「豪ちゃん、うちには豪ちゃんが包んだ奴、頂戴よ?おっちゃんのは汚いから要らない。」 そんな清助の傷付く言葉なんて…気にしないさ… 汚い…?汚い…?酷くないか…? 「ふふ…良いの。惺山が作ったのは…全部、豪ちゃんのだもん。」 嬉しそうにあの子がそう言って微笑むから…俺の留飲はすぐに下がった… 豪ちゃんが食べるなら…もっと上手に包んであげれば良かったな。 瞳を細めて微笑むあの子の笑顔を見つめて同じ様に微笑み返すと、隣に座ったまま、幸せの餃子を大量に包んで行く… 「…おい、あんま、くっ付き過ぎるなよ…」 そんな哲郎の嫉妬の声なんて…どうでも良いさ。 …俺は餃子を包むのに、忙しいんだ! 「見て?これはなかなか上手に出来たよ?」 そう言ってあの子に上出来の餃子を見せると、豪ちゃんはにっこり笑って言った。 「お上手!」 あぁ…ウフフ… こんな暮らし…一生、続いても良い… この子の為なら…演奏家に転身して、たまにリサイタルでも開いて…小銭を稼ぎながら生活するのも悪くない。 音楽教師をしても良い… 毎日…この子と、のんびりと…こんな風に暮らせるのなら、他には何も望まない。 有名になる事も、他を抜きに出る事も、自分の音楽を押し付ける事も、どうでも良い… ただ、この子が傍に居てくれれば…この、暖かい春の様なこの子が、傍に居てくれれば…それだけで、全ての物が美しく色づいて見えるんだ。 ただの鶏が話しかけて来たり、ただのピアノの音色が色付いて見えたり、ただの吹き抜ける風に季節の匂いを感じたり、目を見つめるだけで…君の気持が分かったり… それは俺の人生の中で、初めての事ばかりで… そんな中で居心地を良くしてしまった俺は…再び、元の生活に戻る事が、少しだけ怖く感じるんだ…。 東京のあの部屋で…朝なのか、夜なのか、分からないまま…ひとり、黙々と五線譜を眺めては、パソコンに音符を打ち込んで…流して聴いて…調整する。 名前も知らない”友達”に呼び出されて、飲みに出かけて…女を口説いて、セックスして、また…同じ様に五線譜を眺める… そんな生活に…もう、戻れないよ… 朝起きた時…鶏の声を恋しく思うだろう… 朝ご飯の良い匂いを思い出して、君を恋しく思うだろう… お昼ご飯の時間には、君を思い出して、涙を流すだろう… 夜ごはんの時間には、やっぱり、君を思い出して…胸が苦しくなるだろう… 寝る前…布団の中で、君の温もりを渇望しながら…眠りにつくなんて… 怖いよ。豪ちゃん…。 こんな事なら…君の傍で、死んだ方が良かったと…何度、後悔すると思う? …何度…後悔すると思う…? 「出来たぁ~!」 豪ちゃんはそう言うと、大量に出来上がった餃子を満足げに眺めて言った。 「キャベツ150円、小麦粉、薄力粉、丸々買って…約400円。ニラ90円。ネギ150円。ひき肉2パック…1000円。合計、1790円で、餃子が120個も出来た~!」 ふふ…節約上手だな。 でも、正直言って…こんなに餃子は食べられない。 「豪ちゃん!俺、20個。」 「僕も、20個~。」 「じゃあ…俺は12個で!」 「…俺は、30個。」 哲郎の言葉に眉間にしわを寄せた俺は、豪ちゃんを見て言った。 「哲郎は食べ過ぎだと思う…」 「良いの、良いの。鳥小屋を作ってくれたお礼だもの。てっちゃんは全部やってくれたから、良いの!」 ニコニコ笑顔の豪ちゃんはそう言って、お弁当用のプラケースに餃子を入れ始めた。手際よくゴムで留める手つきは、まるで、弁当屋みたいだ… ギャング団への餃子の献上品をこしらえると、あんなに大量にあった餃子たちが、あっという間にお皿の上から消えた。 「はい、これは…大ちゃんの分ね?これは、清ちゃんの分、晋ちゃんのはこれで、てっちゃんのは…2パックあるよ?」 豪ちゃんがそう言って袋に入れて手渡すと、哲郎は鼻の下を伸ばして言った。 「…豪ちゃんの、餃子が好きなんだ…」 はっは~! お前が好きなのは、餃子じゃないだろ?! 哲郎! 「…美味しく食べてね?みんな、鶏小屋を…ありがと~う!」 暗くなり始めた夕暮れ時、豪ちゃんの元気な声に手を振りながらいつものメンバーは、餃子を片手にわらわらと歩いて帰って行った… 「さてとぉ…うちも餃子を焼きに掛かりますよ~?」 クルリと振り返りながらそう言った豪ちゃんは、空いたお皿を手に持って台所へ行った。そして、二つのグラスを冷蔵庫に入れると、流しでお皿を洗いながら言った。 「惺山…お米炊かないと…」 「ほ、ほ~い!」 健太が怒るから…米は炊いて置かないと駄目なんだ… 急いで物置からお米の袋を手に持って豪ちゃんの元へ戻った。来た時はずっしりと重かった米の袋も、今では片手で持ち上げられる程に少なくなった様だ。 「米がどんどん無くなっていく。」 そう言って米の袋を開けると、豪ちゃんはケラケラ笑って言った。 「…おにぎりにしたり…チャーハンにしたり、何だかんだ…みんなで食べちゃったからかな?今度うちの持って来てあげるね?」 豪ちゃんは、そつなく、手際よく、お釜に米を入れて流しに置いた。 「豪ちゃんは何でも出来るね?」 「え…?」 不思議そうに俺を見上げた豪ちゃんは、首を傾げながら米に水を当てて言った。 「…自然と、出来る様になったんだよ?」 「…強く、生きて来たんだね…」 そう言って微笑む俺に、あの子は妙に嬉しそうに笑って言った。 「…うん。生きて来たぁ。」 袋を物置へ戻して、豪ちゃんが焼き始めた餃子の匂いに鼻をクンクンさせた。 「あぁ、良い匂いがするね?」 「そうでしょ~?僕が作った餃子は美味しいんだよ?愛情たっぷり餃子だもん。」 あぁ…豪ちゃん… 君の餃子なら、毎日食べても飽きないだろうな。 「ただいま~!ん~!今日は、餃子だろ~!」 そんな声をあげながら縁側に姿を現した健太は、どかどかと部屋の中に上がって来て、満面の笑顔でフライパンの蓋の中身を覗いて言った。 「はあ~!やっぱり!」 「…ん、もう!まだ、蓋を開けないでっ!」 健太の足を蹴飛ばす豪ちゃんに対抗して、健太は豪ちゃんの可愛いお尻を引っぱたいて言った。 「早く焼けよっ!」 最低だな…健太は最低だ。 豪ちゃんもそんな健太に苛ついた様で、わざと大きな声でセンシティブな内容に触れた。 「兄ちゃん…!手洗いして、足臭いから一緒に洗って来て!」 「ぷっ!」 足臭い…足臭い…だって。 吹き出しそうになるのを堪えながらプルプル震えて、”足臭い”なんて言われた健太をチラッと横目に見て、すぐに顔を反らした… やばい…!ウケる! だって、めっちゃショックを受けた顔をしてるんだ… 笑いを堪えすぎて、俺のインナーマッスルが…崩壊しそうだ…! 「…一生懸命、働いて来た証拠だ!馬鹿野郎!」 健太はそう言うと、どかどかと洗面所へと歩いて行った… 「ふっふっふっふ…!」 肩を揺らして控えめに笑って豪ちゃんの背中を見つめていると、あの子はフライパンの蓋を外して、湧き上がる蒸気の中、餃子の上からごま油をクルリと一周まわして入れた。 「そろそろ、焼き上がる…!」 確信めいた発言をした豪ちゃんは、台拭きを水に濡らして俺に手渡して言った。 「拭いておいて?」 「ほ~い!」 ずっと傍で良い匂いを嗅ぎ続けていたせいか…腹ペコになった。こんな空腹感と、お腹の鳴る音を聴いたのは、いつ振りか… 焦る気持ちを抑えて、居間のテーブルの上を片付けて綺麗に拭いた。 すると、豪ちゃんがグラスをふたつ、イカの刺身、ビールをコトンとテーブルの上に置いた。そして、取り皿と合わせ調味料の入った計量カップを置くと、忙しそうにフライパンの元へと戻って、コンロの火を止めた。 「惺山、見て見て?」 そんな声に顔を向けて、あの子の得意げな顔とアピールする手元を見つめた。次の瞬間、豪ちゃんは右手に持ったお皿をフライパンに被せて、一気に返した。 「おぉ…!」 そして、ゆっくりとフライパンを退かすと、右手に持ったお皿の中を傾かせて見せて言った。 「どうだぁ~!」 「わぁ~~~!お見事~~!」 そこには、見事にぐるりと一周に回った美味しそうな羽根つき餃子が、丁度良い焼き目を付けて乗っていた… お店でも、こんなに大量の餃子をいっぺんに焼いてる物なんて、見た事が無い! 圧巻だ!! 両手でパチパチして、拍手喝さいを送った。 すました顔をした豪ちゃんはテーブルに餃子のお皿を乗せて、俺を引っ張って座らせた。そして、お箸でパリパリの羽を割ると、餃子をひとつ摘んで、特製のたれに付けて、俺の口に運んで言った。 「あ~んして…?」 …これは、火傷案件だろ…? そんな事、思っても…拒否なんて出来ないさ… 「熱いかも…」 ポツリと俺がそう言うと、豪ちゃんは餃子をフゥフゥしてもう一度言った。 「惺山…あ~んして?」 「…あ~ん。」 口を開いてあの子の餃子を一口かじると、サクッと歯応えの良い音がして、肉汁が溢れてハフハフする。 「あふい!あふい!れも…おいひい!!」 満面の笑顔の俺に、あの子は、とても嬉しそうに瞳を細めて笑って言った。 「…良かったぁ!」 「豪!足と一緒に体も洗って来たぞ!」 そう言いながら居間に戻って来た健太は、大喜びでテーブルに着いた。そして、缶ビールを片手で開けると、冷えたグラスに注いで俺に差し出して言った。 「はい、年長者。」 わぁ…! 「…ども。」 そう言ってぺこっと頭を下げて、意外にも年功序列を重んじる健太からビールを受け取って、一口飲んだ… あぁ…! 餃子とビールって…合い過ぎるじゃん…!! 「ん~!んまい!」 俺の言葉にケラケラ笑って、健太は豪ちゃんの特製餃子をパクリと食べて言った。 「豪!うまい!飯!」 「…ん、も~!」 「まぁったく…お前は…仕方が無い。俺が持って来てやろう…」 そう言って席を立って、忙しく第二弾の餃子を焼いているあの子の後ろで、健太のどんぶりにいつもの様に山盛りの米をよそった。 忙しなく台所に立つ姿は…紛れもなく料理人そのものだな… フライパンで餃子を焼きながら、小鍋で小松菜を茹でて、また違う料理を作っているみたいだ。 凄いな。 この子は…自然とこれを覚えて、順応しながら生きて来た。 そうする以外に…生きる方法が無かったから自然と覚える。順応して生きて来たんだ。 良い事は“成長”なんて呼んで、悪い事は“慣れ”なんて呼ぶ。 人は誰しも目的に応じた環境に順応して生きて行く生き物。それが良い、悪いは別として、何かしらの影響を受けて、学んで行くんだ。 健太は金銭を稼ぐ為に、美容室の見習いをして…順応して…技術を覚えた。 俺は称賛を受ける為に、あの環境に順応して、下らない価値観を覚えて雁字搦めになった。 豪ちゃんの場合は、生きる為に食事の支度や、家事全般を順応して覚えた。ただ、それがこの子にとって、苦痛な物では無くて楽しかったから、こんなに上手に出来る様になった。 …バイオリンも、同じだな。 俺を喜ばせるという目的の為に、この子はバイオリンを手に取って、順応した。聞き耳を立てて音楽を聴いて、暇さえあれば俺にピアノを弾いて聴かせてもらう。それが、この子にとって…苦痛な物では無くて楽しい事だったから、バイオリンがとっても上手に出来る様になった。 …そんな君だからこそ、順応した目的の“俺”が居なくなった後の事が、心配になって来るんだ。 「豪ちゃん…餃子がとっても美味しくって…もう、他所の餃子が食べられなくなっちゃうよ…?」 忙しそうなあの子の背中を撫でて褒めちぎった。すると、豪ちゃんは嬉しそうに微笑みながら俺を見上げて言った。 「ふふ、良かったぁ!もっと食べて?まだまだ焼いてるんだから!」 「惺山!飯!早く!」 はぁ… 健太を一瞥して、聞こえないため息をひとつ吐く。 「ほらよ!どんぶりマン!」 待ちかねていた健太にどんぶりを手渡して座り直した俺は、ホクホクの笑顔でどんぶりご飯をかきこみ始める健太を横目に見て、眉間にしわを寄せた。 「…米、米!と、餃子~!と、ビール~!」 米に満足した健太は、餃子にたれを付け、お米の上に一回バウンドさせてからパクリと口の中に入れた。 そして一瞬悶絶すると、どんぶりを抱えて口の中に米をかき込んで入れた… 「はい…第二弾の餃子だよぉ!惺山、もっと食べてよぉ…!ん、もう…!」」 焼き上がったハイクオリティーの餃子をテーブルに置いた豪ちゃんは、俺に向かい合って座って、再び焼き立ての餃子を口の前に運んで言った。 「…あ~んして?」 この子は…どМかと思っていたけど、ドSの芽も持ってる。 「…フゥフゥして?」 あの子の瞳を見つめておねだりすると、豪ちゃんはにっこりと頬んで餃子をフゥフゥしてくれた。そして、もう一度俺の口に近付けて、満面の笑顔で言った。 「…惺山、あ~んして?」 「あ~ん…」 「あふい…れも…おいひい!」 それは、もう、激熱だよ… さっき焼き立てを食べたばかりさ。なのに、再び、焼き立ての餃子を食べてる。 火傷しない様にハフハフしながら食べると、不意に肉汁が溢れて口の端から垂れていく… 「あぁ…もう…!」 豪ちゃんはそう言って眉を下げながら、俺の顎をペロッと舌で舐めた。 「…も、お行儀が悪いんだからぁ!」 あぁ…! 誘ってるの…?誘ってるの…?きっと、そうだ…! 口の中をハフハフさせながら、豪ちゃんを抱きしめ様と両手を伸ばす。けど、豪ちゃんはスクッと立ち上がって台所へ行ってしまった。 きっと…次の、焼き立てを作るんだ… 「惺山…交響曲は出来た?」 腹が落ち着いたどんぶりマンが、やっとまともに文字と文字を繋げた言葉を話し始めた。 「…第一楽章は出来た。」 「へぇ…」 興味があるのか、無いのか…そんな調子で返事をした健太は、首を傾げて聞いて来た。 「第…なん楽章まで作るの…?」 「そうだな…大体、四楽章でまとまる様に作ってる。」 豪ちゃんの餃子を箸で摘んで、タレに付けてかじって食べる。サクッと音が鳴る上手に焼けている歯応えに…口元を緩めて微笑んで言った。 「豪ちゃん…どれもサクサクだよ!」 「んふぅ…そうでしょ?美味しいでしょ?僕が作った餃子はねぇ、天下一品だよ?」 豪ちゃんは、俺に褒められまくって上機嫌だ。さっき作ったばかりの第一楽章のフレーズをもう覚えて鼻歌で歌って見せるんだもん、やんなるよ。 可愛い鼻歌と、餃子の焼ける音に瞳を細めて、縁側の向こうを眺めた。ビールを飲みながら外から聴こえてくる鈴虫の音色に耳を傾けて、こんな毎日がずっと続けば良いのにって…思った。 それは、叶わないけれど…思うのは…自由だ。 「これで最後~!」 そう言って再び焼き立ての餃子を持って来た豪ちゃんは、俺の隣に座って例の如く言った。 「惺山…あ~んして?」 ふふ… 「あ~ん…」 そう言って口を開くと、果敢に焼き立ての餃子をひとかじりして、ハフハフしながら言った。 「あっ!あふい!…おいひいよ!」 「ふふ!」 豪ちゃんは極まったのか…俺に抱き付いて、何度も頬ずりしながらうっとりと言った。 「可愛い!」 「はぁ…?どこがだよ…?」 そんな健太の蔑んだ声なんて、右から左に流して、聴き捨てる。 「豪ちゃんも食べてごらん…?美味しいよ?」 俺はそう言って、焼き立ての餃子をひとつ箸で摘んで、あの子の口に運んで言った。 「…あ~んして?」 「…ん、もう…!」 なんだ…その反応は… 眉を下げて、嫌そうな顔をして…まるで、火傷案件だと分かってて、俺に食べさせていたみたいじゃないか… ジト目で豪ちゃんを見つめて、疑念を払しょくする為に、もう一度あの子の口元に餃子を運んで言った。 「ほらぁ。あ~んしてよぉ!」 「ん…やぁ!」 両手で俺を押し退けて、顔をそむけた豪ちゃんが、そう言った。 はぁ?! 解せないねぇ?解せないよ、豪ちゃん? 俺は、ムキになった。 あの子の体を片手で掴んで、顔を無理やりこちらに向けさせて言った。 「嫌じゃないだろぉ?好きでしょ?ほらぁ…あ~んして?」 「あ~はっはっは!んふふ!」 俺の腕の中でケラケラ笑う豪ちゃんは、諦めた様に脱力して俺を見上げた。そんなあの子を見下ろすと、頬を膨らませて赤ちゃん言葉で言った。 「…あ~ん、しなちゃい!」 「ぷぷっ!…あ~ん…」 頬を赤くして口を開いた豪ちゃんを見つめて、そのまま…餃子を口に運ばず…可愛い唇を食んで、キスをした。 「…は!この野郎っ!」 血の気が多いのは…この家系の遺伝だ。 健太は俺を蹴飛ばして豪ちゃんから離すと、頬を真っ赤にしたあの子を自分の膝の上に乗せて言った。 「俺の目が黒い内は、そんな事…許さないからな!!」 馬鹿め… もう、それ以上の事をしてる。つまり、お前の目は…いつも白いって事だ! 「はは…」 健太の剣幕を鼻で笑って意味深に首を横に振った。そして、箸に摘んだ餃子をパクリと食べて、豪ちゃんに言った。 「…だって?」 「はん?!なんだ、どういう事だ…!豪!」 健太は動揺しながら膝の上に乗せた豪ちゃんの顔を覗き込もうと、何度も体を揺らした。 「だって…兄ちゃんは細かい事は聞きたくないって言ってたし、僕も、そんな事は人に言っちゃダメだって分かったから…何も言わなぁい。」 豪ちゃんは意味深にそう言うと、健太の膝の上から降りて俺の隣に座り直した。そして、餃子を箸で掴んでパクリと口の中に入れて言った。 「…ん~、美味しい!」 「そうだよぉ?豪ちゃんは、ほんっとお料理上手だねぇ?」 俺はこれみよがしに豪ちゃんの体をベタベタ触って、可愛い顔を覗き込んで、柔らかい髪に何度もキスをした。 「アウト!」 大きな声でそう言った健太を横目に、やれやれと…首を横に振りながら言った。 「セーフだ…」 「もう…仲良くしてよ…」 豪ちゃんが俺の膝をナデナデしてそう言うから、俺は健太から視線を外して、餃子を美味しく頂いた。 ねえ…豪ちゃん。 こんな風に誰かとご飯を食べて、こんな風に誰かと口喧嘩して、こんな風に…頬が痛くなるくらい、笑ったりする事… こんな風に、生きる事を…俺は忘れていたよ。 そして、この温かさを思い出してしまうと…また、ひとりになる事が怖いと思ってしまうんだ。君のいない日々を送る事が…耐えられない位に寂しい物だと知ってしまったから、怖いんだよ。 「お腹いっぱい…!も、食べられない…!」 あんなに沢山あった餃子を、残り僅かになるまで食べた… お腹がいっぱいになって、そのまま仰向けに寝転がった。 先にギブアップして寝転がっていた健太と目が合うと、あいつは眉間にしわを寄せて、わざとらしく言った。 「豪、兄ちゃんの方が沢山食べたぞ!」 そりゃそうだ…10代の胃袋と…30代の胃袋を比べるんじゃないよ… 「兄ちゃんは、沢山食べるからね?惺山は、そんなに食べないんだ。体質が違う。」 黙々と餃子を食べながらそう言った豪ちゃんは、健太を振り返ってお腹を撫でながら言った。 「兄ちゃん…お腹いっぱいになったぁ?」 「なった…」 ポツリとそう言って答えた健太は、豪ちゃんの小さな背中を撫でながら言った。 「上手になったなぁ…」 「ふふ…」 嬉しそうにそう笑ったあの子の声を聴いて口元を緩めると、ギリギリの兄弟を見つめながら思った… 健太は…彼女なんて作れない… こんな完璧な可愛い人が傍に居るんだもの。…敵う訳ないさ。 可愛いし…可愛いし、可愛くて、可愛いんだ。どんな女が来たって…敵う訳がない。 健太よ… 独身で56歳を迎えた春に…どうして自分は結婚しなかったんだっけ?と過去を思い起こせば良い…。多くの悦びを知ったが故に、お前は普通では満足できない男になってしまったんだ。そして、後悔すれば良い…。あんなに豪にベタベタしなきゃ良かったって…! 羨ましい健太のポジションに心の中で嫌味を言って、顔を歪めてポツリと言った。 「ふんだ…」 「あぁ!お腹いっぱ~い!」 両手を上に上げた豪ちゃんは、いじけた俺の隣にゴロンと仰向けに寝転がってクスクス笑って言った。 「もう、食べられない!」 あぁ…可愛い…! 俺は、君だったら、何杯でも食べられそうだ… ゴロンと体を寝返りさせて可愛い豪ちゃんを見下ろしながら言った。 「どれどれ…?」 キョトンと目を丸くする豪ちゃんを見つめながら、パンパンのお腹を撫でると、クスクス笑って言った。 「あぁ…本当だね?こんなにパンパンになって…。心配だな…見せてごらん?」 そう言ってあの子のTシャツを捲り上げると、健太が呆れた様な声で言った。 「兄貴の前で…よくも、まぁ、懲りずにやるよな…」 そんな言葉…右から左に流して捨てるさ。 「あぁ!豪ちゃん!大変だぁ…お腹がパンパンになり過ぎて…爆発しちゃいそうだよ?これは…吸引しなくちゃ駄目だぁ!」 俺は大げさにそう言って、ケラケラ笑いながらあの子の真っ白のお腹に思いきり口を付けて吸った。 「あ~はっはっは!ん、やぁ!ぐはっはっは!らめぇん!んん!ばかぁん!」 「なぁんで…良いだろ?良いだろ?」 俺の唇に触れる…君の柔らかいマシュマロ肌のお腹が可愛いんだぁ…! 止まんない!も、止まんないよぉ! 暴れて嫌がる豪ちゃんを押さえつけながら、何度もプニプニのお腹を吸って遊んだ… そう、健太の鉄拳制裁を受けるまでの…数秒間、楽しんだ。 ごちそう様をして片付けを済ませる。そして、豪ちゃんがお風呂に入りに行くのを見送って…ピアノの部屋へと戻った。 どうしてかな…無性に、ピアノが弾きたくなったんだ。 「はぁ…」 そんなため息を吐きながら、ピアノに腰かけて弾き始めたのは“革命のエチュード”… ショパンだ… 最初のこぼれ落ちて行く様な旋律を、俺はゆっくりと転がり落ちる様に一音一音にダメージを与えて弾いていく… はは…悲しいよ、豪ちゃん… 悲しすぎて…ピアノに感情を乗せて吐き出さないと…やってられない。 君と離れるなんて… それ自体が…俺の死の様なものじゃないか…違うかい? 俺の死んだ感性に息を吹きかけて…蘇らせてくれたのに、君から離れてしまったら…俺は再び腐っていくしか、無いじゃないか… 違うかい…? 豪ちゃん… 「嫌だ…」 溢れてくる涙をそのまま頬に流して、激情的なピアノの旋律に自分の思いを乗せながら、前をじっと睨みつけて…曲を弾き終えた… 続けて…リストの”ため息”を弾き始めると、要らない音を踏み始める自分の手をそのままに…瞳を閉じた。 この音は…ハープの音色の…余韻だよ… 俺には、そう聴こえるんだ。 そっと…俺の肩に…あの子の手が乗った。 そして、俺の背中に、あの子の胸が乗って…両手で俺を抱きしめると、クッタリと頬を付けてあの子が言った。 「…ごめんね。惺山…」 “ごめんね…” それは…やるせない気持ちを曲に乗せた俺の思いが、この子に届いて…伝わったという事。 前を睨みつけたままピアノを弾くと、背中のあの子に言った。 「…豪ちゃん…君と離れる事が、俺の死だったら…?」 そんな言葉に、俺の肩を両手で撫でた豪ちゃんは、そのまま俺をきつく抱きしめながら言った。 「…ごめんね…惺山…」 やっぱり、君は厳しいね… 俺の退路を断って行くんだ。 前に進めと…曲を作って…早く自分から離れろと… でも… 良いよ… 君のお願いは、断れない… 胸の奥に抱えたジレンマを飲み込んで…言う通りにしようじゃないか。 諦めた様にため息を吐くと、”愛の夢”を弾きながらあの子に言った。 「リストの…”愛の夢”という曲だよ…この曲を君に贈ろう…」 美しく流れて行く様なメロディーに愛おしむ、優しい愛を… やるせない感情じゃなくて…慈しむ感情を… 傷付けるんじゃなくて…包み込む様な、愛情を…君に贈るね…。 「ふふ…素敵…。あなたはやっぱり優しい人…とっても、優しい人…」 俺の背中でそう言ったあの子の涙が、俺のシャツを濡らして…じんわりと温かく濡らして行く… それを…ピアノを弾きながら…ただ、じっと…感じた。 「この曲を知ってる…?」 そう言って引き始めたのは…サティの“ジュ・トゥ・ヴ” 「知ってる。ファミコンのゲームだ!」 突然現れた健太はそう言うと、両手の人差し指を立てて言った。 「こっちに行くと…こっちがあっちに行って…あっちへ行くと…こっちがこっちに行く…。それをうまく操作して、ペンギンを誘導するゲームだ。」 「ふふ…よく知ってるな。お前、18歳じゃないだろ…?本当は、40いってるだろ?お前の年だったら、ファミコンなんて知らない筈だぞ!おかしいぞ!」 ケラケラ笑って、曲を弾きながら豪ちゃんに言った。 「豪ちゃん…この前、先生と話していただろ?影を見なくちゃ…光が分からないって…。それと同じ。陰と陽、プラスとマイナス、明と暗、ふたつの物が…対にセットになってる事をバイナリーって言う。昔のゲーム開発者は洒落てるよ…そんな趣旨を持たせたゲームに…この曲を使うなんてさ。…脱帽するセンスだ。」 そう言って笑いながら、背中のあの子に言った。 「俺と…豪ちゃんもそうだよ…。二つで対でセットになる。俺が居ないと君が居なくて…君が居ないと、俺が居なくなる…そんな、存在なんだ。」 「だからぁ…死なないで欲しいの…」 あの子はそう言うと、俺の背中に顔を埋めてシクシクと泣き始めた… 「違う。この話の着地点はそこじゃない。豪ちゃん…俺が言いたいのは、離れて居ても…俺と君は、対で…セットって事だよ…。それはイデアだ。必然で、理だ。誰かの主観じゃなく…常識なんて物でもない。もっと、確たる物なんだ。良いね…?だから、悲しむ必要なんて…無いんだ。」 自分に言い聞かせる様にそう言った。 詭弁かもしれない。 でも、そう信じる事で、この人から離れる為の、心の準備がしたいんだ。 曲を弾き終えて、両手を後ろに回した。そして、背中のあの子をおんぶするみたいに抱きしめて、振り向いた。 「この曲の題名…“ジュ・トゥ・ヴ”は…あなたが大好き。とか…君が欲しい、なんて意味なんだ。ふふ…面白いだろ?バイナリーの要素のゲームに、そんな曲を使うなんて…ほんと、飛びぬけたセンスをしてる。光が無ければ、闇は無い。そんなバイナリーはお互いを求めてる。お互いが必要なんだ…。面白いね?」 「全っ然…意味が分からん。」 ため息を吐いた健太がそう言って首を傾げる中、豪ちゃんは俺の顔を覗き込んで言った。 「…面白い。」 ふふ… 流石…木原先生が気に入るだけある。 この子は、インテリジェントなんだ。 「さて…リクエストを聞こうかな…?」 そう言うと、風呂上がりの豪ちゃんを隣に座らせて顔を覗き込んで言った。 「…何が、聴きたい?」 「…ショパン、ワルツ第7番…嬰ハ短調。」 あぁ… 「良いよ…」 そう言ってあの子のおでこにキスをして、あの子の為にショパンを弾いて聴かせる。 耳で覚えて、バイオリンで…弾ける様になるかな…? この曲を…俺の交響曲が出来上がる前に…覚える事が出来るかな…? 「惺山は、本当にピアノが上手だな。」 健太の感嘆の声を耳に聞き流して、隣で俺を見上げて嬉しそうに瞳を細める豪ちゃんを見つめた。 「うん…とっても、綺麗な音色…」 俺以外の演奏家に出会った時、君はどんな反応をするの…? 先生のバイオリンを聴いたら?凄腕のチェロを聴いたら…?藤森北斗の…バイオリンを聴いたら…どんな風に感じて、見えるのだろう。 気になる… 「わぁ…!やっぱりこの曲は素敵~!」 豪ちゃんは俺に抱き付いてスリスリと頬ずりしながら、顔を覗き込ませて言った。 「弓の使い方を教えて貰わないと、あそこは弾けなぁ~い。」 ほほ…なる程、そう来たか… スリスリおねだり作戦だな…! 豪ちゃんの顔を見上げて眉を下げた俺は、肩をすくめて首を横に振りながら言った。 「ボーイングは奏者の個性と同じ、豪ちゃんなりに何度も弾いて、一番しっくりくる弾き方を…自分で探してごらんなさい。」 この子はたった数回聴いただけなのに、この曲をどうやって弾くのか、考えながら聴いてる様だ。 細かいトリルの部分かな…? それとも、駆け降りる様な旋律の部分かな…? 試す前から難関の個所を見つけて…弓の弾き方…ボーイングの指示を仰いだんだ。 ふふ…でも、俺は純粋にこの子の選ぶボーイングと、イメージでこの曲を聴きたいからね…変な主観が入る様な指導はしないんだ。 これは、意地悪じゃない…挑戦だ。 新しい事を始める時は、とりあえずの挑戦だ! 「えぇ~…!ん、も~。分かったぁ~!」 不満げにそう言った豪ちゃんは、俺の背中を揺らして言った。 「ね!惺山!ポルカを弾いて!」 「えぇ…?全く…仕方が無いな…」 この子はケルトな音楽が好きなのかな…? マズルカの…ショパンが好きなのかな… それとも、ざっくりと、北欧の民族音楽が…好きなのかな… 首を傾げながら“サッキヤルベンポルカ”を弾き始めると、あの子は大きな声で言った。 「違う!それじゃない!惺山の…ポルカを聴かせて!」 そう言ってピアノの上に置いたままのバイオリンをケースから取り出した豪ちゃんは、バイオリンを首に挟んで、口端を上げて笑った… マジか… あのポルカに…即興で、加わってくる気だ… ふふ…! 「良いよ!」 面白いじゃないか…! プロの奏者でもこんなセッションはしない。ある程度、目星を付けて打ち合わせをしてから行うのが常識だ。 でも、豪ちゃんに常識なんて…ナンセンスだ。 俺はニヤニヤしながら椅子に座り直して、彼ら…ギャング団の為に作ったポルカをピアノで弾き始めた。 豪ちゃんはこの曲が一番好きだと言っていた。 さぁ…どうやって入って来るの? この曲に、君の音色で、どんな軌跡を辿って…昇華させるつもりなの? そんな期待を込めた瞳であの子を見つめながらピアノを弾くと、豪ちゃんは体を揺らしながらニコニコ笑った。そして、ただ、何もない宙を、何かを目で追う様に顔を振って、満面の笑顔でリズムに合わせて右足の踵をトントンと床に鳴らした。 …ポルカだ。 「あ~はっはっは!兄ちゃん、見えるでしょ?…この色が!」 そう言ってケラケラ笑ったあの子は、首に挟んだバイオリンをピチカートしながら音を踏み始めた。 それは、まるで…プロの導入だ。 「ほっ…?!」 まさかここから入って来るとは思っていなかった俺は、そんな情けない声を出して、一気に動揺した。 普通…区切りの良い所から入って来るだろ? 違うんだ…この子は、違う。 表も、裏も、拍子も関係ない。突然、自然に、入って来た… 様になったあの子のピチカート演奏を見つめて瞳を細める。指の先を上手に使って、鈍る事の無い、弾んだ音を百発百中に弾き出すんだ。 そんな中、俺はあの子が踏む音の共通点を探った。 どこに合わせてる…?どこの音に…合わせて、その音を踏んでるんだ…? 見当がつかない…! なのに…どうして、こんなにしっくりと来るんだろう…? 「惺山!一緒に湖へ行こう!」 突然あの子はそう言うと、弓を大きく振りかぶって、こぶしの利いた音色で切り込んで来た! 「ははぁ!そう来たかぁ!」 そう言ってケラケラ笑うと、あの子に曲の雰囲気を一気に持って行かれて、必死に後ろを追いかけた。 凄いんだ… この…強引さ、この頑固さ、この…思い切りの良さ。入るタイミングに、踏む音まで…センスの塊だ。 お手上げだよ…豪ちゃん。 この曲は…俺のリードを離れて、今から君の主導で彩られる。 「あぁ!惺山…!湖が見えて来た!もっと近くまで、一緒に行こう!」 満面の笑顔を俺に向けた豪ちゃんは、にっこりと笑いながらクルリと一回転して見せた。その瞬間、メタモルフォーゼでもしたかの様に、あの子の周りが、一気に…真夏の昼の湖畔へと景色を変えて行く… 「わぁ…!」 それは、夢なのか…それとも、幻覚なのか… ピアノを走る指が踊る様にポルカのリズムを刻むと、豪ちゃんは健太の前をクルクルと回りながら笑って言った。 「あぁ!兄ちゃん!素敵な日だね。こんな日には…アイスを買って、日陰で食べよう?それとも、流しそうめんが良いかな…?」 キョトンと目を丸くした健太は、引きつり笑いをして首を傾げる以外ないみたいだ… そんな兄貴を無視した豪ちゃんは、俺の目の前でポルカのリズムに良く合った音を踏んで、堂々とソロ演奏を始めた。 俺は必死にそんなあの子の演奏に耳を傾けながら、置いて行かれない様にピアノの伴奏で食らいついていく。 「あぁ…!凄い!豪ちゃん!そのまま行って!」 あの子を見上げてそう言うと、豪ちゃんはにっこり微笑みながら瞳を閉じて言った。 「惺山も一緒だ!」 はは…付いて行けるか…心配だ。 「このまま16小節、その後…主題に戻る。行を合わせないとダサい所だぞ!」 俺の言葉にコクリと頷いたあの子を見つめて、必死になって、ポルカのソロを追いかけていく。 即興だ… 即興に合わせてる。 それも…16小節も… 特定のメロディやセオリーがある中、ひとつの楽器だけが行う様なジャズのソロじゃない… 16小節の縛りを入れたけど…これは、完全に…フルの即興だ。 俺はこの子の即興に合わせて、16小節分の伴奏と旋律を、即興で作曲してる。 それは骨を砕くなんてもんじゃない。神経を尖らせながらも高揚して行くそんな玄人の織りなす上級者向けのプレッシャーと、集中力が必要なんだ! 「あぁ~~!せいざぁん…!湖に…ネッシーが出たぁ!」 来た… 豪ちゃんの、とんでもタイムだ…! きらきら星では、星を空に打ち上げて…流れ星に変えて落とした。そして、最後は月に行って鶏の旗を立てたんだ。 この曲では、ネッシーが出てくる様だが…楽しむよりも、俺は、より一層神経を尖らせるよ。 なんてったって…この、とんでもタイムは、君の想像力が爆発する瞬間だからね! 「あぁ…ネッシーが、逃げたぁ!追いかけろぉ!」 豪ちゃんは楽しそうにそう言うと、バイオリンを立てながら指先でピチカートして、水面を走る波紋を出した。 ふふ…お茶目だ…お茶目で洒落てる… 「捕まえて!」 そんな俺のお願いを頷いて答えた男前な豪ちゃんは、バイオリンの弓をわざと強く弦に押し当てながら、重くてこぶしの効いた音色を出して、ネッシーの首に掴まった。 いつの間にか…ポルカが、行進曲の様なマーチのリズムに変わって行くのは…この子が奏でる旋律が二拍子のリズムを刻む様に韻を踏むからだ。 なんてこった…! 「ダメだぁ!ネッシーには子供が2匹もいたから、逃がしてあげたぁ!」 そんな豪ちゃんの終いの言葉を聞き届けると、丁度16小節が終わる頃合いとなった… 「はい…お終い、主題に戻るよ?」 汗だくになってそう言う俺に、豪ちゃんはにっこりと頷いて答えた。 どうして汗だくかって…? 必死なんだよ… この子の、即興を…録音したかった… でも…それどころじゃないんだ。付いて行くので必死なんだ… もたもたして、気を抜いて、この演奏を止める訳には行かない… だって、とっても素晴らしいんだ!! そして、這う這うの体で…一緒にポルカを弾き終えた。 息を切らして、項垂れながら、俺は腹の底から言った。 「豪ちゃん!ブラボーーー!!」 俺の作ったポルカが…この子の手によって…子供時代の夏の思い出から、いつの間にか…ネッシー探検隊に姿を変えた… 「あ~はっはっは!楽しかったぁ!」 豪ちゃんはそう言って笑うと、俺の隣に座って腕にスリスリしながら言った。 「惺山のピアノが好きぃ~!」 あぁ…こっちは、汗だくだったよ… なぁにが、惺山のピアノが好き~!だよ… この子の即興を…先生がピアノで伴奏したら…どうなるんだろう…? それはすごい勢いで…あの人の飄々とした半開きの瞳が、全開になるに違いない… ふふ…面白そう… 「豪…凄いなぁ?なぁ、惺山、普通こんな事…」 「出来ない!」 豪ちゃんの演奏に圧倒されて声の震えた健太にそう断言した。そして、汗だくの額を見せて言った。 「プロが…必死に食らい付いた結果…汗だくになる様なエキサイティングな演奏だ。曲として十分に成り立った…素晴らしい演奏だった!!」 そう言って豪ちゃんを強く抱きしめて、この子に…絶対に、バイオリンを止めて欲しくないと…強く思った。 この子は…もっと、伸びる。 沢山の音楽を聴いて…沢山の演奏の仕方を覚えて、沢山の曲を弾いて…持て余す感受性を爆発させるんだ。 そして…きっと、世界へ行く。 そう、世界へ行く。 「止めるな…豪。絶対に…バイオリンを止めちゃ駄目だ…。」 強く抱きしめたあの子に涙を流して、懇願した… 「…うん…」 小さくそう聴こえた豪ちゃんの声が震えて聴こえたのは、きっと、あの子がしがみ付く、俺の体が泣きじゃくって揺れているせいだ… この表現力はなんだ…この想像力はなんだ…この思い切りの良さと、適応力はなんだ…まるで、音色そのものの様じゃないか… ただただ、畏敬の念を抱かずにはいられない。 この子は…まさに、ギフテッド。贈り物を受け取って産まれた…特別な子供だ。 しかも、この子の場合は…一緒に演奏するこちらの能力を持ち上げてくれる。相乗効果を作って、ただただ”楽しい“なんて感情を抱かせて、まるで麻薬の様に夢見心地にさせてくれる。かと思えば、冷汗が出る様な突拍子の無い演奏に走って、相手を翻弄する。 あぁ、まさに…君自身の様な演奏スタイルじゃないか… 早寝の豪ちゃんが、グスグスと鼻を啜りながら寝室へ向かった。 すっかり疲れ切った俺は、いつもの様にお風呂に入って、いつもの様に部屋着を着て、暗い部屋の中、テレビをじっと見続ける健太の背中に言った。 「俺も、寝るよ…」 「なあ…」 テレビを見続けたままそう切り出した健太は、こちらを見ぬまま続けて言った。 「先生って人と…話がしたい…」 あぁ…健太… 俺は健太を見つめたまま固まった。そして、胸の奥の震えを抑えながら、静かに彼に言った。 「…豪ちゃんに話をしてからだ。その後で、先生に会いなさい。ただ、先生はフランスを拠点に活動している。日本に居る今のうちに話を付ける事は悪くないけど…彼に、あの子を預けるとなったら…あの子はフランスに一緒に行く事になるだろう。」 俺の言葉に、目を丸くした健太は、口を一文字に結んで悲痛な表情で言った。 「…え、フランス…?」 そうだ…フランスだ… とても…遠い。 「そう…フランスだ…」 俺はそう言って頷くと、健太に言った。 「あの子は…ここから…。お前や哲郎、清助に晋作、大吉、そして鶏たちと…離れたくないと思う。だから…この話を進める前に、豪ちゃんの意思をしっかり確認してからの方が良い…。それに、先生の元へ行かなくてもバイオリンは続けられる。…な?一度、豪ちゃんと話して…それから、どうするのか…じっくり考えたら良い。」 眉間にしわを寄せて押し黙ってしまった健太を見つめて、肩を落としながらあいつの隣に座って、顔を覗き込んで言った。 「ひとりで…抱えきれないなら、俺も同席しよう…」 「そうして…」 健太はそう即答して、俺を見つめながら…何度も頷いた。 18歳の少年には、悩み過ぎて、持て余す様な話だ。 だって…ずっと親代わりをして育てて来た…可愛い弟の未来の話だ。 どうしてやる事が…あの子の為になるのか… どうしてやる事が…あの子の幸せなのか… 考えても…答えの無い問答を、18年という短い人生経験の中で、一生懸命に考えあぐねているのだから。 「お休み…健太も、早く寝ろよ…」 そう言って寝室へ入ると、昨日と同じ様に、プライバシー保護の観点から、引き戸につっかえ棒をした。 そして、布団でスヤスヤと寝息を立てる…感性の子を見下ろす。 お前は…天才。 間違いなく…特別な贈り物を受け取って…産まれて来た子だ。 そして…とても、可愛い… クスッと笑ってあの子の頬を撫でると、昨日と同じ様にあの子の体を抱きしめて瞳を閉じる。 あっという間に…第一楽章が出来上がったよ。 第二楽章は…君の苦難の時代…自分を偽って”変わった子“と呼ばれた日々を描こうと思ってるよ… 「豪…」 そう言ってあの子の顔を覗き込むと、うっすらと瞳を開いたあの子が口元を緩めて、言った。 「惺山…」 俺が15歳の時…この子は仮死状態で生まれた… 俺が18歳の時…この子は山に捨てられた… 俺が20歳の時…この子は親父に首を絞められた… そして…俺が30歳の時…この子は、もうじき、死ぬ予定の…俺に出会った。 まるで別の線の上を生きて来たのに…突然、交差して…絡まり付いて、離れなくなった。 不思議だね…豪… 「愛してるよ…豪。」 そう言ってあの子にキスすると、豪ちゃんは俺の体に抱き付いて、胸に頬ずりして言った。 「僕も…あなたを愛してる…」 そうだね… そうだね。 頭の中で…ずっと流れ続ける“Alle Tage ist kein Sonntag”が、腕の中のこの子の温かさを…尊さを…強調させる。 第二次世界大戦中…ドイツで流行った流行歌だ。 周りを敵に囲まれて、四面楚歌… そんな中…流行った歌には、自分の死を見据えた様な…悲しい歌詞が良く似合う。 もし…俺が死んでも、泣かないで…思い続けて欲しいなんて…そんな、勝手な男の歌詞だ。 でも… 良く分かるよ…その気持ちが。 あの子の髪に顔を埋めて、確かに感じる温かな体温と、シャンプーの良い香りを嗅ぎながら、微笑んだまま…眠りに落ちた。

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