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#28_01
…これは…バイオリンの音色じゃない。
まるで、天使の歌声の様だ…
良く伸びるのに繊細で、消え入りそうなのに確かに聴こえるその歌声は…あの時の落ち込み切った自分を、目の前に、まざまざと見せつけて来る…
そんな情景を見せるあの子の演奏に、思わず目頭が熱くなると無防備に感嘆する。
凄い…
やっぱり…この子は、凄い…
「毎日の様にあなたの弾くピアノを聴いて…こんなに沢山の曲があるって…初めて知った。それがどれも美しくて…あなたの思いを音色と一緒に感じて、初めて…音楽という物を知った気がした…」
あの子はそう言うと、俺を見つめてにっこりと微笑んだ。すっかり上手になったピチカートをしながら、急に曲調をガラリと変えた。
そう、それはまるで…マズルカ。
ゆらりとトロける様な旋律と、不規則に見えるリズムと、撫でる様な音色。
そこにピチカートを効果的に加えて…まるで、セピア色のノスタルジーな雰囲気を出して来る。
はぁ…やんなるね…
この子が自然にやっている事は、ある意味、熟練の技術だ。
経験を積んだからこそ出来る、曲調の雰囲気を操作する…技だ。
あの子を見つめたまま…参った、と言わんばかりに首を横に振ると、口元を上げて、二ッと笑って見せる。
これは腑に落ちない気持ちと、解せない気持ちを取り繕った…そんな笑顔だ。
そんな俺を見つめてクスクス笑ったあの子は、可愛らしく弦を弾いてマズルカを弾き終えた。そして、眉を上げて首を傾げると、俺の目を見つめながら言った。
「あなたの隣に立ちたくて…バイオリンの練習をした。それは簡単な事じゃない…でも、どうしても…一緒に演奏がしたかった。なぜなら、あなたの見てる物が見たくて、あなたの感じてる物を同じ様に感じたかったから…。ねえ、僕のバイオリンは…そんな理由でしか鳴らない。」
弓を激しくかき鳴らす様に動かして、あの子は激情の“きらきら星”を演奏しながら言った。
「これが表現と言うのなら、これが…僕の感性の行き所だとしたら…それは違う。音楽やバイオリンは目的じゃない。僕が欲しいのは…あなただ…」
あぁ…どうしよう…
勃起した。
耳に聴こえてくる”きらきら星”は、あの子の手によって怪しくて、フラフラと揺れる不気味な短調に変調された。ワルツのテンポに合わせて不気味に踊る…“死の舞踏”を彷彿とさせる雰囲気だ。
脱帽する音選びのセンスだな…
難なく“きらきら星”の主題に戻ったあの子は、駆け上がる様にピチカートで音階を上がって、ピタリと止めて言った。
「あなたが笑ってくれるから…あなたが喜んでくれるから、僕は、もっと自由になれるんだ。その手段として…バイオリンを使っているに過ぎないんだよ…」
すっかり豪ちゃんの演奏に夢中になっている俺を、瞳を細めながら見つめるあの子は、まるで15歳なんて思えない程に…大人びて見えた。
豪ちゃんは、ため息をひとつ吐くと、再び弓を構えてバイオリンを弾き始めた。
「あ…」
それは、俺が第一楽章でふんだんに使った…豪ちゃんのメロディ…所謂、この交響曲の“主題”だった。
あの子は、このメロディを歪に歪めたり、形を少しだけ変えたり、幾つにも重ねて繰り返したり…そう、まるでベートーヴェンの“交響曲第七番第二楽章”の様に、美しい旋律にして繋げて奏でた。
「凄い…」
…一度聴いただけなのに…
思わずポツリと感嘆の言葉を口にした。そんな俺をじっと見つめたまま、豪ちゃんは場面展開する様に激しくバイオリンをかき鳴らした。
それは…“チャルダーシュ”の様に情熱的で、激しい激情だ…
あまりの激しさに、体の芯まで痺れた…
「なんてこった…豪ちゃん…」
あの子の為に幾つもピアノで曲を聴かせて…その度にうんちく話を聞かせた。
その結果がこれだとしたら…大きすぎる見返りだ。
切なく千切れそうな音色を奏でながら曲を弾き終えた豪ちゃんは、いつの間にか俺の背中にクッタリと体を乗せた。
そして、俺の膝に押し付ける様にバイオリンを立てながら、右手に持った弓は俺を威嚇する様にゆらゆらと目の前を揺れてる。
まるで…可愛い君に囚われている様じゃないか…はぁはぁ…!
そんな俺の異常な興奮なんて無視する様に、豪ちゃんはそっと俺の耳に唇を近付けると、なんともなまめかしい声で言った。
「僕には、あなたしか…見えない。」
「はぁん…!」
あぁ…もう、これは…あぁ…もう…ダメだろ…ギンギンだ!
「豪ちゃん…ひとつ、エッチでもしようか…」
そう言ってピアノから立ち上がった俺に、あの子はキョトンと目を丸めて言った。
「庭にあの子を埋めに行くって約束したでしょ…?ん、もう!一緒に来てよぉ!」
あぁ…!
あぁ!!
「はは…もちろんだよ…」
フライングだったのかな…誘ってるのかと思ったんだ…
俺、ひとりだけ勝手に興奮しちゃったみたいだ…
一気に真顔になった俺は、興奮した下半身を沈める様に大人しくなって、豪ちゃんがバイオリンをケースにしまうのを横目に見ながら、録音を止めた。
手に持った携帯電話を確認して、合計20分の録音データを保存した。
良い音源を取った…俺は、これで…オナニー出来る…
「…行こう?惺山。」
豪ちゃんはいつもの様ににっこり笑って俺に手を差しだした。
あんな風に…色っぽく撫でる様な音色で誘って来たのに、これだもんな…なに、嫌じゃないさ…ただ、あのまま…官能的にこの子を求めたかっただけだ。
眉を上げながら腑に落ちない顔をして、豪ちゃんの手を掴んで一緒に家を出た。
「ここに…雛を埋めてる。」
あの子はそう言うと、自宅の裏の一角を指さして言った。
“共同墓地”と書かれた石が置かれて、毎日お参りでもしているのか…綺麗な水と、お花が添えられている。
供養してるんだ…この子にとったら、流行りのビジネスで鶏を飼う様な人は…みんな“命を扱うに相応しくない人”に見える事だろう…
「少し…大きめの穴を掘るね…」
そう言って共同墓地のすぐ隣にシャベルを垂直に差した豪ちゃんは、力いっぱい土を掘り起こして穴を掘って行く。
「あらぁ、豪ちゃん!最近いなかったから、心配したのよぉ?」
そんな声を掛けながら、60を過ぎたぐらいのおばさんがひょこひょこと歩いて来た。
「あら…まあ…」
俺を見上げてそう言うと、口元に手を当てて、反対の手でその腕を支えながらまじまじと眺めて言った。
「良い男!」
「惺山って言うの…清ちゃんのお父さんの家に遊びに来てるんだ。作曲家だよぉ?」
あの子はそう言うと、俺の手に抱かれた雄鶏の大きさを眺めて、再び穴を掘り始めた。
「まあまあ…惺山さん。とっても…大きい…あらぁ、こんな良い男が居るのなら、おばちゃん…化粧して来れば良かったぁ!」
おばさんはそう言ってキャピキャピしながら、豪ちゃんの背中を叩いて言った。
「この人…結婚してるの?」
…そんな事、聞いてどうするんだ…
怪訝な顔をしながら豪ちゃんが黙々と掘る穴を見つめた。ある程度穴を掘り進めた豪ちゃんは、汗を拭いながら顔を上げて言った。
「…ん、してない。」
「あらぁ…良いじゃない…」
おばさんは何を思ったのか、体をくねらせながら俺を見上げて言った。
「…惺山さん?お刺身食べる?日本酒は?」
「ん、おばちゃん!だめ!惺山は豪ちゃんのお気に入りなんだぁ!だから、だぁめぇ!豪ちゃんのなの~!」
スコップを勢い良く地面に突き刺した豪ちゃんは、そう言って地団駄を踏んだ。そして、シュンと背中を丸めて、声を落として付け加えて言った。
「それに…惺山はもうすぐ帰るんだ。曲を書き終えたら、東京へ戻る…」
「あらぁ…残念ね?」
「うん…」
おばさんの言葉にポツリとそう答えた豪ちゃんは、俺の腕の中から雄鶏を抱き抱えて、掘った土に寝かせて言った。
「ごめんね…この方が、土に返りやすいんだ。だから、冷たいかもしれないけど…このまま埋めるよ…今まで…ありがとう。大好きだよ…」
腕で乱暴に涙を拭いながら、豪ちゃんはスコップを手に取って雄鶏の亡骸に土を被せた。そんな様子を見つめていたおばさんは、豪ちゃんの背中を撫でながらあの子の顔を覗き込んで言った。
「雄鶏、死んじゃったの…?」
「山の向こうの養鶏家の鶏が…襲ったんだ…」
グシグシと鼻を啜りながら、豪ちゃんはおばさんを見つめて言った。
「おばちゃん…この子に…おばちゃんのとこの、ヒガンバナを…お供えしても良い?」
「良いわよ…持って来てあげる。」
すぐにそう言って、おばさんは踵を返して庭の向こうへと姿を消した。
「秋になると…おばちゃんの家の脇にね…ヒガンバナが咲くんだ。」
「そうか…」
豪ちゃんを見守る様に背後に立った俺は、何も言わないまま丸まったあの子の背中を何度も撫でた。慰めの言葉も…多くを語り過ぎては、ただの陳腐なセリフにしかならない。だから…黙って…あの子の小さな背中を撫でた。
「はい…豪ちゃん、どうぞ?」
いそいそと戻って来たおばさんは、糸の様に花びらを広げるヒガンバナをあの子に差し出した。
「おばちゃん…ありがと…」
共同墓地の脇に大きな山を作って、雄鶏が埋葬された。
添えられたヒガンバナの美しさと、豪ちゃんが毎日お供えしている野花の可憐さが、この子が沢山の命と向き合って、死んでも尚、尊んでいるという事を教えてくれる。
…たかが、鶏…そんな風に事実は言うだろう。
家畜にこんな事をする事を偽善と思うか…?
その逆さ。
この子にとっては…自分と変わらない命。
その事実こそが全てなんだ。
だから、この子にしたら…”たかが鶏”と思う方が…主観の混じった誤魔化しなんだ。
「来世で…サラリーマンになって、子供を沢山作って…住宅ローンを組んで…普通に暮らして、普通に死ぬんだ。お前は十分、強かった。」
そう言って、両手を合わせた豪ちゃんは、スクッと立ち上がって俺を見上げて言った。
「…終わった…」
「うん…」
「これ…食べなさい…」
おばさんの差し出したメロンを受け取った豪ちゃんは、首を傾げて言った。
「…何も、お返しする物がないよ…お返し出来ないなら貰ったらダメって、兄ちゃんに言い付けられてる…」
「良いの…惺山さんを、少しだけ触らせてくれたら良いの…」
おばさんは真剣な顔で何度も頷きながらそう言った。そして、抵抗しない俺の体を両手で満遍なく撫でた。
…最悪さ。
まるで、売春婦みたいだ…
「もう、良い?」
「ん…もうちょっと…」
おばさんはそう言うと、俺をくるっと回して背中を撫でまわして言った。
「…あぁ、良い!」
「ふふ…豪ちゃんも、ここが好き~!」
そう言ってケラケラ笑う豪ちゃんの声だけが…救いだな。
おばさんから解放され、豪ちゃんと一緒に庭の畑の茄子と小松菜を収穫した。そして、仏壇の母親に手を合わせてから、徹の家へと戻った。
「ね?良い匂いがする…」
両手に抱えたメロンを持ち上げて豪ちゃんがそう言うから、俺は体を屈めてメロンの匂いをクンクンと嗅いだ。
「本当だね…」
にっこりと微笑んだ俺に、あの子は嬉しそうに瞳を細めて微笑んで言った。
「惺山…大好き…」
「俺も…豪ちゃんが大好きだよ…」
そう言って優しい豪ちゃんの頭を撫でながら、手を繋いで、夕暮れの帰り道を歩いた。
「おっちゃん!どこ行ってたんだ!」
徹の実家に戻ると、縁側には我が物顔でくつろぐ、いつものメンバーの姿があった。
…こいつらは、毎日毎日…一体、何しにここに集まって来るんだ…
ふと、豪ちゃんの胸に抱えられたメロンを見つめると、ギャング団たちはすぐに反応して、こう言った。
「いち、に、さん…6等分して食べようぜ?」
「えぇ?せっかく惺山が我慢して貰ったメロンなのにぃ…」
よくある事なのかな…メロンを胸に隠して逃げ出そうとした豪ちゃんを、あっという間に取り押さえた晋作は、あの子の胸の中のメロンを片手で持ち上げて言った。
「豪ちゃん、ダメだよ。皆で分けないと…あははは!」
「あぁん!やぁ!だめぇ!返せぇ!ん~~!この野郎!」
怒った豪ちゃんは晋作の足を蹴飛ばして、メロンを奪還しようと暴れ始めた。
「わぁ~!にげろ~!」
ワチャワチャだ…
怒ったはずの豪ちゃんも、いつの間にか笑いながら晋作や清助を追いかけてる…。
「…豪ちゃん、群れの雄鶏はどうした?」
ふと、庭を見渡した哲郎が言った。
「今朝…死んだ…」
口を一文字に結んだ豪ちゃんは、潤んだ瞳で哲郎を見上げて言った。
「山の向こうの養鶏家の…黒さつま鶏と喧嘩して…負けた。」
…負けた?
違うよ…豪ちゃん、あいつは、群れを守る為に戦って死んだんだ。
そんな溢れる感情をグッと堪えると、意図せずに、目からボロボロと涙が溢れて落ちて来た。
「おじちゃん…」
大吉に背中を撫でて貰いながら、ボタボタ落ちる涙をそのまま地面に落とした。
「…元気出せよ…」
晋作と清助が、俺を見つめて眉を下げて、そう言った…
なぜだろう…
”負けた“と言われた言葉が…俺の胸を激しく揺さぶるんだ…
「…ま、負けたんじゃない。群れを守る為に戦ったんだ!…怪我を負った後も、勇敢に立っていただろ…?誰にも弱みを見せない様に、平気な顔をして…立っていただろ?!」
そう言って涙をボロボロと落とした俺は、豪ちゃんを睨みつける様に見て言った。
「…負けてない!!」
そんな俺に…眉を下げてホロリと涙を落とすと、あの子は微笑んで言った。
「…うん、負けてない…」
下らないだろ…?
でも、あの雄鶏の死を…”負けた“だなんて、言われたくなかったんだ。
あいつは…俺と違って…戦い抜いたんだ。
豪ちゃんから逃げ出す俺と違って…勇敢に、立ち向かった。
その結果、命を落としたとしても、あいつは…自分の思いを全うした。
「おっさんは、意外とデリケートだな…」
夕暮れの縁側でスイカを食べる様にメロンをかじる、子供…5人と、大人1人。
ポツリと呟いた晋作の言葉に一様に頷く子供を横目に、まさか…自分と重ねたなんて言えないまま、ぼんやりとあたりを照らし始める月を見つめて言った。
「ただ、生きてるから…良い訳じゃない。どう生きたかが…大事なんだ…」
「深いなぁ…」
そんな大吉の合の手なんて…気にしないさ…
ただ、俺をじっと見つめるあの子の視線を感じて、それが、とても気になった。
死んでも華々しく散ったあの雄鶏と、あの子を失ってまでも生き続ける自分を重ねて、虚しく感じた気持ちを察せられたと、覚悟した…
違うんだ。
お前の選択に異議がある訳じゃないんだ。
ただ…お前と会えなくなって、虚しさだけ漂わせて生き続ける事に…意味なんてあるのか…?
そんな…思いが拭っても拭っても…拭いきれないんだ。
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